悠村隆道 さん プロフィール

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悠村隆道さん: 中論を勉強してます
ハンドル名悠村隆道 さん
ブログタイトル中論を勉強してます
ブログURLhttp://sekisinhenpen.blog.fc2.com/
サイト紹介文西嶋和夫先生がサンスクリット語から直訳された中論を勉強しています
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供55回 / 365日(平均1.1回/週) - 参加 2015/10/14 16:44

悠村隆道 さんのブログ記事

  • 中論・12−9 飽くまでも自己責任
  • 第九頌 飽くまでも自己責任西嶋先生の訳(自分と他人との)両方によって作られた行為が、恐らく苦しみの原因であると考えられる場合でも、(自分と他人とは)恐らく一人一人別々の行為であろう。他人のやった行為ではなく自分のやった行為が苦しみの原因であるという考え方の、一体何処に不合理な点があろう。中論を勉強しています自分と他人との両方による行為が原因で苦しみが生まれた場合、自分と他人とは恐らく一人一人別々の [続きを読む]
  • 中論・12−8 他人の行為の免責
  • 第八頌 他人の行為の免責西嶋先生の訳自分のやった行為が苦しみの原因にはならないのと同じように、苦痛そのものが原因で苦痛が作られるということでもないのであるから、他人が自分の意志でやったことでない場合には恐らく、苦しみが他人の行為によって起こったということは絶対的にあり得ないであろう。中論を勉強しています第六頌で「本来苦しみを伴わないことが行為の実行されたときの特徴である」と主張した様に自分のやった [続きを読む]
  • 中論・12−7 苦しみと本人の責任
  • 第七頌 苦しみと本人の責任西嶋先生の訳自分のやった行為が目的を達成しなかったために生まれて来ている苦しみが、他人の行為の結果であるという事実が何処にあり得よう。他人が苦しみの原因を自分がやったことのように云いたがる場合があるけれども、その行為自身もそれに属する事柄も、恐らく本人自身が作り出したものであろう。中論を勉強しています自分自身がやった行為で良い結果を得られなかった為に生まれた苦しみは、全て [続きを読む]
  • 中論・12−6 他人の行為による苦しみ
  • 第六頌 他人の行為による苦しみ西嶋先生の訳自分以外の人によって苦しみが生み出された場合、その自分以外の人とは一体誰のことであろう。本来苦しみを伴わないことが行為の実行されたときの特徴であるけれども、他人に責任を負わせることによって、事実が誇張され過ぎている。中論を勉強しています他人の行為によって自分の苦しみが生み出されたと思っている場合、ではその他人とはいったい誰の事であろう、明確に誰のせいと言い [続きを読む]
  • 中論・12−6 他人の行為による苦しみ
  • 第六頌 他人の行為による苦しみ西嶋先生の訳自分以外の人によって苦しみが生み出された場合、その自分以外の人とは一体誰のことであろう。本来苦しみを伴わないことが行為の実行されたときの特徴であるけれども、他人に責任を負わせることによって、事実が誇張され過ぎている。 [続きを読む]
  • 中論・12−5 他人の行為と苦しみ
  • 第五頌 他人の行為と苦しみ西嶋先生の訳他人の作り出したものが苦しみである場合には、単純な事実がそこにあるだけのことである。他人によって作り出された内容が、具体的な苦しみであるような場合には、そのような苦しみのない場合が、一体どこにあり得るであろう。中論を勉強しています他人の行為によって苦しみが作り出されている場合、そこには他人によって作り出される単純な事実が目の前に存在しているだけの事である。他人 [続きを読む]
  • 中論・12−4 自分自身の行為と苦しみ
  • 第四頌 自分自身の行為と苦しみ西嶋先生の訳自分自身の人柄が苦しみを作り出している場合には、苦しみは実際にはなかった筈であると考えない訳にはいかない。自分自身の人柄が多数の原因の一つである場合でも、それによる苦しみはやはり自分自身が作り出したものであると云わざるを得ない。中論を勉強しています自分自身が勝手に苦しみを作り出している場合に、もしもその苦しみが存在すると思っても現実には存在しないと同じであ [続きを読む]
  • 中論・12−3 否定することの出来ない事実
  • 第三頌 否定することの出来ない事実西嶋先生の訳この世の中におけるさまざまのものが、それぞれのものとは違った形のものとして見えている場合には、それはやはりさまざまのものが、そのもの自体を離れていることを示すものであろう。他の人のやった行為が、何らかの苦しみを作り出すことはあり得るけれども、それはさまざまのものが、他の人の意図でまた自分自身の意図で、何かを作り出しているに過ぎない。中論を勉強しています [続きを読む]
  • 中論・12−2頌 さまざまの集合体の実在
  • 第二頌 さまざまの集合体の実在西嶋先生の訳自分が自分自身のためにやった行為が存在する場合に、それが更に発展する可能性を持っていないということははっきりしている。さまざまの事物やさまざまの集合体がさまざまの集合体やこの世の中を作り出している。何故かというと、さまざまの集合体が綜合的に存在しているという事実は極めて明白であるから。中論を勉強しています自分が実行した行為においてその行為は確かなものであり [続きを読む]
  • 中論・12−1頌 苦しみの不明確性
  • 第一頌 苦しみの不明確性西嶋先生の訳自分のやった行為も他人のやった行為も自分と他人との両方がやった行為も、必ずしも合理的なものではない。苦しみという言葉は、たった一つの概念であろうとしているけれども、苦しみという言葉は、決してまだそのように完成されたものとして固定化されている訳ではない。中論を勉強しています自分がやろうと他人がやろうとそして自分と他人が共同でやろうと、およそ人間が行う行為と言うもの [続きを読む]
  • 中論・第十二章 苦しみに関する検証
  • 第十二章 苦しみに関する検証に入る前に西嶋先生の解説です一般的にいうならば人間は交感神経が強い場合、精神的な緊張が高まっているために、苦しみに対して鈍感であり、副交感神経が強い場合には、神経が敏感になっているために、苦しみを感じる度合いが激しい。しかし仏教においては交感神経と副交感神経とがプラス/マイナス:ゼロの状態にある処から、苦しみというものも人間の感受作用における状態であって、人々が一般に考 [続きを読む]
  • 中論・11−8頌 人生の終末と現実の世界
  • 第八頌 人生の終末と現実の世界西嶋先生の訳人生の終末が気付かれていない以前においては、われわれの日常生活の中に純粋なものが見当たらない。しかしこの世の中のすべての事物は、人生の終末が気付かれていない以前においても、実際に存在している。中論を勉強していますわれわれは人生の終末に気が付くまでは、自分自身の日常生活の中に純粋な自分自身が見当たらない。この世の中には様々の事物が存在しているが、たとえ様々な [続きを読む]
  • 中論・11−7頌 現実の世界
  • 第七頌 現実の世界西嶋先生の訳行為の実行と行為の理由とは同じものであり、物事の外見と物事の目的とがやはり同じものである。さまざまの感受作用と感受された刺激とが、完全に一つに重なっている現実の場面においては、単純な現象がただ眼の前にあるだけの事であって、その他のものは何も見当たらないということが実状である。中論を勉強しています現実の世界において行いという一つのものが行為の実行と行為の理由に分けて考え [続きを読む]
  • 中論・11−6頌 老化や死滅の偶発性
  • 第六頌 老化や死滅の偶発性西嶋先生の訳そのような状況の中では、事前とか事後とか同時とかという過程が、身近に示されている訳ではない。この世の中がさまざまの老化や誕生を見せてくれている。現実の事態とか老化や死滅は一体何であろう。中論を勉強しています第五頌において「死にゆく事、生まれいずる事はそのどちらもが理論的に説明できないであろう」と主張しているが、そのような状況の中では死にゆく事生まれいずる事の事 [続きを読む]
  • 中論・11−5頌 誕生
  • 第五頌 誕生西嶋先生の訳誕生は老化や死滅に依って同じように拘束されている訳ではない。死にたいという希望と生まれつつあるという状態とは、恐らく両方とも合理的なものではないであろう。中論を勉強しています老化や死滅の存在はまさに誕生があるからである、そして誕生は老化や死滅と一緒になって拘束されている訳ではない。死ぬという状態があり生まれるという状態があるが、この両方の状態は「これだ!」と結論の出ないそし [続きを読む]
  • 中論・11−4頌 老化や死滅の意味
  • 第四頌 老化や死滅の意味西嶋先生の訳誕生に伴って老化や死滅その他の存在も可能となる。不合理な事実はこの世の中に生まれる筈がないのであるから、老化とか死滅とかという事象は一体何を意味するのであろう。中論を勉強しています誕生があるからこそ、それに伴って老化や死滅その他が当然あり得る。この世の中には不合理なものは一切ないのであるから、老化とか死滅とかという事象の合理性は一体何を意味するのであろう。坐禅を [続きを読む]
  • 中論・11−3頌 若さ、死滅、誕生
  • 第三頌 若さ、死滅、誕生西嶋先生の訳誕生が始まる以前においては、老化も死滅も将来のことに属している。若さや死滅や誕生の存在があり得るし、更に不滅の生まれることも期待できる。中論を勉強しています誕生という事実が起きるまでは、老化も死滅も将来に起きることでありまだ始まってはいない。若さや死滅や誕生の存在があり得るし、そして不滅の存在もあり得るのではないだろうか。坐禅をしました誕生の事実が起きると老化が [続きを読む]
  • 中論・11−2頌 比較する見方の否定
  • 第二頌 比較する見方の否定西嶋先生の訳この世の中においては、最高と呼ばれるものも最低と呼ばれるものも存在せず、それぞれの中間と呼ばれるものも、何処にも存在する可能性がない。したがってこの地上の世界においては、事前、事後、その両方の中間という過程が、現実の事態として現われて来るということも決してあり得ない。中論を勉強していますこの世の中においては最高と呼ばれるものは存在しない、そして最低と呼ばれるも [続きを読む]
  • 中論・11−1頌 日常生活の浮き沈み
  • 第一頌 日常生活の浮き沈み西嶋先生の訳終末がまだ気付かれていなかった以前から、偉大な聖者は語っておられる。日常生活の浮き沈みは、最高のものに対しても引けを取らないものであり、われわれを縛り付ける手綱のようなものでもないし、後順位に属するものでも決してない。中論を勉強しています人生の終末である死期に気付が付く以前から、釈尊は次の言葉を語っていた。我々の日常生活の浮き沈みは、この世の中における最高のも [続きを読む]
  • 中論・第十一章 人生の始期と終期に関する検証
  • 第十一章 人生の始期と終期に関する検証に入る前に西嶋先生の解説ですわれわれの人生には、その始期としての誕生があり、その終期としての死滅がある。人々は普通その始期である誕生を祝い、その終期である死滅をかなしむ。しかしその始期も終期も本来哲学的に観察すべきものであって、観念論や唯物論の立場から理由もなしに楽観したり悲観したりすることは、仏道の立場から考えた場合、決して正しい態度ではない。本章においては [続きを読む]
  • 中論・10−16頌 仏教の真意
  • 第十五頌 仏教の真意西嶋先生の訳さまざまの精神的な内容もさまざまの現実的な内容も、それぞれさまざまの存在の中にあり、また個々ばらばらのものである。さまざまの精神的な内容もさまざまの具体的な内容も、それらをそれらしいものとして常に見せている訳ではないけれども、君達のように仏教を信じていない人々は、(それらのさまざまの事物が持っている)意味や価値を完全に抹殺しようとしている。中論を勉強しています様々の [続きを読む]
  • 中論・10−15頌 現実の火とその性質
  • 第十五頌 現実の火とその性質西嶋先生の訳炎と燃焼とが一つに重なった現実の火に関する説明は、思考作用と感受作用とが一つに重なった現実の事態として捉われない態度で説明することができる。全てのものは(それぞれの事物として)完全な性質を具えたものであるから、十二分以上の内容を持っており、織物と同じような複雑な内容その他に依存している。中論を勉強しています炎と燃焼とが一つに重なった現実の火は、具体的解釈と抽 [続きを読む]
  • 中論・10−14頌 燃焼と現実の火
  • 第十四頌 燃焼と現実の火西嶋先生の訳燃焼はやはり炎と同じではないし、炎が燃焼を離れて別の場所にあるということでもない。炎がさまざまの燃焼を作り出す訳ではなく、炎が炎に依存している訳でもなく、さまざまの燃焼が具体的な火に依存している訳でもない。中論を勉強しています燃焼はやはり炎と同じではないが、燃焼と離れたところに炎がある訳でもない。炎が燃焼を作り出す訳ではないし、炎が炎に作り出にされる訳ではない。 [続きを読む]
  • 中論・10−13頌 火と燃焼との関係
  • 第十三頌 火と燃焼との関係西嶋先生の訳別の状況が炎として到来する訳ではないし、炎が燃焼の中に見出されるということでもない。そこにおいては燃焼に関するその他さまざまの問題についても、「行きつつある」「行った」「まだ行っていない」の理論によって、説明することができる。中論を勉強しています燃焼と炎が別々の状況で炎が現れる事はない、もしも燃焼と炎が別々であるとすれば現実の炎が現実の燃焼の中に見出されるとい [続きを読む]
  • 中論・10−12頌 燃焼と炎との独自性否定
  • 第十二頌 燃焼と炎との独自性否定西嶋先生の訳燃焼に気の付いたことが炎を意味するのであって、炎に無関心であることが燃焼を意味する訳ではない。燃焼に無関心であることが炎を意味する訳ではなく、炎に対して無関心であることが燃焼という言葉の意味ではない。中論を勉強しています燃焼に気の付いたらそこに具体的な炎がある、具体的な炎に関心がなくても燃焼があるという訳ではない。燃焼に気付かない事が炎の意味ではない、具 [続きを読む]