tanaisa さん プロフィール

  •  
tanaisaさん: 麗しき声の肖像という幻想
ハンドル名tanaisa さん
ブログタイトル麗しき声の肖像という幻想
ブログURLhttp://tanaisa.exblog.jp/
サイト紹介文近・現代詩をめぐる批評的な文章をつづりながら、世間の風に吹かれるあれこれも時たま書きたいと思う
自由文最初は以前に書いた近代、詩人論をアレンジしながら、現在の目で読み返す事から始めたいと思う。

若いときとは気分も考えも恐らくずぶん変わっているにちがいないとおもう。けだし、そんなに進歩的ではないかもしれない。

成るようにしか成らない暮らしの中で、書くことの楽しさをじっくりあじわえればいい。そんな他愛もない文章を誰が読むか!と思いながら、書き継ぎたい。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供8回 / 365日(平均0.2回/週) - 参加 2016/10/04 08:33

tanaisa さんのブログ記事

  • 中原中也ノート4
  • 中也が三歳の記憶を二十代の終わりに書いているが、子供の頃は親の期待に応えようと、何でもよくやった優等生でそして早熟だったようだ。前回につづき子供の頃の中也について小学生の頃から中学生の頃について、みていくことにする。一九二〇(大正九)年、小学六年の時には雑誌や新聞に短歌を投稿。{婦人画報二月号)に次の歌を自薦として掲載。「筆捕りて手習いさせし我母は今は我より拙しと云ふ」。地元の「坊長新聞... [続きを読む]
  • 山村暮鳥の初期詩編をめぐって6
  • 指をつたうてびおろんにながれよる 昼の憂愁、 然り、かくて縺れる昼の憂愁 一の処女をsといい二の処女をfといい 三の処女をyといい 然してこれらの散りゆく花が廃園の噴水めぐり、 うつむき、匂いみだれてかがやく。 びおろんの絃よ! 悲しむ如く、泣く如く 哀訴の、されどこころ好き唄をよろこぶ銀線よ! 昼の憂愁 …… ... [続きを読む]
  • 山村暮鳥の初期詩編をめぐって4
  •  山村暮鳥が群馬での生活を離れて東京築地聖三一神学校に入学したのは明治三十六年。入学の経緯については曖昧ながら、親しかったウオールの世話であったようだ。本人の「半面自伝」によれば「(進学校に入るまで)に自殺を図ること前後三回。学校では乾燥無味なギリシャ、ヘブライの古語学より寧ろ文学の方面により多くの生けるものを感じ、その研究に傾いた。」と 述べている。 暮鳥は明治三十七年に岩野泡明、前田林... [続きを読む]
  • 山村暮鳥初期詩編をめぐって3
  •  暮鳥の詩論である「言葉に非ず、形象である。それが真の詩である。」を引用しながら朔太郎はそこに疑問を呈している。「私はこの説似たいしては七分通り賛成三分透り反対である。」と暮鳥の詩論が進みすぎているということに賛意を保留したとみた方がいいようである。「最もよく詩の特質を発揮した詩編」として「だんす」を揚げて、その詩について読みを試みている。あらしあらし しだれやなぎに光あれ あかんぼ... [続きを読む]
  • 山村暮鳥初期詩編をめぐって(2)
  • 北原白秋は大正三年九月に発刊の『地上巡礼』に暮鳥は、朔太郎、犀星とともに詩を発表することになるが、翌年三月には第二巻第二号で終刊となってしまう。その後の人形詩社発行『卓上噴水』の広告を、此処に書き写してみる。 「人魚詩社機関紙 卓上噴水 三月一日創刊。人魚詩社の門は感傷門にして、その扉はラジウム製その額上には金属の穂龍を点ず。いま、門にはいるものゝため、我等があたらしき饗宴がひ... [続きを読む]
  • 山村暮鳥初期詩編について
  • *以前もこの場で発表した文章ですが、今日はあらためてかきうつします。山村暮鳥が、萩原朔太郎、室生犀星と 「人形詩社」を設立したのは大正六年三月のこと。『文章世界』の紹介によると、「人魚詩社」は「詩、宗教、音楽の研究を目的」としていた。暮鳥が、朔太郎、犀星との詩の世界でむすばれていたのは北原白秋への敬慕ということからでもあって、お互いの作品を認めあっていた。のちに暮鳥の詩第二詩集『聖三両稜... [続きを読む]
  • 伊東静雄ノート6
  • 八月の石にすがりてさち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。わが運命を知りしのち、たれかよきこの烈しき夏の陽光のなかに生きむ。  運命? さなり、あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり!白き外部世界なり。見よや、太陽はかしこにわずかにおのれがためにこそ深く、美しき木陰をつくれ。われも亦、雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて青みし狼の目を、しばし夢みむ。 ... [続きを読む]
  • 伊東静雄ノート5
  •  原田憲雄は次のように述べている。  「そこにうたわれた『昔のひと』を、藤村とみたてても、さまで検討ちがいとはなるまい。藤村は  その死を『春の若草が萌えるやうに何の煩いもなくこだわりもなく、青春のよろこびを心任せに自  由に歌った。』だが『冷たい場所』に使ったとき、詩を捨てた。藤村も散文では『荒々しい冷たい  この場所』を見始めていたといえないことはない。」  長々と引用ばかりして... [続きを読む]
  • 伊東静雄ノート4
  •  「彼は詩集を出す時、いつも題名に非常に苦心するのが常だった。『夏草』のもとの名は「朝顔・その他」だし、河出書房の現代詩人全集に入れる時、考えた名は「光耀」「拒絶」「夜の葦」である。」と、述べているのは富士正晴である。伊東のよき理解者でもあった富士氏が簡単な年譜を書いている。ここで写しておきたい。伊東静雄は明治三九年一二月一〇日長崎県の諫早に生まれ、昭和二八年三月十二日国立大阪病院長野分... [続きを読む]
  • 伊東静雄ノート3
  • 「発想は暑く烈しく無ければなりませんが表現においては沈着暢達でなければいけないと思います。〈略〉私自身『わがひとに与ふる哀歌』から『春のいそぎ』 へたどった道を思い浮べ個性の宿命といふのを不思議なものに思っております。「読書新聞」というのに『春のいそぎ』を評して「作者の温厚篤実な人柄のままにうたはれた云々」とありましたが、哀歌の当時誰が渡しを温厚篤実だなどと評しましたらう。〈略〉」... [続きを読む]
  • 伊東静雄ノート2
  •  伊東静雄の詩集は『わがひとに与ふる哀歌』と『夏花』のうちの数編を頂点とし、戦争詩とみなされる七編の作品を含む『春のいそぎ』を詩的達成とは別に、底辺に置くとするおおかたの評言に異論はないとおもう。およそ昭和七年から一八年に至るその間の三つに詩集は、ゆうまでもなく戦争期と重なっており、その時代の精神の刻印を明瞭に認めることができる。 伊東のことばでいえば〈意識の暗黒部との必死な格闘〉により一... [続きを読む]
  • 伊東静雄ノート1
  • 伊東静雄の詩業が近代詩の流れの中でどのような位置におかれてるのかについて私はしらない。で、始まるかなり古い文章(一九七九年三月発行・「ルパン詩通信」)がみつかったので、今回はそれをここに書き移したいとおもう。今年になって書いた詩人論で山村暮鳥①②、立原道造①〜④、大手拓次①、の小さな論文に比べて、少し言葉も古いが、それほど考えは変わっていないようにも思えるので、あえて書きうつそうとおもう。... [続きを読む]
  • 井上靖詩論のためのメモ8
  • (8) 一九九〇年一〇月、第八詩集として上梓された最終詩集『星闌干』(集英社刊)には四十九編が収められている。そのタイトル詩の中に、次のような詩行がある。    ?星闌干?なる詞がある。闌干とは、星の光り、輝き、乱れ、流れ、跳ぶさまをいうと、辞書には記してある。このような星の乱れ、飛ぶ、烈しい交錯の中に、故里の夜空のあの独特の美しさの中に、?平成? の自分を立たせることができた... [続きを読む]
  • 井上靖詩論のやめのメモ
  • (7) さて、本題の井上靖の詩の世界に限ってみていくと、詩集『地中海』に、「少年」という作品がある。  少年はフェーン現象のため大火が多いことで知られる東北の町へ下車した。大きな石榴の実が八百屋の店先きに並んでいる季節であった。少年は二日間そこに居て、真赤に燃える空を期待したが何もおこらなかった。少年は夜行列車で北陸の町へ移動した。蜃気楼の出る町 で会った。町は祭りで賑わってい... [続きを読む]
  • 井上靖詩論のためのメモ5
  • (6)  そこで伊藤は「詩もまた、その叙事的な要素をとっくに小説に譲り渡してしまったし、その抒情性の多くを歌謡に譲り渡した。いま詩は何をもっているのか?感覚と思想とをリズムの中にとらえることのみを、その領域としている。」つまり普遍的、本質的なものを譲り渡してしまった詩に未来はあるかといった、痛烈な問いであったと思う。当時の詩のわからなさについての評論はいろいろあったようだが、結果的に... [続きを読む]
  • 井上靖詩論のためのメモ4
  • (5) 井上靖は、明治四十年(一九〇八)五月六日、北海道旭川町第二区三条遠十六の二、旭川第七師団官舎でうまれた。軍医の父隼雄と母八重(戸籍上はやゑ)の長男。井上家は伊豆湯ヶ島で代々医を業とした家柄であった。この年父が朝鮮半島に従軍したので、翌四十一年には母と伊豆に帰り、同四十二年より父の転任にともない東京、静岡、豊橋と移り住んだ。 大正三年(一九一四)湯ヶ島尋常小学校に入学。同九年、浜松... [続きを読む]
  • 井上靖史論の為のメモ(3)
  • (3) 井上靖は大村正次との出会いによって『日本海詩人』に十三編の詩を発表している。このことはくりかえしになるが、東京の詩誌『焔』(主宰者・福田正夫)の同人になったのもこのころである。 さらに、十一月には高岡の同人誌『北冠』(主宰者・宮崎健三)の創刊号にくわわる。この年しばしば『高岡新報』に井上の詩が掲載される。まさに。旺盛な詩作の時期のはじまりでもあった。 いまあらためて、井上靖の... [続きを読む]
  • 井上靖詩論のためのメモ(2)
  • (2) 井上靖は『わが文学の軌跡』の中で「日本海詩人という雑誌が石動でだされていました。主宰者は大村正次さんでした。日本海詩人には、昭和四年から五年にかけて約十編の詩を発表しました。その同人の独りに宮崎健三さんがおりまして、高岡で“北冠”という雑誌を創刊することになり、私もそれに寄稿しました。」と詩との出会いにふれながら往時を懐かしくしのんでいる。 ここで『全詩集』(新潮社版)の《拾遺詩... [続きを読む]
  • 井上靖の詩的出発を巡るメモ(一) 
  •       (1) 北陸のこの地にみぞれが降りだす十一月の頃になると、きまって井上靖がはじめて書いたという詩のことが思い出される。井上が高校二年のとき(金澤の旧制第四高等学校時代)のこと。室生犀星の詩集『鶴』を読んで、すごく感動し、自分も詩を書こうとおもいたって書いた詩を当時新聞の紹介でみた『日本海詩人』という詩誌のもとをたずねる。昭和四年(一九二九)のことであった。井上文学の出発はこの... [続きを読む]
  • われ発見す、夢の島!ー瀧口修造「星と砂とー日録抄」を読む
  • 古書店で見付けたぼくにとっては、まさに夢の本であった。ここには、浅草と新宿というふたつの街が、夢みる現場のように現れる。銀座や渋谷ではない、まして六本木や赤坂、麻布界隈ではない。だが偶然のようにふたつの限定されたこの場所は、あたかも取りかえしのつかない未生の夢が降る街であるかのように、作者の創造の現場をうつしだすからだろうか。胸躍らせて頁をめくった。そこには「星と砂と」いう物質の夢。鳥や... [続きを読む]
  • 昭和粥曲の軌跡(明治編)⑤
  •  亜蝉坊は「ディアポロ讃歌」で〈欲に限りなき物凄い人は〉と歌い「女心の唄」を「へんな心」として〈株がさがる 株がさがる 小気味よく株がさがる〉と皮肉りましたが、そこには皮相的な社会風刺はみられますが思想性はなく、同時に話題をよんだものはどしどし取り込んでゆくどん欲さを強く感じます。また、松井須磨子自殺のあとには〈現か夢か亡き君にの〉で始まる追悼演歌をつくり〈この世の名残り劇壇の 名花一輪散り... [続きを読む]
  • 昭和歌謡曲の軌跡(明治編)4
  • ●富の鎖り富の鎖りを解き棄てて自由の国に入るは今正しき 清き 美しき共よ手を取りタツは今(中略)迷信深く地に入りて拓く難き茨道毒言辛く襲うとも毒手苦しく責むるとも(以下略)●思いでいづも習わぬわざの牧場もり 草のいおりの起きふしに人のなさけのうす衣  うき世の風ぞ見にはしむ●山路こえてみちけわしく行く手通し こころざすかたへいつかつくらむ日も暮れなば石の枕... [続きを読む]
  • 昭和歌謡曲の軌跡3
  • 少し後のことになりますが、山本笑月の『明治世相百話』にも明治二十九年の記録として「興行前にまず宣伝とあって、新調の背広に鳥打ち帽子、両肩から望遠鏡と水筒を綾にかけ、脚絆わらじという物々しい扮装で浅草公演辺りをブラつく」とありますから、なかなかプロデューサー的才能もあったと思われます。権利幸福嫌ひな人に 自由湯をば飲ませたい   オッペケぺ オッペケペ オッペケペポーペッポッポッポー ... [続きを読む]