卑弥呼様は天照大神 さん プロフィール

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卑弥呼様は天照大神さん: 邪馬台国探訪
ハンドル名卑弥呼様は天照大神 さん
ブログタイトル邪馬台国探訪
ブログURLhttps://ameblo.jp/makoto-kodama/
サイト紹介文『魏志倭人伝』と『古事記』『日本書紀』が同時に成立し、考古学所見にも適合する説を目指しています。
自由文天照大神=倭女王卑弥呼時代の倭国=高天原は九州北部に在った小国三十国の連合国=女王国連合であり、邪馬台国は卑弥呼が定めた倭国の首都であった。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供29回 / 365日(平均0.6回/週) - 参加 2015/12/21 18:53

卑弥呼様は天照大神 さんのブログ記事

  • 伊都国と邪馬台国間の千五百里が、水行で十日陸行で一月も要する理由
  • ● 里程から算出される伊都国−邪馬台国間の距離はたったの千五百里なのに、   水行で十日もかかる理由は船で長崎半島を大きく回り込んで行くからであり、   陸行で一月もかかる理由は弥生時代の倭国の道路事情が粗悪だったせいである。 伊都国から邪馬台国へ至る行程を現代人の頭で考えずに、弥生人の視点に立って、当時の倭国の交通事情を想定してみたら、上記の結論に至りました。 ?の条件を基にそれぞれの里程と行程を [続きを読む]
  • 猿にはちと難しい邪馬台国へ至る里程と日程距離の整合性
  • ① 『魏志倭人伝』の里程と日程距離の乖離(ギャップ) 前回までのブログ『猿でも解る邪馬台国の位置』から判明しましたように、『魏志倭人伝』の記す帯方郡から邪馬台国へ至る道程の解釈上最大の難問は、 伊都国−邪馬台国間が一千五百里、或いは不彌国−邪馬台国間が一千三百里しかない里程の短さと 南投馬国へ至ること水行二十日南邪馬台国へ至ること水行十日陸行一月と記される日程距離の長さに大きな乖離(ギャップ)があ [続きを読む]
  • 猿でも解る邪馬台国の位置の検証
  • 前回ブログ、【猿でも解る邪馬台国の位置】で、『魏志倭人伝』の記載どうりに帯方郡から邪馬台国へ至る道程を辿ることで、末盧国−邪馬台国間の距離が僅か二千里しか残っていないことを突き止め、それを利用して邪馬台国のおおよその位置を絞り込むことに成功したのですが、この問題が一筋縄ではいかない理由はその後の記載との整合性にあるわけです。 末蘆国から伊都国迄は東南陸行五百里で至るこの記載によると、帯方郡−伊都 [続きを読む]
  • 猿でも解る邪馬台国の位置
  • どうやら日本国民の誰もが、未だに邪馬台国の位置をまるで解っていないらしいので、今回は『魏志倭人伝』の記す帯方郡から邪馬台国へ至る道程記事を読むだけで、邪馬台国の位置が(猿ですら)いとも簡単に解る画期的読解法を公開致しましょう。 要は下手な独自解釈など入れずに、記載の儘を素直に辿れば良いだけのことなのです。  邪馬台国は末蘆国から二千里の位置に有る 『魏志倭人伝』は女王国に属さない狗奴国の説明を終える [続きを読む]
  • 卑弥呼の冢(墓)は径百余歩(約50m)の円墳
  • 太陽の女神・天照大神の化身である卑弥呼は、その冢も太陽を象徴する円墳のはずです。 又、『魏志倭人伝』の記す径百余歩とは、どうやら普通の一歩=50?位のことらしいので、結局、卑弥呼の冢(墳墓)の大きさは、径50m程のものに他ならないと思われます。 そうなると、【倭国】の首都・【邪馬台国】に比定される九州筑後の山門(ヤマト)国には、地元のみやま市瀬高町で【権現塚】と呼ばれている径約50m大の円墳があります。 [続きを読む]
  • 【卑弥呼の冢】問題;墳丘墓から古墳への進化
  • 【卑弥呼の冢(墓)】がどの地域のどの古墳なのかを指定する前に、私は、そもそも古墳とは何だろうか?或いは、古墳の成立・発達過程を考える必要があると思います。 因みに私は日本の古墳の原型は中国の秦の始皇帝陵ではないかと考えています。この思想を秦の終わり頃(紀元前210年)に斎の徐福が倭に伝えたのではないか?その証拠に初期の墳丘墓は始皇帝陵と同じく、方形の墳丘墓が多いわけであり、方形墳丘墓は始皇帝や徐福の [続きを読む]
  • 纏向遺跡は本来は何の遺跡なのか?
  • すでに前回緊急報告・解析しましたように、この度名古屋大学チームが行った纏向遺跡の桃核によるC14同位体年代測定の結果、卑弥呼の倭国統治時代に当たる西暦135〜230年が出たと報道されていますが、世界標準補正=IntCal13ではなく、日本独自の補正規格=JCalを採用した場合には、纏向遺跡が三世紀末〜四世紀前半のものである可能性も残されることが解りました。 纏向遺跡全体像復元図(纏向デジタルミュージアムより引用)そう [続きを読む]
  • 箸墓(箸中山古墳)は卑弥呼の冢(墓)なのか?
  • 箸墓(箸中山古墳) 2013.11月著者撮影 堀で金魚を養殖しているため、堀全体に鳥除け糸が張ってある。 『魏志倭人伝』には【倭女王卑弥呼】の死と冢(墓)についての記載が有ります。 卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人。 この卑弥呼の冢が何処に在るどの墳墓なのかは古代史の大きな論点の一つです。 【邪馬台国畿内説派】の皆さんは奈良県纏向遺跡の近くにある箸墓(箸中山古墳)を【卑弥呼の [続きを読む]
  • 【卑弥呼】の時代は【天照大神】と一致するのか?
  • 【倭女王卑弥呼】 さて、前回ブログの考察により、【天照大神】神話がまさに【倭女王卑弥呼】の事績に相応しいと認めてもらえたとしても、【天照大神】が【卑弥呼】であると決定するには、まだ問題が残っています。それは【天照大神】の時代が、はたして【倭女王卑弥呼】の年代に合うのかどうかです。 何故なら『記・紀』の設定する神武天皇即位年(BC660)が実際にはこれ程古くないにしても【天照大神】は『記・紀』の系譜では神 [続きを読む]
  • 【卑弥呼】は【天照大神】なのか? 
  • さて、そういうわけで大和朝廷内には【卑弥呼】の候補者が誰もいなくなりました。 これで予想通り、【卑弥呼】が大和朝廷以前の人物である可能性が高くなりましたが、では、我が国の歴史書『古事記』『日本書紀』に記される誰に特定できるのでしょうか? 『古事記』『日本書紀』におきましては、大和朝廷以前の世は神代となりますので、登場するのは天照大神や須佐之男命のような多くの神々ばかりとなります。だが私は、『記・紀 [続きを読む]
  • 【卑弥呼】は大和朝廷より古い時代の人(その一)
  • 『魏志倭人伝』の記す【卑弥呼】の名が『古事記』『日本書紀』には出てこないことを怪しむ歴史学者は多いらしいが、彼等はそもそもの話がまるで解っていない。 元々【卑弥呼】の名は正始元年(AD240)、帯方郡使・梯儁等が【倭国】に詣で、首都【邪馬台国】を訪問し、女王に謁見した際、倭人が自分たちの女王のことを【ヒミコ】様と呼んでいるのを耳にしたので、【ヒミコ】に関する話やその他【倭国】についての情報を倭人たちか [続きを読む]
  • 【卑弥呼】はいったい何者なのか?
  • 世間では【邪馬台国の女王・卑弥呼】と呼ばれる古代日本の女王、【卑弥呼】とはいったい何者なのか?――――この問題は日本古代史上最大の難問とされているようですが、私的にはまあ、――――既に答えがだいたい出ているわけです。 だが、世間では様々な説が俎上に載せられ、何百年もの間議論が続けられています。それなのに未だに決着がつかない理由はと云うと――――いろいろ考えられますが、なによりも世間の【卑弥呼】に関 [続きを読む]
  • 【神武東征物語(其の七・完結)】神武の皇后選定
  • 「三輪明神縁起絵巻・神武天皇と五十鈴姫」 率川(いさがわ)神社 奈良市本子守町18番地 HPより ― 比売多多良伊須気余理比売を先頭に七美人が神武の前を通り過ぎる (右は大久米命) ― 初代・神武天皇の皇后は『日本書紀』では姫蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)、『古事記』では比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記されます。この蹈鞴、多多良とは、たたら場、即ち、鍛冶(かじ)場=製 [続きを読む]
  • 【神武東征物語(その六)】
  • 各地で畿内軍を打ち破った神武東征軍は遂に長脛彦命の本陣・登美に迫ります。そして、いよいよ長脛彦命の本軍と最終決戦の時(クライマックス)を迎えました。初戦の孔舎衛(くさかえ)坂の戦いで、神武の兄・五瀬命は矢に当たって亡くなられた。天孫(神武)はそれ以来、常にその時のことを恨みに抱いておられた。だからこの戦いで、兄の仇をとりたいと思われた。そして、歌って仰せられた。  みつみつし 来目の子らが 粟生 [続きを読む]
  • 『神武東征物語』(その五)
  • さて神武はいよいよ奈良県宇陀市の宇陀の穿(菟田野宇賀志・ウダノウガシ)に至り、この後東征軍は畿内を守る長脛彦命方の軍団と一連の対戦となるのですが、この神武東征軍と長脛彦軍との戦いの状況はいま一つ記載からは解り難いようです。その理由は『古事記』と『日本書紀』で畿内軍団の名称や戦う順番などが微妙に異なっており、更に後半の戦いは【久米歌】などで観念的に表現されることが多くなるからです。 そんなわけで今 [続きを読む]
  • 神武東征物語(その四)
  • 神武東征軍が天磐盾(摂社神倉神社)から八咫烏に案内されて辿ったルートは、新宮川沿いに作られた熊野古道を辿り、熊野本宮大社辺りから紀伊山地を越え、吉野川の川尻(此処では源流部のこと)の十津川流域辺りに至ったと思われる。そこで神武は鵜を使って鮎を採っていた阿陀の鵜養(うだのうかい)に出会う。 鵜飼のルーツは中国南部のミャオ族の居住地辺りに在ると思われ、現在でも行われている。(?写真)中国雲南省、桂林 [続きを読む]
  • 【神武東征物語(その三)】
  • 天磐盾(現在の熊野高倉神社)にて、高倉下(天香具山命)が齎した布津御霊剣を得て、勢いに乗った神武東征軍は、高見夢巣日神から遣わされ、天から飛び降りてきた?という八咫烏を道案内にして、進軍を再開しました。そして熊野古道沿いに紀伊山地を越えて吉野川の源流部に出ると、長脛彦の支配下にある地元豪族を次々に倒しながら、快進撃を続けていきます。 ところでこの八咫烏(ヤタガラス)ですが、三本足のカラスとされて [続きを読む]
  • 【神武東征物語(その二)】
  • 神武東征軍の経路  ● ー 東征船団の経路  ● ー 東征軍陸路 神武東征船団は『日本書紀』では岡水門(福岡県遠賀郡芦屋町)に立ち寄っただけだが、『古事記』では岡水門に一年間滞在したとされています。すると前回指摘したように、当時二代目・天照大御神の台与(壱与)が、邪馬台国(筑後山門)に坐して、倭女王として在位中でありますから、『古事記』を信じるならば、東征軍将軍の神倭磐余彦命と五瀬命の二人は、東 [続きを読む]
  • 【神武東征物語(その一)】
  • 神武東征船団が船出したとされる日向市美々津港に有る日本海軍発祥の地の碑 日向国(宮崎)には神武東征軍が辿った足跡の伝承・遺跡が数多く残っています。例えば、『古事記』『日本書紀』に記載はないが、日向国の伝承では神武=神倭磐余彦命と兄の五瀬命は日向国の美々津海岸から東征の船出をしたと伝えられます。 先ずは、日向市美々津大橋下には『立磐神社』があり、神武天皇と住吉三神(上筒男、中筒男、底筒男)が祀られ [続きを読む]
  • 高天原=倭国=九州北部の小国三十国が連携する女王国連合
  • この度は『古事記』『日本書紀』の記載を『魏志倭人伝』を参考にして独自に解釈し、現実の歴史にある卑弥呼=天照大御神の時代を論理的に考察してみました。これから書くストーリーが一点の矛盾も無く成立すれば、【邪馬台国九州説】及び【邪馬台国東遷説】が正しいことの根拠になると思われます。 過去の歴史学者や邪馬台国研究者は、これらの文献に出てくる話を、まるで何処か他所の国の話の如く、現実味の無い解釈を繰り返し [続きを読む]
  • 大和朝廷成立前後の天皇家と豪族の祖の系図
  • 古代天皇家と豪族の祖の系譜・系図につきましては今迄にも、『古事記』『日本書紀』『先代旧事本記』『勘注系図』『新撰姓氏録』等の記載を基に数多く制作されてきましたが、未だに決定版とされる系図はないようです。 その理由としては、やはり各文献ごとに系譜の相違があり、特に『古事記』『日本書紀』は皇室に都合の悪い系譜を隠蔽、改竄しているらしく、原文のままでは歴史人物の世代間の繋がりに顕著な矛盾があるので、どう [続きを読む]
  • 【神武東征】後の跡継ぎ問題
  • 隼人族の盾を手に持つ隼人の舞 (京都府京田辺市伝統芸能)この地には古代に大和朝廷に帰順した隼人族を住まわせたらしい。 初代神武天皇の後を継いだ第二代綏靖天皇の倭風諡号は神沼河耳命と云います。神沼河耳命には二人の兄が居て、『古事記』によると神八井耳命と日子八井耳命です。この三人の母親は『古事記』では比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)、『日本書紀』では媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒ [続きを読む]
  • 大物主神は物部氏の神か?
  • 大国主命等による【豊芦原中国】の国造りが完成に差し掛かった頃、 共に国造りに取り組んできた少彦名命が粟の茎に弾かれ、常世の国に旅立たれました。 嘆き悲しむ大国主命は故郷の出雲に帰り着くと、独り海岸に佇みました。 そして、 『この豊芦原中国は私が作った。今、豊芦原中国を治めるのは私だけだ』 と呟いていました。 すると、・・・・・・ 海の彼方から光を放ちながら飛来した神がありました。 光る神は大国主命に向 [続きを読む]
  • 【卑弥呼】の没年齢と【神武東征】年の関係
  • 『魏志倭人伝』によると、卑弥呼は正始八年(AD247)に亡くなっています。では、この時の卑弥呼の没年齢はいったい何歳だったのでしょうか?建中校射悌儁が倭国の首都・邪馬台国を訪問した正始元年(AD240)の記事で、卑弥呼については「年已に長大なる」とあるので、正始元年の段階で、卑弥呼は既に高齢だったが、それから更に七年の年月が経過しているわけです。卑弥呼は倭王に共立された時期が解ることから、年齢がある程度推 [続きを読む]