古代日本国成立の物語 さん プロフィール

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古代日本国成立の物語さん: 古代日本国成立の物語
ハンドル名古代日本国成立の物語 さん
ブログタイトル古代日本国成立の物語
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/himiko239ru
サイト紹介文小学生の頃から好きだった邪馬台国と古代史。自分なりに解き明かしたいと思い続けて40年。少し真面目に取
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更新頻度(1年)情報提供142回 / 365日(平均2.7回/週) - 参加 2016/09/01 17:10

古代日本国成立の物語 さんのブログ記事

  • 景行天皇(その12 近江遷都)
  •  景行53年、日本武尊の平定した諸国を巡幸したいと考えた天皇は伊勢から東海道に入った。上総国から海路で淡(安房)の水門に着いた。淡水門は弟橘姫が入水した馳水(はしるみず)、つまり浦賀水道であろう。東国からの帰りに伊勢に立ち寄り、綺宮(かにはたのみや)に留まった。綺宮は三重県鈴鹿市加佐度町に跡地がある。近くに日本武尊の墓である能褒野王塚古墳があるので、天皇は子の地でわが子を偲んだのであろう。そして翌 [続きを読む]
  • 景行天皇(その11 日本武尊の死)
  •  日本武尊が東国平定を終えて戻ってきた尾張で娶った宮簀媛は初代尾張国造である小止余命の子で、尾張戸神社の祭神である建稲種命の妹である。日本武尊はこのあと草薙剣を宮簀媛のもとに置いて近江の五十葺山(伊吹山)の荒ぶる神を倒すために出かけた。しかし、山の神は雲を起こして雹を降らせた。峯には霧がかかり谷は暗くなり、日本武尊は道に迷った。正気を失って病になり、やっとの思いで尾張に戻ることができた。しかし宮簀 [続きを読む]
  • 景行天皇(その10 東国征討)
  •  景行40年、天皇は東国へ出発しようとする日本武尊に斧と鉞(まさかり)を授けて、蝦夷は凶暴で手強い、一方で日本武尊は勇猛かつ無敵で、まさに神であると説き、天下の位も日本武尊のものであると言って、吉備武彦、大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)のふたりを従わせるとともに、七掬脛(ななつかはぎ)を料理人として付き添わせた。 日本武尊はまず倭媛命に会うために伊勢神宮に立ち寄った。そこで倭媛命から激励を受 [続きを読む]
  • 景行天皇(その9 尾張の勢力)
  •  熊襲討伐の功で天皇の篤い寵愛を受けた日本武尊であったが、次に東国が騒がしくなったときに再び征討担当に任命されることとなった。自分は九州から戻ったばかりで疲れているので次は大碓皇子を派遣してはどうかと奏上したところ、大碓皇子は逃げて隠れてしまった。天皇は大碓皇子を美濃に封じることにして、結局は日本武尊を派遣することにした。  またしても美濃が出てきた。どうやら景行天皇の時代は美濃や尾張に縁があるよ [続きを読む]
  • 景行天皇(その8 日本武尊による熊襲征討)
  •  景行天皇による九州平定の話は古事記に収録されていないことから史実ではないという考え方もあるが、私はこれまで書いてきたように、崇神王朝は垂仁天皇の時期までに大和において神武王朝勢力を押さえることに成功したので、次のステップとして彼らの本拠地である九州を攻め落とそうとする戦略に至るのは必然であると思うので、天皇が自ら西征したかどうかはわからないが、何らかの形で九州への遠征が行われたと考えている。その [続きを読む]
  • 景行天皇(その7 九州平定④)
  •  八代県豊村(現在の熊本県宇城市)のあとは有明海を越えて高来県(島原半島一帯)へ、そこから再び有明海を戻って玉杵名邑(熊本県玉名郡および玉名市)に至り、土蜘蛛の津頬を殺害した。その後、内陸部へ移動して阿蘇国に到着した。当ブログの第一部の「倭国vs狗奴国 戦闘の様子」で詳しく見たように、玉杵名邑から阿蘇国にかけての一帯には狩尾遺跡群、池田古園遺跡、池田遺跡、下山西遺跡、西弥護免遺跡など、大量の鉄器や鍛 [続きを読む]
  • 景行天皇(その6 九州平定③)
  •  前回、神夏磯媛は中臣氏の遠祖である天種子と菟狭津媛の間にできた子の後裔ではないか、という全くの想像話を書いた。時代は少し下って仲哀天皇の9年、仲哀天皇は熊襲を討とうと筑紫へ向かったが、ここで神功皇后に神が憑依して新羅を討てと告げた。しかし天皇はそのお告げに反して熊襲を討とうとしたが失敗に終わり、その直後に崩御した。その後、神功皇后は山門県(やまとのあがた)で土蜘蛛の田油津媛(たぶらつひめ)を誅殺 [続きを読む]
  • 景行天皇(その5 九州平定②)
  •  景行18年、天皇はさらに進んで熊県(くまのあがた)、現在の熊本県球磨郡に到着した。兄熊(えくま)・弟熊(おとくま)という土着の豪族の熊津彦兄弟がいたので呼び寄せたところ、弟熊が来なかったので派兵して誅殺した。 その後、海路で葦北の小島に泊まった。現在の熊本県葦北郡である。この島には水がなかったので天神地祇を仰いで祈ると崖の傍から水が湧き出したという。このことからこの島を「水島」と呼ぶようになった [続きを読む]
  • 景行天皇(その4 九州平定①)
  •  書紀における景行天皇の最大の事績は、天皇自らが出向いた九州平定と日本武尊を派遣した熊襲征伐および東国平定である。まずは九州平定を見ていこう。なお、古事記では天皇による九州平定の話は記載されていない。 景行12年、熊襲が反抗して朝貢してこないことを理由に天皇は九州に向けて出発した。これまで何度も述べてきたように、熊襲あるいは隼人は神武天皇のお膝元である九州中南部を支配する一族である。崇神天皇から垂 [続きを読む]
  • 景行天皇(その3 美濃への行幸)
  •  景行4年、天皇は美濃へ行幸した。美濃で崇神天皇の皇子である八坂入彦皇子の娘、八坂入媛を妃とした。八坂入彦皇子は崇神天皇と尾張大海媛の間にできた子で、美濃のあたりを支配していたとされる。母方を頼って尾張に移動したという考えもあるがどうだろう。私は、尾張大海媛は大和の葛城を本貫地とする尾張氏と、饒速日命とともに丹後から大和に移ってきた大海氏との間にできた娘で、神武王朝が崇神王朝との融和を狙って崇神天 [続きを読む]
  • 景行天皇(その2 影媛と武内宿禰)
  •  景行3年、天皇は紀伊国へ行幸したが諸々の神々を祀ろうと占ったところ、よくない結果が出たので行幸を中止した。そして代わりに屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を遣わした。この屋主忍男武雄心命は書紀では第8代孝元天皇の孫にあたる人物である。彼は阿備柏原(あびのかしはら)に滞在して神祇を祀ったが、それが9年間にも及んだという。そしてその間に影媛を娶って武内宿禰が生まれた。 この影媛であ [続きを読む]
  • 景行天皇(その1 丹波勢力の影響力)
  •  今回より第12代景行天皇を考える。景行天皇は第11代垂仁天皇の第三皇子で母親は日葉酢媛命である。この日葉酢媛は丹波道主命の子であり狭穂彦の反乱で命を落とした狭穂姫のあと、垂仁天皇の二番目の后となった。つまり丹波の勢力が崇神王朝の外戚に入ったことになり、その日葉酢媛が生んだのが景行天皇である。また、古事記によれば前后の狭穂姫は彦坐王の子とされてり、丹波道主命は彦坐王の子であるから、狭穂姫と日葉酢媛 [続きを読む]
  • 吉武高木遺跡
  •  2017年4月、初夏を彷彿とさせる日差しの強い日、福岡県福岡市西区吉武にある吉武高木遺跡を訪ねました。西に飯盛山、東に室見川を望む地に営まれた弥生時代の大規模な遺跡で、弥生時代中期のクニの成立と展開を知る上で特に重要な遺跡とされています。遺跡の中心部が「やよいの風公園」として整備され、前週にオープンしたばかりのタイミングでした。福岡平野の西端にあたる場所ですが、遺跡の範囲を考えると脊振山から流れ出る [続きを読む]
  • 日前神宮・國懸神宮
  •  2017年8月18日、紀伊半島半周ツアーの最後の訪問地は日前神宮(ひのくまじんぐう)と國懸神宮(くにかかすじんぐう)。2つの神社が1つの境内にあり、いずれも紀伊国一之宮である。神社に到着したのが16時50分。参拝は17時までとされ、まもなく閉めるのでもう入らないで、という感じ。ちなみに上の正面からの写真は参拝後に撮ったために柵が閉められています。入口からの参道が突き当たったところ。向かって左に日前神宮、右に [続きを読む]
  • 竈山神社
  •  2017年8月18日、一泊旅行の2日目。和歌山市和田にある竈山(かまやま)神社を参拝。祭神は神武天皇の長兄である彦五瀬命。 記紀によると、日向を出て瀬戸内海を東征してきた神武軍は難波に上陸、孔舎衛坂での長髄彦の軍と一戦を交えることになったが、この戦いで五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。その後、一時退却した一行が雄水門(男之水門)を経て紀国に進軍中に五瀬命は崩御したため、この竈山の地に葬られたという。  [続きを読む]
  • 丹生都比売神社
  •  2017年8月17〜18日、紀伊半島の西側を半周するドライブ旅行に行ってきました。17日の11時頃に富田林の自宅を出発、丹生都比売神社と高野山を参拝し、そのまま高野龍神スカイラインを走って龍神温泉で一泊。2日目は紀伊半島をさらに南下して奇絶峡を観て田辺市へ。田辺からは国道42号線を北上して白崎海岸に立ち寄り、再び42号線へ戻ってそのまま和歌山市内に入って竈山神社と国前神社・國懸神社を参拝、少し時間が遅くなったの [続きを読む]
  • 天日槍と大丹波王国
  •  天日槍の渡来ルートを考えることでその後裔一族が建設した王国の姿が見えてきたが、その拠点が但馬であった。ここで思い出すのが「丹後王国」あるいは「大丹波王国」であり、丹後に降臨したとされる饒速日命である。物部氏による先代旧事本紀に描かれた饒速日命は天日槍と似た点がいくつかある。たとえば、天日槍は渡来時に七種あるいは八種の神宝を持参し、饒速日命は天神御祖(あまつかみのみおや)から授けられた十種神宝とと [続きを読む]
  • 天日槍の王国
  •  魏志倭人伝に記される帯方郡からの遣使である張政の来日を素地として書紀に都怒我阿羅斯等が記されることとなった。では一方の天日槍はどうであったのだろうか。天日槍の渡来は垂仁天皇のとき、あるいは崇神天皇にさかのぼるとも考えられ、それは3世紀中頃から後半、すなわち弥生時代後期後半にあたっている。そしてこの時代は邪馬台国の時代である。また、私の考えでは神武が東征したのもこの頃である。日本海側をみると北九州 [続きを読む]
  • 天日槍と都怒我阿羅斯等の考察②
  •  さて、阿羅斯等が来日したときの最後の上陸地点が敦賀であったことが倭人伝に一致するかどうかは疑問が残ると前述した。実は「投馬国から邪馬台国への道程」ですでに書いた通り、倭人伝の行程で出雲を出て水行10日後の上陸地点について「丹後半島の手前、現在の兵庫県の日本海沿岸のどこか、あるいは兵庫県まで行かずに鳥取県の東端、現在の鳥取市あたりかも知れない」とし、さらに「水行の際にどうして丹後半島まで行かなかっ [続きを読む]
  • 天日槍と都怒我阿羅斯等の考察①
  •  垂仁紀に登場する天日槍と都怒我阿羅斯等について、この二人を同一とするか、それとも別人と考えるか。「垂仁天皇(その7 天日槍の渡来)」を書いた時点では時間をかけて考えようとして継続検討課題としていたが、その後にいろいろと頭を悩ませた結果としてそれなりに自分の考えができたので書いてみたい。まず、記紀の記述をごく簡単に整理する。【書紀(天日槍)】新羅の王子で日本に聖王がいると聞いて神宝を携えて来日、播 [続きを読む]
  • 比売許曽神社
  •  ちょうど天日槍を考えている最中の2017年7月10日、朝から本社で会議を済ませて別のオフィスへ移動する途中、ふと思い出して立ち寄った。場所は大阪市東成区、鶴橋駅の近くである。   日本書紀では垂仁天皇紀の都怒我阿羅斯等(大加羅国の王子)の話に、古事記では応神天皇段の天之日矛(新羅の王子)の話に登場する。都怒我阿羅斯等は白い石が変身した童女を追っていくと日本までやってきて、童女は難波で比売語曽社の神とな [続きを読む]
  • 垂仁天皇(その10 田道間守)
  •  垂仁90年、天皇は田道間守(たじまもり)を常世国へ遣わして非時香果(ときじくのかぐのみ)を持って帰るように命じた。非時香果とは橘のことだと言う。10年後、田道間守はようやく非時香果を見つけて持って帰ってきたが、残念ながらその前年に天皇は崩御していた。田道間守は嘆き悲しんで天皇の陵で亡くなった。 これとほぼ同じ話が古事記の垂仁天皇の段にも記載される。したがって、田道間守が垂仁天皇の時代の人物である [続きを読む]
  • 垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)
  •  古事記、書紀、旧事本紀の3つの史書がこの順で編纂されたことを念頭に、順に神宝を考えてみたい。最初に編纂された古事記によると、天日槍は8種の宝物を持って渡来し、伊豆志(出石)神社に収めた。この8種の神宝は伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)と呼ばれて出石神社の祭神となっている。古事記の次に編纂された書紀は古事記を参照した上で、以下の編集を加えたと考える。 まず古事記の珠二貫は、書紀の羽太玉 [続きを読む]
  • 垂仁天皇(その8 天日槍の神宝①)
  •  垂仁88年、天皇が群卿(まえつきみ)に対して「新羅の王子、天日槍が初めて来日したときに持ってきた宝物は但馬にある。但馬国の人に尊ばれて但馬の神宝となっているが、その宝物を見たい」と言った。その日のうちに使いを派遣して天日槍の曾孫である清彦に宝を献上するように伝えたところ、清彦は羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・日鏡一面・熊神籬一具を神宝として献上した。 清彦は出石の小刀だけは奉るまいと思 [続きを読む]
  • 垂仁天皇(その7 天日槍の渡来)
  •  書紀の垂仁紀には都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と天日槍(あめのひぼこ)という二人の渡来人が登場する。少し長くなるが、両者の渡来について確認する。まず都怒我阿羅斯等から。 ある説によると、都怒我阿羅斯等は崇神天皇のときに日本に聖王がいると聞いて大加羅国(任那)からやってきた。途中、穴門(長門国)に着いたとき、伊都都比古(いつつひこ)なる人物が「自分がこの国の王である」と言って都怒我阿羅斯等を引き [続きを読む]