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「円空の冒険」追跡ノート https://shiryoushitsu.jugem.jp/

「円空仏」で知られる山岳修行僧円空は、冒険家・登山家としてもヒーローだった! 山馬鹿岐阜県民ぼっちがその足跡を5年計画で追跡する記録

ぼっち
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大垣市
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2015/12/14

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  • 円空像内納入品の謎に迫る

    「円空の冒険」追跡は、目下、鉈薬師の諸像を造った寛文9(1669)年から、同10年の法隆寺での修行、中観音堂諸像の造顕、大峯山の修行を経て、延宝2(1674)年に志摩の片田三蔵寺および立神薬師堂の『大般若経』を修復し、その扉に添絵を残した時

  • 鳥屋市不動堂から祖師野薬師堂へ

    3月10日(日)の円空追跡は、美濃市の古城山と郡上市和良町の和良岳登山の間を使ってもの。雁曽礼白山神社からは、円空の足跡が色濃い津保川沿いを北上して和良岳をめざす。 途中通りかかったのが、津保川最上流部の集落、鳥屋市。有名な「尼僧

  • 雁曽礼白山神社訪問記

    円空が、鉈薬師の諸像を造顕したと考えられる寛文9(1669)年に、雁曽礼(現在の関市富之保雁曽礼)集落の白山神社のご神体の白山三神も造顕している。同社の棟札に「時寛文九年己酉 拾月十八日 奉造立白山妙理大権現佛身躰所」とあり、さらに裏面には

  • 「全国山の日協議会」HPで連載始めました

    一般財団法人全国山の日協議会は、次のような会であります(以下、谷垣禎一会長の挨拶の引用)。「10年ほど前、『山の日』を作ろうと立ち上がった民間団体の皆さまが、『山の日』制定協議会を構成し、祝日制定への取り組みを開始しました。そこに、超党派『

  • 中観音堂創建にまつわる試論

    円空の寛文年間後期に集中的に造顕された裳懸座の像について調べていくうち、尾張藩家老石川(いしこ)正光の存在が浮かび上がってきた。正光は中観音堂の創建にも大きく関わっていたのではと考えられるので、以下にまとめてみます。 1 尾張藩家

  • 円空裳懸坐の像に関する考察(1)

    円空は、寛文年間後半頃を中心に「裳懸坐」という、あまり一般的ではない台座の坐像を集中的に制作している。大型の像もある一方、個人蔵の小像も多く伝わり、それら小像は、堂舎に祀られることを前提として造像していた円空が、庶民に像を分け与えるようにな

  • 『円空ー旅して、彫って、祈って』展

    現在、大阪のあべのハルカス美術館で、開館10周年記念『円空—旅して、彫って、祈って—』展が開催中(2月2日〜 4月7日)。「円空仏」ではなく「円空の冒険」を追う身としては、ご神体などで拝観は叶わないにしても、時系列に現地に伺うのを旨として踏

  • 勝林寺(岐阜市)訪問記

    北は盛岡、秋田、仙台からはじまって、南は鹿児島市まで、県庁所在地で城下町だった市は数多い。わが岐阜県の岐阜市もそうなのだけれど、斎藤道三と織田信長によって築かれた稲葉山(金華山)山麓の城下町が母体で、江戸時代、同地は城下町でなかったところが

  • 大峯:小笹ノ宿・笙ノ窟厳冬期踏査

    「大峯」は、修験道の世界においては、大峰山脈の青根ヶ峰(858m)から南をいう(その北は吉野)。その中核となるのは、山上ヶ岳(1,719m)で、役行者が蔵王権現を感得したとされ、山岳修験の世界ではもっとも重要な霊場。さらに、山上ヶ岳の表行場

  • 南知多 成願寺訪問記

    南知多町には、円空の像が残る寺が、三寺ある。内海港に面した浄土宗西山派臨海山慈光寺(宇賀弁財天像)、同じ内海の真言宗豊山派井際山如意輪寺(薬師如来立像)、そして片名港に近い曹洞宗神光山成願寺(善女竜王象)。慈光寺は、天文8(1539)年、恵

  • 南知多 慈光寺宇賀弁財天拝観記

    戸隠九頭龍権現の本地仏宇賀弁財天を、円空が中観音堂において造顕していることを知り、弁財天、宇賀弁財天、および宇賀神についてざっくり整理し、円空が宇賀弁財天をどのように残しているかを調べてみた。 〇弁財天について弁財天は、仏教の守護

  • 栖了院(田原市)訪問記

    浄土宗間宮山栖了院(せいりょういん)は、渥美半島の田原市福江町に位置し、寛文後期の円空作如来坐像と不動明王坐像を所蔵しておられる。少々長くなるけれど、この寺と、円空の関わりを整理すれば次のとおり。同寺は、戦国時代の永禄2(1559)年、当地

  • 天喜寺訪問記

    1月13日の裳懸坐の像訪問、午後は、大垣市上石津町一ノ瀬の天喜寺へ。上石津町は旧養老郡の養老山地と鈴鹿山脈に挟まれた山あいの町で、2006年に大垣市に墨俣町と共に編入されたのだが、同市と9町村との広域合併調整がうまくいかず、飛び地の「上石津

  • 中観音堂訪問記(1回目)

    長間薬師寺の次は、いよいよ羽島市上中町の中観音堂を訪問。「円空上人生誕地」の看板が出ております。ずいぶん以前に訪れた時は、のんびりした農村集落だった記憶だけれど、今はすぐ近くにコストコができていたりしておどろく。現在の観音堂は、水害を考慮し

  • 長間薬師寺訪問記

    寛文9(1669)年の鉈薬師の諸像を造顕前後の円空の明確な足取りは、次のとおり。同年10月18日 関市武儀町雁曽礼の白山神社に伝わる白山三像を造顕。→これは、同神社に伝わる棟札によるものだが、棟札の裏側には「佛師圓空是作 西小藤敬

  • 鉈薬師訪問記(3)

    (鉈薬師訪問記(2)より続く)2024年まで年越ししてしまった、鉈薬師訪問記(3)。新年だから、少々想像をふくらませることをご容赦頂き、様々な状況証拠を積み上げながら、鉈薬師二大疑問について考察してみたいと思います。疑問� どのように明の帰

  • 鉈薬師訪問記(2)

    (鉈薬師訪問記(1)より続く)本尊薬師如来などの中央須弥壇を護るように、両脇の壇には十二神将および合掌像が並ぶ。 十二神将は、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護する十二尊で、仏法の守護神・福徳神の「天部」に位置づけられる。薬師

  • 鉈薬師訪問記(1)

    名古屋市千種区に「振甫町(しんぽちょう)」という一風変わった町名がある。その地名は、明王朝から日本に亡命した帰化人で、今回訪問する鉈薬師を建立した張振甫にちなむという。 張振甫が日本に来るまでの来歴には諸説あり、名古屋県立図書館で

  • 「円空仏」という言葉が切り捨てるもの

    良寛(宝暦8年〜 天保2年)という、江戸後期の曹洞宗の僧にして、歌人、漢詩人、書家であるお坊さんをご存知でしょうか?Wikipediaからの抜粋・要約で恐縮ながら、その伝記は以下のとおり。越後国出雲崎の名主で神社の祠職の長男として

  • 円空出生地説を検証する(1):現美並町説

    円空が、寛永9(1632)年美濃国生まれであることは、群馬県貫前神社旧蔵『大般若経』奥書に自筆で「壬申年生美濃国圓空」とあるので、定説となっている。しかし、美濃といっても広く、その出生地については、�現羽島市説と、�現郡上市美並町説があるこ

  • 「龍の登場」の謎を戸隠に追う

    円空は、寛文6(1666)年に蝦夷で観音菩薩坐像を中心に多くの像を造顕し、その帰路、観音菩薩・釈迦如来・阿弥陀如来の坐像や十一面観音立像を中心に造顕しながら青森、秋田、松島を経由して、寛文7年頃には尾張・美濃方面に戻ったと考えられる。そして

  • 『白川町の円空』展

    11月17日(金)〜19日(日)の3日間限定で「白川町の円空」展が開催されるとの情報をキャッチ。時系列に踏査しようという方針には合わないけれど、なかなか拝観困難な個人蔵の像も含め17体もの円空の像が展示されるという。これは見逃すわけにはいか

  • 大峯・小篠ノ宿・笙ノ窟・鷲ノ窟踏査行

    5年計画で進めている「円空の冒険」追跡のうち、前半最大の難関、蝦夷地往復の踏査は今年無事終了。しかし、次なる難関が控えている。それは、円空の大峯山における修行はどのようなものだったのかの追体験的調査。 大峯山(大峰山)は、奈良県の

  • 狐穴薬師堂訪問記

    ぼっちの目が、どれほどのものか自信ないですが—岐阜・愛知両県の円空像をほぼ網羅した『岐阜県の円空仏』『愛知県の円空仏』の画像をじっくり見たところ、蝦夷からの帰還後、もっとも早い像は、羽島市竹鼻町狐穴の狐穴薬師堂の薬師如来坐像ではないかとおも

  • 美濃瑞巌寺訪問記

    11月6日(月)、松島瑞巌寺を訪れた週末11日(土)は、美濃の同名の寺、瑞巌寺へ。 円空は、松島瑞巌寺を訪れた後、経路は不明ながら美濃・尾張地方に戻っている。この時期の像とされるものに、「寛文八丁未 圓空造」の刻字がある愛知県大治

  • 【総まとめ】円空の蝦夷への大冒険

    昨年の9月から今年11月までに及ぶ、円空の蝦夷への往復追跡踏査も無事終了。江戸前期の寛文年間という時代背景を考えれば、円空の蝦夷往復は、想像を絶する大冒険だったはず。ここで、その記録をリンク付きで列挙し踏査の全容をご紹介し、➀

  • 第2回蝦夷帰還ルート踏査(5)ー松島瑞巌寺まで

    院内は、東は陸前の仙台藩、南は羽前の新庄藩に接する。Y師匠は、院内から仙台領の松島に向かうルートを何度も探索されたそうだが、円空の形跡は見つからなかったとのこと。院内から瑞巌寺まで、東に向け山越えの道が幾筋かあり、徒歩だといずれも140�内

  • 第2回蝦夷帰還ルート踏査(4)ー太子堂〜愛宕神社

    11月5日(日)秋田市のホテルを後に、同市以南の調査に。土崎湊周辺から先の円空の帰還ルートの明確な手がかりは、湯沢市院内の愛宕神社に十一面観音立像、宮城県松島瑞巌寺に釈迦如来坐像が残されていることのみ。直線距離でも、土崎から院内は80�ほど

  • 第2回蝦夷帰還ルート踏査(3)ー延寿院等日本海側

    11月4日(日)は、青森県の西海岸唯一の円空像、鰺ヶ沢町延寿院の観音菩薩坐像を拝観させていただく予定。それに合わせて、秋田県能代〜青森県鰺ヶ沢までの日本海側の調査も行う計画。 まずは、秋田県北端の八峰町の白瀑神社へ。事前調査で、円

  • 第2回蝦夷帰還ルート踏査(2)ー増川八幡神社

    赤神神社五社堂を後に、徒歩だと東に10�ほどとなる増川集落(男鹿市船川港増川)の増川八幡神社へ。円空は、ここに薬師如来坐像を残している。文化元(1804)年8月25日に訪れた菅江真澄は、『男鹿の秋風』に以下のような記録を残している(現代語訳

  • 第2回蝦夷帰還ルート踏査(1)ー赤神神社五社堂

    第2回蝦夷帰還ルート踏査は、男鹿半島の赤神神社五社堂から。自宅から約800�、道の駅の巨大なまはげ像がお出迎え。実は、男鹿半島は遠い昔、「法社会ゼミ」で、地域と法の関りについて泊りがけでフィールドワークを行ったご縁のある土地。懐かしい、船越

  • 第2回蝦夷帰還ルート踏査:事前調査報告

    「円空蝦夷からの帰還ルート「再」考察」を踏まえ、9月7日〜18日、第1回の踏査を津軽半島から本荘まで実施。そして、11月3日〜6日は、第2回目の踏査に向かう予定。踏査計画を立てるための事前調査の結果をご報告のうえ、計画をご紹介。 

  • 青森〜秋田帰還ルート踏査(7)ー本荘湊

    由利本荘市は、秋田県南部に位置し、2005年本荘市と由利郡矢島町・岩城町・由利町・西目町・鳥海町・東由利町・大内町が合併してできた。合併によって人口は7万人余あるけれど、神奈川県の半分くらいと面積がやたら広いので、山あいののんびりした里とい

  • 青森〜秋田帰還ルート踏査(6)ー能代湊・土崎湊

    米代川の河口に位置する能代市。最近ではバスケットボールで有名だが、秋田県北部を代表する都市で、古い湊町でもある。円空の十一面観音立像のある龍泉寺は、能代湊に近い日和山(ひよりやま)の山裾、今は能代公園の一角(北端)にある。日和山とは、北前船

  • 青森〜秋田帰還ルート踏査(5)ー米代川に沿って

    矢立峠を越え、秋田県に入る。かつての出羽国、江戸時代には久保田藩(秋田藩)領だった土地。円空像は、北から大館市宗福寺の十一面観音立像、北秋田市綴子の阿弥陀如来坐像(集落有)、同市鷹巣の阿弥陀如来坐像(個人蔵)、能代市龍泉寺の十一面観音立像(

  • 青森〜秋田帰還ルート踏査(4)ー弘前を経て碇ヶ関へ

    梵珠山を後に、羽州街道浪岡から藤崎宿を経て弘前城下に向かう。円空は、『弘前藩庁日記』に「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」と記されるように、寛文6年1月26日、豪雪

  • 青森〜秋田帰還ルート踏査(3)ー梵珠山周辺

    油川から始まる羽州街道は、弘前を経て碇ヶ関から久保田藩との国境の矢口峠に向かう。現在の青森県の大動脈国道7号線に対し、旧道はおおむね県道247号線に重なっているので、これをたどっていく。旧羽州街道には、ところどころ案内板が出ていて、往時をし

  • 青森〜秋田帰還ルート踏査(2)ー松前街道

    津軽半島の先端、外ヶ浜町三厩からはじまる松前藩主の参勤交代の道:松前街道は、陸奥湾沿いを南下して、古い湊町油川(青森市油川)で羽州街道と合流する。松並木が残る場所もある。この松前街道沿いには、先に訪れた街道起点となる三厩の義経寺をはじめ、外

  • 青森〜秋田帰還ルート踏査(1)ー小泊・三厩

    今夏3回に及ぶ円空の蝦夷地踏査に引き続き、今秋は2回に分け、青森・秋田・宮城各県の円空の帰還ルートを踏査。第1回目の、青森津軽半島から秋田本荘までの踏査を9月7日(木)夜〜18日(月祝)終了、その踏査結果に基づき、円空の足取りを想定しながら

  • 円空蝦夷からの帰還ルート「再」考察

    「『円空の冒険』追跡」2年目の年の初め、陸奥から蝦夷へと円空の足取りを追いかけるにあたり、円空像の様式の変遷や当時の交通事情などを手掛かりに、蝦夷への渡航ルート、帰還ルートを想定した。<詳細は「現地調査から浮かび上がった円空蝦夷渡航ルート」

  • Y師匠に伺う:円空の制作所要時間

    昭和30年代頃の「円空仏ブーム」により円空の存在が広く知られるようになったため、円空研究は「『円空仏』研究」に偏りがち。その足取りの考察にしても、「円空仏」の様式や背銘、あるいは限られた文献から、点と点を結ぶアプローチが一般的。しかし、「円

  • 第3回北海道踏査(蝦夷地)(5)ーまとめ

    ここまで、(1)有珠善光寺→(2)有珠山→(3)小幌の窟(いわや)→(4)内浦山と円空の蝦夷地での足取りを追いかけてきた。円空像や正式な記録は残らないもの、円空は内浦山登頂後、さらに有珠山や内浦山と同様火山で霊

  • 第3回北海道踏査(蝦夷地)(4)ー内浦岳(北海道駒ケ岳)

    円空の蝦夷地での活動が確認できる場所は、有珠善光寺、有珠山、小幌の窟(いわや)、そして内浦岳。現在は北海道駒ケ岳(大沼駒ケ岳・渡島駒ケ岳)と呼ばれるこの山と円空の関りを踏査に基づきまとめると、以下のとおり。 1.内浦岳にまつわる円

  • 第3回北海道踏査(蝦夷地)(3)ー小幌の窟(いわや)

    円空は、有珠善光寺で造顕し、さらに噴火間もない有珠山に初登頂して松前方向に戻る途中、豊浦町礼文華の小幌にある現在「岩屋観音」と呼ばれる洞窟に立ち寄り像を残している。菅江真澄はここを「ケポロオヰの岩舎の観音」として、「舟つけてこの窟に入ば、い

  • 第3回北海道踏査(蝦夷地)(2)ー有珠山

    円空が寛文3(1663)年に突如噴火したばかりの有珠山に登ったことは、洞爺湖の観音島の堂に伝わった(注)観音菩薩坐像(現在は有珠善光寺宝物館蔵)の背に「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空(花押)」

  • 第3回北海道踏査(蝦夷地)(1)ー有珠善光寺

    松前藩の史料を集成した『福山秘府』で「神体円空作」とされる像は、松前藩の日本海側(西在郷)に寛文5(1665)年に新しく造立された堂に納められたものが多い。その配置を踏査で調べると、海岸沿いの主だった集落—今でいえば郵便局がある程度の集落−

  • 第3回北海道踏査(蝦夷地)ー踏査のポイント

    第3回の北海道踏査に、8月3日(木)〜8日(火)に行ってきました。第1回の松前藩日本海側(西郷)、第2回の松前藩太平洋側(東郷)に続く今回は、円空が和人の領域:松前藩を離れ、アイヌ人の土地:蝦夷地を巡った足取りを踏査。(↓地図クリ

  • 北海道踏査?(松前藩東部)−【まとめ】

    1回目の北海道踏査で、松前藩の西半分日本海側を『福山秘府』の「神体円空作」と、当時の村落を網羅した『津軽一統志』を照らし合わせながら巡った結果、きわめて計画的に主だった集落に置かれていることが分かった。さらに、寛文5年に新造された堂に収めら

  • 北海道踏査?(松前藩東部)(8)−【余禄】

    第2回の「円空の冒険」北海道踏査のメインは、松前藩東部の円空の足取りをたどること。それ以外に、1回目松前藩西部日本海側踏査でやり残した調査、第3回の予備調査も行ったので、簡単にご紹介。 〇乙部町龍寶寺7月16日、第1回で伺いそびれ

  • 北海道踏査?(松前藩東部)(7)−【七飯町T家】

    「円空の冒険」第2回北海道踏査(松前藩東部)としての最後の訪問先は、七飯町のT家。七飯町(ななえちょう)は、かつて七重村と呼ばれ、渡島半島の内陸部、函館市から北に約16 kmの距離に位置する。町域は大沼トンネルを境に南北に分かれ、北部は活火

  • 北海道踏査?(松前藩東部)(6)−【函館市称名寺】

    第2回北海道踏査の2日目、7月15日(土)は、秋田で未曽有の大水害があった日で、北海道も大雨。午前中は道南の郷土資料の最も充実した函館市中央図書館で文献調査、雨の弱まった午後は函館市船見町にある称名寺へ。ここには、旧吉野教会像と並んで、北海

  • 北海道踏査?(松前藩東部)(5)−【函館市汐首町】

    『福山秘府』「諸社年譜並境内堂社部」において松前藩東部(東在郷)の「神体円空作」のある堂社は、北斗市(戸切地)上磯八幡宮から、いきなり東蝦夷地の宇須(有珠)観音堂に飛び、それで最後となっている。北斗市の先の函館市方向について、『津軽一党志』

  • 北海道踏査?(松前藩東部)(4)−【北斗市】

    木古内町泉沢を後にして、国道228号線を函館方向に走ると、岬や断崖もなく、おだやかに北斗市に入る。 北斗市は、2006年、海岸側の上磯郡上磯町と内陸部の亀田郡大野町が合併してできた。そのうち上磯町は、上磯村、中野村、清川村、谷好村

  • 北海道踏査?(松前藩東部)(3)−【木古内町】

    木古内町は、津軽海峡に面し、松前町からみると海岸沿いに福島町、知内町の次の町、上ノ国町から見ると山岳地帯を挟んで東隣の町となる。江戸時代から交通の要所で、現在は沿岸に沿って北海道新幹線、国道228号、道南いさりび鉄道線が走る。道南いさりび鉄

  • 北海道踏査?(松前藩東部)(2)−【福島町・知内町】

    北海道踏査�(松前藩東部)、松前町から白神岬を越えると福島町に入る。 『津軽一党志』では、白神崎から先は、「大内峠 禮髭小舟間有家二十軒程 おん内同上家八十軒程 宮のうた小川有間有二十軒程 し羅ふ小川有間有家二十軒程 福嶋川有松前

  • 北海道踏査?(松前藩東部)(1)−【松前町】

    北海道踏査�レポートは、まず松前城下からスタート。松前氏は戦国時代、今よりも山手となる大館(徳山館)に館を構えていた。それを幕藩体制下で初代松前藩主となる松前慶広が、海に面した現在位置の福山へ移城することとし、慶長5(1600)年から同11

  • 北海道踏査?(松前藩東部)−踏査行程

    7月14日(金)〜17日(月祝)、旧松前藩東半分を中心に第2回目の「円空の冒険」北海道踏査に行ってきました。今回は、天候や足順の制約から、以下のように踏査。(凡例:太字黒字は円空像のある場所、太字赤字はそのうち対面できた場所、太字青字はかつ

  • 第2回北海道踏査(松前藩東部)に行ってきます

    今夏の「『円空の冒険』北海道踏査」は、1回目松前藩西部(日本海側)、2回目松前藩東部(津軽海峡・内浦湾側)+蝦夷地の計画だった。しかし、蝦夷地の山岳部踏査に、円空がどのように山岳を遠望していたかがポイントになり、それには天候という要素が大き

  • 第1回北海道踏査(松前藩日本海側)まとめ

    第1回北海道踏査(松前藩日本海側)のメインテーマは、円空が松前藩の要請で蝦夷を訪れた可能性が極めて高いことを、現地で確認すること。『福山秘府』や、寛文年間の松前藩の各村落名と家数など記録した『津軽一党志』を頼りに、松前城下から、上ノ国町、江

  • 『福山秘府』「神体円空作」が秘する意味

    第1回北海道踏査のメインテーマは、「円空が松前藩の要請で蝦夷を訪れた可能性が極めて高いことを、現地で確認すること」。現地踏査の結果、ほぼそれは間違いがないと確信できる材料をそろえることができた。その踏査の「まとめ」に入る前に、カギを握る『福

  • 第1回北海道踏査(17)ー札髭(吉野教会)・吉岡

    6月12日(月)、松前藩日本海側の踏査を無事終了。上ノ国町大留のバス停から木古内行きにMTBの輪行バックとともに乗り込む。木古内駅からの予定の新幹線の15:01まで、松前より東を踏査。まずは、福島町役場までバスで向かう。北海道の円空像の中で

  • 第1回北海道踏査(16)ー大平山・天の川

    第1回北海道踏査で、確認しておきたかったスポットに、上ノ国町の大平山と天の川がある。『福山秘府』の「年歴部」に寛文5(1665)年の部分に「春、彗星見。西部上國太平山鳴動、天河海口成ㇾ陸。按、是皆不祥之兆也。」とされる。現在で

  • 第1回北海道踏査(15)ー太田権現

    太田権現に現在円空の像は伝わっておらず、『福山秘府』にも記載はない。しかし、円空が太田権現に行ったであろうことは、寛文6年から123年後になる寛政元(1789)年の5月に太田権現に参詣した菅江真澄が、権現の窟(いわや)に、円空が修行の合間に

  • 第1回北海道踏査(14)ー熊石根崎神社

    八雲町熊石泊川を後に、根崎神社のある熊石根崎をめざす。鮎川海岸という長い砂浜の海岸が続くので、漁港などが設けにくいせいか、しばらく集落がとだえる。根崎の後に向かう予定の太田権現は、まだはるか先。『津軽一党志』では、「阿いぬき内川有四拾軒狄お

  • 第1回北海道踏査(13)ー相沼八幡神社泊川北山神社

    乙部町花磯を後に国道229号線を進むと、多くの犠牲者を出した1962年の山津波の後にできた豊浜トンネルをくぐる。トンネルを出たところが、八雲町熊石。2005年に八雲町と合併する前は、熊石町(注)。熊石という地名は、アイヌ語のクマウシ、すなわ

  • 第1回北海道踏査(12)ー乙部町花磯本誓寺

     三ツ谷を後に、鮪の岬トンネルを通過し、花磯集落に。振り返ると、鮪の岬の玄武岩の見事な柱状節理が眺められる。花磯は乙部町最北の集落で、漁港の名前は檜山豊浜港。かつては蚊柱村といい、その字として、花磯、豊浜、潮見があった。浜から少し

  • 第1回北海道踏査(11)ー乙部町三ツ谷観音菩薩坐像

    元和八幡宮から断崖上を約3.5�進むと三ツ谷へ。集落が海辺の小さな谷に固まっている。このような谷が三つあることが地名の由来だろうか。『福山秘府』には、三ツ谷の寛文5年建造の観音堂に「神体円空作」があるとされる。『円空仏と北海道』や図録などに

  • 第1回北海道踏査(10)ー乙部町元和八幡宮

    栄浜から漕ぎあがって、突符岬の上に出る。岬の上は平坦地になっており、岬周辺は元和台海浜公園として整備されており、公園の北に接して元和地区の乙部港がある。元和八幡宮は、そんな海辺を見下ろす高台にある。ようやく雨が止み、レイン・ポンチョを脱ぐこ

  • 第1回北海道踏査(9)ー乙部町龍寶寺

    鳥山神社を後に、小茂内川を渡り、突符川に架かる来拝橋を渡ると、乙部町栄浜に入る。『津軽一党志』だと、「こしない小川有家拾軒程狄有 もない川有拾四軒程」とあるあたりだろうか。栄浜には、栄浜八幡神社、日蓮宗の本昭寺、そして浄土宗の龍寶寺があり、

  • 第1回北海道踏査(8)ー乙部町鳥山神社

    江差町を北上すると乙部町。『津軽一党志』では、「たて家三軒 おとへ是迄二リ家五拾程狄村とな見候内 こしない小川有家拾軒程狄有 もない川有拾四軒程 あいとたり家五軒 とつふ小舟有家拾四軒 三つや家拾軒 岡内家五軒 大岩家拾軒程 かはし羅小舟間

  • 第1回北海道踏査(7)ー江差町尾山町岩城神社

    泊町の観音寺から国道227号線を北上すること約1�、分岐から旧道に入ったところにある尾山町の岩城神社へ。『津軽一党志』では「とまり家六拾軒 大山(=尾山)家拾軒 田沢四十程狄前となみろく」とある。『福山秘府』「神体円空像」があったとされるの

  • 第1回北海道踏査(6)ー江差町泊町観音寺

    五勝手柏森神社から江差の中心街までは約3�。江差がニシンの漁場および北前船によるヒノキアスナロなどの交易港として、「江差の五月は江戸にもない」といわれるほど栄えるのは、円空の訪れた寛文6年頃よりやや後に、東廻航路(寛文11年)、西廻航路(同

  • 第1回北海道踏査(5)ー江差町五勝手柏森神社

    上ノ国町を後に、江差町へ。『津軽一統志』では、「ごかて家拾軒程 もしりから家有 江指是迄一リから家有めな崎有 汰めき石家三拾軒程但から家有 とまり家六拾軒 大山家拾軒 田沢四十程狄前となm ふしきど一書にふし木から家九軒 あつさふ川有」と続

  • 第1回北海道踏査(4)ー上ノ国町北村地蔵庵

    上ノ国から天の川に架かる橋を渡ると、町役場や学校などのある現在の中心地大留、そして上ノ国目名川の橋を渡ると北村。そのコミュニティーセンターに接して北村地蔵庵がある。14:00に町の教育委員会のご担当と、地蔵庵のお守り役の方と待ち合わせ。よろ

  • 第1回北海道踏査(3)ー上ノ国町旧笹浪家住宅

    木ノ子を後に、砂浜の浜辺を走り、ふたたび段丘上に漕ぎあがって長い坂を下ると上ノ国町上ノ国に。この間、7.5�ほど。『津軽一統志』では、「し禰こ間有家四軒 と里う泊家十五軒 上の国是迄五リ家百四五軒狄もあり」と記される。寛文年間の松前藩の人口

  • 第1回北海道踏査(2)ー上ノ国町木ノ子光明寺

    上ノ国町石崎を後に、北上。このあたり、国道228号線をMTBで高度50m分あまり漕ぎあがらなくてはいけない。そのかわり、ササに覆われた断崖の向こうに日本海が輝きながら大きく広がる。『津軽一統志』では、「は禰さし家三軒 塩ふき家十五軒 扇子石

  • 第1回北海道踏査(1)ー上ノ国町石崎八幡宮

    「円空はなぜ蝦夷を訪れたのか」を考察しながらの第1回目踏査いよいよ開始。円空の足取りを追いかけるには、当時の蝦夷の絵図(地図)を参考にしたいところ。しかし、そのような絵図は現存しない。そのかわり、津軽藩の官選史書『津軽一統志』には、寛文9(

  • 第1回北海道踏査(松前藩日本海側)のメインテーマ

    この夏は、「『円空の冒険』追跡」前半のハイライト、当時蝦夷と呼ばれた北海道での円空の足取りを追いかける予定。踏査は、事前調査「北海道の円空像分析から推定する蝦夷巡錫ルート」を踏まえ、6月と8月の2回に分けて計画。1回目の6月は、松前藩領(和

  • 石清水八幡宮訪問記

    円空は、様々なカミホトケを造顕している。その中には、愛宕信仰の中心愛宕山、稲荷信仰の中心稲荷山、八幡信仰の中心石清水八幡宮の鎮座する男山(鳩ヶ峰)など、京都周辺にゆかりの地があるカミホトケ(いずれも神仏習合)も含まれる。京都府内に円空像は伝

  • 日本山岳会会報『山』に掲載いただきました

    日本山岳会の会報『山』4月号に、拙稿「日本山岳誌の空白を埋める円空の存在 穂高岳現存最古の文献は円空仏の背銘」を掲載いただきました。↑上記太字部分をクリックしていただくと、内容をご覧いただけます。 ついでに、以下に鮮明な

  • 北海道の円空像分析から推定する蝦夷巡錫ルート

    いよいよ、「円空の冒険」追跡前半のハイライト、北海道の踏査を今夏に控え、調査計画を策定する段階に。現在残る円空像と過去に円空像があったとする文献を基礎に、像の様式なども含めて考察し、蝦夷巡錫ルートを想定。 1 北海道の円空像所在一

  • Y師匠に伺ったこと

    先日伺った美濃市慧照院でお知り合いになった円空学会のMさんに、同会員のYさんをご紹介いただいた。Yさんは、20歳で仏師に弟子入りされて以来、永年彫技を磨かれ、円空彫刻の研究会も主宰されておられる。彫師の立場から円空仏の鑑定を依頼されることも

  • 現地調査から浮かび上がった円空蝦夷渡航ルート

    2022年9月、2023年3月の青森・北海道・滋賀の踏査の結果、円空の陸奥〜蝦夷への旅の目的は、松前藩の要請によるもので、その旅を近江商人が支えたこと、そして往復のルートもおおよそ浮かび上がってきたので、以下に拠りどころとなる文献名をあげ私

  • 【特報】『再発見の恐山史料』に円空新資料発見!

    東北・北海道の円空の足取りを文献調査していて、「青森県立郷土館研究紀要」第46号(2021年3月)に『恐山史料の再発見』(佐藤良宜・小山隆秀)という論文を見つけた。同論文は、円空が訪れた当時の恐山がどのようだったか知る上で参考になり、また、

  • 東北・北海道の十一面観音立像制作順考察

    円空は、東北・北海道の旅で、現在分かっている限り10体の十一面観音立像を残している(弘前藩3体、盛岡藩2体、松前藩1体、久保田藩4体)。それらの像の様式には、共通点と相違点があり、そのうち試行錯誤の跡がみられる相違点は、最後に一定の姿に落ち

  • 近江商人と円空の関わりを探る

    円空が、弘前を経由して蝦夷に渡った寛文5〜6(1665〜1666)年は、全国的に宗門改めが行われ、行動の制約が大きかった時期。そのような時、円空のように身元の定かでない僧(注)が、弘前城下を追われるというアクシデントも経ながら、旅を続けるこ

  • 冬の津軽・下北・函館調査行(4)ー津軽半島正法院

    調査行4日目最終日の7日(火)は、青森空港発14:50まで、津軽半島側の調査を計画。朝の散歩に、青森港まで。下北半島側から日が昇る。津軽半島の入口にあるのが青森市油川。羽州街道の終点であり、松前街道の起点となる古い港町。円空が弘前城下から青

  • 冬の津軽・下北・函館調査行(3)ー下北佐井・大間

    調査行3日目の6日(月)は、�盛岡藩領下北半島の佐井または大間から松前に向かうルート(佐井村長福寺の円空作十一面観音の様式から推定されるルート)に関する調査。昨年9月に伺った佐井村長福寺を再訪し、前回お会いできなかったご住職に、いろいろお話

  • 冬の津軽・下北・函館調査行(2)ー青森〜函館

    今回の調査行の目的その2は、円空の蝦夷渡航ルート推定のため、地理的イメージを掴み、当時の交通事情に関する文献を集めること。円空の蝦夷渡航について、考えられるルートは次の3つ。➀弘前藩領青森港から松前に向かうルート(『弘前藩庁日

  • 冬の津軽・下北・函館調査行(1)ー弘前

    津軽藩の公式日記である『津軽藩庁日記』の寛文6(1666)年1月29日の記述、次のとおり、円空が登場する。「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」弘前城下の長町にいた円

  • 【特報】美濃市前野慧照院 円空仏「新発見」!

    2月4日(土)、ご厚意で拝ませていただいた美濃市前野慧照院の地蔵菩薩はじめ三体の円空仏。その画像を、円空学会のK先生にお送りしたところ、➀左側の観音座像は新発見、➁地蔵菩薩像は、背面赤外線を見ると、今まで存在が確

  • 美濃市前野慧照院訪問記

    2021年10月15日、日本山岳会京都・滋賀支部で「野生の山へー北海道の山・奥美濃の山」と題する講演会でご一緒させていただいたイグルスキー米山さんとは、ありがたいことに、その後もお付き合いさせていただいている。そのイグルスキー氏から、「美濃

  • 円空の冒険蝦夷ルート考察(1):当時の蝦夷事情

    寛文6(1666)年1月26日、円空は弘前城下を追われた後蝦夷に渡り、同年6月、松前藩の家老蠣崎蔵人のために観音菩薩像を造っている(背銘「願主 蠣崎蔵人 武田氏源広林 敬白 寛文六丙午天六月吉日」)。いよいよ『円空の冒険』追跡の舞台は、津軽

  • 蝦夷からの帰還ルート考察ー野村論文をヒントに

    「『円空の冒険』追跡」2年目は、いよいよ陸奥から蝦夷へと円空の足取りを追いかけていく予定。そのためには、円空の行脚したルートを、残された手掛かりから想定してみる必要がある。そのうち、岐阜大学野村幸弘教授の論文『円空の彫刻芸術(3):東北・北

  • 「美濃地方の円空像分布地図」から浮かび上がること

    山馬鹿に加え、最近は円空馬鹿にもなりつつある、岐阜県民ぼっちです。2023年、本年も「『円空の冒険』追跡ノート」お付き合いいただきますよう、よろしくお願いします。 それではさっそく追跡開始! といきたいところ、あいにく年末から新型

  • 「『円空の冒険』追跡ノート」 2022年ダイジェスト

    円空(寛永9(1632)年〜 元禄8(1695)年)は、荒々しい彫りあとをみせる「円空仏」で知られる、江戸前期の山岳修行僧。実はこの円空、江戸時代には、ベストセラー伴蒿蹊著『近世畸人伝』(下図)や、百科事典寺島良安編『和漢三才図絵

  • 『弘前藩庁日記』から(5)ー蝦夷渡航ルートは?

    5 円空は陸奥国(弘前藩または盛岡藩)からどのように蝦夷に向かったのか 円空の蝦夷への渡航ルートについて、現存する円空仏の様式を分析することにより、➀下北半島先端部の佐井あるいは大間から蝦夷に渡り、津軽半島の三厩あたりに戻った

  • 『弘前藩庁日記』から(4)ー弘前城下追放の理由

    4 円空は、なぜ津軽城下を追われたのか 『弘前藩庁日記』の寛文6(1666)年1月29日の「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」という短い記述だけを読むと気にならない

  • 『弘前藩庁日記』から(3)ー陸奥国での足取り

    3 円空は、陸奥国(弘前藩・盛岡藩領内)でどのような行動をとっていたと想定されるのか 円空の足取りを確認できる手がかりは次の⑴⑵のとおり、わずかである。 ⑴弘前藩領および盛岡藩領に残る円空仏のうち、様式か

  • 『弘前藩庁日記』から(2)ー陸奥国〜蝦夷訪問目的

    2 円空は、なぜ陸奥国(弘前藩・盛岡藩)〜蝦夷を訪れたのか 円空が青森県:当時の陸奥国(弘前藩・盛岡藩)や蝦夷(和人地である松前藩およびアイヌの地である蝦夷地)を訪れた理由は何だったのだろうか? 円空が弘前城下を追われていることや、盛岡藩領

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