秋葉 奈津子 さん プロフィール

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秋葉 奈津子さん: 奈津子の徒然雑記帳
ハンドル名秋葉 奈津子 さん
ブログタイトル奈津子の徒然雑記帳
ブログURLhttp://415100.blog50.fc2.com/
サイト紹介文世界史の話題を中心に正史、時には外史を交えてエピソードを紹介しています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供53回 / 365日(平均1.0回/週) - 参加 2016/01/05 20:26

秋葉 奈津子 さんのブログ記事

  • ご連絡
  • 毎日の応援ありがとうございます。私事で恐縮ですが、私は。今日から2週間程度入院する事になりました。9月の下旬から体調が、今ひとつだったのですが、昨日思い切って総合病院に行き、検査をお願いしました。病名は十二指腸潰瘍との事。ストレスの性と思いますが、1日も早く完治するように頑張ります。退院したら、又ご連絡いたしますので、それまで応援宜しくお願い致します。 [続きを読む]
  • 歴史を歩く174
  • 39アジア諸国の変革と民族運動④4日本の朝鮮併合朝鮮総督府 日露開戦から半月後に日韓議定書(1904年2月)が調印され、日本は韓国での軍事行動の自由を獲得し、以後3次にわたる日韓協約(1904年、1905年、1907年)を結んで韓国への干渉を強めていきました。1904年8月には第一次日韓協約を結び、日本政府が推薦する者を財政・外交の顧問とすることを強制し、更に日露戦争後の1905年11月には第二次日韓協約(大韓側では乙巳(ウルサ [続きを読む]
  • 歴史を歩く173
  • 39アジア諸国の変革と民族運動③3日露戦争閔妃暗殺 日本が三国干渉に屈服して遼東半島を清に返還すると、閔妃等は大国ロシアに接近して日本を牽制しようとし、親日派を追放しました(1895年7月)。日本公使の三浦梧楼等は、ソウルの日本守備隊長等と共謀して守備隊・警察・民間人を王宮に乱入させ、閔妃を暗殺します(1895年10月)。 翌1896年2月、高宗はロシア公使館に逃げ込み、以後約1年間にわたって潜伏先で政務を執った為、 [続きを読む]
  • 歴史を歩く172
  • 39アジア諸国の変革と民族運動②2変法運動と義和団事件下関条約(日本名)馬関条約(中国名) 日清戦争の敗北は中国の知識人(士大夫)層に深刻な衝撃を与えました。下関条約調印の報が伝わると、折から会試(科挙の第2段階)のために北京に集まっていた挙人(郷試に合格して会試を受ける資格の出来た者)1200余人が康有為の呼びかけに応じて連名で「条約を拒否し、政治制度の改革を行って屈辱から抜けだそう」という上書を清朝に [続きを読む]
  • 歴史を歩く171
  • 39アジア諸国の変革と民族運動①1中国利権の争奪小国日本と中国を表す当時の風刺画 「眠れる獅子」と呼ばれていた清朝が日清戦争(1894年〜95年)に敗北し、その弱体が暴露されると列強は争って中国へ進出し、利権獲得に乗りだしました。其れまでヨーロッパ列強は、中国を商品市場・原料供給地として見なしていましたが、以後は資本の投下先として注目し、鉄道敷設権や鉱山採掘権等の利権獲得に狂奔すると共に、自国の勢力範囲の [続きを読む]
  • おきてがみの事
  • おきてがみが、復活しました。ご連絡を頂戴した皆様には、お礼申し上げます。これからも応援よろしくお願いします。尚、おきてがみは、今回の事もあるので、バックアップも含めて、訪問が出来る様にしたいと思っています。 [続きを読む]
  • 歴史を歩く170
  • 38アフリカ・太平洋地域の分割③2列強の太平洋諸地域分割太平洋地域の列強植民地 アフリカ分割と同じ時期、太平洋諸地域も列強によって分割され、20世紀初頭までに太平洋諸地域はイギリス・フランス・ドイツ・アメリカによって分割領有されました。ジェームズ・クック(James Cook、 1728年10月27日 - 1779年2月14日) イギリスはオーストラリア・ニュージーランドとその周辺の諸島を領有します。オーストラリアは、17世紀中頃に [続きを読む]
  • 歴史を歩く169
  • 38アフリカ・太平洋地域の分割②1列強のアフリカ分割(その2) フランスは、七月革命の直前にアルジェリアに出兵し(1830年7月)、その後直轄領として(1842年)植民地化を進め、更にアルジェリアを確保する為に19世紀後半以後チュニジアにも進出しました。フランスのチュニジア侵攻・フランス軍によるスファックス侵攻 チュニジアにはイギリス・イタリアも進出を図っていましたが、1878年のベルリン会議ではフランスの優越が認 [続きを読む]
  • 歴史を歩く168
  • 38アフリカ・太平洋地域の分割1列強のアフリカ分割(その1)列強のアフリカ分割・1914年当時 近代ヨーロッパの人々から「暗黒大陸」と呼ばれたアフリカ大陸のうち、地中海沿岸の北アフリカやインド航路の港、又奴隷貿易が盛んに行われた西アフリカの沿岸部は早くからヨーロッパ人に知られていましたが、それ以外の地域は、その状態がヨーロッパ人に知られるようになったのは、19世紀中頃のリヴィングストン(1813年〜73年)やス [続きを読む]
  • 歴史を歩く167
  • 7帝国主義の成立と列強の国情⑦7ラテン・アメリカ諸国ラテン・アメリカ諸国の独立 ラテン・アメリカ諸国の殆どは1810年代から20年代に独立を果たしたものの、多くの国では独立後も政情が不安定で、政変も多く、国際紛争にも悩まされ続けました。又経済的には殆どが農業国であり、しかも封建的な大土地所有制が残った結果、貧富の差は非常に大きなものでした。1885年当時のメキシコシティーストリートマーケット 独立後のラテン [続きを読む]
  • 歴史を歩く166
  • 7帝国主義の成立と列強の国情⑥6アメリカ アメリカの資本主義は、南北戦争(1861年〜65年)後、めざましい発展をとげました。工業生産額は1860年〜90年迄の30年間に5倍に達し、1890年頃迄にはイギリスを追い抜いて世界一の工業国に成長します。スタンダード・オイル第1製油所、オハイオ州クリーブランド1899年 この間、主要な産業ではトラスト(企業合同)が形成され、独占と集中が進みました。 「石油王」として有名なロックフ [続きを読む]
  • 歴史を歩く165
  • 7帝国主義の成立と列強の国情⑤5ロシア 1861年の農奴解放以後、徐々に発展したロシアの資本主義は、1890年代に入ると、特に露仏同盟の成立後(1891年〜94年に成立)、フランス資本の援助が増大して重工業を中心に急速に発展しますが、ロシアは国内市場が狭小の為、市場を求めて極東や中央アジアに進出して行きました。シベリア鉄道の地図(1897年当時の路線、ドイツで出版されたもの) ヨーロッパ・ロシアと極東を結ぶ世界最長の [続きを読む]
  • 歴史を歩く164
  • 37帝国主義の成立と列強の国情④4ドイツ1848年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世とビスマルク ドイツの統一後、ビスマルク(1815年〜98年)はドイツ帝国宰相(在任1871年〜90年)として約20年間にわたって独裁的な権力を奮いました。この間、フランスの復讐に備えてオーストリア・ロシアとの間に三帝同盟を結び(1873年)、更にオーストリア・イタリアとの間で三国同盟を結んで(1882年)フランスの孤立化を図りました [続きを読む]
  • 歴史を歩く163
  • 37帝国主義の成立と列強の国情③3フランスアルザス・ロレーヌの位置 フランスは、普仏戦争(1870年〜71年)に敗れてアルザス・ロレーヌをドイツに割譲したために工業生産の発展が鈍化し、1870年代にはアメリカ・ドイツに追い抜かれてその生産力は第4位に後退しました。又、工業では小企業が乱立し、農業でも小経営が多かった為、国内には有利な資本の投下先が少なく、結果として国内の資本はもっぱら有利な海外投資に向けられ、フ [続きを読む]
  • 歴史を歩く162
  • 37帝国主義の成立と列強の国情②2イギリス初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, 1804年12月21日 - 1881年4月19日)肖像画は1857年当時 帝国主義と云う言葉は、1870年代後半に、保守党首相ディズレーリ(在任1868年、1874年〜80年)が、その頃高まりつつあった小英国主義(植民地は財政負担を増す重荷に過ぎないとして植民地放棄を唱える立場)を攻撃し、植民 [続きを読む]
  • 歴史を歩く161
  • 37帝国主義の成立と列強の国情1帝国主義ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади?мир Ильи?ч Ле?нин、1870年4月22日 ? 1924年1月21日)本名、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(Влади?мир Ильи?ч Улья?нов) 19世紀末から20世紀初頭にかけて世界は帝国主義の時代に入って行きました。ロシア革命の指導者レーニンはその著『帝国主義論(資本主義の最高段階としての帝国主義)』 [続きを読む]
  • 歴史を歩く160
  • 36東アジアの激動⑥7日清戦争崔済愚(1824年〜64年) 朝鮮には、18世紀後半に中国からキリスト教が伝わり、天主教と呼ばれました。李朝は天主教を禁止して弾圧を加えますが、社会不安を背景に天主教信者は次第に増加して行きます。19世紀後半にキリスト教(天主教)に対抗する新しい宗教である東学が創始され、没落両班出身の崔済愚(1824年〜64年)は、在来の民間信仰を基に東洋的な儒教・仏教・道教を融合して東学を創始しまし [続きを読む]
  • 歴史を歩く159
  • 36東アジアの激動⑥5日本の変革マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 ? 1858年3月4日) 1853年7月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリー(1794年〜1858年)が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本に開国を迫りました。黒船来航 江戸幕府は、開国か攘夷かをめぐる激しい対立の中で、翌1854年に日米和親条約を結び、下田・箱館2港の開港や最恵国待遇の供与等を認め、 更に1858年の日米修好通商 [続きを読む]
  • 歴史を歩く158
  • 36東アジアの激動⑤4洋務運動の進展 アヘン戦争・アロー戦争・太平天国の乱等によって西洋の軍事技術が優れている事を認めた清朝は、1860年頃から西洋の軍事技術等の導入による富国強兵運動を進め、これを洋務運動と呼びます。天津フランス領事館 北京条約(1860年)によって外国公使が北京に駐在することになり、清朝は1861年に総理各国事務衙門(総理衙門、そうりがもん)を設けて外交事務の処理機関とすると共に、ヨーロッパ [続きを読む]
  • 歴史を歩く157
  • 36東アジアの激動④3太平天国の興亡太平天国の乱100週年切手・中華人民共和国郵政 清がアヘン戦争(1840年〜42年)・アロー戦争(1856年〜60年)の対外的な問題に直面している時期、国内では太平天国の乱(1851年〜64年)が発生します。 アヘン戦争による多額の戦費と賠償金の支払いは、銀価の高騰をまねき、又重税となって農民の生活を圧迫し、その上水害・干害・蝗害等の天災が相次ぎ、多くの窮乏化した農民は流民となり、全国 [続きを読む]
  • 歴史を歩く156
  • 36東アジアの激動③2アロー戦争とロシア南京条約によって開港した5港 イギリスは、アヘン戦争後の南京条約による五港の開港・公行の廃止によって、対中国貿易が飛躍的に増大することを期待しましたが、戦後もイギリス製品の輸出は増えず期待したほどの利益はあがりませんでした。 イギリスは、貿易不振の原因が、開港場が南に片寄っていて首都北京の近くに存在せず、又広州では領事の駐在や居留地設置が延期されるなど、中国側に [続きを読む]
  • 歴史を歩く155
  • 36東アジアの激動②1アヘン戦争②阿片倉庫清朝はアヘンの吸飲が全国に広まる中で、早くからアヘンの吸飲や密輸に対する禁令を出しおり、主な禁令を挙げれば、アヘン輸入の禁止(1796年)・アヘンの販売厳禁(1813年)・ケシの栽培とアヘンの製造の禁止(1823年)・アヘン輸入の厳禁(1831年)・英船のアヘン密売禁止(1834年)等が有りますが、このように度々禁令が出ている事実は、これらの諸禁令が守られていないことを意味し、 [続きを読む]
  • 歴史を歩く154
  • 36東アジアの激動1アヘン戦争 康煕・雍正・乾隆の3代130余年(1661年〜1795年)に最盛期を迎えた清朝も乾隆帝(在位1735年〜95年)の晩年には政治の綱紀も乱れ、白蓮教徒の乱などがおこり、衰退のきざしが見えてきました。白蓮教徒の乱 白蓮教徒の乱(1796年〜1804年)は、弥勒下生(みろくげしょう)信仰(弥勒仏が救世主として現れるという信仰)の秘密結社を中心とする農民反乱で、湖北・河南・陝西・四川・甘粛の各省に広が [続きを読む]
  • 歴史を歩く153
  • 35南アジア・東南アジアの植民地化④4東南アジア大陸部の変動阮3兄弟 ヴェトナムでは、黎朝(1428年〜1527年、1532年〜1789年)の衰退に乗じて西山党の阮3兄弟が反乱を起こし(1773年)、黎朝の権臣である阮氏と鄭氏を滅ぼして西山朝(1778年〜1802年)を開きます。後期黎朝(1532年〜1789年)のもとで事実上南ヴェトナムを支配していた阮氏一族は1777年に西山朝に滅ぼされ、この時、阮氏一族の中でただ一人阮福映(1762年〜1820 [続きを読む]