探 三州街道  さん プロフィール

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探 三州街道 さん: 探 三州街道 
ハンドル名探 三州街道  さん
ブログタイトル探 三州街道 
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7
サイト紹介文伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供0回 / 365日(平均0.0回/週) - 参加 2015/09/23 18:24

探 三州街道  さんのブログ記事

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  • 雑記:保科正則と正俊 覚書:Ⅰ
  • 雑記:保科正則と正俊 覚書1〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜しばらく、命題のテーマを休んでおりました。新たなる”史実の発見”がなかったこともあり、その時代の、「荒川家、保科家の周辺」の諏訪家や小笠原家の理解を深める作業を少し続けていましたが、違う方面が忙しくなり、忙しさにかまけて、”命題”の方は休んでおりました。ある時、北信濃・長野・若穂保科に”延命寺” [続きを読む]
  • 豊丘村「神稲」と「佐原諏訪神社」について
  • 豊丘村「神稲」と「佐原諏訪神社」について 参照:「再び、伊奈忠次の出自を追う。易次を熊城(蔵)の里へ。神稲。」押すとコーナーが参照できます佐原諏訪神社(借用)以下の文章は、頂いたコメントに対しての私の考え方です。長くなったので、ブログ本文に掲載します。 くましろ=神稲代、神稲の意味は、どこかで読んだ覚えがあります。明治五年、付近の数村が合併し、「神稲」の村名が選ばれたときの由来が気になっていまし [続きを読む]
  • 小笠原家と六波羅探題
  •  小笠原家と六波羅探題六波羅探題の成立六波羅探題の成立は、「承久の乱の戦後処理」の必要から生まれた。したがって、時期は承久三年(1221)のことである。背景は、「承久の乱で、「後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。これらは、それまで幕府の支配下になかった荘園で、幕府の権限が及び難い西国に多くあった。再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置かれることになっ [続きを読む]
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第九話
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第九話:だいぶ休んでいましたが再開します。ただし、このシリーズは今回で終了になります。:ここでは、小笠原家の初期の信濃における、とりわけ南信濃での”ポジショニング”を明確にする作業をしてみたいと思う。 ・まず初期の定義だが、七代貞宗は「信濃守護」として各種古書に記述が多いことから、曖昧な期間、長径(初代長清の子)長忠、長政、長氏、長宗(貞宗の前代・父)までとする。 ・1: [続きを読む]
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第八話
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第八話  松尾館と松尾城小笠原家の松尾館は、小笠原長径が隠棲して住み、以後松尾小笠原家の当主が住んだ館である。 従って、松尾小笠原館の当主は、 小笠原長径 小笠原長忠 小笠原長政 小笠原長氏 小笠原長宗 小笠原貞宗へ続く。  ・小笠原長氏の時、佐久・伴野家が「霜月騒動」で没落し、小笠原宗家が松尾小笠原家へ移る。以後、松尾小笠原家が、小笠原宗家になる。  ・小笠原長宗の時 [続きを読む]
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第七話 
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第七話 小笠原長政:長忠の子・小笠原長政のことも、小笠原家の家系図に載っているだけで、ほとんど判りません。小笠原長氏:長政の子:生没:安貞元〜延慶三(1227-1310)年 ・長氏の時に、松尾小笠原家は劇的に変化して行きます。小笠原長忠、小笠原長政のことは資料が乏しく、考証しようにも手立てが思いつきません。確認してきたのは、小笠原に残る家系図と小笠原家から幕府に提出されて作成された [続きを読む]
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第六話
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第六話ここで、小笠原長径、長忠が、阿波国守護として阿波に居着いてしまえば、松尾小笠原家は生まれてこないことになります。ここでどんなドラマがあったのでしょうか?承久の乱の時、小笠原長径は43歳、父・長清は60歳、長男・長忠は19歳、次男・長房にいたってはまだ8歳です。 ・小笠原長房:生・没(1213-1276)( 阿波国守護) ・小笠原長忠:生・没(1202-1264)( 豊松丸、又次郎、兵庫 [続きを読む]
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第五話
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第五話承久の乱(1221)以後の小笠原家まず、小笠原長清をはじめとする一族の事跡と恩賞・官名などから確認してみます。何が浮かび上がってくるのでしょうか?少し前・加賀美遠光から・・・「吾妻鏡」より拾う・治承四(1180)年、源頼朝が挙兵した少し後、信濃国は、加賀美遠光が名国司(信濃守)だったが、「実際の国務は目代である比企能員が沙汰しており、信濃国守護も兼務していた」と記録に残り [続きを読む]
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第四話
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第四話伴野庄と佐久の豪族・平賀一族・「吾妻鑑」文治二(1186)年に、信濃国伴野庄地頭として長清の名がみえている。・この伴野庄は、信濃・伊那の伴野庄か、信濃・佐久の伴野庄かを別の角度で検証します。それは、平安末期に、信濃・佐久郷に、豪族として君臨した「平賀一族」の歴史の検証になります佐久の豪族・平賀一族信濃・佐久郷(伴野庄、大井庄)は、平安末期から平賀一族が所有していました [続きを読む]
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第三話
  • 松尾小笠原宗家の創立まで  第三話話が、承久の乱の前に戻ります。比企の乱と源頼家(二代将軍)の近習・小笠原長径 ・・*近習・主人の側に仕える人小笠原長径は、建久元年(1190)源頼朝上洛の際に随兵として名が見られます。その後、頼朝死後に跡を継いだ将軍・頼家の近習となり、的始儀の射手や狩の供を務めています。将軍・頼家が十三人の合議制に反発して選んだ五人の近習・側近にも選ばれています。この二代将軍・源頼家 [続きを読む]
  • 松尾小笠原宗家の創立まで   第二話
  • 松尾小笠原宗家の創立まで 第二話話が、少し先へ飛びます。承久の乱・東山道軍さて、承久の乱の東山道軍の大将は武田信光と小笠原長清が任命されています。この戦の道順に、武田信光は甲斐の鎌倉御家人と諏訪家が合流して東山道本道を木曽へ抜けて岐阜へ、小笠原長清は伊賀良に痕跡があることから伊那道を経て、御坂峠越えで岐阜へ、岐阜あたりで武田軍と合流したのではないかと思われます。伊那道の小笠原軍は、途中で中澤氏、片 [続きを読む]
  • 松尾小笠原宗家の創立まで
  • 保科家、伊奈家(荒川家)と探ってきましたが、力不足で探求が頓挫しています。この間、周辺の歴史も見てきましたが、松尾小笠原家の小笠原定基がかなり興味深い人物のようです。松尾小笠原家は、府中小笠原長棟に敗れたこともあり、地元ではあまり人気がありません。郷土史家の探求も、ここには眼が向いていないらしく、あまり面白い研究書もなく、・・では自分が、・・という気になっています。まず、松尾・小笠原家の成立のあた [続きを読む]
  • 秋葉街道、不思議のもとを辿る
  • 秋葉街道、不思議のもとを辿る 雑記                  ・・・ かなり緩い「秋葉街道」の話秋葉街道近世、「秋葉街道」という道が注目を浴びております。この「秋葉街道」という名称には、いささかの不思議があります。「秋葉街道」の名称自体が古代から戦国期までの記録には存在していないのです。あの武田信玄が、青崩峠(兵ごえ峠)を超えて徳川領の浜松に攻め入った「三方が原の戦い」の時の青崩峠は秋葉街道 [続きを読む]
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