よなたん さん プロフィール

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よなたんさん: いちじくの木の下で
ハンドル名よなたん さん
ブログタイトルいちじくの木の下で
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/under_the_figtree
サイト紹介文聖書を読んで感じたことを書いています。興味を持った方は順に読んでみてください
自由文10年も毎日読み続けるなんてよっぽど聖書が好きなんでしょうね。だいたい1章読むのに2時間は必要です。なお、聖書は新共同訳を使っています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供361回 / 365日(平均6.9回/週) - 参加 2016/05/14 11:16

よなたん さんのブログ記事

  • 102心の中の光と闇(ヨハネの手紙)
  • 両側の罪人も闇の中にいましたが、自分の罪を認め回心した時、彼の心の中にも光が差し込みました。イエスさまが葬られたとき、弟子たちは闇の中にいました。二人の弟子がエマオに向う時、彼らの心は周りが見えていませんでしたし、どこへ行くべきかも分かりませんでした。イエスさまの言葉によって初めて目が開き、光の中に帰ってきました。イエスさまの復活を疑う弟子たちは皆、闇の中にいましたが、イエスさまの言葉を聞き、姿を [続きを読む]
  • 101心の中の光と闇(ヨハネの手紙)
  • ヨハネの手紙は命がテーマになっているのでしょうか。そして、ヨハネによる福音書に戻れば命は光でした。光と闇がヨハネにとって根底にあるこの世のイメージなのかもしれない、そう思えました。イエスさまが十字架につけられた時、世は闇の中にありました。単にあたりが暗くなったというだけではなく、人々の心の中は闇の中にありました。イエスさまだけが十字架上で光の中にあったかも知れません。そんなイメージが思い浮かびまし [続きを読む]
  • 100力は弱さの中で(Ⅱコリント12)
  • その一方で自分の弱さを見せ付けて自覚させるということも行われます。弱いことがわかるからその弱さを克服しよう、成長しようと考えるのです。神さまは弱さをしった人間に苦難を乗り越える力と成長を与えてくださいます。神さまは単に苦難から救うだけではなく、人の心を満足させ、人の心を成長させることも考えて、苦難を乗り切る恵みと力を与えておられるように思われます。ブログ村「聖書・聖句」カテゴリー [https://philoso [続きを読む]
  • 99力は弱さの中で(Ⅱコリント12)
  • 力は弱さの中でこそ発揮されるのです。苦しい中にあっても、そこに自分の弱さを見出すことがなければ、力が働くことはないかも知れません。苦しさが伴わなくても、そこに自分の弱さを見出したときは、何とか120%の力を発揮して、そこから逃れようとします。この言葉は厳しい言葉ではなく、それだけの十分な恵みはいつも与えてくださっているということかも知れません。神様は本当に苦しい人を見捨ててはおきません。必ず救いの手を [続きを読む]
  • 98力は弱さの中で(Ⅱコリント12)
  • 助けて欲しいという思いと、自分で乗り切りたいという2つの思いは矛盾しているようにも見えますが、ごく普通の感情でもあるように思えます。苦しさから逃れたいという感情と、苦しさを乗り切る力があることを示したいという2つの感情が入り混じった状態で難題にあたっていることがなんと多いことでしょう。パウロもそうだったのかもしれません。そんなパウロに神さまは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分 [続きを読む]
  • 97力は弱さの中で(Ⅱコリント12)
  • 苦しいときは神に頼みますが、もしすべてを神さまが解決してくださるようなことになっても、おそらくわたしは満足しないでしょう。何とか乗り越えて楽になりたいと思う一方で、自分自身で乗り越える力が欲しい、自分の能力が成長したいことを確かめたいと考えています。苦難を乗り越えた後は、自分の能力が高いことを示したいと考えているのですから、すべてを自分以外の力で乗り切ったという状態は望んでいないのです。ブログ村「 [続きを読む]
  • 96力は弱さの中で(Ⅱコリント12)
  • 「わたしの恵みはあなたに十分である」という言葉はなんと厳しい言葉でしょう。神さまは常に、恵みを十分に与えてくださっています。この苦難を乗り切るために必要な神の恵みは十分だと言われているのです。この苦難に必ず打ち勝つことが出来るといってくださっています。しかし、今の状態では不十分だと不服を申し立てているのです。今よりももっと、さらに恵みを求めている自分がいることに気づきます。でも苦難を乗り切ったとき [続きを読む]
  • 95力は弱さの中で(Ⅱコリント12)
  • パウロはサタンから送られた使いと向き合い、この使いを離れさせてくださいと主に3度願いました。しかし主は戦うパウロに対し、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われます。この言葉をその通り捉えればわたしは強いのでしょうか。弱いのでしょうか。そもそも苦難を乗り切る力がないと思うから祈っているのに、そうではないと言われているようにも聞こえます。わたしたちは恵みを [続きを読む]
  • 94自分の欲求
  • わたしたちは、神の御心に従って生きれば、神の祝福を受け、心安らかに平穏な日々を送ることができることを知っています。また、神を信じ、神に願い、祈って暮らせば、この世を去っても生きることができます。でも、このことを知っているのに、知っているはずなのに、つい世の中にある自己の欲求に負けてしまう弱い自分がいます。きっと、ソロモンやレハブアムもそうであったのだろうと思います。今の自分よりも、もっともっと、強 [続きを読む]
  • 94自分の欲求
  • わたしたちは、神の御心に従って生きれば、神の祝福を受け、心安らかに平穏な日々を送ることができることを知っています。また、神を信じ、神に願い、祈って暮らせば、この世を去っても生きることができます。でも、このことを知っているのに、知っているはずなのに、つい世の中にある自己の欲求に負けてしまう弱い自分がいます。きっと、ソロモンやレハブアムもそうであったのだろうと思います。今の自分よりも、もっともっと、強 [続きを読む]
  • 93自分の欲求
  • 神の御心に従えば、祝福され、神の御心に逆らえば神に見放され、悲しい結末を迎えます。歴代の王はそのことを分かっていたはずですが、自己顕示欲との葛藤が続いた時代であったように思います。知恵と識見を備えたソロモンでさえも、その葛藤には抗し切れなかったようです。わたしたちの心の中も、この頃のイスラエルの国のようにいつも2つの相反する事柄で葛藤しています。人のために行動したいと思う心と、富と権力のために行動 [続きを読む]
  • 92自分の欲求
  • アサもまた、異国の祭壇と聖なる高台を取り除き、石柱を倒し、アシェラ像を砕き、ユダの人々に先祖の神、主を求め、律法と戒めを実行するよう命じました。その結果、主が安らぎを与えられ、国は平穏でした。ヨシャファトは、ユダとイスラエルが一つに国に戻れるように考えていたのでしょう。ヨシャファトは主を信じて祝福されましたが、アハブは主のことばに従わず、自分の力を信じた結果、ヨシャファトの望みはかないませんでした [続きを読む]
  • 91自分の欲求
  •  イスラエルの歴代の王のことを考えてみることにしましょう。レハブアムは、父ソロモンをなんとか越えようとがんばったのかも知れません。しかし自分の富と権力を守ることに懸命になり、そこに暮らす民のことを忘れていました。「わたしはさらに重い軛を負わせ、さそりで懲らしめる」という言葉の通り、さらに民に苦難を強いる道を選びました。その結果、イスラエルは分裂し、兄弟同士で戦うことになってしまいました。そして、レ [続きを読む]
  • 90荒れ果てた心(エゼキエル13〜24)
  • 現代に目を移したとき、当時のイスラエルの民の考え方が再現しているようにも思えます。この時代の出来事そのままではなくても、人の考え方自体がほとんど同じだということに気づきます。どんどん自分の欲望のみを追求し、人の富を何とか取り上げることを考え、人の力を何とか自分の欲望のために利用することを考え、自分の欲望の充足に関係のない人との関わりは切り捨てています。先進国と呼ばれる国々はなんとか見かけの体裁を保 [続きを読む]
  • 89荒れ果てた心(エゼキエル13〜24)
  • イスラエルの民は、これまでどんな悪に対しても大きな天罰を与えてこなかった神に対し、これからも神の態度は変化しないと思っていましたが、ここに来て、神は「わたしは生きている」と告げられました。神は怒りを民に向けることを決意されたのだと思います。エゼキエルは罪深いイスラエルのしるしであり、エルサレムにいたときは権力者のひとりだったのでしょうが、バビロンに連れてこられ、神の言葉を聞くうちに、なぜこのような [続きを読む]
  • 88荒れ果てた心(エゼキエル13〜24)
  • イスラエルの民が自分の欲求が満たされるように暮らしてきた結果、国はどんどんさびれていき、豊かだった土地は荒廃した土地へと変わっていきました。彼らはこれをイスラエルの神の罰だと考えていたかも知れませんが、その罰を受けることになったのも自分の行いによるものだとは思わず、これまでの先祖の悪行が子孫に帰ってきているものだと考えていました。神はイスラエルの民を回心させ、もう一度エルサレムを元の豊かで平和な地 [続きを読む]
  • 87荒れ果てた心(エゼキエル13〜24)
  • 時折、神はイスラエルの民に対して怒りを表しましたが、民は表面的に神にすがりついて赦しを請いました。神はその表面的な謝罪を受け入れ、何度も民を赦してきました。しかし、ソロモン王の頃をピークにその後エルサレムが栄えることはなく、人の心はどんどんすさみ、町は荒れ果てていきました。貧しいものからはすべてのものを取り上げ、人は飢えるようになりました。弱いものは戦場に送り出され、剣によって倒されるようになりま [続きを読む]
  • 86荒れ果てた心(エゼキエル13〜24)
  • しかし、イスラエルの民は自分の欲求のことしか考えていませんでした。神との契約よりも、国の平和よりも自分の欲求が優先しました。自分の欲求が満たされないときは、自分よりも貧しい者から取り上げ、弱者を虐げて、それを正当化するために偶像を拝み自分の言葉を正当化してきました。近隣の国がイスラエルの神を信仰しているか堂かではなく、自分の生活に対する利益のみを考え、豊かな国を頼り、強い国にへつらってきました。ブ [続きを読む]
  • 85荒れ果てた心(エゼキエル13〜24)
  • 預言書の多くはバビロン捕囚の頃のことを書いていて、エゼキエルもまたその時代の人です。ちょうどエルサレムが陥落した頃です。そして、常にエジプトから救い出されたことがイスラエルの原点になっていることに気づきます。エジプトの地で奴隷として虐げられていたイスラエルの民は、神に救い出され乳と蜜の流れるカナンの地に導かれました。その時、彼らは神と契約を交わし、イスラエルの神を信じることを誓いました。神は彼らに [続きを読む]
  • 84自分の十字架を背負う⑤(ルカ9:18)
  • イエスさまは自分を捨てて十字架を背負うように言います。自分のことだけ考えれば、十字架を背負うことなど必要ないでしょう。十字架を背負うことは自分の利益を考えて背負うことではないのです。十字架を背負って歩んだその先に神さまはおられます。そして、わたしに従いなさいと言われているのです。十字架は自分の力に見合ったもので、その苦難は自分で乗り越えられるはずですが、それでも神は手を差し伸べてくださっています。 [続きを読む]
  • 83自分の十字架を背負う④(ルカ9:18)
  • さらに「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失うものは、それを救うのである」というのです。もう何が何やらさっぱりわかりません。わたしたちは、イエスさまが復活したことを知っています。死を迎えたイエスさまの復活はわたしたちにとって大きな希望です。重い十字架を背負ったとしても、その先に何が待っていようとも、さらにその先にはイエスさまが待っていてくださると思うからこそ十字架を背負 [続きを読む]
  • 82自分の十字架を背負う③(ルカ9:18)
  • 弟子たちにとって、イエスが「神からのメシア」であることを確認しますが、それに答えてイエスは「人の子は多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と言うのです。救い主と信じた方が殺されると分かったら、何を頼りに生きたら良いのでしょう。救い主がいなくなったら、どうやって救われるというのでしょう。三日目に復活するとはどういうことなのでしょう。いろ [続きを読む]
  • 81自分の十字架を背負う②(ルカ9:18)
  • イエスさまの弟子たちはどうだったのでしょう。弟子たちがイエスさまに従ったのは、苦しみから逃れるためだったのではないでしょうか。イスラエルの国は攻め込まれ占領され、生活も楽ではなかったでしょう。救い主に従えは、毎日悩み苦しんでいることから解放されるのではないかと思うのです。確かにイエスさまと共にいる時は、日々の生活のことを忘れて、人々に福音を伝えるイエスさまの姿を見続けることができました。しかし、今 [続きを読む]
  • 80自分の十字架を背負う①(ルカ9:18)
  • イエスさまは「自分の十字架を背負いなさい」と言います。十字架とは自分が経験しなければならない苦しみです。できればその苦しみを味わいたくはありませんが、だれもその苦しみを代わってくれる人はいません。神さまは生きる上で、わたしが新しい人にうまれかわるために、わたしが背負う十字架を定められたのです。できることなら重荷は背負いたくありません。まして十字架と言われる心の負担はとり除きたいと思います。でもイエ [続きを読む]
  • 79正しく生きる(歴代誌下)
  • 主の目に正しいことを行い続けるということは、なんと難しいことなのでしょうか。多くの歴代の王が即位した当時は主を心に留め、正しく生きようとしていたのに、富と権力を得るに従い、神がいなくても生きることができる、神をも自分の意のままに動かすことができるとまで考え、傲慢になるものでしょうか。自分の正しさを主張し、人の意見を聞かなくなるのでしょうか。遠くにある幸せよりは近くにある快楽を求めてしまうものなので [続きを読む]