よなたん さん プロフィール

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よなたんさん: いちじくの木の下で
ハンドル名よなたん さん
ブログタイトルいちじくの木の下で
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/under_the_figtree
サイト紹介文聖書を読んで感じたことを書いています。興味を持った方は順に読んでみてください
自由文10年も毎日読み続けるなんてよっぽど聖書が好きなんでしょうね。だいたい1章読むのに2時間は必要です。なお、聖書は新共同訳を使っています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供399回 / 365日(平均7.7回/週) - 参加 2016/05/14 11:16

よなたん さんのブログ記事

  • 46サライを愛するアブラム③
  •  <アブラムになったつもりで書いています>神の遣いがやってきて「来年の今ごろ、サライに子どもが産まれているでしょう」と言います。わたしはそんなことはありえないと確信しました。年を取っていることも問題かも知れませんが、神さまにとってそんなことはたいしたことではありません。そもそも、わたしにその気がなかったのです。たしかにわたしはサライをめとりましたが、それは一時的な仮の姿で、神さまはわたしにサライと [続きを読む]
  • 45サライを愛するアブラム②
  • <アブラムになったつもりで書いてみています>神さまから故郷であるハランの地を出なさいと言われた時、これはサライの本当の夫を見つけるようにとの神の言葉だと理解しました。美しいサライに長い距離を歩かせるのは心が痛みましたが、出来るだけ負担がかからないように、休みながらゆっくりと前に進みました。エジプトに行ったとき、わたしはファラオならサライにとってふさわしいと直感しました。サライには「どうか、わたしの [続きを読む]
  • 44サライを愛するアブラム①
  • さて、愛の話に戻りましょう。前回はエステルをモデルにして神さまへの愛を考えてみたのでしたが、今回はアブラムを取り上げます。アブラムは妻サライを愛していたのでしょうか。ちょっと疑問に思うような行動がいくつもあります。アブラムは美しいサライを妻に迎えました。そのことをアブラムはどう思っていたのでしょう。アブラムの行動は不可解です。アブラムはサライを愛していなかったのでしょうか。アブラハムの考えを想像し [続きを読む]
  • みこころ⑤
  • 「みこころ」は神さまの意思ですから、自分の意志で「みこころ」を選ぶことはできません。「わたしはこれをみこころとしたい」と言うことができません。神さまから「あなたの生き方はこれです」と示されたものがみこころということになります。しかし、神さまはご自身の意思を一方的に押し付けず、その人の意思を確認してくださいます。つまり、そこにもすりあわせが行われることになります。このすりあわせは、わたしたちの中では [続きを読む]
  • みこころ④
  • 「みこころ」は神さまが御国をつくるためにわたしたち一人ひとりに使命として与えたものであり、わたしたちの生き方の指針となるものなのでしょう。ですから一人ひとり違う「みこころ」に従ってこの世で活動することになります。目の前にいる人は、わたしとは違う「みこころ」に従って活動しています。違うからといって、どちらが間違っているとか、どちらが本物だとかいうことではなく、どちらも神さまの目的を果たすために必要な [続きを読む]
  • みこころ③
  • ちょっと視点を変えて「みことば」について考えてみることにします。みことばも同じで、一人ひとり違う意味を持っているのだと思います。わたしがクリスチャンになりたての頃、みことばの一つひとつに普遍的な(絶対的な)意味があるのじゃないかと思って聖書を読んでいたのですが、そう考えれば考えるほど分からなくなりました。色んな本を読めば読むほど分からなくなるのです。そこで思い切って、「こう感じた、こう考えた、こう [続きを読む]
  • みこころ②
  • わたしが考えている「みこころ」をもうすこし書いてみることにします。わたしたちは神さまに遣わされてこの世に現れました。そこに神さまの意図があり、それが神さまの「みこころ」なんだと考えるようになりました。神さまはわたしたちに使命を授け、それを達成するために賜物を与え、霊を与えます。それだけでなく、この世に来てからも一人ひとりに霊の糧を与えて、それぞれを成長させてその人の目的を達成させてくださいます。万 [続きを読む]
  • みこころ
  • 先日、「『絶対的みこころ』と『一般的みこころ』という考えに出会いました。」というコメントを頂いたのですが、その言葉に何となく魅かれるものがあり、その方にどんな考え方なのかを教えていただきました。一言で言えば『絶対的みこころ』とは、どんな状況でもみこころであるもの『一般的みこころ』とは、わたしの願いとあなたの願いとの間ですり合わせてつくりあげていくものということになるそうです。(間違ってたらごめんな [続きを読む]
  • 43エステル③ 〜神さまの愛に支えられて
  • 彼女の強さは神さまに支えられた強さであるように思います。神さまがいつも愛してくださっていることを実感して、神さまの幸せの内で、日々を暮らしているような気がします。男性が国を救う話とは異なり、神の愛を強く感じるのは、愛を感じる力が女性の方が強いからかも知れません。女性が神さまを愛した時、強い力を発揮します。ユディトもそうですし、ハンナもマリアもエリサベトもそうだと思います。彼女らが生きた時代は全く違 [続きを読む]
  • 42エステル② 〜神さまの愛に守られて
  • エステルは王妃になったことを喜んでいませんでした。王妃となったエステルの前で人がひれ伏すのを嫌っていました。ペルシアの王妃となり、ユダヤの純潔を捨ててしまわねばならないことを悲しく思っていました。しかし、それはユダヤ人がペルシアで暮らせるようになるための神の導きであることをエステルは知っていました。また、マリアさまと同じように自分が主のはしためであることを理解していたのです。だから耐えたのです。神 [続きを読む]
  • 41エステル① 〜神さまを信頼する
  • 旧約聖書エステル記です。エステルの強さは神さまの愛から来ているような気がします。その強さは母マリアのような強さでもあるように思えます。ダレイオス朝ペルシアの時代。ユダヤ人はバビロン捕囚からは解放されましたが、バビロンに残った者、ペルシアに移り住んだ者などがいて、世界中に散らばって暮らすようになりました。モルデカイやエステルもまた、そのうちの一人だったのでしょう。そんなモルデカイが仕えたペルシアの王 [続きを読む]
  • 40ただ愛すること
  • 人間は、どんなに完璧な人であっても、失敗をしない人はいないでしょう。過ちをおかさない人はいないでしょうし、後悔しない人はいないでしょう。でもそれを隠したり、言い訳したりすることなく、素直に認めて、神にゆるしを願うことが、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただく唯一の方法であり、人間にとって一番大事なことではないのでしょうか。そんな純粋な人を神さまは取り上げて、愛してくださる [続きを読む]
  • 39純真な心
  • ペトロは、使徒の中でも失敗と後悔の多い人であったように思えます。なぜ、イエスがペトロを選んだのかも分からなくなるほどです。しかし、ペトロは普通の人と違い、とても純粋な人なのです。どんなに失敗しても、それを隠そうとすることなく、言い訳をすることもなく、すべてを素直に認めて、謝り、回心して、ただイエスを信じ、イエスに向う、疑うことを知らない人なのです。イエスは子どものような純粋な心を持つ神の国に相応し [続きを読む]
  • 38神の本性にあずかる
  • しばらく、楽しい寄り道をしていたのですが、もとに戻ってもう少し考えてみましょう。イエスさまの愛に包まれたペトロの考えに触れてみようと思います。ペトロは手紙の中で、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるために(Ⅱペトロ1:4)、「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」(Ⅱペトロ1:5〜7) [続きを読む]
  • 37真実を捜し求める
  • 「真実」はわたしたちのものではなかったのです。神さまだけが持ちうるものであり、神さまそのものなのです。神さまの中に存在し、「真実」の中に神さまが存在します。わたしたちの目に見えるところにはなく、わたしたちはその「真実」に触れることも確かめることもできません。わたしたちには「真実」の全容を知る術がないのです。「真実」の全容を知ることは赦されていないのです。わたしたちは神さまの内に「真実」があると信じ [続きを読む]
  • 36神さまが真実
  • どうも「真実」を単なる所有物のように捉えてしまっているわたしたちが勘違いして混乱しているのかもしれません。「真実」を所有できるのは神さまだけなのです。ただ、真実は神さまの内にあり、わたしたちのゴールであり、そこに向かう道であると考えてみると少し納得できそうです。神さまは「真実」であり、神さまの中に「真実」は存在しますが、詩編89:9で「主よ、あなたの真実はあなたを取り囲んでいます」と、イザヤ書49:7で [続きを読む]
  • 35真実の意味
  • こうして聖書のことばを眺めてみると、「真実」とは、「この世のあらゆる出来事が神さまのみこころとして実現していること」というような意味になるのかもしれません。ただ、そうであったとしても「わたしはなぜこの世で苦しまねばならないのか」という疑問は付きまといます。神さまはわたしたちによいものだけを与えてくださる方であり、わたしを愛して下さっているという事実と、今わたしが苦しんでいるという現実とのギャップに [続きを読む]
  • 34聖書の中の真実
  • 聖書に目を移しましょう。聖書の中を探してみると、「真実」という言葉が100回以上出てきます。このうち「ほんとうのこと」という意味で理解できそうな言葉もあるのですが、すべてがうまくいくわけではありません。たとえば「御言葉は真実」という言葉が出てきますが、この「真実」という言葉を「ほんとうのこと」と置き換えてみても、うまく理解できません。「ほんとうのこと」でもよいのかもしれませんが、それ以上の意味がある [続きを読む]
  • 33真実って?
  • ちょっと一段落ついたので、前に戻ってみましょう。17話で、「『真実』って何でしょう」という質問を頂き、一瞬たじろぎました。指摘されてみて初めて、単純に「真実は真実でしょう」とは言いにくいことに気付かされます。「真実」という単語は、単純に辞書に書いてある言葉では説明がつかないように思えます。特に聖書の中で使われている「真実」という言葉に対してはうまく言葉で言い表すことが出来ません。一度聖書の中を紐解い [続きを読む]
  • 32一人では生きられない
  • 人間はひとりでは生きられません。一番小さな共同体として家族を構成しています。そこには妻も、子どもも、奴隷もいるかも知れませんが、彼らは主人と同一人物ではありません。中心にいる主人の価値観が中心になるかも知れませんが、それがすべてではありません。力を持ったものは、つい弱い者に自分の価値観を押し付けてしまいがちですが、妻も、子どもも奴隷もみな違う価値観を持った別の人間として、違う役割を担って共同体を形 [続きを読む]
  • 31奴隷と主人
  • 聖書の中でパウロは奴隷との関係についても述べています。今の世界に奴隷の話をしても・・・と思うかもしれませんが、主従関係や上司・部下の関係にも結び付く話です。奴隷に対しては「キリストに従うように、恐れおののき真心を込めて、肉による主人に従いなさい」と言います。一方で主人には「同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。」「彼らにもあなた方にも同じ主人がおられ、人を分け隔てなさらないのです」 [続きを読む]
  • 30親と子
  • 親と子の関係についても考えてみましょう。子どもに対しては「主に結ばれているものとして両親に従いなさい」と言います。「父と母を敬いなさい」と言います。そして父親には「子どもを怒らせてはなりません」と言います。子どもは父と母から生まれ父や母にとっては分身であるかのような錯覚を持ちます。子どもが危険な目に遭えば親は自分のことのように心配し、子どもが苦しめば、親もまた苦しみます。親は自分に似ている子どもに [続きを読む]
  • 37妻と夫
  • 「神の愛」がテーマなのですが、神の似姿として作られた人間同士の愛についても少し考えておく必要がありそうです。人間同士の関係を考えていく場合に、エフェソ5章で言われるような身近な関係を考えておくことが必要かもしれません。パウロは妻に対して、「主に仕えるように夫に仕えなさい」と言います。仕えるとはどういうことなのでしょう。奴隷のように夫の望むままに夫に奉仕をしなさいということではないでしょう。一方で、 [続きを読む]
  • 28愛を知るパウロ
  • パウロをその恐怖から救ったのはダマスコで会ったイエスでした。十字架上で死んだはずのイエスが存在していたのです。そのイエスに出会い、パウロは心底驚いたはずです。しかしよく考えてみると、このことは死がこの世からの消滅を意味しているものではないことを証明していました。パウロにとって、これは大きな驚きであるとともに、大きな救いでした。ダマスコでの3日間パウロはこれまで非難してきたイエスの行動の一つひとつを [続きを読む]
  • 27「愛」に気づく
  • もう一度、Ⅰコリント13に戻りましょう。パウロがこれまで大切にしてきた律法に、「愛」という概念はどこにも見当たりませんでした。律法の中には守るべき行為が並んでいるだけでした。当然パウロの行動にも「愛」という概念はなかったのです。ですから、イエスがどんな行動をしても意味が分かりませんでした。なぜ、律法に書かれてあることと違うことをするのか。律法に書かれていないことを実行していったいどんな益があるという [続きを読む]