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谺して山ほととぎすほしいまゝ(久女ブログ) https://blog.goo.ne.jp/lilas0526

近代女性俳句の草分けと評される杉田久女の生涯を辿り、思うこと感じる事を書いています。

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2017/01/03

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  • 俳人杉田久女(考) ~終章~ (90)

    英彦山高住神社(豊前坊)の参道脇にある杉田久女の句碑をはじめて見て以来、40年以上の年月が過ぎました。句碑に出会って数年後に、久女が、当時私が住んでいた北九州市の旧制小倉中学(現小倉高校)の美術教師の妻であったことを知り、以来彼女を身近に感じ、新聞、雑誌などで彼女の記事が出ると切り抜いたり、久女関係の本を読んだりしてきました。同世代の方々の書かれたブログを読むのが好きな私は、読ませていただいているうちに、自分も好きな旅行やそれまでに調べていた杉田久女についてのブログを、書いてみたいと思う様になりました。が、旅行ブログは旅行に行きさえすれば書けましたが、久女についてはそんなに簡単にはいきませんでした。久女という俳人の人生を辿るなどということが、筆力、考察力が無い私に果たして出来るのか。又久女について書くとなれば、...俳人杉田久女(考)~終章~(90)

  • 俳人杉田久女(考) ~私の久女像~ (89)

    ブログのカテゴリーに俳人杉田久女(考)を加え、杉田久女について書き出して約1年半になりますが、書くことによりそれまで自分の中にあった久女像が、より鮮明になってきた気がします。結果的にみると、久女は高浜虚子により育てられ、しかし身内偏重の虚子により『ホトトギス』から追放されてしまいました。久女の追放が俳句の理念上からそうなったのであれば、私が何も言うことはありません。が、これまで見てきたようにそうではありませんでした。俳句理念上からの追放ではないところに久女の悲劇がある様に思います。のんきなお嬢さん育ちだった久女(当時は久)が、芸術家の妻にという願いで、美術学校出身の青年の元に嫁ぎます。しかしいつの間にか夫は絵筆を取らず田舎の美術教師におさまっていき、手の届くところにあるとみえた将来への夢や希望はうたかたの様に消...俳人杉田久女(考)~私の久女像~(89)

  • 俳人杉田久女(考) ~私の好きな久女十五句~ (88)

    杉田久女が生涯に残した俳句の数はそんなに多くはありません。『杉田久女句集』を紐解くと、久女といえども平凡なただごとの句も沢山ある様に思います。しかし彼女が生み出した代表作、名吟と言われている句は、高い完成度を示し私達の胸に迫って来ます。それは執念ともいえる俳句に対する久女の感情が、その俳句に託されているからでしょう。「私の好きな〇〇十句」の様な表現を時々目にしますが、私の好きな久女の句はとても十句では納まりきれません。ここでは少し欲張って十五句挙げてみようと思います。「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」「紫陽花に秋冷いたる信濃かな」「朝顔や濁り初めたる市の空」「谺して山ほととぎすほしいまゝ」「愛蔵す東籬の詩あり菊枕」「風に落つ楊貴妃桜房のまゝ」「灌沐の浄法身を拝しける」「うらゝかや斎祀れる瓊の帯」「荒れ初めし社前の...俳人杉田久女(考)~私の好きな久女十五句~(88)

  • 俳人杉田久女(考) ~カルテ事件~ (87)

    杉田久女のことを調べていると、理解に苦しむ不可解な出来事に時々ぶつかるのですが、このカルテ事件もその一つです。この事は彼女の没後に起こったことで、昭和20年10月末に県立筑紫保養院に入院した久女でしたが、その入院中の久女のカルテが、没後遺族ではない誰かによって持ち出され、さらにそれがひそかに特定の人々の手から手に渡った形跡があることです。(62)と(63)の記事に書いた増田連著『杉田久女ノート』の「その後と死」という項目の最後辺りに、〈虚子の「俳諧日記」(昭和27年8月号『玉藻』)には五月十二日小田小石、杉田久女の病床日記を携え来るとの記載がある〉とあります。<増田連著『杉田久女ノート』>病床日記というと、入院中に久女がつけていた日記という意味にもとれますが、彼女が日記を書ける状態ではなかったことは誰にでもわか...俳人杉田久女(考)~カルテ事件~(87)

  • 俳人杉田久女(考) ~高浜虚子の汚点~ (86)

    高浜虚子は昭和29年に俳句界唯一の文化勲章を受章し、一国の名士にまで登りつめた人ですが、前回(85)の記事で書いた様に、この人の俳人としての人生には幾つかの汚点がある様に思います。汚点の一つは、昭和11年に虚子自らが行った、杉田久女の『ホトトギス』からの除名処分を正当化するためであると思われますが、彼女の死後「墓に詣り度いと思ってをる」や久女の遺句集『杉田久女句集』序文で、死者に鞭打つ様に事実ではないことを書いたことです。もう一つの汚点は、久女の死から2年8ヶ月後に、昭和9年に久女から来たとされる私信を「国子の手紙」というひどい形で公表したことです。久女が書いた手紙は、虚子宛に出した完全な私信です。私信を、日本中の人が読むことが出来る『文体』という雑誌に、創作「国子の手紙」という形で公表するなど、常識では考えら...俳人杉田久女(考)~高浜虚子の汚点~(86)

  • 俳人杉田久女(考) ~高浜虚子再考~(85)

    (58)の記事で杉田久女の師、高浜虚子について書きましたが、もう一度ここで高浜虚子について考えてみます。<高浜虚子1874-1959>『ホトトギス』の弟子達からみた高浜虚子は、柔和な表情で物事に動ぜず宣伝がましい態度がない人、語る言葉は淡々と平明、それでいて冒し難い威厳を備え周りを魅了する人であったなどと描写されています。久女の師でもあった高浜虚子の中には、他の弟子たちの言う温顔、包容力、達観といったものは、事実ある程度はあったのでしょう。がしかし、これまで杉田久女の生涯を辿ってきて私が感じることは、それとは全く別の、ある種の恐ろしさ、非情さ、打算、計算高さをも合わせ持つ人であった様に思います。田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる...(下)』の中にある記述ですが、〈昭和13年『ホトトギス』4月号は400号記念号であ...俳人杉田久女(考)~高浜虚子再考~(85)

  • 俳人杉田久女(考) ~『杉田久女句集』序文の問題点~ (84)

    前回の(83)で書いた様に、『杉田久女句集』に添えられた高浜虚子の序文を読むと、この文章は不自然で、序文にそぐわないものに思えて仕方ありません。久女生前に序文懇願を無視したのと同じ気持ちが、まだ虚子の中にある様に感じます。虚子は久女を「女流俳人として輝かしい存在」「群を抜いていた」と書いていて、彼女の才能を認め、その俳句作品に清艶香華という言葉を贈っています。久女俳句を見抜いた虚子ならではの言葉だとは思います。がしかし、「久女さんの行動にやゝ不可解なものがあり」や「精神分裂の度を早めた」などとも書いていて、弟子の遺句集を世に送り出すはなむけの序文であるとはとても思えません。虚子は久女の代表句として十句あげていますが、人にはそれぞれ好みがあるといえばそれまでですが、もっとピッタリくるものが何句でもある様な気がする...俳人杉田久女(考)~『杉田久女句集』序文の問題点~(84)

  • 俳人杉田久女(考) ~高浜虚子が書いた『杉田久女句集』序文~ (83)

    久女の長女昌子さんは、生前の母から託された句集出版を何としても果たしたく、苦労の末かろうじて、高浜虚子から序文を貰い、昭和27年10月、角川書店からの『杉田久女句集』出版にこぎつけました。虚子が書いたその序文を『杉田久女句集』から、全文引用してみます。「序」杉田久女さんは大正昭和にかけて女流俳人として輝かしい存在であった。ホトトギス雑詠の投句家のうちでも群を抜いていた。生前一時その句集を刊行したいと言って私に序文を書けという要請があった。喜んでその需めに応ずべきであったが、その時分の久女さんの行動にやゝ不可解なものがあり、私はたやすくそれには応じなかった。此の事は久女さんの心を焦立たせてその精神分裂の度を早めたかと思われる節も無いではなかったが、併しながら、私はその需めに応ずることをしなかった。久女さんの没後、...俳人杉田久女(考)~高浜虚子が書いた『杉田久女句集』序文~(83)

  • 俳人杉田久女(考) ~『杉田久女句集』出版までのいきさつ~ (82)

    前回(81)記事では、『杉田久女句集』出版までのいきさつについて、詳しく触れていませんので、この遺句集は比較的スムーズに出版された様に感じられるかもしれませんが、実際はそうではありませんでした。久女の生前はいくら懇願されても久女の句集に序文を与えなかった高浜虚子でしたが、彼女の死後もそんなにすんなりとは運びませんでした。今まで述べた様に、高浜虚子は久女の死後、『ホトトギス』やその他の雑誌に、死者に鞭打つ様な、久女叩きとも受け取れる文章を次々に発表していました。それらの文章には、虚子が久女を同人除名した処置を正当化しようとする意図があったと思われますが、その内容は「常軌を逸していた」、あるいは「狂人」という点のみを強調し、久女が除名前から狂っていたという風説を流すものでした。久女の長女昌子さんにとって、この様な時...俳人杉田久女(考)~『杉田久女句集』出版までのいきさつ~(82)

  • 俳人杉田久女(考) ~悲願の『杉田久女句集』出版~ (81)

    久女の死後、昭和27(1952)年に角川書店から高浜虚子の序文とともに『杉田久女句集』が出版されました。この句集こそ、久女生前の悲願が結実したものでした。<『杉田久女句集』>文庫本サイズの小さな句集で、収録句は1401句、最後に長女石昌子さんの「母久女の思い出」と年譜が載せられています。全部で175ページ、1ページに10句掲載され、装幀は池上浩山人でした(上の写真は久女展の図録を写しました)。私はこの句集をH.23年の「花衣俳人杉田久女」展で見ました。ネット古書店でみるとこの本は値段が高く、又、手に入れにくいらしく、私が現在持っているのは、北九州市立文学館が発行している下の『杉田久女句集』です。内容は上の角川書店発行のものと同じです。虚子は序文とともに、悼久女と前書きがある下の悼句を寄せています。「思い出し悼む...俳人杉田久女(考)~悲願の『杉田久女句集』出版~(81)

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