須勢理姫 さん プロフィール

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須勢理姫さん: さくら舞い散る道の上で
ハンドル名須勢理姫 さん
ブログタイトルさくら舞い散る道の上で
ブログURLhttp://suseri0529.blogspot.jp/
サイト紹介文素敵な日本の歴史と知識教養などをお届けします
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供106回 / 294日(平均2.5回/週) - 参加 2016/12/18 14:19

須勢理姫 さんのブログ記事

  • 忠犬か否か
  •  岡村半助は、井伊直孝が最も信頼した小姓で、半助もまた常に直孝に近侍し、のちに家老となってよく直孝を助けました。 この半助が、まだ稚児姓として直孝に仕えていたころのことです。 直孝は、ふと思い立って家臣の庵原主税助を訪ねてみることにしました。 半助も直孝に従いました。 直孝が庵原を訪ねてみようと思い立ったのは、愛犬のことがあったからです。 直孝は、庵原が手柄を立てた褒美として、自分が可愛がっていた [続きを読む]
  • 奇兵隊結成
  •  「出来るなら、詩人になりたい」 そう思っていた高杉晋作が、長州藩主の毛利敬親から呼び出されたのは、文久3年(1863)6月のことでした。 「よう、参った」と言った時の藩主の眼には、長州藩の危機を、この青年の手を借りてどうしても乗り越えたいという焦燥感があふれていました。 「知ってもいようが、最近わが藩の沿岸砲台は、外国軍艦の襲撃を受けて次々と破壊された。ついこの間の6月1日には、アメリカの軍艦の [続きを読む]
  • 昭和天皇を救ったキリスト教信者たち 後編
  •  フェラーズは、天皇が帰られた後、執務室に閉じ籠もり、マッカーサーへの意見書の仕上げに没頭しました。 意見書の原稿を書き上げると、直ぐに恵泉女学園の河井のもとに届けさせました。 河井からの意見をベースに修正し、再度チェックを受けてOKを貰ったのが10月1日。 翌日、フェラーズは完成した意見書をマッカーサーに提出しました。 二人の合作でした。 意見書では、冒頭で「彼らの天皇は、祖先の美徳を伝える民族 [続きを読む]
  • 昭和天皇を守ったキリスト教信者たち 前編
  •  昭和20年(1945)8月30日、厚木飛行場に着陸した飛行機から、マッカーサーがコーンパイプを咥えてタラップを降りました。 続く幕僚たちの中に49歳のボナー・フェラーズ准将がいました。 一行は車を連ねて横浜のホテル・ニューグランドに宿泊しました。 フェラーズはさっそくホテル側に、「東京にいるミチ・カワイという女性を探して欲しい」と依頼しました。 すると意外なことに、支配人の中山武夫が「ミチ・カワ [続きを読む]
  • あの人の言の葉 大田博英
  •  海軍大尉 大田博英 神風特別攻撃隊 第一筑波隊 昭和20年4月6日 南西諸島沖にて戦死 鳥取県東伯郡北栄町出身 23歳 御父上様 多年の深海重山の御恩に報うべき秋が参りました 博英は今から征きます 倶に御喜び下さい 此の期に及んで何も申し上げる事も有りません 只 皇国永世の安泰を願うのみです 必ずや期待に添います 御祖母様にも宜敷く御伝え下さいませ もうすぐ春です 裏の山桜も咲きましょう 菜種の [続きを読む]
  • 無償の愛で続けられた救援活動
  •  江戸時代、越後国(新潟県)では凶作と飢饉が続いて、多くの人々が苦しんでいました。 このような状況下、長年にわたって救済活動をしていたのが三島郡片貝村(現・小千谷市片貝町)の佐藤家でした。 佐藤家は、代々佐平治を名乗っていましたが、特に19代と21代が行った大規模な救援活動が有名です。 佐藤家は、最初の救援を寛文8年(1668)に行っています。 その後も救済活動を続けてきましたが、地主と酒造業で蓄 [続きを読む]
  • あの人の言の葉 若麻積隆
  •  海軍大尉 若麻績隆 神風特別攻撃隊 第18幡護皇隊 昭和20年4月6日 沖縄沖にて戦死 長野県長野市出身 23歳 本日八分隊の○○名が転勤して行った。 送る送られる、別離の様式は至って清らかである。 声をかけるでもなく、手を取り合うでもない。 人が去って行くのは己がやがて去るのであろう事を示し、人が死するのはやがて己も死ぬるを知る。 極めて当然なことである。 当然なりと自殺するのではない。 今日 [続きを読む]
  • 粗相を許し、命を尊ぶ
  •  加藤嘉明は、豊臣秀吉に仕えて「賤ヶ岳の合戦」で勝利の立役者となった七本槍の一人として活躍しました。 秀吉の死後、石田三成と対立して徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦では東軍に加わって大活躍。 その功績によって伊予国(愛媛県)の松山20万石を与えられ、後に会津(福島県)40万石の大名になった人物です。 その嘉明が若い頃のお話です。 嘉明は、いざ合戦の時のことを考えて倹約に励んで、金銀を蓄えていました。  [続きを読む]
  • 学成らざれば
  •  清貧高潔の人として名高く「近江聖人」と謳われた儒学者の中江藤樹の生家は、近江国(現・滋賀県)小川村の農家でした。 藤樹が8歳の時に伯耆国(現・鳥取県)米子城主に仕官していた祖父の養子になったのは、我が子の才能を惜しみ、学問の道に進ませようという親の願いがあったからです。 翌年、主君の転封に従って祖父と藤樹は四国の伊予国(現・愛媛県)大洲へ移り、15歳のとき当地で祖父が死去。 更に18歳で遙かな近 [続きを読む]
  • 台湾の育ての親
  •  日清戦争が終わって、台湾は日本に割譲されましたが、そこは清国政府からも「化外(中華文明の及ばない)の地」「風土病の地」と呼ばれ、見捨てられた荒廃地でした。 阿片中毒が蔓延し、原住民による反乱、伝染病の流行が相次いで、殆ど産業らしきものはなく、民生は荒廃していました。  日本は当初、武力で治安を確立しようとしましたが、事態は好転せず、住民の中にも日本の統治に対する不安が拡大して、大陸 [続きを読む]
  • 世のため、人のため
  •  明治の初めの頃。 「夜な夜な猪苗代湖に化け物が出るっつぅ話だ」 村の人たちにこんな話が出るようになりました。 「ほいじゃ、確かめにあいべ」 夜になるのを待って、手に棒きれを持った男たちが恐る恐る湖に行きました。 「しっ、物音がすっぞ」 月が雲間から出て、湖面が一瞬明るくなりました。 「あれ! シカさんじゃねぇか」 「何だ、おめぇら。昼は野良仕事をしてっから、エビ取りは夜になっちまぁだし」 湖に出 [続きを読む]
  • あの人の言の葉 菊地武雄
  •  陸軍曹長 菊地武雄 昭和20年8月12日 マニラにて戦死 岩手県花巻市湯本出身 25歳 お母さん、さらば。 私もいよいよ国家のため、お役に立つ時が来ました。 私は入営の際、既に身は大君に捧げしものとして入営した私であります。 男と生まれ一世一代の死に場所を求めることが出来、こんな嬉しい愉快なことはありません。 私は喜んで死んで行きます。 ただ、私の亡き後は一家挙って幸福に暮らし行く事、私は草葉の [続きを読む]
  • 悪法に対する理屈
  •  徳川五代将軍・綱吉による「生類憐れみの令」は、天下の悪法として知られています。 犬・猫・牛・馬をはじめ、鳥類、魚類、果ては蚊や蝿などの虫に至るまで殺すことが禁じられ、違反者は厳罰に処されました。 綱吉が戌年生まれだったため、特に犬は「御犬様」と呼ばれて優遇されました。 往来で人間よりも犬の方が威張っている…… 江戸を中心にこんな状態が二十数年間の長きに渡って続きました。 しかし、なにしろ相手は将 [続きを読む]
  • 心を鬼にして平伏する家臣を叱る
  •  本多正信は、江戸幕府の草創期、徳川家康の重臣としてよく家康を支え、家康から「我が右腕」とまで信頼された人物です。 その正信が、江戸城に詰めていた時のことです。 襖一枚隔てた隣の部屋から家康の怒声が聞こえてきました。 相当の怒りようです。 耳をそばだてて聞いてみると、何か粗相をした近習を家康が叱りつけている様子です。 その近習は真面目な男なのですが、家康の怒りがおさまりそうにもありません。 まだ叱 [続きを読む]
  • 顔を踏むな
  •  相模国の住人である鎌倉景正が、鎌倉方の一将として、奥州清原氏を攻めた時のことです。 彼はまだ花もつぼみの若武者でした。 鳥海弥三郎という豪勇の士を相手に戦った彼は、弥三郎を倒したものの相手の強弓に右眼を射貫かれ、そのままの姿で自分の陣営に戻りました。 景正は「右眼の矢を抜いてもらいたい」と同輩や部下に大声で頼み、その場に倒れるように仰向けになりました。 矢は兜の鉢付の板まで貫通しています。 それ [続きを読む]
  • スターリンの操り人形
  •  1945年10月14日、平壌市北部の牡丹峰のふもとの運動場。 よく晴れて澄み切った青空の下に、7万人の群衆が集まっていました。 この日開かれる朝鮮解放祝賀会に伝説の老将軍・金日成が帰ってくるという噂に、人々が詰めかけたのでした。  日本の朝鮮統治が始まると、愛国的な軍人達の一部は満洲やシベリアに根拠地を移して独立の戦いを続けました。 やがて1920年代から、一人の勇敢な抗日闘士の名が国内に [続きを読む]
  • 荒廃した天草を救った代官
  •  今から360年余り昔、寛永14年(1637)に肥後国の天草(現在の熊本県天草市周辺)で、天草島原の乱という一揆がありました。 その後、天草は幕府が直接治める天領となり、初代代官となったのが三河国(現在の愛知県)出身の鈴木重成でした。 重成は、まず天草の隅々まで歩いて見て回りました。 そのころの天草は戦のため、人は少なくなり田畑は荒れ果て、人々は毎日の暮らしにも困っていました。 そして、人々の心も [続きを読む]
  • あの人の言の葉 棚橋順一
  •  陸軍大尉 棚橋順一 昭和14年5月7日 中国華中にて戦死 東京都出身 愛児に宛てた手紙 今は昭和十二年十月十七日の午後六時半です。 僕の乗っている運送船は東支那海を上海に向けて走っているところです。 台風の余波で船が揺れて苦しいけれども今書いて置かないと明日は上陸準備で忙しいので揺れる机の上で書いています。 十九日の朝、上海に上陸して、すぐに戦線に行くはずです。 そこは生死の境であって、基の生長 [続きを読む]
  • 妻の献身と新薬
  •  世界で初めて全身麻酔による外科手術を成功させたのは、ドイツ人でもアメリカ人でもありませんでした。 日本の華岡青洲という町医者でした。 青洲は宝暦10年(1760)の生まれで、江戸時代中期から後期にかけての人です。 彼は家業の医業を継ぎ外科医として患者を診ているうちに、何とか苦痛を伴わない手術が出来ないか、と思いました。 青洲は文献をあさり山野を巡り、薬草の朝鮮朝顔、烏頭などを採取、調合して、苦心 [続きを読む]
  • 震災から生き残った町
  •  大正12年(1923)9月1日土曜日の午前11時58分44秒のことです。 ゆっくり始まった大地の揺れは15秒後、大激震(マグニチュード7.9)となって東京を襲い、直後に発生した火災は燃え広がって東京市民を襲い始めました。 午後4時頃には神田川の南側、日本橋方面は黒煙が天を覆いつくし、太陽もかげって、あたりは暗く犬や鶏も逃げまどうほどでした。 7歳の鈴木君は、近付く炎を見て「恐い」と思いました。  [続きを読む]
  • 元日本兵が歩んだ道
  •  「龍馬が行く」や「坂の上の雲」等を書いた司馬遼太郎は「小生は七十になって、自分は「街道をゆく」の「台湾紀行」を書くために生まれてきたのかな、と思ったりしています」と言っていました。  台湾の日本統治時代に育った人々の間で、「台湾紀行」はかつての祖国・日本が再び台湾に関心を寄せてくれたと大変な熱狂を呼び起こしました。 李登輝前総統の曽文恵夫人は、司馬遼太郎が亡くなった時に、次の追悼の和歌を詠 [続きを読む]
  • 質素を貫き育英事業を成功させた林学博士
  •  明治37年(1904)、埼玉県出身の学者や政治家、実業家たちによって、苦学生のための寄宿舎「埼玉学生誘掖会」が東京都心の一等地に建設されました。 会の初代会頭は実業家の渋沢栄一、寄宿舎を管理・監督する舎監の初代には、菖蒲町出身で林学者の本多静六がなりました。 寄宿舎は、平成13年3月に閉鎖しましたが、その間約100年にわたって、数千人もの優秀な人材を世に送り出しました。 ここを巣立った人たちは、 [続きを読む]
  • あの人の言の葉 ?須孝四郎
  •  海軍少尉 ?須孝四郎 神風特別攻撃隊 第七御楯隊 昭和20年8月9日 本邦東南方洋上にて戦死 愛知県西尾市一色町出身 23歳 攻撃直前記す 御姉上様。合掌。最後に当たり何も言うことはありません。 僕が常夏の国南米ブラジルより日本に帰って、何も知らない僕を、良く教え導いて下さった事は、心から感謝して居ります。 身を海軍に投じて以来の未知の生活、日本の兵隊生活は最後の魂の道場でした。 海軍に入営して [続きを読む]
  • 無実の罪を自ら被る
  •  「忠臣蔵」は、赤穂藩(兵庫県)の家老だった大石内蔵助が討ち入りの主人公ですが、これはまだ討ち入り前のことです。 当時、赤穂藩に天野屋利兵衛という人がいました。 大石内蔵助は、利兵衛のまじめな商売ぶりに目をかけ、出入りの商人として取り立てました。 そんなある時、赤穂藩で什器を倉から取り出して虫干しをしたことがありました。 その日、利兵衛は商用で、偶々赤穂の城に上がっていました。 什器の虫干しとなる [続きを読む]
  • 師を越えよ
  •  大著「古事記伝」を著した名高い国学者・本居宣長が、師と仰いだ賀茂真淵と言葉を交わしたのは生涯のうちでただ一夜きりのことでした。 故郷の伊勢松阪(現・三重県)で医師を開業していた宣長は、国学については独学で研鑽を積んでいました。 かねてより真淵が開いた塾の評判については聞き及んでいましたが、家業を放り出して江戸へ行くなどといったことは、許されることではありませんでした。 主君の田安宗武に命じられて [続きを読む]