たくげん さん プロフィール

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たくげんさん: たくげんBlog
ハンドル名たくげん さん
ブログタイトルたくげんBlog
ブログURLhttp://takugen.seesaa.net/
サイト紹介文山登りなど、旅の参考になるBlogを目指して書き綴ってます。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供54回 / 365日(平均1.0回/週) - 参加 2015/08/23 00:06

たくげん さんのブログ記事

  • 帯那山 −甲府北部の高原 晩秋の景色
  • 甲府市街地北部の要害山より奥にある奥秩父山塊の山。6月にはアヤメが咲き、山頂から眺めた雲海の景色は絶景であるという。今回はここから登ってきます。太良峠の手前、何台か車が停められそうな場所があります。9:35登山開始。っていきなり立入禁止とか書かれてるんだけど・・・そんな危ない道ではないはずなのに、多分車両通行止めということだろう、仮にも積翠寺からの登山道だろうと都合よく解釈して先を進みます。山頂まで車 [続きを読む]
  • 八王子城跡 −北条氏悲劇の山城
  • 北条氏三代目当主氏康の三男である北条氏照が築いた北条氏の出城。築城する前は深沢山という名前の山であった。日本100名城に選ばれている。八王子城の歴史をさっくりと。北条氏照は八王子城を築城する前八王子城より北東にある滝山城にいた。武田信玄の駿河侵攻で北条も標的となり小田原攻めの折に滝山城も攻め立てられる。この時は何とか退けたが後の武田軍撤退の追撃戦では返り討ちにされてしまう。滝山城では甲州街道の守備は [続きを読む]
  • 蕎麦粒山 −東日原から 秋の天目背稜を歩く
  • 山頂部が蕎麦の実に見えることからその名がつく。奥多摩で人気の奥多摩三山や石尾根、川苔山などと比べるとやや奥まったところにあり奥多摩にしては静かなところである。東京と埼玉の都県境にある蕎麦粒山。この都県境尾根は東と西で呼び方が異なり定義はあやふやみたいですが三峯神社からの尾根との合流点になる芋木ノドッケから天目山(三ッドッケ)までが長沢背稜、天目山から有間山稜との合流点になる日向沢ノ峰あたりまでが天目 [続きを読む]
  • 小金沢山 −秀麗富嶽十二景2番
  • 大月市と甲州市の境にある大月市の最高地点。三角点が建てられた当初は西に流れる雨の沢から取ったと思われるが雨沢ノ頭と名付けられていた。少し南には日本で一番名前が長いという牛奥ノ雁ヶ腹摺山がある。しばらく曇り空が続いてましたが素晴らしい秋晴れの日がやってきました。最近富士が雪化粧し、見ごたえのある景色を見に行こうと向かうは秀麗富嶽十二景の一つ、小金沢山へ。小金沢山へは大菩薩嶺の登山口である上日川峠のよ [続きを読む]
  • 三ツ峠山 −御坂山塊の東端 開運の山
  • 登攀の練習場で有名な三ツ峠山。北から御巣鷹山、開運山、木無山の三峰の総称で最高峰は開運山。憩いの森の駐車スペースに停め、8:00登山開始。10分ほどで登山口に到着。その先に三ツ峠中興の祖とされる空胎上人がデザインし、後継者の三世安西和尚が建てたといわれる達磨石があります。風化が進んでいることもあり三ツ峠駅のホームにこれのレプリカが作られたそうで。どうもイノシシがいるようです、道の至るところに掘り起こされ [続きを読む]
  • 御座山 −佐久地方第一の名山
  • 南佐久郡の北相木村と南相木村とにまたがる。神様のおいでになる山ということから天皇がお座りになる高御座(たかみくら)に由来するという。「おぐらさん」と読む。知らん人が見たら「ござやま」ですよねこれ・・・ともあれすごく見晴らしのいい山だなと、ここを登る人の登山記録を見ては思っていました。つい先日大型の台風24号が通過して雨雲を持っていってくれたのでいい機会だと目指すは南相木村。この台風の影響で各所で停電の [続きを読む]
  • 長者ヶ岳 −田貫湖から行く周回コース
  • 富士山麓の田貫湖に住んでいた炭焼きの伝説が由来の長者ヶ岳。その隣の天子ヶ岳にも炭焼きの伝説が残る。長者ヶ岳へは静岡の田貫湖から。湖畔キャンプする客で賑わってます。田貫湖南西側の駐車場に停め8:00登山開始。右を行けば長者ヶ岳へ、左は1時間車道を歩き天子ヶ岳への道になります。道なりに進むとすぐに舗装路が終わり、5分ほどで長者ヶ岳の登山口に着きます。すぐに木段。10分ほど連続した木段を登ると右手にベンチがあり [続きを読む]
  • 浅間山 後編 −規制解除の前掛山へ
  • 阿蘇、浅間、有珠など、どれも似た発音だが火山を意味する古語であったそうだ。富士山も火山であるため浅間と呼ばれ富士山信仰で主に関東中部などに浅間神社が存在するが、浅間山にある浅間神社とは別のものである。前編はこちら浅間外輪山を下って賽の河原へ。ヘルメットかぶってさぁ出発、っていきなり怖い・・・危ない箇所を通過、あの壁を横へ横へと通ってきました。上から10分少々で下ってきました。あの岩の辺りまで降りれば [続きを読む]
  • 浅間山 前編 −車坂峠からの外輪山周回
  • わが国で火山の代表と言えば、浅間と阿蘇である。いつ頃から噴き始めたか知らないが、それは今日に至るまで絶えることなく煙をあげている。浅間山は煙と共に生れ、今も煙によって名を博している。- 深田久弥 日本百名山 - 九州や東北ほどではないものの関東甲信越にもちらほら火山があり、その筆頭は何といっても浅間山でしょう。3年前に噴火警戒レベル2となり登山が許される最高点 前掛山までの立ち入りが禁止されてましたがつい [続きを読む]
  • 美ヶ原 後編 −早涼の候 高原を走る風
  • 王ヶ頭の西側、王ヶ鼻からは日本百名山のうち1/3近くの山が見渡せるという。王ヶ鼻に並ぶ石仏群は江戸時代にあった御嶽信仰によるものでどの石仏も御嶽山の方角を向いているという。前編はこちら美ヶ原の最高点に立つ王ヶ頭ホテル。手前にベンチがあるので景色でも眺めながら昼食。風が心地いい。北東方角に見えているのは浅間山。昼食を済ませ王ヶ頭の最高点へ。11:15美ヶ原の最高点、王ヶ頭着。王ヶ頭ホテルの裏手にあります。西 [続きを読む]
  • 美ヶ原 前編 −標高2000mの牧場散歩
  • 昔は美ヶ原という名はなかった。二百七十年前の元禄時代に放牧場として利用したという記録があり、その後も農閑期の牛馬の休養場になったことはあったが、人間の楽しむ美しい原として登場したのは、昭和になってからだという。- 深田久弥 日本百名山 -今年は最高気温を更新するうだるような暑さでしたが、どうもここ最近は秋が混在したような天気で夏らしからぬ涼しい日が続いています。それならば2000m弱でも十分涼を満喫できるだ [続きを読む]
  • 越百山 後編 −中央アルプス南部 白い稜線からの帰路
  • 越百山から上伊那へ流れる与田切川、麓の与田切公園には越百の水という信州の名水・秘水に選ばれた井戸水がある。山名にちなんでか利用者が「百を超える長寿」となられるよう、との思いが込められた水なのだとか。軟水で多くの地域住民が水汲みに訪れるという。冬期以外に利用可能。前編はこちら仙涯嶺を過ぎたところから見た南駒ヶ岳の南西面。それとは対照的な越百山への緩やかな道。とはいえここの道は結構長い、仙涯嶺から1時 [続きを読む]
  • 越百山 前編 −南駒の花畑を越えて
  • 「百の山を越えなければたどり着けないほど山深い」として名付けられたという説がある越百山。越百山より南は植生が変わり猛烈な藪漕ぎ地帯となるためここを縦走の起終点とすることが多い。空木岳編はこちら南駒ヶ岳編はこちらあれ、起終点ならそんな山深くないじゃんと思うところですがどうやら木曽側からは昭和に、上伊那側からは大正に開通した道だったそうでなるほど山深かったんだと納得です。さて、空木岳から縦走してきて南 [続きを読む]
  • 南駒ヶ岳 −中央アルプスもう一つの駒ヶ岳
  • 深田久弥が中央アルプスから木曽駒の他にもう一座日本百名山に選定しようとした際、空木岳とこの南駒ヶ岳とで悩んだそうだ。結局は標高と名前の響きで空木岳を選んだが花崗岩が乱立する山容は空木岳に引けを取らない。空木岳編はこちら南駒ヶ岳は明治の測量で付けられた名前で、空木岳もこの時期は前駒ヶ岳と付けられていたそうです。木曽駒にちなんで思い付きで命名された馬とあまり関連がないといういささか残念な話。さて、空木 [続きを読む]
  • 空木岳 後編 −縦走開始 花崗岩とハイマツの稜線へ
  • 花崗岩の山はいくつかあるが日本最大規模の花崗岩山脈は中央アルプスである。中央アルプスの南北で花崗岩の岩相が異なり北部は木曽駒花崗岩、南部は伊奈川花崗岩と呼び木曽殿越あたりが分布の境界になっているという。前編はこちら中編はこちら前日は木曽殿越にある木曽殿山荘に一泊し、5:30越百山へ向かって出発。30分ほど登ってきました。振り返ると東川岳の後ろに御嶽山。右に目をやると千畳敷カールが見えました。途中咲いてた [続きを読む]
  • 空木岳 中編 −縦走前日 木曽殿越のひと時
  • 木曽殿とは平家を都落ちへ追いやった源氏の功労者(だったはずの)木曽義仲のことで、以仁王の挙兵があった治承4年(1180年)にこの鞍部を通って中央アルプスを横断したといった伝説がある。前編はこちら13:15義仲の力水着。枯れていることもあるとか聞いてましたがまだ雪解けの夏時期なのかここ数日の雨のせいか勢いよく水が滴り落ちてます。この先、越百山を下りていく道まで水場はないのでここで十分に水を汲みなおしていきます。※ [続きを読む]
  • 空木岳 前編 −伊奈川から上がる木曽殿越へのみち
  • 空木はおそらく植物のウツギから来たのだろう。三千米に近い頂上には、もちろんそんな落葉灌木はない。山の上部がまだ雪で輝いている頃、山麓ではすでにウツギの花ざかりである。その景色から来た名前かもしれない。- 深田久弥 日本百名山 -ずいぶん久々な中央アルプス。(中央アルプス自体そんなに山が多くないとも)東の伊那、駒ヶ根側からの方がよく登られてる中央アルプスですが、今回は西の木曽側から。7:00伊奈川ダム上駐車場 [続きを読む]
  • 鋸岳 後編 −南アルプス異彩の岩峰へ
  • 熊ノ穴沢ノ頭から三角点ピーク間が岩稜帯でこの一帯を総称して鋸岳と呼んでいる。今回は行かなかったが第1高点以南がこの山の核心部で山梨県の主だった山の中でも最難関のコースとなる。相応の装備と経験がなければ立ち入るべきではない。鋸岳の名所である鹿窓は戸台から北沢峠への林道にある途中のバス停、歌宿から針の穴ほどの隙間で見えるという。前編はこちら横岳峠での休憩中、ここに来るまで鋸岳と書かれた案内ってあったっ [続きを読む]
  • 鋸岳 前編 −富士川の源流 登山道への長いみち
  • 山梨百名山の難関の一つ。おおらかな山容が特徴である南アルプスの中、甲斐駒ヶ岳より北西にある鋭利な姿の山。コースとしては長野の戸台から、甲斐駒ヶ岳から稜線を縦走、釜無川からといくつかありますがそれぞれ足場が悪い(落石)、滑落の危険、ロードがとにかく長いといった難点を抱えています。今回は釜無川から。一番リスクの少ないルートです。この辺りは砂利の採石や砂防ダム建設といったところが平日賑わっており、登山者用 [続きを読む]
  • 笹山 後編 ー南アルプスのシーズン直前 静かな白峰南嶺
  • 穂坂村(現韮崎市)出身である平賀文男の著書『赤石渓谷(1933年)』で笹山のことが取り上げられている。今ではダイレクト尾根などと呼んでいるがこの尾根は笹山尾根だと明記されている。特に名前の由来がわからない山であるが黒河内岳というのは白峰南嶺から奈良田へ流れる沢から取ったのであろうというのは調べれば何となくわかる。尾根にも山頂にも笹は一切生えていない。となると山の形とかもっと他の理由から笹とつけられたのだろ [続きを読む]
  • 笹山 前編 −奈良田から行くダイレクト尾根の登り
  • 別名、黒河内岳。南アルプスの支稜線、白峰南嶺にある。山梨百名山の難関のうちの一つである。以前は北の大門沢からか南の伝付峠経由でしか行けないテントを担いで一泊を要する所であったが、2008年に直接笹山へ行けるよう整備が始まり今では日帰りで行ける山となった。富士川の支流、早川にダムがありそこに架かるつり橋、塩見橋から入っていきます。目の前の尾根に取り付いて笹山を目指していきます。今日は長丁場・・・4:20登山 [続きを読む]
  • 九重山 後編 −九州本島最高峰からの眺め
  • くじゅう連山には御池という名前の池が2つある。天狗ヶ城の直下にある池を「みいけ」と呼び、大船山の直下にある池を「おいけ」と呼ぶ。御池(みいけ)のすぐ隣にも火口跡があるが、不思議なことにこちらの方が低いところにあるにも関わらず空池となっている。前編はこちら中編はこちら最高峰中岳からの景色。まず西側から、噴煙を上げている硫黄山。あれでも少ない方で勢いよく噴煙を上げているときもあるのだそう。北側の三俣山。 [続きを読む]
  • 九重山 中編 −九州の屋根を支えるくじゅうの山々
  • 同じ読み方をするのだから九重山の最高峰は久住山であってほしいところだが北東にある中岳が九重山の最高峰である。久住山が最高峰であったときもあった。実際深田久弥の著書、日本百名山では久住山が最高峰であるとの記述がある。登山者の増加や山頂の崩落等が原因で標高が低くなり1980年の再測量で中岳にその座を譲ってしまったそうだ。前編はこちら久住分れを過ぎると空池が見えてきます。この奥に御池があります、帰りに見に行 [続きを読む]
  • 九重山 前編 −ミヤマキリシマの季節 北の荒野を行く
  • 九州には、霧島、阿蘇、雲仙などの噂の高い山があるせいか、その最高峰は見逃されがちのようである。九州本島で一番高いのは九重山。九重山は山群の総称であってその主峰は久住山。同じ発音を持つ九重と久住が、そんな分け前に落ちつくまでに、長い間山名の争奪戦があったそうである。- 深田久弥 日本百名山 -九州遠征の締めくくりはミヤマキリシマが咲くくじゅう連山。今年は6/3に山開きがあり多くの人がSNSにミヤマキリシマをア [続きを読む]
  • くじゅうへ −水よき里の荒城
  • 「春高楼の花の宴」の出だしで耳にしたことがある荒城の月。作詞土井晩翠、作曲瀧廉太郎。瀧廉太郎は学童時代、父の仕事の関係上各地を転々としていたそうだが、その時に見た城跡が作曲のモチーフとなっている。竹田市にある岡城址はそのうちの一つで1898年に土井晩翠が中学唱歌用の歌詞として作詞したものに瀧廉太郎が曲を応募、採用され1901年に「荒城の月」として発表された。その2年後結核のため死去、わずか23歳、音楽活動期 [続きを読む]