カトリック教会の問題 さん プロフィール

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カトリック教会の問題さん: カトリック教会の問題
ハンドル名カトリック教会の問題 さん
ブログタイトルカトリック教会の問題
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/st_mary
サイト紹介文公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供105回 / 340日(平均2.2回/週) - 参加 2017/01/07 02:08

カトリック教会の問題 さんのブログ記事

  • スータンの禁止の弊害
  •  さらに、スータンをなくそうと言うことは、まだ存在している宗教感情を誤って判断することです。私たちが事業において、あるいは偶然に、出会う人々が皆宗教とは関係なく生きているなどと思うことは全く根拠がないのです。エコンを卒業した若い司祭は、また匿名の思潮に身をゆだねなかった人は全て、そのことを毎日経験します。現実はその全く反対です。道路で、駅で、人々は、若いエコンの司祭を呼び止め、彼らに話しかけるので [続きを読む]
  • 万人司祭主義の影響の下に
  •  全ての宗教において、宗教の指導者はそれとわかる区別の印を身につけています。人が重要視している人類学もそのことを証明しています。[司祭階級の存在しないはずの]イスラム教徒でさえも、別の服や、襟首の違い、指輪などで指導者を区別しています。仏教徒も黄色の長い服を着たり、頭を特別に剃っています。パリやそのほかの大都市には、仏教を信じてしまった青年たちがいますが、特別の服装をしていたからといって何の非難も起 [続きを読む]
  • 教皇パウロ6世はキリストの福音と正反対の考え方を持っていた
  •  1976年、私はカステルガンドルフォに、教皇パウロ6世聖下を謁見しようとに出向きました。そのとき私は教皇聖下にこう申し上げました。「聖下、聖下は今フランスに公式の奉献文が13あるのをご存じでしょうか。」 教皇様はそのとき両腕を上にあげられ私にこうお答えになりました。「大司教様、もっとですよ、もっと。」 ですから、私の次の自問自答は、根拠のある問いなのです。つまり、もし典礼学者たちがラテン語で典礼文を作 [続きを読む]
  • 典礼からのラテン語の撤廃は各国の教会の相孤立化を招く
  •  私たちは、ラテン語などのような外的な二次的な形式にこだわっているとも非難を受けます。 ラテン語というのは、誰にもわからない死語であって、キリスト教徒たちは17世紀にも、あるいは19世紀にも、ラテン語を理解していなかった、と言い張るのです。彼らによれば、教会が、ラテン語などそれほど長く廃止せずに今に至るまで待っていたのは、教会のいい加減さを表しているそうです。 私は、教会が正しかったと思います。カトリ [続きを読む]
  • ミサを改悪して以来、カトリック教会の凋落は始まった
  •  何故なら、私は本当のことを言い、私が間違っているという怖れなく次のことを断言しなければならないからです。すなわち、ピオ5世によって法文化されたミサは、(よく人はピオ5世によって作られたものだと誤解しているのですが)明らかに次の3つの現実を曖昧さもなく表明しています。それは、ミサが犠牲であることと、主の御聖体における現存と、司祭の司祭職です。このミサはトレント公会議が明確にしたように、人間が天主に [続きを読む]
  • トリエントミサがない時は、新しいミサに与ってもいいのか?
  • トリエントミサがない時は、新しいミサに与ってもいいのか? しかし、司式者の意向はどうやって判断したらいいのでしょうか。司祭たちの信仰が弱まるにつれ、彼らが「教会が常にしていたことをする」という意向をもはや持たなくなるにつれ、(というのは、教会はその意向を変えることができませんから)ますます有効なミサが少なくなっているということは全く明らかなことです。いわゆる現在「神学生」と呼ばれている人たちの受け [続きを読む]
  • 中には無効のミサもある
  •  皆さんはもう気が付いたかも知れませんが、今日では司祭のほとんどは、「主はご受難の前夜、いとも聖なる御手にパンを取り・・・」で始まるカノンの最重要部を、一気に読んでいます。しかし、聖伝のローマ・ミサ典書の司式次第には「親指と人差し指でホスチアを両手に取り、ホスチアの上に、小さい声で、しかしはっきりと、注意深く、聖変化の言葉を発声すること」と記されており、聖伝のミサでは、一休みがあり、この言葉を聖変 [続きを読む]
  • 新しいミサはルターのミサの再現
  •  「供え物の祈り」の不十分さを正当化させようとする論拠をいくつか聞いてみると、それはルターのことを思い起こさせます。ルターはミサを変える移行期を上手く乗り越えることに大変努力しました。ルターは、できる限り昔の儀式をそのまま残し、しかも、その意味を変えることに精神を注ぎました。「ミサ」は大部分がその外見を残され、信者は、教会の中に入ってもほとんどそっくりそのままの装飾を見て安心し[教会に通い続け]ま [続きを読む]
  • ルターは犠牲を認めず、ミサから奉献の部も廃止した
  •  ルターは奉献の部を廃止しました。もしも犠牲がもはや存在しないのなら、どうして染みも汚れもないホスチアを奉献する必要があるだろうか、というのが彼の論理でした。フランス語の新しいミサの式次第には、奉献の部は実際上存在していないのと同じことです。奉献の部はもはや「奉献の部」という名前さえついていません。『主日の新しいミサ典書』には奉献の部の変わりに「提示の祈りPrieres de presentation」となっています。 [続きを読む]
  • 万人司祭主義という誤謬
  •  新しいミサの司式では、司式者の「私」という言葉が全て「私たち」に代わっています。あちこちに、信者たちが「祭儀する」を書いてあります。いけにえを捧げる行為に、信徒たちを伴わせ、彼らが書簡を読んだり、時には福音を読んだり、御聖体を配ったり、時には説教したり、時には説教の代わりに「神の言葉について小グループによる分かち合い」をしたり、日曜の集会を「打ち上げる」為に前もって会合を開いたりしています。しか [続きを読む]
  • 永遠のミサと現代のミサ
  • 教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへルフェーブル大司教の公開書簡 その4永遠のミサと現代のミサ4 1981年の御聖体大会を準備するために、或るアンケートが広く行われました。このアンケートの最初の質問項目は、こうでした。「『ミサの聖なるいけにえ』という定義と『感謝の食事』という定義との、二つの定義うち、どちらの方を自分からそうだと思いますか」と。この様にカトリック信者に [続きを読む]
  • 蔓延する典礼崩壊
  • 蔓延する典礼崩壊 しかしそんなことは些細な改革に過ぎません。このごろではもっと頻繁に普通の発酵菌のはいったパンの聖別の話を聞きます。それは「評価を絶する賜物(Inaestimabile Donum)」という教皇様の指導書の中で最近、純粋な無発酵の小麦粉から作られたパンだけを使用しなければならないといわれているにもかかわらずです。全ての制限はこれられています。アメリカの司教様は牛乳と卵とイーストと蜂蜜とマーガリンから作 [続きを読む]
  • 共通点はミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられていること
  • 共通点はミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられていること これらの躓きになる光景には共通のものがあります。それはミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられていることです。装飾、楽器、態度、服装などの低俗さです。さて、カトリックという名の付く雑誌は、教会の入り口で売られ、このようなやり方でミサをたてられていることを批判するのではなく、反対にこれらのやり方を推薦するために写真を載せているのです [続きを読む]
  • 典礼改革
  • 教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへルフェーブル大司教の公開書簡その3典礼改革3 いま私はカトリック系の出版物が掲載した写真を見ています。これはよく捧げられるやり方でたてられたミサの写真です。一瞥しただけでは、これがミサのいけにえの一体どの部分の写真であるか殆ど分かりません。木製の普通のテーブルがあって、これは余り綺麗そうでもなく祭壇布が一枚も敷いてありません。 [続きを読む]
  • ヨガ、禅、分かち合いミサ
  •  今から少し前にこんな新しいことがありました。いくつかの教会の入り口に、次のようなポスターが掲示されていたのです。「手を打って神を賛美せよ」と。ですから、式の途中で、司会者の合図のもとに会衆は頭の上に手を挙げて、拍子にあわせて元気いっぱい手を打ちならしたのです。それは、至聖所のまっただ中で異例な大騒ぎを醸し出したのです。この手の革新は、私たちの習慣とは切り離れた、しかも俗世間にもそのような習慣がな [続きを読む]
  • 聖体行列も聖母行列も聖体降福式も晩課もなくなった
  •  もはやミサはありませんし、あっても殆どありません、聖体行列も聖母行列もありません、聖体降福式ももうなくなりました。晩課もなくなりました。共通の皆でする祈りは、最も単純化された形に引き下げられました。信者は時間割を調節して、交通の不便を乗り越えようやくのことで教会にたどり着いたとき、彼の霊的渇きを癒すものに何を見いだすことが出来るでしょうか。典礼それ自体と、典礼がひどく変わってしまったことについて [続きを読む]
  • 今やごくわずかの信者だけが跪いたりするだけ
  •  天主とは何かを知り、天主への畏敬があるキリスト者は、今日祈らせられるそのやり方には抵抗を感じます。暗記で覚えて文句は「同じことを何回もくどくどしい」と形容され、子どもたちにはそれをもはや教えなくなってしまったのです。その様なものは、主祷文(「天にまします」の祈り)を例外として公教要理の本にも載っていないのです。しかもその「天にまします」の祈りはプロテスタントに影響された新しい祈祷文で、天主に対し [続きを読む]
  • 私たちの宗教は変えられようとしている!
  •  この話を始める前に、そのことにもう一度戻らなくてもいいように、まずある誤解を晴らしておかねばなりません。私は或る運動の首謀者でもなければ、或る独自の教会の長でもありません。私はひっきりなしに「聖伝主義者のリーダー」だと書き立てますが、そんなものではありません。さらにある人々は「ルフェーブル派」などと呼ばれるようにさえなりました。あたかも何かの党とか学派であるかのようです。これは言葉の乱用です。  [続きを読む]