末永能登守14611514 さん プロフィール

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末永能登守14611514さん: 土芥の一類〜奥州葛西家臣末永氏一族〜
ハンドル名末永能登守14611514 さん
ブログタイトル土芥の一類〜奥州葛西家臣末永氏一族〜
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006
サイト紹介文君の臣を視ること土芥の如く、臣の君を視ること寇讎の如し、と評されし末永一族の闇に埋もれた叛骨の歴史。
自由文時は鎌倉時代から戦国時代、現在の宮城県北から岩手県南にかけて蟠踞した武家の一族葛西氏の家臣末永氏。我が母方の先祖とされるこの一族、時に主君に謀叛を起こしながらも家老にまで立身を遂げた叛骨気鋭の武者ぶりを、様々な視点から論じ、滅びし者達の声無き声を明らかにするブログです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供142回 / 365日(平均2.7回/週) - 参加 2016/09/03 00:53

末永能登守14611514 さんのブログ記事

  • 第十三章25末永清連の乱・末永清連が家督を継ぎ、その一方で大叔父になる
  • 永享3年(1431)10月6日、登米郡吉田館主(登米市米山町)末永淡路守清夏が没します。享年48歳。美濃守清香、弾正晴基とも記されます。戒名は道悟。養嗣子清連が跡を継ぎます。この時20歳。家督を継いだ清連は安芸守と名乗ったことが「末永系図」に記されます。さて、10月6日という日付は、清連の孫と考えられる末永能登守宗春が葛西13代副太守宗清に謀叛した日であることが「首藤氏系譜・代々系脈図・貞通条」いわゆる「永正合戦 [続きを読む]
  • 第十三章24末永清連の乱・困難に立ち向かうが故に苦悩する独裁者
  • 永享2年(1430)は、葛西持信4弟・西舘和泉守重信と柏山近江守の娘との間に長男清継が誕生します。「中舘系図」にはこの長男は信輔と記されているのですが、「薄衣状」から清継が正しいのではないかと推定されるので、今後も清継で記していきます。「薄衣状」については後述します。また、松川氏の系図によれば、松川左衛門胤基と及川駿河守重倫の娘との間に長男胤滋が誕生します。及川重倫とは磐井郡中川館主(岩手県一関市大東町 [続きを読む]
  • 第十三章22末永清連の乱・足利義教将軍宣下、馬篭氏の復活
  • 末永清連が日本史にデビューした当時は不作と飢饉から来るこれまでにない社会不安が国内を覆っていました。金沢熊谷氏、富沢氏の系図によれば正長元年(1428)は、栗原郡三迫岩ケ崎館主(栗原市栗駒)富沢日向守胤重が没します。享年66歳。長男修理景重が跡を継ぎます。富沢胤重の年子の長兄で磐井郡金沢北館主(岩手県一関市花泉町)熊谷丹後守胤直も次弟と同じ年に没します。享年67歳。ひっくり返した名前の長男丹波守直胤が跡を [続きを読む]
  • 第十三章20末永清連の乱・日本版王権神授説の体現者
  • 鎌倉時代を俯瞰する時、果たして鎌倉時代の研究者は「吾妻鏡」読んでんのか、という疑問がよぎります。同様に、室町時代を俯瞰した時、もしかして室町時代の研究者は足利将軍家が嫌いなんではないか、という疑念が湧いて来るのです。好き嫌いは措いといても、面と向かって調べてないだろって言いたくなる時はあります。足利義教なんて生来の異常性格者だったとか、何を根拠に書いて出版してんだかさっぱりわかりません。応仁の乱の [続きを読む]
  • 第十三章17末永清連の乱・大崎氏の代替わりと留守氏の内紛、奇妙な紛争解決法
  • 大籠首藤氏の系図によれば応永32年(1425)、桃生郡合戦崎館主(石巻市樫崎)首藤宮内少輔徳通に長男胤通が誕生します。何時の頃かは判明しませんが、大崎氏の家督が満詮から持兼に移ります。初名を持詮、葛西氏など他家の文書では持明と記されるこの人物、奥州探題としては4代目、大崎氏としては3代目に当たり、何やらややこしいですが、奥州斯波氏の家兼を初代と定めると(その息子直持を初代とする系図があるから本当に数え方が [続きを読む]
  • 第十三章15末永清連の乱・未成年飲酒が招いた悲劇、青年将軍義量の早死に
  • 応永30年(1423)7月23日、上国湊安藤鹿季(かのすえ)が没します。享年不詳。長男成季が跡を継ぎます。別名なのか書き間違いなのか、鹿季は庶季(もろすえ)とも廉季(かどすえ)とも記されます。その長兄・下国桧山安藤盛季ではないかと考証されている安藤陸奥守なる人物が、新将軍義量に馬、シャチの皮、昆布、明銭などを献上しています。東北で陸奥守の名乗りを許されるくらいですから葛西満信級の凄い人物だったんでしょう。8 [続きを読む]
  • 第十三章13末永清連の乱・古代郡衙城柵にちなんだ大崎氏の居館、御所
  • 話は少し逸れますが、ここまでの大崎氏歴代の戒名と本拠地についておさらいしたいと思います。初代家兼、戒名長国寺殿・国府多賀城→志田郡師山城(大崎市古川師山)2代直持、戒名大興寺殿・師山城3代詮持、戒名金龍寺殿・遠田郡瀬ケ崎(登米市米山町中津山)4代満持、戒名続灯寺殿・長岡郡小野御所(大崎市古川小野字須賀)5代満詮、戒名向上寺殿・小野御所実は大崎氏歴代の住まいには共通点があって、それは律令制度下における古 [続きを読む]
  • 第十三章12末永清連の乱・日本史上における大崎氏の初見
  • 「佐久間本国分系図」によれば、国分兵庫助盛定に次男盛行が誕生します。その誕生は父盛定の奉公先である相模国鎌倉郡山ノ内(神奈川県鎌倉市)でしょうか、はたまた所領がある名取郡川上邑(名取市高舘川上)でしょうか。後に国分修理亮盛行は伯父盛忠の養嗣子として11代目を継ぎ、国分氏の最盛期を築きます。「住心院文書」によれば応永29年(1422)10月19日、住心院住職を兼任していた大悲寺僧正(詳細不明)が没し、法印御房( [続きを読む]
  • 鬼のやうなる大河論・第11回「風林火山」
  • 大河病というのがある。といってもおいらがそう勝手に呼んでるだけなんだけど、大河ドラマの影響力に取り憑かれてしまって、役者さんの人生が変わってしまうこと。例えば「炎立つ」の影響で馬を飼うようになった村田雄浩さん、財前直美さんとか、「葵徳川三代」の影響で憂国の士となった津川雅彦さんとか。主役を演じるにあたって住まいを変えた柴咲コウさんもある意味大河病と言えるし、ラストサムライ勝元や硫黄島の栗林中将に出 [続きを読む]
  • ご訪問者様のべ24000ヒット記念
  • 8月10日をもちまして当ブログはご訪問者様のべ24000ヒットを達成致しました。つつしんで篤く篤く御礼申し上げます。更新のほうも継続は力なりでして、ゴールデンウィークとか大きな休みにしっかり更新したら読者も増え、何は無くとも日毎20名くらいのご訪問をいただくまでに至りました。8月5日付記事におきまして過去最高の8ナイスをいただきました。取っ付き憎い小所帯にお付き合いいただき、ナイスしていただきましたブロガー諸 [続きを読む]
  • 第十三章11末永清連の乱・葛西持信の家督相続と清連の同母弟
  • 9代満信は初代清重ほどではないにしろ、極めて英邁な当主でした。合戦はほぼ負け知らず、領地も登米郡、桃生郡と拡大させています。政治的にも東北を代表する大人物だったことが系図に記されていて、「末永系図」にも弓馬の達人であると評価されています。葛西満信が側室を身籠らせた中での死因は、記されていませんが、脳卒中や心臓発作などの突然死だったのではないでしょうか。病魔に蝕まれて死期が近付いている瀬戸際に子作り [続きを読む]
  • 第十三章8末永清連の乱・上杉禅秀の乱討伐で葛西氏は武名を挙げる
  • 室町幕府による討伐軍に武蔵国江戸城主(東京都千代田区)江戸氏、石神井城主(東京都練馬区)豊島範泰が呼応します。応永24年(1417)1月1日、越後国(新潟県)と信濃国(長野県)からの別働隊が南下し、相模国鎌倉郡世谷原(神奈川県横浜市瀬谷区)で両軍が激突。上杉氏憲軍が豊島範泰を含む討伐軍を押し返すものの、今川範政の本隊が相模国へ進軍し、挟撃されそうになるや鎌倉に馬首を返しますが、1月10日、上杉氏憲、足利満隆 [続きを読む]
  • 第十三章7末永清連の乱・国分氏と亘理氏の仲介人、上杉禅秀の乱
  • 千田氏の系図によれば応永22年(1415)、桃生郡太田館山館主(石巻市桃生町)千田讃岐守重綱に長男重賢が誕生します。母は宮沢丹後守時次の娘。日形千葉氏の系図によれば応永23年(1416)9月17日、あの高齢で子をもうけた磐井郡峠苅明館主(岩手県一関市花泉町)寺崎越中守胤資が没します。享年65歳。長男刑部胤時(胤継・1390〜1463)が跡を継ぎます。9月24日、名取郡余田(名取市)で亘理胤茂と国分盛経とが激突し、国分氏9代右 [続きを読む]
  • 第十三章6末永清連の乱・鎌倉府の燻り、名取郡飯田の合戦、葛西満信の外孫
  • 中里熊谷氏の系図によれば応永20年(1413)、磐井郡中里館主(岩手県一関市中里)中里熊谷因幡守直淳に長男康直が誕生します。母は豊嶋内膳信平の娘。応永21年(1414)9月、伊勢国司北畠満雅が再び室町幕府に反旗を翻し、挙兵しますが、土岐持益、仁木満長が討伐に赴きます。千田氏の系図によれば、この年は桃生郡太田館山館主(石巻市桃生町)千田肥後守重元が没します。享年69歳。長男孫七郎重廉(1369〜97)が早世しているため [続きを読む]
  • 第十三章4末永清連の乱・清連と同い年の甥っ子、名取郡川上の合戦
  • 末永清連誕生の応永18年(1411)は、桃生郡永井館主(石巻市桃生町)長井菅原式部長朝に次男朝光が誕生したことが津谷川菅原氏の系図に記されます。母親は後藤丹波守基継の娘とありますが、7代当主高清の長男清常と次男清秀の外祖父もまた後藤丹後守基継と記され、同一人物と見ると西暦1333年、1339年産まれから約80年間外孫に恵まれ続けたことになり、まず有り得ません。どちらかが誤伝したのでしょう。ちなみに葛西清秀は桃生郡 [続きを読む]
  • 第十三章3末永清連の乱・登米郡吉田大沢館
  • 旧河北町の郷土史家・故紫桃正隆氏編著「史料仙台領内古城・館」によれば、末永清泰、清夏親子が居館とした登米郡吉田大沢館は、旧米山町、旧登米町、旧豊里町の3町境が交叉する県道230号線の傍らの、登米の山野を眇漠に遠望出来る緩慢な小高い丘陵地帯の一頂にあり、頂上に作られた本丸の規模は東西に長く150メートル、南北100メートルの楕円形で、周りには土塁や空堀が廻らされていましたが、鬱蒼とした雑木林に覆われてその実体 [続きを読む]