ひょうすんぼ さん プロフィール

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ひょうすんぼさん: ひょうすんぼ
ハンドル名ひょうすんぼ さん
ブログタイトルひょうすんぼ
ブログURLhttp://hyousunbo.hatenablog.jp/
サイト紹介文宮崎県の田舎町都農町について 民俗、歴史、観光の話し
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供70回 / 365日(平均1.3回/週) - 参加 2016/09/04 00:48

ひょうすんぼ さんのブログ記事

  • 尾鈴山について 再考③尾鈴山と饒速日命
  •  再考①で尾鈴山で祭られている神と都農神社で祭られている神は同一だと記したが、この説には大きな欠陥がある。都農神社の祭神は大己貴命であるが、尾鈴山を祭る尾鈴神社、細神社は共に饒速日命を祭神としているのである。再考③では何故尾鈴山で饒速日命が祭られているのかについて考えていきたい。 まず饒速日命について説明する。饒速日命は神武天皇より天から降り、ヤマトの地にいたとされている。神武天皇の東征に対して [続きを読む]
  • 尾鈴山について 再考②信仰の起源
  •  尾鈴山の信仰の起源は何か。 御神体を避難させたことで尾鈴山信仰が生まれたとの説も採りうるが、避難させる以前の室町時代に尾鈴山と吐乃大明神の関連性が述べられている以上説得力を欠く。 また都農神社と三輪氏との関連性から、尾鈴山を三輪山に比定するという考え方を私は以前採っていた。この説によれば、三輪氏の移住が信仰の起源となる。しかしこれも三輪山と尾鈴山を実際に登ってみると誤りであることがわかった。平 [続きを読む]
  • 尾鈴山について 再考①尾鈴山と都農神社
  •  尾鈴山について以前記事を書いたが考えが変わったため再掲する。 尾鈴山そのものを祭っている神社として、尾鈴神社、細神社がある。両神社とも尾鈴山の近くにあり、尾鈴山信仰が生まれるのはもっともであろう。 今回考えるのは都農神社が尾鈴山信仰を内包しているかである。  「日向国古臾群に、吐濃峯と云う峯あり。神おはす。吐乃の大明神とぞ申すなる」 (日向国 風土記 逸文) 日向國古庚郡、常ニハ兒湯郡トカク [続きを読む]
  • 都農の民話
  •  都農高校の先生が編纂した「つの町ふるさと物語」には町史に収められていない多くの民話が収録されていた。恐らく発行部数は少なく、図書館などにしか置かれていないと思われる。聞いたことがある民話と細かい点で内容が違うものも多く、その意味で参考になった。 民話の多くは都農で使われる慣用句の由来や、地名の由来などだが、河童、神武天皇関連の逸話も多かった。のほほんとした民話が多い。それだけに以前も紹介した「都 [続きを読む]
  • 日向諸県君と葛城氏
  • 1、日向諸県君と葛城氏 西都原考古博物館で特別展として「日向諸県君と葛城氏」が展示されていた。宮崎県立西都原考古博物館|開催中 5世紀に活躍した日向の諸県君と大和の葛城氏についての展示である。 以前紹介した「古代日向の国」という本で両者の関係についての考察がなされているのだが、同著の著者は西都原考古博物館の館長を務めた方であり、今回の展示にはその延長線上の考察が展開されているものと期待していた。  [続きを読む]
  • 川南・西都の神社
  • 1、平田神社(川南) 川南の中心部からほど近い地にある。祭神はヤマトタケルノミコト。 ヤマトタケルノミコトの熊襲征伐の際にこの地に宮が置かれたことが神社の由来となっているそうだが、都農神社と同様に大友宗麟の焼き討ちにあっているため、戦国時代以前のことはわからない。 神社に置かれている記帳を見ると毎日地域の方が訪れているようで、地域の方の信仰は厚いのであろう。またホームページも作り込まれていて驚い [続きを読む]
  • 都農の諸神社と古墳
  • 1、都農の諸神社 以前都農の諸神社という記事を書いたが、今回は案内していただき小さな神社を中心にめぐった。 山間部の神社を除いて10社ほどを訪れた。かつて都農に子供が多かった影響なのか菅原神社が多い。菅原八坂神社という不思議な名前の神社があったが、それには由来があるそうで、教えて頂いたが、ここでは伏せる。 10世帯ほどの小規模の地区も含めてほぼ各地区毎に一つは神社があった。今でも信仰は続いているそ [続きを読む]
  • 県北の山体信仰
  •  都農の名所の一つに尾鈴山が挙げられ、その信仰も厚い。尾鈴山の関連で今回は県北の山体信仰を取りあげる。1、速日の峰 早日渡神社において祭られている。 速日の峰は饒速日が降臨した地として伝えられており、その意味で尾鈴山との関連性を見出すことも出来る。  早日渡神社は延岡市の旧北方町にある。九州中央自動車道を降りてすぐにある道の駅北方よっちみよろ屋から、徒歩5分ほどで行ける。2、二上山 二上神社と [続きを読む]
  • 美々津観光
  •  美々津は都農から近いこともあって、よく通るのだが、町中を訪れたのは子供のころ以来だった。子供のころは祖父が仕事のついでによく美々津まで連れていってくれた。 美々津は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、江戸・明治ごろの趣ある街並みが残されている。写真を撮ればよかっただが、写真では伝わりにくいと思い撮っていない。1、日向市歴史民族資料館 美々津の街並みの中央に位置し、廻船問屋を復元した [続きを読む]
  • つのぴょんと行く!都農町探検
  •  都農の観光地や魅力が3分間にまとめられた、「つのぴょんと行く!都農町探検」という番組があることを今更ながら知った。 3分という時間であれば、細かな魅力も伝えられるであろうし、動画の方が文章よりわかりやすく魅力を伝えやすいので、都農の魅力を知ってもらうのにこれほどいいものはないと思う。 現在は4シリーズ目(恐らく4年目)でそれなりに人気もあるのだろう。つのぴょんと行く!都農町探検4 毎週水曜日に [続きを読む]
  • 何故郷土研究か
  •  前回の記事のように郷土研究とは異なる内容を書くこともある。一応このブログの内容は郷土研究が中心となっている。 では何故郷土研究なのか。 私が把握している限りでは大学の周りに郷土研究をしている人はいない。趣味として取り組もうという人はあまり多くないであろうし、仮にいたとしても若い人にはほぼいないであろう。 郷土研究を初めた理由についてきちんと考えてみると、歴史や民俗が好きで、さらに都農が好きだから [続きを読む]
  • 民俗学の学際性
  • 1、学際性の必要性 島村恭則氏は「フォークロア研究とは何か」[i]の結びにおいてフォークロア研究の学際性を強調している。 もう一つあらためて注意しておきたいのは、フォークロア研究は、人文社会系諸学の学際的状況の中で成立するものだということである。[ii] 同氏によればフォークロア研究とは民俗学を批判的・継承的に発展させたものであるため、民俗学と異なる部分もあるが、民俗学及び他の学問の発展のためにも民俗 [続きを読む]
  • 都農町の誕生
  • 1、明治維新後 1869年の版籍奉還に伴う藩政改革で現在の都農町に属する地域は川北郷と都農町とされた。都農町は商店街がある地域一帯で、川北郷はそれ以外の地域だと思われる。 その後同年10月には北庠という名で両地域は統一される。翌年にはまた北郷という名前に、さらにまた翌年には川北村という名に変わる。 さらにそのまた翌年には地方行政区の設置に伴い都農村と川北村に分置された。 所属する県の移り変わりなど [続きを読む]
  • 都農の歴史⑦ 戦後
  • 1、戦後 戦後都農への復員者は約1300名、引揚者は約700名と合計2000名が都農に帰ってきた。しかし当時の日本は国土の荒廃と食糧難、激しいインフレに悩まされており、都農もその例外ではなかった。そのため長野、牧内、都農牧場へ入植が進められ、約200戸が入植したものの、その多くが離農した。 GHQ主導の下行われた農地改革により、都農町内でも自作農が増加し、94%が自作農となり、戦前の二倍となった。  [続きを読む]
  • 都農の歴史⑥ 近代 大正・昭和前期
  • 1、大正時代 大正9年に都農は村から町へと移行する。都農は児湯郡内でもっとも有権者数が多く、人口も川南と僅差の二番目であった。(町史では人口が郡内で一番とされているが誤記だと思われる。) さらに大正10年には日豊本線が都農まで延び、商業、農業、教育など様々な面で都農に大きな影響をもたらした。また大分県から三日月原を中心とした町内への移住が進んだという。 大正時代は15年と短いものの、その間に都 [続きを読む]
  • 都農の歴史⑤ 近代 明治
  • 1、明治維新の影響 1868年の明治維新から2年後には版籍奉還が行われたものの、実体は以前と変わらなかった。しかし版籍奉還から2年後の廃藩置県により名実ともに藩政が廃止される。その後都農は美々津県→宮崎県→鹿児島県→宮崎県という経過をたどる。行政機構も目まぐるしく変化したが、1898年の郡制施工以降はほぼ今の形に落ち着いた。 税制も変化し、収穫に応じての物納から土地賦課方式の金納となった。しかし農 [続きを読む]
  • 都農の歴史④ 近世
  • 1、江戸時代 都農は江戸時代一貫して、高鍋藩秋月氏の支配下に置かれる。 日向国高鍋領郷村高辻帳(1711年)には現在都農町に属する村々が挙げらている。寺迫村・征矢原村・長野村・瓜生村・岩山村・篠野別府村が記載され、石高は合計すると1983石8斗2升である。 税制は定免法(過去数年の収穫から計算)がとられ、ある年の年貢率は34.1%である。この他にも穀物や銀・銭などの上納や労働力を夫役として提供しな [続きを読む]
  • 都農の歴史③ 中世
  • 1、鎌倉時代 日向國図田帳(1197年)によると、都農は殿下御領と呼ばれる藤原氏の荘園であり、「新納院百二十丁、右児湯郡内地頭掃部頭」に含まれる。新納院とは都農を含む荘園の名で、木城・高鍋・都農・川南を中心とした地域を指す。掃部頭とは源頼朝側近の中原親能のことである。 2、室町時代 九州は南朝の勢力が強く、今川了俊が14世紀末に九州を平定するまで争いが激しかかった。その様子が都農の領主の変遷にも見 [続きを読む]
  • 都農の歴史② 古代
  • 1、中央政府との関わり 律令制が整備されていく中で、国郡里制が施工された。和名類聚抄(931〜938年)には児湯郡都野という記載がある。 都農には駅(伝馬の設置場所)が設置されていたと思われる。都農の草書とよく似た「去飛駅」が都農駅に比定される。 都農の港のほうに都農駅で使われていたという伝承が残る井戸があるが、地理を考えると都農神社付近に都農駅が置かれたと思われるので、後世の創作であろう。 また [続きを読む]
  • 都農の歴史① 原始時代
  •  都農の歴史について簡潔にまとめていく。参考資料は主に都農町史1998年になります。1、縄文時代まで 縄文時代は温暖な気候で、宮崎の海岸付近では現在よりも5〜10mほど海水面が高かったことが予想される。したがって現在の都農の中心部は海で、国道10号線よりも西側の台地で暮らしていたと思われる。 町内における遺跡の数は少ないがいくつかみつかっている。2、弥生時代 立地を考えると縄文後期には稲作が伝わっ [続きを読む]
  • 戦時下の都農
  •  まずは都農の戦時下について町史に書かれていることを簡単に書く。 都農は隣の川南に空挺部隊の演習場があった影響で、野営地の一つとなっていた。都農からも多くの兵士が徴集され、都城連隊に編入されて中国、フィリピンなどを転戦した。また沖縄県の糸満市から疎開を受け入れていたという。その縁で姉妹都市となっている。 戦争末期になると予測される米軍の上陸作戦(オリンピック作戦)に対処するため、都農に師団が配備さ [続きを読む]
  • 都農のゲストハウス
  •  都農駅がリニューアルしたそうだ。8月になれば夏休み入るので、ジオラマも見に行ってみたい。都農駅がリニューアルしました - 日々の都農 都農にはあまり宿泊施設が多くない、最近出来た国道沿いにあるホテルAZと駅前の亀屋、町中の大黒屋のみである。 私は一人で旅行するときにはゲストハウスに泊まることが多い。大抵一泊2000円程度と安く、また同年代の宿泊客と交流出来るからである。 調べてみたところ都農にもゲ [続きを読む]
  • 南原繁と折口信夫 その四
  •  一応柳田の祖霊信仰(固有信仰)が神道の普遍宗教化につながる可能性について考えてみる。祖霊信仰はその名が表すとおり、祖先信仰が根底にあり、丸山の南原に対する批判がそのまま当てはまる。柳田の祖霊信仰においては氏族的な性格は弱められているという反論があるかもしれないが、日本的な習俗が背景にあるわけで普遍宗教とは言い難い。またそもそも柳田は祖霊信仰の普遍宗教化を企図していないだろう。 ここまでみてきたこ [続きを読む]
  • 南原繁と折口信夫 その三
  •  折口信夫の神道普遍宗教化については柄谷行人氏が「遊動論 柳田国男と山人」において批判している。ただしタイトルにもあるようにあくまで柳田国男論が中心で、柳田国男の固有信仰と対比する形で折口を批判している。(第四章の5 p157~166)Amazon CAPTCHA 該当部分の要約 折口信夫は神道から祖先信仰的なものを取り去れば普遍宗教化出来ると考えているが、祖先信仰は普遍宗教化の妨げとなるものではない。普遍宗教には神 [続きを読む]
  • 南原繁と折口信夫 その二
  •  前回の記事の続きになります。今回は前回取り上げた南原繁と折口信夫の論考についての批判になります。 南原繁に対する批判は丸山真男によってなされました。1964年に行われた南原繁と丸山真男の座談会において南原は以下のように述べます。  民族の個性があって、ほんとうの祖国日本という意味においての民族の共同体はいつまでも残さなければならない。世界の共同体ができても、これを踏まえてのものですね。それはい [続きを読む]