悠村隆道 さん プロフィール

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悠村隆道さん: 中論を勉強してます
ハンドル名悠村隆道 さん
ブログタイトル中論を勉強してます
ブログURLhttp://sekisinhenpen.blog.fc2.com/
サイト紹介文西嶋和夫先生がサンスクリット語から直訳された中論を勉強しています
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供55回 / 365日(平均1.1回/週) - 参加 2015/10/14 16:44

悠村隆道 さんのブログ記事

  • 中論・15−1頌 主観的な存在の非現実性
  • 第一頌 主観的な存在の非現実性西嶋先生の訳綜合的な存在は、主観的な存在の中には帰属しておらず、確かな事実としての理性に依って拘束されている。理性と確かな事実とは、何時も一体のものであり、主観的な存在は人間が人為的に作り出したものとしてその存在を理解することができる。中論を勉強しています綜合的な存在つまり現実の世界は、我々が頭で考えた世界つまり主観的な存在の中には存在していない。それよりも綜合的な存 [続きを読む]
  • 中論・第十五章 主観的な存在に関する検証
  • 第十五章 主観的な存在に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です本章の表題となっているSVABHAVAという言葉については、既に第一章においても説明したように、われわれ人間が頭の中で考えた思想内容を意味すると考えられる。したがって観念論の立場に立つならば、正にこの世の中の実在と考えられる対象であるが、現実主義の立場に立つ仏道に於いては、その主観的な存在の実在性を否定せざるを得ない。また本章においては [続きを読む]
  • 中論・14−8頌 融合の独自性
  • 第八頌 融合の独自性西嶋先生の訳融合と呼ばれる事実は、具体的なものに依存しているものでもなければ、具体的な個々のものの中に含まれているものでもなく、個々の具体的な事物や融合以外のものに依存している訳でもなければ、融合以外のものの中に含まれている訳でもない。融合と融合以外のものとの間では、相互に結び付いている状態とか、一箇所に集まっている状態とか、相互に争っている状態とかを、全く認めることが出来ない [続きを読む]
  • ブログ中断のお知らせ
  • パソコンが壊れてしまいました。バッテリー充電制御アップデートツールを実行したばかりなので、それが災いしているのかと思いfujitsuに電話をしたのですが、どうもパソコンのどこかが壊れてバッテリー充電ができなくなったみたいです。そこでこのブログをやむなく中断いたします。新しくパソコンを購入してまた始めたいと思いますので、その時はまたよろしくお願い致します。 [続きを読む]
  • 中論・14−7頌 相違の認識と実在
  • 第七頌 相違の認識と実在西嶋先生の訳本当の意味の相違性はたった一つのものの相違性の中には見出すことができないし、たった一つの違っていないものの中にも見出すことができない。何も存在しない状況の中や相違性という抽象概念の中では、単独の違っているものも単独の違っていない本体も、同じように現実の世界に実在するということがあり得ない。中論を勉強していますたった一つの事物の場合において相違性というものを認識す [続きを読む]
  • 中論・14−6頌 違ったものの独立性
  • 第六頌 違ったものの独立性西嶋先生の訳違ったものと違ったものとが、違った状態を克服した場合、(その違ったもの同士が)違った状態を克服して、正に動くということは可能性としては考えられる。(しかし)違ったものと違ったものとが、違った状態を克服して動き出すということは、実際にはあり得ないし、そのような事態は将来といえどもあり得ない。中論を勉強していますもしも明確に違うもの同士がその違った状態を克服した場 [続きを読む]
  • 中論・14−5頌 個々の事物の独自性
  • 第五頌 個々の事物の独自性西嶋先生の訳違っているものと違っているものとは、それぞれ違っている状態がはっきりしているし、違っていないものと違っているものとは、それぞれ違ったものとして動いている。個性のはっきりしているものも、個性のはっきりしていないものも、それらがそれ自身とは別のものとして現われて来ることはない。中論を勉強しています多く違っているものと少し違っているものとは、それぞれ違っている状態が [続きを読む]
  • 中論・14−4頌 個々の事物の不変性
  • 第四頌 個々の事物の不変性西嶋先生の訳個々に独立した存在が、本質的に別のものになるということはないし、(そのような事実は)見る働きその他の感受作用を通して認識されるということでもない。何かの中に或は何かを通して、外観以上の優れたものが(現実の世界の中には)存在しているけれども、本質的に全く別のものが現われて来るということは決してない。中論を勉強していますこの世の中に様々の事物が存在している、そして [続きを読む]
  • 中論・14−3頌 融合の性質
  • 第三頌 融合の性質西嶋先生の訳融合は融合以外のものに依存したり、融合以外のものに帰属したりしていることがなく、融合は融合以外のものとして認識されることが決してない。融合は目の前に示されたものとして、既に見えているのであるから、そのような融合が今後更に進展するということはあり得ない。中論を勉強しています行為と行動が一体化された融合は融合以外のものによって基づいていないし融合以外のものと一つになる事は [続きを読む]
  • 中論・14−2頌 興奮と快、不快
  • 第二頌 興奮と快、不快西嶋先生の訳興奮と興奮させられた状態と興奮することとは、同じように視覚に関係している。これらの三つのものに依存して、ある場合には激しい苦痛であるけれども、ある場合にはさまざまの憩いの場所がある。中論を勉強しています第1頌で述べた様に興奮と興奮させられた状態と興奮する事は、同じように視覚に関係する事である。そしてこれらの三つの要素によって、ある場合には苦痛の状態になったり、ある [続きを読む]
  • 中論・14−1頌 相互関係と融合との違い
  • 第一頌 相互関係と融合との違い西嶋先生の訳見られる対象と、見る行為と、見る人という三つの糸による輝かしい色彩は、二つの糸と二つの糸との組み合わせである。この世の中の全てのものが融合の関係という訳ではなく、正に二つずつの相互関係の構成もある。中論を勉強しています見られる物と、見る行いと、見る者という三つ要素がある。そして二つの要素ともう一組の二つの要素との組み合わせである。全体に亘ってみるならば融合 [続きを読む]
  • 中論・第十四章 融合に関する検証
  • 第十四章 融合に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です仏教哲学にはその組織を貫く弁証法的な基本原則がある。例えば現実の行いという問題に関連してその実体を考えてみると、われわれは脳細胞の働きを通して、行為という抽象概念と行動という感覚的な映像とを想定するけれども、仏教的な実在論の立場から考えるならば、先ず行いという現実の事実があって、それから行為という抽象概念と行動という感覚的な映像とが派生すると考 [続きを読む]
  • 中論・13−8頌 均衡した状態と直観的な判断
  • 第八頌 均衡した状態と直観的な判断西嶋先生の訳均衡した状態がすべての直観的な判断力の基礎であることが、真実を把握したさまざまの人々によって主張されている。それらの人々によって、均衡した状態におけるものの見方が、正に不滅の真理として主張されている。中論を勉強していますありのままである事が全ての直観的な判断力の基礎であり、真実を把握したさまざまの人々が行いで主張している。それらの真実を得た人々はありの [続きを読む]
  • 中論・13−7頌 均衡した状態の普遍性
  • 第七頌 均衡した状態の普遍性西嶋先生の訳均衡していない状態がほんの少しでも何処かに存在すると、均衡している状態は恐らく何処にも存在することができないであろう。もしも均衡していない状態が全く何処にも見当たらない場合には、均衡している状態が(現に目の前にあるのであって、)将来の存在であるということは決してあり得ない。中論を勉強していますもしもありのままでない状態がほんの少しでも何処かに存在するならば、 [続きを読む]
  • 中論・13−6頌 この世の中とこの世の中以外の世界
  • 第六頌 この世の中とこの世の中以外の世界西嶋先生の訳もしもこの世の中以外の世界が存在するとするならば、牛乳とヨーグルトとが全く同じものであるという主張が成り立つかも知れない。(しかし)牛乳と多少違う(ものがヨーグルトであるから、)ヨーグルトの存在はやはり(牛乳の)後になる。中論を勉強していますもしもこの世の中以外の世界がこの世の中と全く同一だとするならば、牛乳と牛乳によって作られるヨーグルトとが全 [続きを読む]
  • 中論・13−5頌 現在の瞬間と老化現象
  • 第五頌 現在の瞬間と老化現象西嶋先生の訳この世の中以外の存在が、この世の中に含まれているということはないし、(この世の中が)この世の中以外の存在によって縛られているということも絶対にあり得ない。(現在の瞬間においては、)若者が老衰しつつあるという事実はないし、それと全く同じように、年寄りが老衰しつつあるという事実も決してあり得ない。中論を勉強していますこの世の中以外に別の世界があるのではないか考え [続きを読む]
  • 中論・13−4頌 人間の想念と現実の世界
  • 第四頌 人間の想念と現実の世界西嶋先生の訳主観的な存在が見当たらない場合でも、この世の中以外の世界が一体何処にあり得るであろう。主観的な存在によって(われわれの)心が一杯になっている場合でも、この世の中以外の世界が一体何処にあり得るであろう。中論を勉強しています我々が頭で考える想念でこの世の中を捉えられない場合でも、この世の中以外の世界を見つける事は難しい。我々が頭で考える想念だけでこの世の中を捉 [続きを読む]
  • 中論・13−3頌 主観的でない存在と均衡した状態
  • 第三頌 主観的でない存在と均衡した状態西嶋先生の訳主観的な存在に縛られていない現実が、さまざまの存在の中に見られる場合には、主観的でない存在が眼の前に見えて来る。主観的でない存在が現に実在している場合には、均衡した状態がさまざまの存在の中に動いている。中論を勉強しています我々が自分の頭で色々と作り出した主観的な思想内容に縛られてない現実が、自分の周りに様々に見られる場合には、自分の頭で考え出した内 [続きを読む]
  • 中論・13−1頌 現実否定の世界が悪徳の世界
  • 第一頌 現実否定の世界が悪徳の世界西嶋先生の訳現実が役に立たなくなっている状態が悪徳の世界であり、そこにおいては聖者と呼ばれる人格についても語られることがない。悪徳の世界が、すべてのものに行き渡っているような場合には、現実に依存し現実に処して行くこともあまり意味がない。中論を勉強しています現実を偽っている状態が不正が蔓延している世界であり、その様な世界では聖者とはどういう生き方をするのかと語られる [続きを読む]
  • 中論・13−2頌 均衡の取れた静寂が永遠の指導標
  • 第二頌 均衡の取れた静寂が永遠の指導標西嶋先生の訳現実を無視する世界が悪徳の世界であり、そこにおいては現実に奪われるものは、何一つとしてない。そのような主張が、かの聖者によって説かれた。例の均衡の取れた静寂こそが永遠に燃え続ける指導標である。中論を勉強しています現実を無視する事は正しくない生き方である。何はともあれその様な生活をしていて、どうしてそんな生活にそれ以上失うものががあるだろうか。銘記せ [続きを読む]
  • 中論・第十三章 現実の行いに関する検証
  • 第十二章 現実の行いに関する検証に入る前に西嶋先生の解説ですサムスカーラという言葉は、漢訳経典における五蘊という言葉の四番目に位置している行という概念の原語である。したがってそれが行いと関連しているということが云えるのであるが、モニエル・ウイリヤムズの辞書によれば、サムスカーラは、一つに纒纒めること、よく作ること、完成すること等の意味があり、何らかの現実の行いに関係していて、行為という抽象概念や行 [続きを読む]
  • 中論・12−10 生、老、病、死の四苦は認識困難
  • 第十頌 生、老、病、死の四苦は認識困難西嶋先生の訳単独の個々に孤立したものが、苦しみの中に含まれている訳ではないのであるから、(生、老、病、死という)四種類のものが認識できる訳では決してない。はっきりとこの眼で見えるものだけが、この世の中に実際に存在しているのであるから、(生、老、病、死という)四種類のものが認識できるということは決してあり得ない。中論を勉強しています何ものとも共生しない一人一人の [続きを読む]
  • 中論・12−9 飽くまでも自己責任
  • 第九頌 飽くまでも自己責任西嶋先生の訳(自分と他人との)両方によって作られた行為が、恐らく苦しみの原因であると考えられる場合でも、(自分と他人とは)恐らく一人一人別々の行為であろう。他人のやった行為ではなく自分のやった行為が苦しみの原因であるという考え方の、一体何処に不合理な点があろう。中論を勉強しています自分と他人との両方による行為が原因で苦しみが生まれた場合、自分と他人とは恐らく一人一人別々の [続きを読む]
  • 中論・12−8 他人の行為の免責
  • 第八頌 他人の行為の免責西嶋先生の訳自分のやった行為が苦しみの原因にはならないのと同じように、苦痛そのものが原因で苦痛が作られるということでもないのであるから、他人が自分の意志でやったことでない場合には恐らく、苦しみが他人の行為によって起こったということは絶対的にあり得ないであろう。中論を勉強しています第六頌で「本来苦しみを伴わないことが行為の実行されたときの特徴である」と主張した様に自分のやった [続きを読む]
  • 中論・12−7 苦しみと本人の責任
  • 第七頌 苦しみと本人の責任西嶋先生の訳自分のやった行為が目的を達成しなかったために生まれて来ている苦しみが、他人の行為の結果であるという事実が何処にあり得よう。他人が苦しみの原因を自分がやったことのように云いたがる場合があるけれども、その行為自身もそれに属する事柄も、恐らく本人自身が作り出したものであろう。中論を勉強しています自分自身がやった行為で良い結果を得られなかった為に生まれた苦しみは、全て [続きを読む]