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  • B -48 辺見庸の自己欺瞞 ー『コロナ時代のパンセ』をめぐってー

    辺見庸は不如意な老体で命を長らえている。作家としては「出がらし」作品や厭世観を吐露する雑文を綴るだけの日々。直近では『コロナ時代のパンセ』。かつての辺見ならば、こんな作品を出さなかったはずだ。新型コロナが発生してから述べている部分はほんの少ししかない。まさに羊頭狗肉。しかも書下ろしでないことさえ、この本の出版に当たって辺見のブログ等でも知らしていない。月刊「生活と自治」(生活クラブ連合会)での「随筆」の焼き直しなのだ。 辺見にも生活の糧が必要なのだから、それも致し方ないのだろうが、晩節を汚してほしくない。さらには、変な小細工はしてほしくない。天皇制における天皇の非人間性(制度による呪縛)は糾弾…

  • B-47 詩という商品

    辺見庸が、最近の自著・詩集『純粋な幸福』についてブログで語っている。 「初速好調。出足よし」と自画自賛しているのだ。評判を気にして出版社にかわって「番宣」しているようなものだ。 これまでの辺見は、自著の売行 なんか全く気にする素振りは見せ なかったのに。こんな辺 見を見 ていると悲しくなる。 かつては、分かる者だけが読め ば良い、売れなくてもよい、と 言い放ったものだった。 そう言えば辺見が去年10月に上梓した『月』については、今や、彼は何も話さなくなった。そして誰も見向きさえしていない。当然のことと思われる。

  • B- 46 余話

    辺見庸のブログが再開したようだ。 文章に迫力はなく、辺見の「絶望病」が進行しているのが目立つ。 『月』については全く触れていない。世の中も、それについては「完全スルー」状態である。内容の「推敲不足」から当然のことであるし、是非もないことでもある。 「辺見庸は終わった」ということか。 目取真俊、高祖岩三郎、白井聡などがいるが、基本として、私たちの知的活動も「自給自足」を旨とすることに変わりはない。

  • B-45 隷属の呪縛を撃つ

    辺見庸が沈黙している。ブログを更新しないだけでなく、ブログの文章も昨年の夏にまでさかのぼって削除してしまっている。『月』の執筆に関するブログの文章も同時になくなっている。 そこで今回は、アベ(政権)について少し書いてみよう。 中堅政治学者の白井聡の『永続敗戦論』は、自民党とりわけ現在の安倍政権と、それをなんとなく(または仕方なく)支持してしまっている国民を撃つ本としてわかりやすい。 その中心は「対米従属批判」であり、それだけだと日本共産党と特に変わりはない。ただし、歴史的事実や背景について、わかりやすく言葉を多くして書かれていることが読者に好感を持たれた。あきらめ癖のついてしまっている日本人が…

  • B-44 NHK /Eテレ “在る”をめぐって

    辺見庸/出演(2019年1月13日放送)を視た。その感想を記しておこう。 いわゆる社会的弱者は自ら「無くてもよい」人間になったのではなく、初めから「無くてもよかった」のでもない。その問題提起はあってもよい。だが、ことの要諦は本当にそこにあるのか。 また、“在る”ことをめぐる「おためごかし」の正論を受容・容認するのか、それとも排除するのかを問うことが重要な論点なのか。その背景に切り込んでほしかった。 詩的・文学的な観念とレトリックに埋没し厭世感覚に漂っていること自体が、視聴者を限りなく「末枯れ・収縮」させることに繋がるのではないか。ふとそんな思いがよぎったのだった。 現代社会は、比喩的な表現をす…

  • B-43 「弱み」につけ込む

    人間や組織が他の「弱み」につけ込むことについて、辺見庸は著作の何箇所かで触れている。彼はそのことについて深くは考察していないのだが、宮地尚子という人の著した本のなかで次の文章が目に留まった。 日本にも強く波及しつつある米国のネオリベラリズム(新自由主義)が危険なのは、弱みにつけ込むことがビジネスの秘訣として称賛されることで、弱さをそのまま尊重する文化を壊してしまうからだとわたしは思う。(宮地尚子『傷を愛せるか』大月書店、2010年) さらに、新自由主義の危険を医療ビジネスモデルで捉えることに対して、医療人類学の研究者であり精神科医でもある宮路は、「病や傷を負った人の弱みにつけ込むことほど簡単な…

  • B-43 雲

    天空に悠然と浮ぶ積雲。行雲流水に憧れる人も少なくないだろう。雲は絵画や詩、小説にも描かれてきた。時間や空間そして状況の変化によって雲はえも言われぬ造形美を見せる。(彩雲、滝雲、光芒など) 一方、異形の雲に驚くことがある(モーニング・グローリー、夜行雲、ダウンバーストなど)。 雲に人間の罪業を見る眼も忘れてはならないだろう(原子雲、兵器としての雲、放射性物質や有害物質を含む雲、社会の矛盾溶解への利用)。 産業(農林水産業や工業・サービス産業・情報産業)活動とつながりをもつ雲。自然災害をもたらす雲の乱調と防災についてもしっかりと見据える。 雲をゆっくり観想することなく日々を過ごす私たちだが、雲につ…

  • B-42 米国の断末魔  

    辺見庸は、小泉「構造改革」のときにすでに新しいタイプの「世界恐慌」を指摘していた。そして今や米国の衰退は明白であり、中国の国家社会主義に覇権を奪われつつある。口舌の徒たちの「うわごと」など吹き飛ばされている。 この情勢の基調について白井聡の指摘はあまりにも的確だ。 社会ダーウィニズムを基本とする新自由主義は、「自由」を標榜しながら国民を包摂し排除する。そこにあるのは資本の利潤極大化原理の貫徹と、それをひたすら支える政治体制(権力)である。 (参照、白井聡『「永続敗戦論」の新たな展開!」NHK出版、2016年』)

  • B-41 どこへもとどかない

    言葉がとめどなく拡散し流通している。そのうつろな情況に人びとの意識と感覚が麻痺してしまっている。霧雲がかかったようななかで眼と耳を研ぎすまさなければ自分を見失ってしまう。 「言葉とメディアはたんに資本の自己増殖の手段となってしまった。そうして死刑による屍体たちも、“虚空の輪舞”を踊っている」(『いま語りえぬことのために-死刑と新しいファシズム-』)と、辺見庸は言っている。「“虚空の輪舞”とは資本の増殖運動そのものである」と看破したのがローザ・ルクセンブルグ(1871-1919)であった。 いまは、人間の声はどこへもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代…

  • B-40 しおどきだろう

    辺見庸は、現在、どのような心境にあるのだろうか。 去る11月11日のブログでは「もういいのではないか。やめてもよいのではないか。いいかげんしおどきだろう・・・。」と書いてはいたが。 荒み切った社会・経済・政治そして言葉や知の情況の虚しさに絶望しながら、人間の「存在」の根源まで突き詰めて考える。その佇まいはシベリアのラーゲリに抑留されていた詩人の石原吉郎に通じるものがあるのではないか。石原が生きた時と空間と状況こそ異なるものの、そう思う。 言葉がむなしいとはどういうことか。言葉がむなしいのではない。言葉の主体がすでにむなしいのである。言葉の主体がむなしいとき、言葉の方が耐えきれずに、主体を離脱す…

  • B-39 敗戦後論  

    ヤスパースは、全世界がドイツを弾劾しドイツ人を弾劾する中で、戦争に参加し推進し、または戦争を許し座視したドイツ人の戦争の罪として次の4つを挙げている。 「刑法上の罪」「政治上の罪」「道徳上の罪」「形而上的な罪」(K.ヤスパース『戦争の罪を問う』橋本文雄訳、平凡社、1998年)。 そして彼は次の言葉を紡ぎだす。 「完全な敗戦状態にあって死よりも生を選ぶ者は、生きようとする決意がどのような意味内容をもつかということを意識しながらこうした決意に出るのでなければ、今やおのれに残された唯一の尊厳ともいうべき真実の生き方をすることができない」(K.ヤスパース 敗戦を終戦と言う人が結構多いなか、 加藤典洋は…

  • B -38 消費「怠業」

    消費資本主義の中で根腐れがないかというと、隠蔽しているだけで、地下茎部はもっとひどいかもしれない。(辺見庸の発言。対談『夜と女と毛沢東』吉本隆明・辺見庸、1997年 来年10月から消費税増税が施行される(らしい)。 消費税の徴税(増税)の大義はどこにあるのか? 社会保障の破綻回避? 子育て支援? 財政赤字補てん? 戦時態勢のための試行徴収? コロコロ変わる目的や、マスメディアを使って目先の小手先課題に国民の関心を誘導する卑劣な方法。 はっきりしているのは、財政危機の責任や税金の不正な使途の責任・反省がまったく見られないことだ(先のアジア大平洋戦争の責任さえとっていない)。 そもそも消費する(購…

  • B-37 いっそ滅亡を

    鵺のような社会、欺瞞に満ちた世の中、窒息しそうな状況。 見て見ぬふりをしていても、やがて斃死してしまうか、それとも結局殺されてしまうか。「許せない」「やってられない」「暴いてやる」・・・。 暗く湿った発語。やがて疲労破壊やクリープ破壊を起こす、多くの延性破壊者たち。生き延びさせられていることに耐えられなくなる。暴発する。自己規律を内語で作り上げ(自己教育して)自壊する。根源的な不完全性を背負い込んだ人間、存在者。必要悪である秩序の積み木崩し。 せめて自己規律の構築は、目的化した権力秩序に資する方向ではなく、個の「生の拡充」を。加えて、暴発の方向が問われる。 小説『月』(辺見庸) 「さとくん」の…

  • B-36 辺見庸の講演会中止 ー3日後撤回

    辺見庸の講演会が中止になった。予想されていたとはいえ(中止の伏線はあったし、今回の中止理由ではなかったものの氏の体調の急変も予想されていた)、残念である。辺見庸が「健在」である姿を見たかった愛読者はいたはずだ。 小説『月』は、人間とは何か?存在するとは何か?を根底から問うものであった。だが、作者の着眼や問題提起(真正面からこれに取り組まない表現者がほとんどだった)は評価できるものの、小説として構想・展開・表現はさておくとして、題意の洞察と探究(練り)が不十分であったと私は考えている。 ひょっとすると今回の講演中止の原因は、彼自身がそのことに気づいていて、著者として不本意であったからではないかと…

  • B-35 『月』(辺見庸 著)への一視角

    小説『月』が、いよいよ2018年10月末に単行本として発行される。相模原の障がい者殺傷事件に発想を得た作品である。 相模原での障がい者殺傷事件では、のちにパーソナリティ障害と「診断」された青年(植松聖被告)が、施設で次々と重度障害者を狙って殺した。 辺見庸は雑誌に連載していた小説『月』の最終回で、その青年をモデルにした主人公さとくんと施設職員とみられる人との会話を交えながら、おもに主人公の想念の動きを軸に描いていく。 「なぜ、なぜ、いつまでも<在る>の状況から解放されないのか。解放されてはいけないのだろうか。在りつづけるほうが、かえってひどく空虚ではないのかしらん」(辺見庸) さとくんは心でそ…

  • B-34 「なぜ在る?無くても良いだろうに」: 最新作『月』について

    江藤淳は次の言葉を残し1999年7月21日、自殺した。 「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よこれを諒とせられよ」 これについて辺見庸は、「形骸に過ぎないこととは、果たして恥辱なのか辱めなのか。形骸のように生きることにはまったく実存的意味はないのか」と疑問を呈した。 吉本隆明をはじめとする人々が、江藤淳の最期について、死に際がすっきりした人だとか、遺書はさすがに名文だとか評価した中においてである。 だから辺見庸の『月』での「さとくん」の問いかけや批判は、辺見庸がそのまま首肯してのもので…

  • B-33 小説『月』の出版:執筆中断(放棄)宣言の顛末

    辺見庸の『月』という小説がKADOKAWAの書籍PR誌『本の旅人』に連載されていたが(2017年11月号~2018年8月号)、連載は2018年8月号で最終回となった。その末尾には、次の表記はなかった。 *本作はノベルスとして小社より刊行予定です。 (最近の作品では次の作品にはその記載があったのだが)。 ・花村萬月「ニードルス」2018年1月号 ・馳 星周「新宿ゴールデン街」2018年7月号 ・西村京太郎「知覧と指宿枕崎線の間」 KADOKAWAの編集・営業担当の段階では辺見庸の『月』は単行本の出版からは外れていたのだ。その状況を知るための伏線は辺見庸の執筆中断宣言ないし執筆放棄宣言があった。 …

  • B-32 「月」

    辺見庸が雑誌『本の旅人』に連載していた「月」(にくづき)が8月号で最終稿となった。終了の間際近くに連載中止(放棄)の意向が辺見によって表明されたものの、その後、彼は翻意し何とか最終回までこぎつけた。しかし辺見庸には描き切った満足感はないだろう。描き切れるほど軟な題材ではないのだから。 人それぞれが思い描く「真」の心象(月)、それを凝視しつづけ、今まっすぐに突き進む。虹(投影態)が身体から立ちのぼり月に架かる。これをどのように考え描くのか?否定すべき状況を判断し、いっそ滅亡をとの内語に応えることが真っ当なことなのか。 辺見庸の「月」連載最終回にこんな文がある。 もっともっと全的な無。どこにも比較…

  • B-31 彼我の狂気

    相模原事件の植松聖被告は「意思疎通がとれない人間は安楽死させるべきだ」と言った。それは生まれてくる人間の生命の選択操作にもつながる考えだ。 優生思想には歴史があり、心の深奥でそれを肯定する者の存在を認めざるを得ないばかりか、人びとの心にひろがり、やがてそれは「社会や国家に役立たない者の排除、抹殺」の思考と行動となる。背景には、国家(権力による暴力装置)が有無を言わさず人びとを追い立てていく仕組みがある。植松聖被告によって殺された施設の入所者たちは実はそのようなニッポン国によって殺されたも同然である。 辺見庸は記す。 「わたしたちはもっと狂うべきだ。そして、もっと狂うはずである。さらに狂わなけれ…

  • B-30  辺見庸:女性の「性」への視点

    太宰治著『満願』の描写への辺見庸の視点についてみてみよう。 伊豆の三島だと思うのですが、太宰がひと夏をすごしていたところで彼が怪我をして病院にかよううちに医者と親しくなる。 そこにきれいなご婦人が週に何回かくる。病気のご亭主の薬をとりにくるらしい。ご主人はどうやら、結核かなにかだったのでしょう。 ときには医者が玄関までその女性を見送り、「奥様、もう少しのご辛抱ですよ」などと声をかけていた。医師は言外にある意味をこめて「ご辛抱ですよ」といっていたわけです。 ある日その婦人が、もっていた白いパラソルをクルクルッと回して、小躍りするようにして帰っていった。「八月のおわり、私は美しいものを見た」。太宰…

  • B-29 辺見庸の「誤記」

    辺見庸の注意力・集中力はかなり弛緩している。文章の誤字・脱字が目立つのだ。しかも、彼が「もう下手なものを書くことはない。ただよめばよい」、「第8回までつづけた『月』の連載をやめることにした」、そう決心させた梶井基次郎の作品(『犬を売る露店』)の引用文においてミスしているのである。 *カッコ内の表記が、原文における表記。 「落花生の主人は時には夜泣きうどんの車からうどんを運ばせたりする。古本は南京豆の袋入りを買って鼻の下の祭りをする。万年筆やインク(インキ)消しは絶えず喋っているようだし、人足を止めていることも美人絵葉書に次いでいる」。 「しかし(然し)犬屋は、いつも厚司をはき(厚司をき)膝小僧…

  • B-28  辺見庸、「執筆中断(放棄)」の悩乱

    辺見庸が、雑誌に連載している作品(『月』)の執筆を中断するという。(2018/ 5/ 29) もう下手なものを書くことはない。(略)第8回までつづけた『月』の連載をやめることにした。読者には申し訳ないとおもう。 その理由として、「ほとんどのことについて感覚があわなくなってきた。あわせる気力もなくなりつつある」と言うのである。 ただし、この連載中断はいわゆる絶筆とは少し意味合いが異なる。 作家が一切の執筆をやめるのが絶筆である。これには大きくは二種類あり、作者の死亡や重篤な病気によることが多いが、そうではなく、抗議・意見表明または反省等の意味を込めて何らかの宣言を伴う絶筆(この場合は「断筆」とい…

  • B‐27 辺見庸―毎日新聞に載ったインタビュー記事

    辺見庸へのインタビュー記事を読んだ。毎日新聞の藤原章生/記者がインタビューしている。テーマは「官僚らによる一連の不始末」である。 辺見が2004年3月に脳出血で倒れ、その後復帰し『1★9★3★7』の発刊後、朝日新聞や日共などから疎んじられてますます孤立を深めていて、近年では彼の心身の衰えが目立つようになっていたのだった。 記事を読んで正直なところがっかりした。 辺見庸の顔がボーっとしていた(藤原さんの感想)だけでなく、語る内容もボーっとしていた。辺見庸の老いと衰えを感じさせるものであった。 一般人の世間話と変わらない水準の話が記載されている。「馬鹿」という語の由来など少しだけ知識の披露がなされ…

  • B- 26  天皇に手を振る辺見庸

    石牟礼道子さんが、晩年に美智子皇后と縁をもち、胎児性水俣病患者と天皇との面会(2013年10月)の橋渡しをした。このことに対して、辺見庸は次のように述べている。(このことは前にも書いたことがある)。 「時間の芯の腐蝕と天皇家賛美には、なんらかのかんけいがあるとおもう」。 最大の戦争犯罪者であるヒロヒトとその一族(天皇家)は保身を図り、のうのうと戦後を生きつづけ、ニッポンはアジア諸国への侵略と沖縄を「捨て石」にして来たことをすっかり忘れたかのように経済発展にのめり込んだ。 その犠牲になった水俣病患者に寄り添い支援したのが石牟礼さんであったが、晩年、天皇制の罠にはまり「天皇家賛美」に陥った。 辺見…

  • B-25 辺見庸の誤謬

    現代経済は消費によって牽引され、人びとが商品に呪縛され心身が商品に浸潤されている。辺見庸は消費資本主義について次のように発言している。 実感的に言えば、市民なんてこの日本にいやしないのです。いるのは、ただ消費者だけです。われわれは消費する人。モノを作るのは近隣諸国の人。(中略)じゃあどうすればいいんだ。どうしようもないですね(笑)。 辺見は「どうしようもない」と匙を投げてしまっている。そして「こうなった以上は身体がカスになるまで、とことんモノも情報も消費しつづけてゆくしかないんだろう。腐って腐って腐り抜くしかない。そこに楽観論が忍び込む余地なんてない。ただただ悲観論としてこう思うわけです」と言…

  • B-24 正義の戦争(just war)

    一定の条件をクリアすればjust warとして許されるという考え方がある。 例えば、「最終手段または自衛行為として、そして行使される力の規模が適正でかつ可能な限り民間人が暴力にさらされない、といった制限条件下での戦争であればjust warである」とされるのである(オバマ前大統領の<ノーベル平和賞受賞記念講演>での言葉)。 だが、そんなことを言っていたら戦争なんかできやしない。だから「国民の生命と財産を守るため」、さらには「世界の平和実現のため」であれば、正当な(正義の)戦争として許されると主張される(これなどは何とでも解釈できる条件だ)。 その結果、戦争の正当性を判定する開戦法規として用いら…

  • B-23 止まったままの時計

    広島と長崎に「新型爆弾(原爆)」投下の恐れがあることを軍部は事前に察知していた。にも関わらず、投下当日はなぜか警報が解除された状態であったという。警報が発せられていれば少なくとも何万人の命が助かっていたはずだ。 しかも原爆投下予知関連情報などが、日本の敗戦日前後に陸海軍部の命令により急遽焼却処分されてしまったのである。 軍に都合の悪いことはすべてなかったことにするという態度は天皇ヒロヒトに対しても貫かれ、その結果、終戦決断を遅らせた。 (松木秀文・夜久恭裕『原爆投下―黙殺された極秘資料』NHK出版) 戦後70年以上たっても同じことが繰り返されている。陸上自衛隊イラク派遣部隊の日報問題だ。海外で…

  • B-22 空費だ、世界なんて

    月刊『本の旅人』に連載中の「月」(辺見庸)。 そこにさりげなく組み込まれている至言。 「ひとのやることのほとんどは、だれかのまねなんだってさ。(中略)にんげんのやることのほとんどがじぶんだけのオリジナルでなければならないとしたら、大混乱だよな」 「戦争においては、現実を覆っていたことばとイメージが、現実によって引き裂かれてしまい、現実がその裸形の冷酷さにおいて迫ってくることになる。〈エマニエル・レヴィス::引用者註〉」 「ありうる。なんだってありうる。理由だけがない」 「どうせ、すべてはむだな情熱にすぎない。空費だ。世界なんて、せいぜいそんなもんじゃないの。なのに、あたしはどうして世界なんてこ…

  • B-21 心ばえ

    森友・加計問題の茶番劇がマスコミをしばらく賑わしていたが、アベ首相夫妻の直接関与はなかったとの「詭弁」で肝心のことがほとんど「解明」されないまま終わろうとしている。そのかんひたすら自己保身を図る「北朝鮮の独裁者」が政治的駆け引きに走る。J アラートは鳴りをひそめる。 世情では「人工知能が世界を変える」などという虚言が流布される。 何か変だ。何を喪失してしまったのか。 辺見庸の次の言葉が心に滲みる。 「人の心ばえって稀に、請け売りの思想とやらが尻尾巻いて逃げるほど深くて強いものがあると、割合単純に考えるようになりました。人は思想を愛するのではなく、自他の身体や内面を裏切らない心ばえをこそ安んじて…

  • B-20 辺見庸の最新作  

    雑誌『本の旅人』に掲載中の「月」で、辺見庸は晩年の自らを絞りだすように表現している。2004年3月に新潟で講演中に脳出血で倒れ翌年がんがみつかって以降、心身の疲れと苦痛が次第に厳しくなっているのが読み取れる。後遺症は寛解するどころか悪化しているのである。 小説「月」はそんななか、「身体感覚にかかる想念(幻想)」「世の現実」「至言」(「箴言」)の三つを核にしながら主人公が脈絡もないまま語るという形式で展開されている。 身体感覚にかかる「想念」(幻想)につては、例えば次のような表現にみられる。 存在とは痛みなのだ 痛みは存在の搏動である。 耐えられないほどの痛み。これが拷問ならなんでも白状する ど…

  • B-19  受傷者の表現

    「ものを書くということは、俳句であれ詩であれ散文であれ、受傷が前提にあるのだと思います」。辺見庸はそう言っている(『明日なき今日 眩く視界のなかで』2012年)。 辺見が、雑誌『本の旅人』(KADOKAWA)に現在連載中の「月」というタイトルの詩的散文を読んでいるとそのことを痛感する。 この「月」は玄妙な語り口調で書き進められていて、辺見が傷つきながら実際に起きた出来事を創作と主観で昇華しモザイク状に組み込んでいることに気づく。 元新聞販売店経営者の焼身自殺(2017年12月21日)もそのひとつである。これによって辺見は「想念が悩乱となってひろがり、回想をかきみだされた」のだった。「世の現実」…

  • B-18 苦海浄土

    石牟礼道子さんが2月10日に亡くなった。辺見庸は、彼女と一度じっくり対談し面識があった。 「天声人語」の書き手は、水俣病患者と一緒に運動した彼女の言葉の一部を次のように紹介している。(朝日新聞、2018年2月11日朝刊) 「患者さんは病状が悪いのは魚の供養が足りないからと考える。岩や洞窟を拝んだりする。」「それを都会から来た知識人は無知で頑迷だと言う。私はそうは思わない。患者さんは知識を超えた野生の英知を身につけています。」 この文章の前には石牟礼さんが水俣病患者から学んだことを紹介する文が置かれている。「迫害や差別をされても恨み返すな。のさりち思えぞ(たまものだと思え)」加害企業も極薄な世間…

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辺見庸 研究
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