KATS.I さん プロフィール

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KATS.Iさん: = 水行20日、水行10日陸行1月の呪縛 =
ハンドル名KATS.I さん
ブログタイトル= 水行20日、水行10日陸行1月の呪縛 =
ブログURLhttp://katsi.blog.fc2.com/
サイト紹介文2015年6月、魏志倭人伝を解読し、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた
自由文畿内説、九州説、百花乱立の邪馬壹國の比定地
過去の考古学、民俗学の定説に囚われ過ぎているのか プロの歴史学者も、アマチュアの歴史愛好家も迷宮を彷徨う魏志倭人伝の呪縛の29文字
南至投馬國 水行二十曰
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
もし、二十日 十日 一月の記述が無かったならどうだろう
2015年、今、邪馬壹國の比定をGoogle Mapsから試みた
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供7回 / 365日(平均0.1回/週) - 参加 2015/09/26 10:10

KATS.I さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • 56.東西5月 南北3月(その3)
  • 以前の 53.距離の基準 1里=53.3m (その3)の記事について未万劫哉さんからコメントをいただいています。コメントは以下をご覧くださいhttp://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-59.html#comment42いつもコメントありがとうございます。コメントがだいぶ増えたので、今回は、いただいたコメントとご意見に対する回答とそれに関連する考察を記事にしたいと思います。1.國々はどのように成立したのか農耕が発達して、人 [続きを読む]
  • 55.東西5月 南北3月(その2)
  • 隋書倭國伝は、色々と興味深い記述があります。今回は、以下の記述を考察します。其國境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下 都於邪靡堆倭國の國境の東の端から西の端まで5月で、南の端から北の端まで3月である。東西、南北いずれも海に面している。隋書の邊防を記述した東夷篇、南蠻篇、西域篇、北狄篇には、似たような記述の文章があります。東夷篇高麗伝 其國東西二千里 南北千餘里 都於平壤城百濟伝 其國 [続きを読む]
  • 54.東西5月 南北3月
  • 隋書倭國伝に以下の記述があります。夷人不知里數 但計以日これを意訳すると以下となると推測します。夷人は、里を基準として距離を数えることを知らない。しかし、日を距離の単位の基準として正確に距離を計測している。http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-58.html今回は、隋書倭國伝が記述されている、隋書の東夷篇の中の距離に関する記述を考察します。隋書の東夷篇(巻八十一列傳第四十六)には、地点間を日、月で記述した [続きを読む]
  • 53.距離の基準 1里=53.3m (その3)
  • 前回の記事について、未万劫哉さんより丁寧なコメントをいただきました。ありがとうございます。返事が長くなりますので、今回をこの返事を記事にすることにします。コメントの全文は以下をご覧ください。http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-58.html#cmコメントの中の2件のご質問に対する回答と、いくつかのご見解の中で6件を取り上げ、賛同できるところと、そうでないところ合わせて記述します。1.私の記事日の出の時、太 [続きを読む]
  • 52.距離の基準 1里=53.3m (その2)
  • 隋書の倭國伝に以下の記述があります。この一文は非常に重要です。夷人不知里數 但計以日残念ながら、この一文の正しい訳に、まだお目にかかったことがありません。夷人は里(距離)の数え方を知らない。ただ日を用いて距離を計っている。これが通説の訳文です。誰もこの訳文に誰も疑問を持っていないのですが、この訳文には二つの誤りがあります。そしてこのような誤訳を感受する理由がまた二つあるのです。但の意味のとり方です [続きを読む]
  • 51.距離の基準 1里=53.3m
  • 最近、統計解析、実験計画などに活用されるJPMというソフトウエアの勉強を始めました。このソフトウエアで、魏志倭人伝に記述されている距離の解析をしてみました。魏志倭人伝に記述されている距離は以下です。帯方郡  → 狗邪韓國  7000餘里狗邪韓國 → 對馬國   1000餘里對馬國  → 一大國   1000餘里 一大國  → 末廬國   1000餘里 末廬國  → 伊都國    500 里 伊都國 [続きを読む]
  • 50.扶桑國(その5)
  • 扶桑國の比定をする前に、扶桑について中國の書物から考察することにします。中國の古代書物を検索するには「中國哲學書電子化計劃」が重宝します。各書物の原本・写本がデジタル化されています。「扶桑」と入力して検索すると、扶桑と記述されている文献の箇所を検索してくれます。検索だけでなく、書物によっては するとその箇所の写本を閲覧することが出来ます。また各書物の相違も比較しています。在宅の研究家にとって [続きを読む]
  • 48.仮説(コメントへの回答)
  • 今回の記事は、未万劫哉さんからいただいた、コメントに対する回答としたいと思います。未万劫哉さんには、拙筆な記事を読んでいただき、さらにコメントまでいただいて大変感謝しています。いただいたコメントは、最新のコメント一覧、もしくは以下の記事のコメントをご参照ください。28.1里=53.3m(2)http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-29.html#comment10質問1 >>帶方郡と帯方郡衙は同じではないでしょう。  [続きを読む]
  • 48.邊防の1里の基準
  • 通典の邊防は序条から始まり、第一巻東夷上条から第十六巻北狄七条まで、16巻、頁数で900頁に及びます。この中で距離を「里」で記述した箇所は440箇所程あります。これらが全て同じ1里=△△kmの基準で記述されているを考察しようと思います。以前の記事に大部分抜粋しましたが、起点がはっきりしている以下の記述を考察します。45.去中国 http://katsi.blog.fc2.com/blog-entry-51.html邊防第三巻 南蠻上条  1 [続きを読む]
  • 47.扶桑國(その4)
  • さて、再び扶桑國の比定地の考察に戻ります。通典の以下の記述を考察します。扶桑國復在 倭國之東 約去中國三萬里3.三萬里は何kmか約去中國三萬里の一文は、通典の邊防第一巻の序伝の冒頭に記述されています。冒頭を最初から抜粋しました。通典の邊防第一巻は、以下を参照しました。中國哲學書電子化計劃http://ctext.org/tongdian/185/zh覆載之? 日月所臨 華夏居土中 生物受氣正李淳風云 談天者八家 其七家 甘氏 石 [続きを読む]
  • 46.末盧國〜伊都國
  • 以前から指摘したいと思っていたことがあります。魏志倭人伝に記述されている末盧國の比定地に関してです。邪馬台國は九州にあったとする九州説、奈良県の大和平野にあったとする大和説のどちらも、ほとんどの研究者の方々は、末盧國の比定地を肥後国松浦郡(現在の佐賀県唐津市)としています。これは通説を検証せず論じているに過ぎません。これは、末盧(まつら?)と松浦(まつうら)とが語呂が似ているだけの根拠なのです。同 [続きを読む]
  • 45.去中國
  • 通典の以下の文章を考察してみます。扶桑國復在 倭國之東 約去中國三萬里 蓋近於日出處2.去中國の起点はどこか3.三萬里は何kmか通典の邊防典は全16巻からなり、全部で196の國々が記述されています。日本列島にあったとされる國々は、以下の7カ國です。倭、蝦夷、扶桑、女國、文身、大漢、流求それぞれの地点の記述を見てみることにします。倭倭國一名日本 在中國直東(邊防第1巻 邊防序伝)其王理邪馬臺國 [続きを読む]
  • 44.倭國の都
  • 扶桑國の比定地の考察を通典を元に行います。通典の修史は801年で、紀元前2500年頃から唐の時代の750年が編纂されています。桓武天皇が都を長岡京から平安京に遷都した時代に、エジプトにはクフ王のピラミッドが建設され、日本では三内丸山遺跡が建設された紀元前2500年頃から、都が平城京にあった奈良時代の750年頃までの中国の法令制度を中心に編纂されています。また周辺国に関する記述が、邊防の16巻にまと [続きを読む]
  • 43.扶桑國(その3)
  • 扶桑國の比定地の考察をはじめます。梁書の卷第五十四列傳の東夷伝には、序文と列伝の2ヶ所に扶桑國の記述があります。序文の記述は、扶桑國 在昔未聞也 普通中 有道人 稱自彼而至 其言元本尤悉 故並?焉扶桑國。昔は未聞であった。梁の時代の普通年間(520年から527年)の間に、彼の地(扶桑國)から来たと称する道人がいた。その人の言うことは、昔のことも今のことも悉く(ことごとく)尤(もっと)もである。それ [続きを読む]
  • 42.扶桑國(その2)
  • 邪馬台国論の書籍は400冊を超える(1987年の調査)そうです。一方、扶桑國に関する本は、19世紀に1冊、20世紀に1冊しかないそうです。1995年に出版された、いき一郎著「扶桑國は関西にあった」を拝読しました。著者の見識の深さに感服致しました。以下著者の記述を拝借して要約しました。日本の古典の研究は江戸時代中期に国学として体系化されました。国学の実証主義的思想は復古王道として大成し、尊王攘夷思想 [続きを読む]
  • 41.扶桑國
  • amazon.co.jpで、「邪馬台国」で本の検索をすると4336件がヒットします。しかし「扶桑国」で検索すると251件しかヒットしません。しかもそのほとんどは、扶桑國とは関係ない本なのです。もう少し多くの研究者の方々が、梁書の考察にも精励されたらと思う次第です。梁書の卷第五十四列傳第四十八巻の東夷伝に記述されている扶桑國を考察します。まずは諸先輩方々が注目すべきと指摘している通り、この東夷伝の序 [続きを読む]
  • 40.仮説
  • 捏造・改竄・誤謬である。古代文献を研究する専門家の中には、記述内容の理解が困難になると安易に、捏造、改竄、誤謬であると考察する方がいらっしゃいます。これはいかがなものかと思います。合理的な解釈を継続して試みるべきです。記述の解釈に矛盾が生じた場合は、仮説を設定し検証すれば良いのです。ある記述Aを解明するために、仮説Bを設定したとします。この検証には、他の記述、あるいは公知の事実(定理)から仮説Bが [続きを読む]
  • 39.大漢國
  • 前回、梁書文身國伝に記述されている文身國は、岡山県東備地域であると比定しました。備前の国の東側です。今回、梁書大漢國伝に記述されている大漢國の比定地を考察した結果、愛知県の名古屋市を含む尾張地域であると憶測するに至りました。大漢國伝の記述は以下です。大漢國在 文身國東五千餘里大漢國は、文身國の東5000里に在る。文身國は岡山県東備地域であると比定しましたが、代表地を瀬戸内市役所と仮定します。1里= [続きを読む]
  • 38.文身國(3)
  • 梁書に記述されている文身國は、岡山県東備地域(備前市、瀬戸内市、赤磐市、岡山市(御津、上道)、和気町、吉備中央町(加茂川))の日笠川、もしくはその下流の吉井川沿いに在った、と憶測するに至りました。梁書文身國伝には以下の記述があります。?・文身國在 倭國東北七千餘里 ・繞屋爲壍 廣一丈 實以水銀 ・文身國は、倭國(邪馬台國)の東北7000里(373km)に在る。 ・家の周りに巾1丈の溝をめぐらせ、水 [続きを読む]
  • 37.文身國(2)−水銀ー
  • 梁書東夷諸戎に記載されている文身國を比定するには、文身國に記述されている水銀に関して、掘り下げて考察する必要があります。原文は以下を参照としました。中國哲學書電子化計劃http://ctext.org/library.pl?if=gb&res=5879繞屋爲壍 廣一丈 實以水銀 雨則流于水銀之上家の周りに巾1丈の溝をめぐらせ、水銀で満たした。雨が降る度に水は水銀の上を流れた。溝に入れた水銀の体積、重量を考察してみます。家の大きさを10m四 [続きを読む]
  • 36.文身國
  • 魏志倭人伝を考察し、邪馬壹國は福岡県八女市と比定しました。比定は、以下の二つの仮定に基づきました。1) 1里=53.3m2) 水行20日、水行10日、陸行1月は、1日=11.3里さて、これからは魏志倭人伝を離れて梁書を考察することにします。梁書は唐の時代の629年に修史され、南北朝時代に江南に存在した梁(502ー557年)に関して記述されています。この梁書の卷五十四 列傳第四十八 諸夷の東夷諸戎中に、以下の國 [続きを読む]
  • 35.其北岸狗邪韓國
  • 邪馬台國の場所の比定に関して、既存の文献からは新しい発見はない。後は考古学的な発見を待つだけである。と云われる研究者の方がいます。果たして魏志倭人伝の研究は十分行われたのでしょうか。通説を踏襲しただけなのではと思えます。魏志倭人伝に以下の記述があります。其北岸狗邪韓國多くの研究者が狗邪韓國は、現在の釜山、あるいは金海と比定しています。そのなのでしょうか。狗邪韓國は、対馬よりも北側にあることは明らか [続きを読む]
  • 34.到伊都國
  • 前回倭地についてい考察をしました。倭人、倭種の國、倭地、女王國の関係は以下の図となります。魏志倭人伝では、至と到が使い分けられています。どちらも、その場所に行き着くの意味です。しかし、到達、到着の熟語はありますが、至達、至着の熟語はありません。到は、ある目的地に辿り着くの意味があると推測します。魏志倭人伝には2ヶ所到の記述があります。到其北岸狗邪韓國到伊都國到其北岸狗邪韓國は、最初の倭人の國である [続きを読む]
  • 33.周旋5000里
  • 水行20日、水行10日、陸行1月は移動に要した日数(時間)ではなく、1日=11.3里の基準に基づく距離であることを前回考察しました。今回は、邪馬壹國の大きさ(面積)を考察してみます。これは魏志倭人伝の記述から解読することが出来ます。まずは、邪馬壹國の定義づけを考察してみます。邪馬壹國と魏志倭人伝に記されているのは以下の一文だけです。南至邪馬壹國 女王之所都南に行くと邪馬壹國に辿り着く。女王の居住す [続きを読む]
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