あかま さん プロフィール

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あかまさん: 無への道程
ハンドル名あかま さん
ブログタイトル無への道程
ブログURLhttp://blog.livedoor.jp/akama_nkm/
サイト紹介文美術(東洋・西洋・仏像)、書籍(思想・哲学・文学)、映画に対する評論を書いています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供40回 / 365日(平均0.8回/週) - 参加 2015/11/28 21:42

あかま さんのブログ記事

  • 「ゲッベルスと私」
  • 「ゲッベルスと私」(オーストリア、2016年) 戦時下における罪の所在とその適用範囲は容易に定められるものではない。平時とは異なる倫理観がそこに敷衍されるためである。その意味において、本作の宣伝やポスターに用いられる、『何も知らなかった私に罪はない』というキャプションに私は著しい違和感を覚える。罪があったことを暗に譴責する響きがその表現には込められているためである。しかしその罪とは、はたして誰のもので [続きを読む]
  • 「人間機械」
  • 「人間機械」(インド・ドイツ・フィンランド、2016年) ――今よりも給料を増やしたところで、あいつらは酒か煙草に使うだけだ。仕送りなんかしない。 工場経営者の発するこの言葉に、私は嫌な既視感を覚えた。一九世紀イギリスの資本家がこれとまったく同じ台詞を口にしていたことを思い出したのである。連中はどうせ正しい金の使い道などわかっていない、将来を考えて貯蓄することもできず、もらったらもらった分だけすぐに酒 [続きを読む]
  • 「ガザの美容室」
  • 「ガザの美容室」(パレスチナ・フランス・カタール、2015年) 女は戦争を起こさない。日常の諍いを戦争にまで発展させてしまうのはいつも男の仕業である。その美容室は銃声やまぬパレスチナ・ガザ自治区の一隅に立つ。男から髪を隠す必要のない、女だけの社交の場はあまりに狭い。その狭さは――古来の男女差を考えればこれはジェンダーの問題ではなくセックスの問題であろうと私は考えるが――女自身の世界観の狭小であることの [続きを読む]
  • 「ウィンド・リバー」
  • 「ウィンド・リバー」(アメリカ、2017年) 二級市民、という表現すらも不適当に感じる。開発するほどの価値もない土地を「保留地」と名づけ、そこに押し込められたネイティブ・アメリカンの処遇は、事実上、アメリカという国家が彼らを国民としては認めていないことを示している。土地の属する州法とも異なる法で暮らし、白人が罪を犯しても部族警察――警察権の所在までもが異なる!――には彼らを自由に処する権限もない。自治 [続きを読む]
  • 「祝福〜オラとニコデムの家〜」
  • 「祝福〜オラとニコデムの家〜」(ポーランド、2016年) 自閉症の弟。酒に溺れた父。母は家を出てしまって帰らない。――どれほどその境遇に不満や理不尽を感じていても、オラはあまり怒らない。癇癪を起こすこともない。それは我慢強いからではない。包容力があるためでもない。一四歳の少女はただ、諦めてしまっているだけなのだ。怒っても、愚痴を言っても、不満を並べても、眼の前にある現実は何ひとつ解決しないから。自分ま [続きを読む]
  • 「グッバイ・ゴダール!」
  • 「グッバイ・ゴダール!」(フランス、2017年) 一九六八、という年は、西暦のある一年を示すとともに、それはそのまま学生運動の代名詞ともなっている。フランスの五月革命に蝟集する学生たちの活動と弁論、そして訴えるその思想は、同時期の日本の学生の姿と折り重なって映る。みずからの生活を背負わず、背負ったこともない、青年に特有の精神を原動力とするその運動は、批判と否定だけに支配された破壊的な精神を本質としてい [続きを読む]
  • 「縄文―1万年の美の鼓動」(3)
  •  (三)カミ観念の変遷 日本の仏像表現の変遷を考えるとき、同時に考えられるべきことは、日本におけるカミ観念の変遷である。仏像の表現上の変化は日本独自の仏教思想の進展や様式化の進行とも無縁ではありえないが、日本の仏像に特徴的な、あるいは特有ともいうべき人を拒むごとき無表情――おそらく自発的に各地の仏像を見ている人間でない限り、こうした印象が日本の仏像を決定づけている――は、カミ観念の影響を抜いてはそ [続きを読む]
  • 「縄文―1万年の美の鼓動」(2)
  •  (二)土偶、埴輪、仏像――抽象と写実 人間存在の手によって表現しうる究竟を示す古代日本より残された稀有なる仏像を考えるとき、看過することのできない問いが浮かぶ。――このような像が、なぜありえたのか? これはそこに実現された精神性のあまりの偉大に接したのならば、避けては通ることのできぬ難問である。他国における同時代の作例に乏しいために、何が粋然と日本的であり、何が外来的であったのかを確定することは [続きを読む]
  • 「縄文―1万年の美の鼓動」(1)
  • 「縄文―1万年の美の鼓動」(東京国立博物館、2018/07/03 - 09/02) 展示を見ていくつか考えたことがあるため、小題に分けて記述する。 (一)縄文土器に見る脱機能的生活 縄文土器の特異な形状はどこから現われたものなのか。土器に限らず、器というものは何かを容(い)れるために製作されるものである。目的があり、その目的と機能が合致したところに道具という存在は出現する。ハイデッガーは道具のそうした性質を指して用具 [続きを読む]
  • 「ガレも愛した ― 清朝皇帝のガラス」
  • 「ガレも愛した ― 清朝皇帝のガラス」(サントリー美術館、2018/04/25 - 07/01) 清朝のガラスを愛好したガレの作品と対照させることで、興味深い両者の相違が浮き彫りになる。それは文化の相違であり、集合的無意識の相違であったといってもよい。ガレにとって、ガラスとは透明のもの、半透明のものであった。彼が暗黙裡に了解するガラスのそうしたイメージとは、おそらく古代ペルシア以来のガラス製品によって無意識裡に刷り込 [続きを読む]
  • 「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」
  • 「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」(アメリカ、2017年) 背景には、アメリカ社会の現実がある。離婚率の高さ。富の不公平な分配による経済的困窮。定職も、定住の場所も持たず、モーテルで暮らしながら幼いムーニーを育てるシングルマザーのヘイリーは、アメリカという国の社会や経済の犠牲者であるともいえるのかもしれない。だがここには富めるものの睥睨する視点もなければ、赤貧に喘ぐ弱者の悲惨な現実もない。現実を十 [続きを読む]
  • 「私はあなたのニグロではない」
  • 「私はあなたのニグロではない」(アメリカ・フランス・ベルギー・スイス、2016年) アメリカに、文化はあるのだろうか? ない、といえば極論がすぎる。だが千年以上の歴史を有する他国と比較し、文化と呼びうるものがわずかにしか見出されないことは事実である。アメリカ的な物質主義と、それによる豊かな生活スタイルが戦後多くの国で受容されたのは、その底流に特定の文化に根ざした色が不自然なほどに混入していなかったこと [続きを読む]
  • 断想(3)
  •  人の生とは、絶望である。文字通り、望みがなく、未来がない。未来があるように思えるとき、希望が生きているように思えるとき、そうしたときもないわけではない。だが抱かれる希望、それはいつも、潰えて消える定めにある。乗り越えれば乗り越えるほどに、立ち塞がるものを超えるだけの力と見識を手にするほどに、進みゆくその道は一再ならず堰き止められる。幾度も幾度もそれを繰り返すほどに、無邪気なまでに信ずることのでき [続きを読む]
  • 「馬を放つ」
  • 「馬を放つ」(キルギス・フランス・ドイツ・オランダ・日本、2017年) 私たちは、どこに立っているのだろうか。立つべき場所を、いまだ失わずにいられているのだろうか。 自然を破壊し、それを支配する近現代の風潮に対して、否を突きつける、それもこの作品の一側面であるにはちがいない。だがそれにもまして、この作品が危機感と焦躁とともに、そしてそこに現実への諦観もまじえて訴えるものとは、私たちが私たちであること、 [続きを読む]
  • 「女は二度決断する」
  • 「女は二度決断する」(ドイツ、2017年) カティヤの心は、もはや言葉では語られない。――それを語る相手を、彼女は永遠に失ったのだから。「I. 家族」「II. 正義」「III. 海」と章が進むにつれて、彼女は言葉ではなく、そのまなざしで語るようになる。何もない虚空を見つめるそのまなざしには、すでにこの世にない、愛する夫と息子の姿が映る。そして彼らとともに暮らした、愛する家族とともにあった、彼女の姿が。物言わぬカテ [続きを読む]
  • 「宋磁 ―神秘のやきもの」
  • 「宋磁 ―神秘のやきもの」(出光美術館、2018/04/21 - 06/10) 極端なことを述べるようだが、焼物は美術品ではないと思っていた。佗茶(わびちや)で用いられる、あるいは好まれる焼物に美を感ずることはあっても、あれは厳密には美術品と呼ぶべきものではない。芸術とはそれを支える人間の意志によってその形状、その形質が定められる。然るに茶の湯の美とは自然(じねん)の美である。人間によるあらゆる意志の擯斥を透過すること [続きを読む]
  • 「BPM ビート・パー・ミニット」
  • 「BPM ビート・パー・ミニット」(フランス、2017年) まったくのフィクションを別にすれば、作品とは多かれ少なかれ、それが制作された時期の社会的風潮や世相を反影している。描き方やテーマは種々異なるが、近年は社会的マイノリティにその眼が向けられることが増えた。移民や難民、同性愛者など。いずれも日本においては大きく取り扱われることのない題であり、主題の相違を見るだけでも日本という国が国際情勢の上において [続きを読む]
  • ピエール・ボナール《夏、ダンス》
  • ピエール・ボナール《夏、ダンス》(1912年)(「プーシキン美術館展―旅するフランス風景画」より) あふれるほどの幸福が、とてもまぶしく、美しい。絵画の全体に満ちる愛情と幸福は、目指すものとその表現とがもっともよく調和していた、一八六〇年代から七〇年代にかけてのルノワールの作品を思い起こさせる。ピエール・ボナールがここに描こうとしたもの、それはとても主観的で、そして普遍的な感情である。――愛と、幸福。 [続きを読む]
  • 「ザ・スクエア 思いやりの聖域」
  • 「ザ・スクエア 思いやりの聖域」(スウェーデン・ドイツ・フランス・デンマーク、2017年) 同監督の前作「フレンチアルプスで起きたこと」は、男性が無意識裡に守ろうとする男らしさ、夫らしさ、父親らしさ、総じて言うに《男性性》というもののレッテルが?ぎ取られてゆくさまを皮肉たっぷりに、しかしながら毒気のないユーモアと、レッテルを守ろうと必死になる男性への憐憫と愛情を込めて描いたが、本作の諷刺とする対象、そ [続きを読む]
  • 「オー・ルーシー!」
  • 「オー・ルーシー!」(日本・アメリカ、2017年) いやな気分にさせられる。 誰もが悪意を向けてきて。繰り返される日常には希望などなくて。夢見た希望の代わりには悪意と反目だけが残って。希望にすがろうとする、その気持ちすらもが嘲笑われる。役所広司演ずる小森を配役し、息子を自殺で亡くした彼の口から「トニーは僕と正反対の性格なんです。ハグしましょう、節子さん」と言わせることで、節子の絶望を強引に救済しただけ [続きを読む]
  • 断想(2)
  •  生と死の重みが、反転しそうになるときがある。身体の調子がすぐれないとき、心を支えることができなくなるときがある。生きることの無意味さの前で、すべてがつらくなるときがある。この二十年、自分という人間の生きる意味をひたすら考えつづけてきたが、どうしても超えることのできない一線がある。死ねば終わり、というニヒリズムに囚われているわけではない。そのために生の意味がないのだと考えているわけではない。生きて [続きを読む]
  • 「ラブレス」
  • 「ラブレス」(ロシア・フランス・ドイツ・ベルギー、2017年) 映像の寒さと冷たさが物語(ストーリー)を支配する。ここには暖かなものが何もない。他人がいようとお構いなしにスマートフォンを取り出しては、偏執を感じるほどにそれを眺めつづける人々。他者への関心はなく、彼らには自分だけがある。SNS を介して多くの人と交わりながらも、彼らにあるものはただ自分自身に対する関心だけなのである。薄っぺらいこの世界。表面だ [続きを読む]
  • 倉田百三『愛と認識との出発』
  • 倉田百三『愛と認識との出発』(岩波文庫、2008年) 青年の特権とは、いまだ現実を知らぬということにある。そうかといって、幼時のようにはその眼(まなこ)が開かれていないというわけでもない。彼の見る世界はひどく曖昧である。確固としたものはその世界に一つも見出されない。その茫漠の海を揺蕩(たゆた)いながら、掴もうとしてもその腕をすり抜けてゆくこの現実との苦闘に、格闘に、理想を貴び、真理へと邁進する、青年だけに [続きを読む]
  • 倉田百三『愛と認識との出発』
  • 倉田百三『愛と認識との出発』(岩波文庫、2008年) 青年の特権とは、いまだ現実を知らぬということにある。そうかといって、幼時のようにはその眼(まなこ)が開かれていないというわけでもない。彼の見る世界はひどく曖昧である。確固としたものはその世界に一つも見出されない。その茫漠の海を揺蕩(たゆた)いながら、掴もうとしてもその腕をすり抜けてゆくこの現実との苦闘に、格闘に、理想を貴び、真理へと邁進する、青年だけに [続きを読む]
  • 「ナチュラルウーマン」
  • 「ナチュラルウーマン」(チリ・アメリカ・ドイツ・スペイン、2017年) われわれが求められているもの、それは人間の尊厳、ということなのだと思う。他者の尊厳を傷つけてはならない、ということだけを言おうとするのではない。他者の尊厳を傷つけるとき、人はまたみずからの尊厳をも傷つけている。己の尊厳を守るためにこそ、人はまた他者の尊厳を貴ばなくてはならない。 トランスジェンダーのマリーナを無遠慮に、不躾に、言葉 [続きを読む]