あかま さん プロフィール

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あかまさん: 無への道程
ハンドル名あかま さん
ブログタイトル無への道程
ブログURLhttp://blog.livedoor.jp/akama_nkm/
サイト紹介文美術(東洋・西洋・仏像)、書籍(思想・哲学・文学)、映画に対する評論を書いています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供23回 / 365日(平均0.4回/週) - 参加 2015/11/28 21:42

あかま さんのブログ記事

  • 「ザ・スクエア 思いやりの聖域」
  • 「ザ・スクエア 思いやりの聖域」(スウェーデン・ドイツ・フランス・デンマーク、2017年) 同監督の前作「フレンチアルプスで起きたこと」は、男性が無意識裡に守ろうとする男らしさ、夫らしさ、父親らしさ、総じて言うに《男性性》というもののレッテルが?ぎ取られてゆくさまを皮肉たっぷりに、しかしながら毒気のないユーモアと、レッテルを守ろうと必死になる男性への憐憫と愛情を込めて描いたが、本作の諷刺とする対象、そ [続きを読む]
  • 「オー・ルーシー!」
  • 「オー・ルーシー!」(日本・アメリカ、2017年) いやな気分にさせられる。 誰もが悪意を向けてきて。繰り返される日常には希望などなくて。夢見た希望の代わりには悪意と反目だけが残って。希望にすがろうとする、その気持ちすらもが嘲笑われる。役所広司演ずる小森を配役し、息子を自殺で亡くした彼の口から「トニーは僕と正反対の性格なんです。ハグしましょう、節子さん」と言わせることで、節子の絶望を強引に救済しただけ [続きを読む]
  • 断想(2)
  •  生と死の重みが、反転しそうになるときがある。身体の調子がすぐれないとき、心を支えることができなくなるときがある。生きることの無意味さの前で、すべてがつらくなるときがある。この二十年、自分という人間の生きる意味をひたすら考えつづけてきたが、どうしても超えることのできない一線がある。死ねば終わり、というニヒリズムに囚われているわけではない。そのために生の意味がないのだと考えているわけではない。生きて [続きを読む]
  • 「ラブレス」
  • 「ラブレス」(ロシア・フランス・ドイツ・ベルギー、2017年) 映像の寒さと冷たさが物語(ストーリー)を支配する。ここには暖かなものが何もない。他人がいようとお構いなしにスマートフォンを取り出しては、偏執を感じるほどにそれを眺めつづける人々。他者への関心はなく、彼らには自分だけがある。SNS を介して多くの人と交わりながらも、彼らにあるものはただ自分自身に対する関心だけなのである。薄っぺらいこの世界。表面だ [続きを読む]
  • 倉田百三『愛と認識との出発』
  • 倉田百三『愛と認識との出発』(岩波文庫、2008年) 青年の特権とは、いまだ現実を知らぬということにある。そうかといって、幼時のようにはその眼(まなこ)が開かれていないというわけでもない。彼の見る世界はひどく曖昧である。確固としたものはその世界に一つも見出されない。その茫漠の海を揺蕩(たゆた)いながら、掴もうとしてもその腕をすり抜けてゆくこの現実との苦闘に、格闘に、理想を貴び、真理へと邁進する、青年だけに [続きを読む]
  • 倉田百三『愛と認識との出発』
  • 倉田百三『愛と認識との出発』(岩波文庫、2008年) 青年の特権とは、いまだ現実を知らぬということにある。そうかといって、幼時のようにはその眼(まなこ)が開かれていないというわけでもない。彼の見る世界はひどく曖昧である。確固としたものはその世界に一つも見出されない。その茫漠の海を揺蕩(たゆた)いながら、掴もうとしてもその腕をすり抜けてゆくこの現実との苦闘に、格闘に、理想を貴び、真理へと邁進する、青年だけに [続きを読む]
  • 「ナチュラルウーマン」
  • 「ナチュラルウーマン」(チリ・アメリカ・ドイツ・スペイン、2017年) われわれが求められているもの、それは人間の尊厳、ということなのだと思う。他者の尊厳を傷つけてはならない、ということだけを言おうとするのではない。他者の尊厳を傷つけるとき、人はまたみずからの尊厳をも傷つけている。己の尊厳を守るためにこそ、人はまた他者の尊厳を貴ばなくてはならない。 トランスジェンダーのマリーナを無遠慮に、不躾に、言葉 [続きを読む]
  • 西田幾多郎『論理と生命』
  • 西田幾多郎『論理と生命』(岩波文庫、1988年) 先だってプラトン『ゴルギアス』について論じた際、触れぬままに措いたことがある。それはソクラテスを批判して述べられた意見、「哲学など、青年までならばともかく、大の大人がやるようなものではない」――概してそうした内容の哲学者批判であった。私は人生に哲学の必要を認める立場にあるが、しかし他面において、そうした意見の出ることにも当然の感、納得の思いを懐くのであ [続きを読む]
  • プラトン『ゴルギアス』(2)
  •  善とは醜に対立する概念である。倫理的、実存的な意味において、善と醜とは背馳の関係にあたる。善悪と美醜は対概念なのである。人間存在における善、それは自己の外部にあるものではない。それは一箇の人間の実存と分かち難くあるものである。すなわちそれは美を求める意識であり、求めるのみならず意志する主体、行為する主体としての自己実存の実現を無際に追究する意識のことである。善の所有者、それをこそ美を所有する人と [続きを読む]
  • プラトン『ゴルギアス』(1)
  • プラトン(加来彰俊 訳)『ゴルギアス』(岩波文庫、1967年) 生前の師の口吻を借りてプラトンが説いたように、美には快と善との二つの方面がある。だが美を説くソクラテスの、あるいは筆者であるプラトンのその論調は万人を納得させるに足るものではない。それはソクラテスの論談相手が皮肉をもって彼の言辞を弄したように――その描写はプラトン自身が師の方法論に潜む問題性の所在を客観的に認めていたことを意味している―― [続きを読む]
  • 断想(1)
  •  ナーガールジュナ曰く、縁起もまた真理であると。その言葉に対する私の解釈は次のようなものであった。すなわち、――縁起は真理である。空もまた真理である。全ての空なることを知るときにのみ、全ての縁起であることもまた真に知られよう。世界の空性とは万物の非存在を意味しない。認識の非実在を意味する。人間はいかにして世界を認識するのか。縁起的に認識するのである。人間は非Aを措定することによって非非AとしてAを [続きを読む]
  • 「仁和寺と御室派のみほとけ」
  • 「仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ―」(東京国立博物館) 事実上、この一体のための展示であったと言ってよい。  千手観音菩薩坐像(葛井寺(ふじいでら)、8世紀) 大傑作である。異形を美へと昇華させることにおいて興福寺の阿修羅にも並ぶ。これほどに美しい像はそうは見当たらぬ。美とは何か。その答えはさまざまなれど、調和ということが一つの明快な指針としてあげられよう。造型の調和に人間は美を見 [続きを読む]
  • 「灼熱」
  • 「灼熱」(クロアチア・スロベニア・セビリア、2015年) 人と人とをつなぐもの、それは理屈ではない、感情である。人は容易に他者を嫌い、他者を憎む。反感、嫌悪、憎悪――、それは強いうねりとなってひとびとの心を昏(くら)くする。わずかな齟齬は、ときに絶望的なまでに大きな罅裂(かれつ)となってひとびとの関係を破断する。ひとたび瞋恚に支配された心はたやすくそれを脱け出すことができない。怒りはさらなる怒りを生む。瞋 [続きを読む]
  • 「ジャコメッティ展」
  • 「ジャコメッティ展」(国立新美術館) 古典主義的な作品から出発したジャコメッティが、なぜ異形ともいえるその独創的なフォルムへと帰着したのか。現代芸術家の宿痾というべき、個性のいたずらな強要より結果される外見的差別化――それは必然的にその形態をその形態たらしめる内的根拠を欠損させる――にその理由があると考えては不適切である。異形の彼方(あなた)にある、彼の作品に内在する苦悩を感じ取らなくてはならない。 [続きを読む]
  • 「アルジェの戦い」
  • 「アルジェの戦い」(イタリア・アルジェリア、1966年) 国家とは誰のものなのか。古くは紀元前のプラトンによっても哲学の対象とされた国家というもの、それは規模の大小はあれども、人間が一定以上の群集をなして暮らしてゆくためには必要不可欠の概念であり、また政治的現実を有する実体である。プラトンは哲人によって統治される国家をその至上の政体と看做した。彼の国家観がときに全体主義的テーゼを持つものであるとの誤解 [続きを読む]
  • 「わたしは、幸福(フェリシテ)」
  • 「わたしは、幸福(フェリシテ)」(フランス・セネガル・ベルギー・ドイツ・レバノン、2017年) これはフェリシテという女を綴る一篇の詩である。映像には現実と非現実が複雑に交錯する。両者はときに混融しその境界が失われる。あるいはそれを非現実と形容しては不適切かもしれない。それはフェリシテの心象の世界を映し出すものである。その映像は散文としての統一性に欠ける。理詰めで推し量るのではなく韻律に耳を傾けねばフ [続きを読む]
  • 「悪魔祓い、聖なる儀式」
  • 「悪魔祓い、聖なる儀式」(イタリア・フランス、2016年) そこに神秘はない。悪魔祓い(エクソシスト)といえば同名の映画によって刻まれた印象が強く残るが、実在する彼らの実態は一種の職業的カウンセラーである。彼らがみずからの存在をどのように考えているのか、その口を通して語られることはない。余計なバイアスを避けるためにあえて語らせなかったのであろう。しかしながら彼ら自身、みずからの仕事――それはまさしく仕 [続きを読む]
  • 「ノクターナル・アニマルズ」
  • 「ノクターナル・アニマルズ」(アメリカ、2016年) 二〇年前に別れた元夫から贈られた『ノクターナル・アニマルズ(夜の獣たち)』―― Nocturnal Animals を直訳すれば「夜行性の動物」であるが、おそらくはスーザン自身の隠された情熱と欲動を暗示するその言葉はかかる邦訳のほうが含意に富む――と題された作品に、スーザンは彼の芸術的成長を感じる。別れて以来会うことのなかったエドワードとの再会を彼女が望んだのは、し [続きを読む]
  • 「ユージン・スミス写真展」
  • 「生誕100年 ユージン・スミス写真展」(東京都写真美術館) 写真が芸術の一分野に含まれることは知っていた。だがこれまでの私が写真を軽視し、積極的にその作品を見ようとは考えなかったことは事実である。絵画や彫刻のように人間の手によって象られるものではない、したがって芸術活動に本源的に要請される、作者という人間存在の作中における実現からの乖離を余儀なくされる写真という媒体に、芸術作品の中でも相対的に低い [続きを読む]
  • 『「唯識三十頌」を読む』(3)
  •  唯識における種子(しゆうじ)と薫習(くんじゆう)のはたらきにも示唆されるように、人間の精神は時間的に形成される多層多面の構造体をなしている。人間は縁起的に自他を識別することによって他とは異なる存在として現今の自己を認識し、また記憶の時間的連続性によって一箇の自我として自己を認識する。悟りとはその刹那において自己と全宇宙の真相とを直観するものであるが、その体験を得たところで、過去からの記憶の連続性によ [続きを読む]
  • 『「唯識三十頌」を読む』(2)
  •  人間の精神構造や認識の実際的な働きを包括する私自身の理論はある程度まで完成しているが、しかしこれ以上に仔細に説くことはしない。理由は二つある。一つには、その探求はかつての私にとって自己を知り、自己を自由にするための実存的な意義を有するものであったが、現在の私にとってはそれとは逆に、精神構造のいたずらな分析こそがかえって自己を羈縛するものとなってしまうためである。そこには私自身にとっての実存的な価 [続きを読む]
  • 『「唯識三十頌」を読む』(1)
  • 廣澤隆之『「唯識三十頌」を読む』(大正大学出版会、2005年) 仏教における深層心理学――無論それの目指すところは学術的客観的な真理の発見にはなく、自己の精神を観照するに際して真理直観の障碍となる迷妄を払うための実存的探求にあったことは一言しておくべきである――ともいうべき唯識のアプローチは、その思想をいまだ見聞することのなかった十代から二十代にかけての私自身の自問自答の歩みのうちにおのずから含まれる [続きを読む]
  • The Catcher in the Rye
  • J. D. Salinger, The Catcher in the Rye (Little, Brown and Company, 1991) まったく個人的な話となるが、先月末の出来事である。その月の晦日をもって現在の職場を離れるひとりの女がいた。むせび泣く、という表現がある。別れの挨拶を口にするその女を形容するにふさわしいことばであった。しかしその身振りはいささか度をすぎたものであるように思われた。その言動の大仰であるほどに、それを眺める私の胸中では鼻白む思いが [続きを読む]
  • 「海は燃えている」
  • 「海は燃えている イタリア最南端の小さな島」(イタリア・フランス、2016年) 難民をとりまく種々の問題は日本人にとって馴染みが薄い。数多の難民が流入することにより生ずる社会的、政治的な軋轢に煩悶する機会は多くの日本人にとって無縁の話である。日本国が難民の受け入れに消極的であることがその直接的の理由であるが、無論この国の地理的な要因も十全に考慮されなくてはならない。それゆえ当然のことながら、難民という [続きを読む]
  • 美術鑑賞の態度について
  •  アルフォンス・ミュシャ畢生の作『スラヴ叙事詩』の全二〇作が来日している。三時間ばかりの逢瀬ではとても語れるような内容ではなかったため、その論評の機会は他日に譲る。私が今般述べようとするものは苦言である、あるいは苦情である。展覧会場を提供した国立新美術館の姿勢に非常な不見識を感じたためにこれを書く。 何があったのか。『スラヴ叙事詩』の掉尾を飾る《スラヴ民族の賛歌》を含む一室が撮影可能となっていたの [続きを読む]