じゃがいもピザ さん プロフィール

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じゃがいもピザさん: 二人のユダ
ハンドル名じゃがいもピザ さん
ブログタイトル二人のユダ
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/jagaimopiza
サイト紹介文一人は革命家のユダ。一人は乞食に売られたユダ。ともにイエスの弟子となった二人のユダの絶望と裏切り。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供98回 / 112日(平均6.1回/週) - 参加 2016/02/19 08:16

じゃがいもピザ さんのブログ記事

  • 突然ですが、麻原彰晃の死刑執行について思うところがありまして その14
  • 異能力を求めて、麻原彰晃の異能力に出逢い「(再会の約束を天界でした救世主とその弟子なのに)こんなにも参じるのが遅くなってしまいました」と詫びるような思いでオウムに入信した林郁夫であったが、それでも目を覚ます機会は何度でもあった。運命的な出会いをした恋人同士でも何気ない一言で百年の恋も醒めるように、不可思議な力を備えてはいても、その正体は社会に復讐を期す“鬼”の異能力だったと林郁夫が気がつくチャンス [続きを読む]
  • 突然ですが、麻原彰晃の死刑執行について思うところがありまして その13
  • とはいえ、筆者は麻原彰晃と面識はない。オウムの支部に行ったこともなければ、シャクティーパットを体験したこともない。言ってみれば、麻原の命懸けのヨガ修行やそれに伴う異能力などすべては伝聞。それもオウムサイドの宣伝を鵜呑みにしているだけだと批判されても仕方がないところだろう。しかし筆者には一つのエピソードが魚の骨のように喉にひっかかっているのである。件(くだん)のシャクティーパットのものだ。横になった [続きを読む]
  • 突然ですが、麻原彰晃の死刑執行について思うところがありまして その12
  • 閑話休題。密教系の新興宗教・阿含宗に林郁夫はしばらく通いつめていたが、やはりここも見限ってしまう。管長の桐山靖男が「自分も死ぬ前には悟りを開けるだろう」などと、うっかり本音を漏らしてしまったために。「管長でさえそんな心許ない状態なのに、どうして弟子たる自分が悟りを開くことができるだろうか?」打ちひしがれて阿含宗を去った林郁夫は、ここで最悪の選択をする。以前からその存在は知ってはいたが、谷底を覗き込 [続きを読む]
  • 突然ですが、麻原彰晃の死刑執行について思うところがありまして その11
  • もののついでに、林郁夫が「仏典のどこにも残されていなかった」と嘆いた“悟り”を開くための修行法についても、ざっと説明しておこうかな。前述したとおり、仏典に修行法が残されていないはずがありません。では最初期の仏典の中で、釈尊の弟子たちはどのような一日を送っていたのかというと、朝、托鉢に出かけて一日一食の食事を済ませれば、あとは終日、洞窟や、樹の下や、僧房や、精舎の中で(あえて言うなら、のほほんと)坐 [続きを読む]
  • 突然ですが、麻原彰晃の死刑執行について思うところがありまして その10
  • おっと、補足。“凡夫”とは書いたけど、それはあくまでも仏教界から見てのこと。実際には、出家者が我ら俗世に住む者と一ミリでも優れているというわけではありません。釈尊がどれほどの偉業を成し遂げたかといっても、しょせんは世捨て人。義務も責任も放棄して城を出た、社会的な立ち位置は公園のホームレスとそう変わりはないのです。そんな仏教界が我々を“凡夫”と呼ぶとき、それはいぎたなく眠る公園のホームレスが「寝るよ [続きを読む]
  • 突然ですが、麻原彰晃の死刑執行について思うところがありまして その8
  • そもそも仏教ほどシンプルにして明快な宗教はない。出家に至る動機も「四門出遊」に解りやすく語られている。釈尊がインドの小国カピラの王子であったとき、遊園に赴くために城の東門を出たところで老人に出会い、引き返して南門を出たときには病人に、また引き返して西門を出たときには死者の葬列に会って人生の無常を感じ・・・・・・王子が誕生した折に「この子は将来求道者となる」と予言された父王は世を儚(はかな)わないよう、老 [続きを読む]
  • 突然ですが、麻原彰晃の死刑執行について思うところがありまして その3
  • カルトにひっかからないようにするためには、カルトを決して侮らないことです。自分はカルトなんかに決してひっかからない。そんな根拠のない自信はもっとも危険です。なぜなら信仰とは“恋”、神に身も心も捧げる一生に一度の“恋”であり、恋が“する”ものではなく“落ちる”ものであるように、信仰もまた“する”ものではなく“落ちる”ものだからです。「なかなかいい事を言ってるようだから、ちょっと信じてみようかな」など [続きを読む]
  • 第11章 Qに訪れた小さな奇跡 その1
  • イエスとのことを別格にすれば、今日は人生最良の日かもしれない。顔を真っ赤に染めて小さく首を振るマリヤを見やりながら、Qは思った。ユダの胸倉を掴んでわめき散らして以来、その街にイエスが逗留している間マリヤは姿を見せず、今日新しい街に入ったその夕暮れにQは久し振りに宿舎を告げるその甘い息に包まれたのだった。一週間振りくらいになるだろうか。とりあえず、Qはほっとした。マリヤへの侮辱に我を忘れたとはいえ、 [続きを読む]
  • 第10章 貧しい者の気持ちは・・・・・・ その9(最終)
  • 貧乏人の気持ちは貧乏人でも解らない。そんな亡き母の教えに背を向けて「貧乏人の気持ちは貧乏人でなければ解らない」と殻を作り、そのみすぼらしい殻の中でずっと自堕落に生きてきたが、自分からネタバラシをしてしまっては、もうQは殻を脱ぎ捨てざるを得ない。後悔したが、もう遅かった。解らないのは人の心。貧乏人ではないから貧乏人の気持ちが解らないのではない。そう自戒することは、殻をなくしたカタツムリのように、ひど [続きを読む]
  • 第10章 貧しい者の気持ちは・・・・・・ その8
  • ・・・・・・というようなことをQはイスカリオテのユダに怒鳴り散らしたらしい。胸倉から手を離さないまま、延々と。らしいというのはQはよく覚えていないから。恥ずかしながらテンパり捲っていて夢を見ているような状態だった。それでも(Qの暴走する演説に押されたか)ユダが謝ったことだけははっきりと覚えている。「悪かった・・・・・・言い過ぎたよ・・・・・・」Qの唾でべとべとになりながらユダは謝罪して、その場はなんとか収まりをつけ [続きを読む]
  • 第10章 貧しい者の気持ちは・・・・・・ その7
  • 貧しい者の気持ちは貧しい者でなければ解らない。これは誤りである。解らないのは人の心。人の心はきらめく万華鏡であり、貧しい境遇などその僅かな一面、せいぜい出身がどこか程度のものでしかない。単身都会に出て同じ郷土出身の人とめぐり逢えば、嬉しいし、共通の話題も多いだろう。しかしそれはただそれだけのことであり、親しくなるきっかけにはなっても「同じ出身だから気持ちが解る」などと言い出す者がいるだろうか?貧し [続きを読む]
  • 第10章 貧しい者の気持ちは・・・・・・ その6
  • 貧しい者の気持ちは貧しい者でも解らない。それはQの亡き母が口にしていたことだった。生家から婚家まで、女中のいるそこそこ裕福な家で生まれ育った母は、それまで貧しい人々に(育ちのいい娘らしい)ある幻想を持っていたという。同じ苦しみを知る人々は互いに理解し合い、支え合い、寄り添って生きているのだと。ところが執念深いローマ兵に追われ、流れ流れて、自らが貧しい村で暮らすようになった時、母は何も変わらないこと [続きを読む]
  • 第10章 貧しい者の気持ちは・・・・・・ その5
  • そんなQの葛藤を見透かすかのように、ユダは余裕の笑みで“怒れるQ”を見返していた。そりゃそうだよな、とどこか冷静な頭の一部でQは改めて思い知る。Qがテンパったあげくに泣き出すという醜態を演じてしまった時の、ユダはまさしく当事者であったし、そんなヘタレに睨みつけられたぐらいで、海千山千のこの男がわずかでもビクつくはずがなかった。「まあ、そんなにカッカすんなよ〜」まるで子供でもあやすように胸倉を掴むQ [続きを読む]
  • 第10章 貧しい者の気持ちは・・・・・・ その4
  • 「マリヤさんに謝れ・・・・・・マリヤさんに謝れ・・・・・・」イスカリオテのユダを睨みつけながら、Qは押し殺した声で繰り返した。しかし、Qの心はまたしてもパニックに襲われていたのである。衝動的にユダの胸倉を掴んではみたものの、この後どうすればいいのかQにはまったく解らなかった。むろん大事(おおごと)にはできない。イエスの弟子同士の喧嘩沙汰にすでに周囲は騒然となっているが、これ以上事態が悪くなることは絶対に避けな [続きを読む]
  • 第10章 貧しい者の気持ちは・・・・・・ その3
  • 「いつもご苦労様だねえ・・・・・・」マリヤの行く手を遮るようにして、イスカリオテのユダはQと同じような労(ねぎら)いの台詞を吐いた。「どういたしまして」硬い声で応じてマリヤがすれ違おうとする側(がわ)に、ユダはびっこの足を寄せる。(Qは、思い返すたび、この時のユダのニヤニヤ笑いには虫唾が走るのだった)「これからもよろしく頼むぜ。なんせ色仕掛けで宿をとるなんて、俺たち男どもには逆立ちしたって出来ねえからな [続きを読む]
  • 第10章 貧しい者の気持ちは・・・・・・ その2
  • 聴衆から少し遅れてQも会堂を出て、心持ち伸びをした。日差しが気持ちいい。自分を捨て、自分の十字架を負い〜とイエスに続く者の覚悟を説く今日の説教はひどく重苦しいものだったが、しかしQには他人事だった。もとより“神の子”の後に続けるような器ではないことは充分な自覚があったから。そうしたものはペテロやヨハネのような優秀な弟子たちの役どころ。自分のような貧相ヅラは、せいぜい“神の子”が食事をされたテーブル [続きを読む]
  • 第10章 貧しい者の気持ちは・・・・・・ その1
  • それはサマリヤの街でのこと??誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私についてきなさい。命を救おうと思う者はそれを失い、私と福音のために命を失う者はそれを救うのです。       マルコ伝 9章 よりナザレから預言者が生まれた。それがどうやらただの預言者ではなく、自分たちユダヤの民を救ってくれるキリスト(救世主)らしい。噂は風のように各地を流れていき、Qが出逢った [続きを読む]
  • 第9章 カイザルのものはカイザルに
  • ※すみません。今回は聖書の丸写しです。その頃、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスを言葉の罠にかけようかと相談した。彼らはその弟子たちをヘロデ党の者たちと一緒にイエスのものにやって、こう言わせた。「先生。私たちはあなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰もはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色をみられないからです。それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納め [続きを読む]