末永能登守14611514 さん プロフィール

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末永能登守14611514さん: 土芥の一類〜奥州葛西家臣末永氏一族〜
ハンドル名末永能登守14611514 さん
ブログタイトル土芥の一類〜奥州葛西家臣末永氏一族〜
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006
サイト紹介文君の臣を視ること土芥の如く、臣の君を視ること寇讎の如し、と評されし末永一族の闇に埋もれた叛骨の歴史。
自由文時は鎌倉時代から戦国時代、現在の宮城県北から岩手県南にかけて蟠踞した武家の一族葛西氏の家臣末永氏。我が母方の先祖とされるこの一族、時に主君に謀叛を起こしながらも家老にまで立身を遂げた叛骨気鋭の武者ぶりを、様々な視点から論じ、滅びし者達の声無き声を明らかにするブログです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供165回 / 365日(平均3.2回/週) - 参加 2016/09/03 00:53

末永能登守14611514 さんのブログ記事

  • 第十三章72末永清連の乱・今参局覚悟の切腹、旦那売券
  • 産まれたばかりの長男の早死にを政治利用した日野家サイドの卑劣極まりない讒謗を受けた今参局は、近江国蒲生郡島村(滋賀県近江八幡市)の沖ノ島に流罪となります。案外ほとぼりが冷めたらすぐ帰せる位置に移動させたとも解釈出来ます。長禄3年(1459)1月19日、配流の途次、今参局は日野家の刺客の襲撃を受けますが、無実を訴える為とはいえ、女性ながら毅然として切腹して果てます。将軍義政と素肌を合わせた上半身を露わにしな [続きを読む]
  • 第十三章70末永清連の乱・大崎教兼の官途推挙状
  • 康正3年(1457)4月21日、奥州探題大崎7代教兼は、駿河守、肥後守、近江守といった官職に推挙する官途推挙状を現存するだけで20通発行しています。奥州探題教兼が探題の責務たる官途推挙権を行使していた証左となる文書群ですが、これら官途推挙状には左衛門佐教兼の署名花押はあるものの、推挙した人物名が記されていません。官職名だけの官途推挙状にもやはり諸説が入り乱れ、推挙する大名家の構成員を大崎教兼が把握していなか [続きを読む]
  • 第十三章68末永清連の乱・出羽国高寺の合戦、宇都宮等綱追放
  • 松川氏の系図によれば康正元年(1455)は、磐井郡奥玉領主(岩手県一関市千厩町)奥玉千葉左近胤永に次男利胤が誕生します。奥玉千葉尾張守利胤は後に、磐井郡松川館主(岩手県一関市東山町)松川筑後守胤滋の養嗣子となり、五郎右衛門滋吉と名を改めます。しかし、この奥玉千葉氏の具体的なルーツは他に史料が無く、不明です。康正2年(1456)3月2日、石川郡(福島県)の石川持光が没します。享年不明。妻は伊達氏宗の娘で、長男 [続きを読む]
  • ご訪問者様のべ26000ヒット達成記念
  • 〜企画展・伊達綱村に行って来た〜お陰様を持ちまして昨日、当ブログはご訪問者様のべ26000ヒットを達成致しました。閲覧の皆様にはこの場を借りましてまっこて(薩摩弁)篤く御礼申し上げるもんでごわす。今回は珍しく割とまともなネタを披露したく思います。多賀城市内を車で走ってたら、路傍の電柱に“伊達綱村”ってあるから、何だ!?って思って検索してみたら、東北歴史博物館で300年遠忌の特別展があるんだって。伊達綱村に [続きを読む]
  • 第十三章65末永清連の乱・鳥海秀政の乱、及川光村の軍功、享徳の乱
  • 山内上杉憲忠が誘い殺された時、無双の家宰鎌倉長尾景仲はどこで何をしていたかと言いますと、遠祖鎌倉権五郎景正が発祥と所縁の地を巡礼していて不在にしていました。5代鎌倉公方成氏はそこんとこも見越して狙い殺しにしたのでしょうか。暮れも押し詰まる時に滅多矢鱈な仕業を犯す奴です。謹賀新年どころではなくなった暴走老人鎌倉長尾景仲は、直ぐ様娘婿の太田資清、その主君扇谷上杉顕房、更に犬懸上杉憲顕(禅秀氏憲の次男) [続きを読む]
  • 第十三章62末永清連の乱・葛西尚信誕生、織田郷広の尾張守護代再帰問題
  • 長井菅原氏の系図によれば宝徳3年(1451)2月25日、磐井郡流荘永井青葉山館主(岩手県一関市花泉町永井字角屋)長井菅原内記道長が没します。享年68歳。長男駿河守長良が跡を継ぎます。どうでもいいけど、菅原道真の子孫なのに藤原北家みたいな名前が並んでる。3月18日、会津の芦名氏11代当主下総守盛信が没します。享年44歳。長男下総守盛詮が12代当主を継ぐのですが、これに反対する勢力が反乱を起こします。盛詮は白河郡(福島 [続きを読む]
  • 第十三章61末永清連の乱・江の島合戦
  • 努力家、求道者としての一面がある太田道灌ですが、一方で自信過剰な才子としての一面もあり、父ちゃん資清に、「こりゃ伜、“驕れる者は久しからず”なんだぞっ」と窘められると資長は、「なーに言ってんだかオヤジ、驕らなくったって久しからずなんだっての」と切り返したとか。たとえ相手が父親だろうが主君だろうが平気の平左で口答えする、才気走った機知に富む論難屋というと、三国志の諸葛恪(孔明の甥・203〜53)を想起さ [続きを読む]
  • 第十三章60末永清連の乱・留守氏の内紛と大崎持兼の軍事介入
  • 奥州探題大崎6代持兼は、別名持詮が3代詮持と紛らわしいだけあって、詮持に似てやや力に任せた、力ずくで政治を振り回す傾向があったようです。「余目旧記」によれば、応永年間(1394〜1428)といいますがもっと後の時代と思われます。留守氏11代当主駿河守家明が享年不明で没し、山内首藤氏の娘を母とする次男四郎詮家が家督を継ぎます。山内首藤氏の娘とは山内首藤頼通の姉妹か伯叔母と思われます。いずれにしても留守氏と山内首 [続きを読む]
  • 第十三章58末永清連の乱・葛西信有の早世
  • 文安4年(1447)2月7日、9代太守葛西満信の第9子7男、末永清連にとっては同母の末弟である葛西新九郎信有が早世します。享年27歳。戒名は春英。妻は磐井郡藤沢館主(岩手県一関市藤沢町)岩渕近江守高経の長女であることは先述しました。推定12、3歳くらい。当然実子の誕生は望めません。もう少し年格好の近い夫婦であれば幾人かの子宝に恵まれたのかも知れません。もし、信有が中津山葛西氏を相続していたならば、遂に中津山家の [続きを読む]
  • 第十三章57末永清連の乱・葛西信有が中津山葛西氏を相続した可能性
  • 文安2年(1445)4月12日、黒川氏直が黒川郡三関鶴館城(富谷市)に本拠を置きます。4月17日、桃生郡中津山館主(石巻市桃生町)葛西左衛門佐信貞が没します。享年71歳。息子達が早世し、晩年はいかばかりであったでしょうか。系図に書かれていることのみ従えば、中津山葛西氏はこれで名跡が絶えたものと考えられますが、もし、信貞が後継者を定めていたならば(系図には書いてなくても普通に考えればそうするだろう)、それは信貞 [続きを読む]
  • 第十三章56末永清連の乱・福地頼重の誕生
  • 嘉吉2年(1442)は、下国桧山安東盛季・康季父子と南部義政(正しくは政盛)とが合戦し、敗れた安東氏は蝦夷地(北海道)への逃走を余儀なくされます。嘉吉3年(1443)3月、葛西10代太守持信が帰郷します。7月21日、7代将軍足利義勝が早世します。享年10歳。又もや将軍位は空位となります。「大苗代系図」によればこの年は、登米郡保呂羽館主(登米市登米町)登米氏に長男義賢が誕生します。系図の不備により、両親の名前は不明。 [続きを読む]
  • 第十三章55末永清連の乱・嘉吉の和約、葛西大崎合戦が一時停戦する
  • さて、長々書いてしまいましたが、足利義教の雄図挫折は室町幕府にとって最大の損失でした。後に残るのは幼い子供達ばかりで、これより将軍自ら辣腕を奮う時代は無くなりました。ですが日本史全体で考えると、その後戦国乱世が訪れない可能性があるわけですから、北条早雲を先駆者とする織田信長、豊臣秀吉、徳川家康等の登場が無かった、あるいは形を変えて世に誕生した可能性はあるわけです。葛西氏にとって6代将軍義教の死はむ [続きを読む]
  • 第十三章54末永清連の乱・塀の中で臭いメシを食ったヤツら
  • 嘉吉元年(1441)9月10日、山名持豊、細川持常、赤松貞村らの攻撃を受け、赤松満祐は将軍暗殺の実行犯安積行秀の介錯の下、切腹して果てます。享年61歳。9月28日、満祐の長男教康は嘗て北畠満雅の乱の際、室町幕府との和睦を斡旋し、それが切っ掛けで深い交流を結んだ伊勢国司(三重県)北畠教具(満雅長男)を頼りますが、拒絶され、自害して果てます。享年わずかに19歳。嘉吉2年(1442)3月21日、杳として姿を晦ましていた足利義 [続きを読む]
  • 遠祖末永能登守宗春公御命日&遠祖末永安芸守清連公御一族謀反記念日
  • 本日11月3日は遠祖末永能登守宗春公の505回忌の祥月命日、翌11月4日は遠祖末永安芸守清連公享年57歳とその長男末永孫七郎清元公享年32歳、次男末永孫八郎清久公享年29歳、清元公の長男末永孫二郎清次公が兄で主家の葛西11代太守伯耆守持信公に叛逆し、その待ち伏せを受けて討死を遂げてより552周忌の祥月命日に相当いたします。よってここに謀反人故にささやかながら、記念の更新を致します。三陸道が何時しか延伸し、登米東和なん [続きを読む]