末永能登守14611514 さん プロフィール

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末永能登守14611514さん: 土芥の一類〜奥州葛西家臣末永氏一族〜
ハンドル名末永能登守14611514 さん
ブログタイトル土芥の一類〜奥州葛西家臣末永氏一族〜
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/notnokami14991006
サイト紹介文君の臣を視ること土芥の如く、臣の君を視ること寇讎の如し、と評されし末永一族の闇に埋もれた叛骨の歴史。
自由文時は鎌倉時代から戦国時代、現在の宮城県北から岩手県南にかけて蟠踞した武家の一族葛西氏の家臣末永氏。我が母方の先祖とされるこの一族、時に主君に謀叛を起こしながらも家老にまで立身を遂げた叛骨気鋭の武者ぶりを、様々な視点から論じ、滅びし者達の声無き声を明らかにするブログです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供167回 / 365日(平均3.2回/週) - 参加 2016/09/03 00:53

末永能登守14611514 さんのブログ記事

  • 第十一章27みあと遥かなり・葛西右馬助と上形シュサンの要検証な武勇伝
  • 長岡郡沢田(大崎市古川)を攻める畠山国詮・芦名直盛・留守家任連合軍は吉良貞経・斯波詮持連合軍に敢え無く敗退、鳴瀬川を伝い、志田郡長世保三十番神(大崎市松山次橋)に退却します。追う吉良貞経・斯波詮持連合軍は遠田郡鉢森(美里町北浦字蜂谷森)に布陣し、鳴瀬川を挟んで矢合戦となります。頽勢となった畠山・芦名・留守軍は途中、志田郡長世保長尾(大崎市松山長尾)の“八ひろくき”なる場所に留守家任執事佐藤兵庫助ら [続きを読む]
  • 第十一章26みあと遥かなり・斯波詮持が住むところ、留守家任痛恨の失敗
  • 旧行方郡は現在の登米市米山町をまるまる一個包含する郡で、郷は清水(登米市米山町中津山字清水)と余目とありますから、凡そ100戸にも満たないコオリというよりはムラに毛の生えた程度の郡だったようです。中津山の丘陵は登米平野から見れば田んぼのど真ん中に立つ東西に細長い独立丘陵で、その北側を迫川と衝突した北上川が西に激しく蛇行し、平野部に様々な沼沢湿地帯を零溢しながら、旧遠田郡田尻町(大崎市田尻)の蕪栗沼で [続きを読む]
  • 鬼のやうなる大河論・その8「おんな城主直虎」
  • 年次を遡ってラスボス・独眼竜政宗に辿り着くまで、大河ドラマを斬って斬って斬りまくりながらも、満身創痍で討ち死にするかも知れない実に好い加減で無謀極まるこの企画。今回は終わりたてホヤホヤの「おんな城主直虎」です。気になるサブタイトルは、〜戦国時代にサボテンてあったっけか?〜実は女性当主、女性大名、女性城主というのはさして珍しい存在ではない。かくいうおいらの母方先祖末永家も初代当主は女性で、典型的な女 [続きを読む]
  • 第十一章23みあと遥かなり・吉良治家の乱と背後に蠢く謀略
  • 1367年(北貞治6年・南正平22年)1月25日、奥州管領斯波直持は相馬胤頼に名取郡坪沼郷(仙台市太白区)と堀内郷(名取市)を与えています。吉良氏では若い当主持家に大叔父貞経(貞家次弟)と叔父治家(満家次弟)が後見に付いていましたが、貞経は室町幕府を、治家は鎌倉府を背景につけて骨肉相食む対立を繰り広げるようになります。吉良治家は常陸国小田氏家臣と連携し、斯波直持が白河結城顕朝に安堵した高野郡に小田氏家臣が、 [続きを読む]
  • 第十一章20みあと遥かなり・気仙沼熊谷直政が葛西高清に臣従する
  • 1363年(北貞治2年・南正平18年)8月、元良郡赤岩城主(気仙沼市)熊谷直政は本領安堵を条件に葛西高清に屈服します。これ以後元良郡熊谷氏は、葛西氏に謹厳実直なまでの忠節を武功によって尽くす一族として存続していきます。9月14日、磐城郡薄衣館主(岩手県一関市川崎町)薄衣内匠頭清村(常隆)が享年62歳で没したと系図に記されますが、板碑から建武元年(1334)に没したことが判明しています。磐城郡好嶋荘(福島県いわき市 [続きを読む]
  • 第十一章17みあと遥かなり・
  • 1359年(北延文4年・南正平14年)2月、佐々木六角直綱が奥州北方奉行人もしくは奥州一方探題なる役職に任ぜられ、陸奥国紫波郡(岩手県)に下向します。本当にそんな役職あったのか、と疑いたくなりますが、ここで葛西氏との縁が発生したものと見られます。佐々木直綱と葛西高清の娘との結婚はこの頃ではないでしょうか。そして2人の間の長男繁綱がナントカ元年7月15日に産まれたとするなら、北康安元年(1361)が妥当となり、それ [続きを読む]
  • 第十一章15みあと遥かなり・おんな達の苦悩、そう、どらげない
  • 1356年(北延文元年・南正平11年)8月6日、おんな地頭玄法尼土用若と和田茂実との因縁の押領バトルに終止符が打たれます。すなわち、越後国蒲原郡奥山荘鍬柄、塩沢、塩谷(新潟県胎内市黒川)3ヶ村地頭職が和田茂実の元に返付されるのです。恐らく玄法尼土用若は高齢で没したのでしょう。ひと世代下の血の繋がらない甥茂実が長生きとしたたかさでこれを奪い抜き、勝利を収めます。この背景にはかつて玄法尼の地頭職を付け狙った越 [続きを読む]
  • 第十一章13みあと遥かなり・陸奥介八幡氏の同時史料と系図の食い違い
  • 陸奥介八幡氏は陸奥介を代々世襲する在庁官人化した在地豪族で、こうした介世襲の家柄は、千葉、上総、北条、三浦、狩野、富樫、大内、井伊と、全国に存在しています。その血筋は、良くある話で、同時史料と後世の系図が食い違っていて、そこへ系図から祖先を類推しちゃうもんだから、あぁこの家系は後にルーツが変わったんだと指摘されています。男系が絶え、婿入りして家系を繋いでいく現象は洋の東西を問わず暫し発生し得るので [続きを読む]
  • 第十一章12みあと遥かなり・留守氏の復活
  • 1355年(北文和4年・南正平10年)2月25日、5代奥州管領斯波家兼の長男治部大輔直持が、塩釜神社に馬を1頭、奉納しています。3月、出羽国に居場所を失った北畠顕信が津軽(青森県)へと落ち延びます。同じく3月、黒川郡明石(富谷市)の明石高宗が挙兵します。挙兵の理由は不明ですが、恐らく北畠顕信、山村荘大河戸氏と連動した南朝方だった為に討伐を受けたのではないでしょうか。「佐久間本国分系図」によれば、吉良貞家、正確に [続きを読む]
  • 第十一章11みあと遥かなり・斯波家兼デビュー
  • 吉良貞家の死をきっかけに、陸奥国内の軍事バランスが揺らぎます。1354年(北文和3年・南正平9年)5月18日、初代奥州管領石塔義房の3男義基、改名して義憲が陸奥国にやって来て、同じく3代管領の畠山国氏の遺児・平石丸(国詮)と遺恨で結び付き、管領奪還を狙います。畠山平石丸は更に、白河結城顕朝次弟小峰朝常に対し、管領復帰のための協力要請をしています。6月1日、相馬親胤に北朝幕府より恩賞として黒川郡南迫(不明)、宮 [続きを読む]
  • 第十一章9みあと遥かなり・吉良貞家の八面六臂と北朝天皇家の復活
  • 1352年(北観応3年・南正平7年)3月15日、国府多賀城を北朝幕府軍奥州管領吉良貞家に奪い返された守永親王と北畠顕信は、刈田郡三沢城(白石市大鷹沢)を経て3月17日、信夫郡小手保大波城(福島県福島市)に立て篭もりますが、そこでも敗退して南朝方の田村郡(福島県田村市)田村荘司宗季の招きを受け、田村郡宇津峰城(福島県郡山市)に落ち延びます。この戦いに戦傷ゆえか体調を崩した北朝方相馬出羽守親胤は参戦出来なかったの [続きを読む]
  • 第十一章8みあと遥かなり・軍忠状受信者が新田小野寺氏である可能性
  • 文書の欠落のため、状況が不明となり、某とされた富士門流武士は、戦歴の地理的状況から、恐らく栗原郡に本拠を持つ人物であると考えられます。となると宮野重春の長男・左京大夫弘光(1340〜1402)は幼いので、重春の弟・大膳介弘宗あたりが想定されるところです。おいらは大胆不敵にも新田小野寺氏を想定してみたいと思います。この頃の新田小野寺氏の事績は、史料が絶無のため、全く不明です。そもそも旧新田郡にいません。血統 [続きを読む]