気ままに何処でも万葉集! さん プロフィール

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気ままに何処でも万葉集!さん: 気ままに何処でも万葉集!
ハンドル名気ままに何処でも万葉集! さん
ブログタイトル気ままに何処でも万葉集!
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/codaisinonazo
サイト紹介文千年以上も前の出来事を直に見聞きするような…なんと万葉集は謎だらけ
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供89回 / 264日(平均2.4回/週) - 参加 2017/02/09 23:12

気ままに何処でも万葉集! さんのブログ記事

  • 持統天皇が選んだ東国への最終行幸
  • 大宝二年(702)十月〜十一月、崩御前に東国行幸最晩年に、紀伊国を訪ねた持統天皇(写真は牟婁の湯のある白浜海岸)その目的は何だったのか? ですね。大宝元年の紀伊国行幸は文武天皇に「有間皇子事件」を伝えるという目的がありました。では、東国への行幸の目的は何だったのでしょう? 何しろ、崩御のひと月前なのです。冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする十一月十三日、行幸は尾張国 [続きを読む]
  • 別に編集された持統天皇の紀伊国行幸の歌
  • 持統天皇・もう一つの紀伊国行幸持統天皇(太上天皇)と文武天皇(大行天皇)の紀伊国行幸を繰り返し取り上げてきました。この行幸の目的は「有間皇子の霊魂を鎮める儀式をするためだった」として巻九の紀伊國行幸13首(1667〜79)を紹介しました。また、この有間皇子事件を目撃した額田王と事件そのものに関わった中皇命(なかのすめらみこと)の歌も紹介しました。大宝元年(701)、持統天皇の紀ノ國行幸を万葉集は「大 [続きを読む]
  • 天智天皇の挽歌を詠んだのは、後宮の女性達
  • 天智天皇の葬送儀式で詠まれた挽歌天智帝は大津宮で崩御、そして山科に陵があります。倭姫皇后の他にも、婦人・額田王・舎人吉年・石川夫人の詠んだ挽歌が残されています。 天皇の崩(かむあが)りましし時に、婦人(おみなめ)が作る歌一首 姓氏未詳150 現実のこの世に生きているのだから神となられた大王にお会いすることはできずに離れていて、朝から大王を思って嘆き、離れていてもわたくしが慕い続けている大王、もし玉 [続きを読む]
  • 天智天皇の挽歌を詠んだ女性たち
  • 倭姫太后は、何処へ行ってしまったのか天智天皇の最後をみとった皇后の、その後の消息は分かりません。何処へ行かれたのでしょう、不思議です。広い琵琶湖の南の対岸と少し近くなるところに楽浪の志賀の大津京はありました。天智天皇の都です。園城寺の辺りに大友皇子の屋敷があったそうです。若干の柱跡が見つかっているだけですが、この辺りを額田王も天智天皇も歩いたかも知れませんね。天智天皇は近江大津宮での崩御でした。御 [続きを読む]
  • ささなみの志賀の大津は霊魂の都となった
  • ささなみの志賀の大津は霊魂の都となった明日香が霊魂の都「飛ぶ鳥の明日香」となったように、近江の大津も霊魂の都となりました。「ささなみ」は琵琶湖西南の沿岸一帯の地名だそうです。地名としては滅びても枕詞として使われていると、古語辞典に書かれています。「ささなみ」のという枕詞で始まる歌は、万葉集中に十一首あります。巻一、巻二までは誰が詠んだ歌か分かりますが、巻七〜十二までは「羇旅歌」などで作者名はわかり [続きを読む]
  • 柿本人麻呂が長皇子を賛美した意味
  • やすみしし吾大王 高光る 吾日の皇子と、柿本朝臣人麻呂が称えたのは長皇子長皇子は、天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)の間に生れました。弟は弓削皇子、母の兄は川嶋皇子でした。生まれながらにして日の皇子と崇められたのでしょう。天智帝と天武帝の血統ですからね。弓削皇子が「兄こそ皇位継承者と主張しても不思議ではありませんね。では、人麻呂の歌を読みましょう。皇子の狩場では、鹿も鶉も身をかがめて畏れ従い、同じ [続きを読む]
  • 大王は神にしませば〜人麻呂が詠んだ王朝の皇子
  • おほきみは神にしませば〜と詠まれた歌は、六首六首の中に「大王は神にしませば天雲の雷の上に…」の歌があります。この歌の雷岳はどこなのか、下の写真の明日香の小さな丘なのか、様々に取りざたされましたね。では、6首を見てみましょう。? 王(おほきみ)は神にしませば天雲の 五百重が下に隠りたまいぬ (巻二〜205)?皇(おほきみ)は神にしませば 天雲の雷(いかづち)の上に廬せるかも (巻三〜235)©皇は神に [続きを読む]
  • 柿本人麻呂が舎人皇子に歌を献じ、警告した?
  • 宮廷歌人とされる柿本人麻呂の歌は八十八首(長歌19・短歌69)、人麻呂歌集の歌は、三百六十九首(長歌2・短歌332・旋頭歌35)、人麻呂の歌の中(短3) 計 四百六十首このように多くの歌の中に、柿本人麻呂のメッセージを込めたのでしょう。舎人皇子に献じた歌を読んでみましょう。おや、ちょっと意味深な歌になっていますね。万葉集には叙景歌はないそうです。まして、人麻呂がただの風景を詠んだとは思えませんから [続きを読む]
  • 石走る淡海国のささなみの大津宮に天の下知らしめしけむ天皇
  • 石走る淡海国のささなみの大津宮に天の下知らしめしけむ天皇「近江の荒都を過ぎる時の柿本朝臣人麻呂の作る歌」の反歌は、有名ですね。今日は、「ささなみ」のに注目してみましょうか。上の反歌は、30・31挽歌です。30 楽浪の思賀(しが)の辛崎幸くあれど 大宮人の船待ちかねつ31 左散難弥乃(ささなみの)志我の大わだ淀むとも 昔の人に亦もあはめやもささなみの志賀の辛崎はずっとそのままであるのに、昔日の大宮人 [続きを読む]
  • 柿本朝臣人麻呂は天智天皇を大王とたたえた
  • 柿本朝臣人麻呂の登場人麻呂の歌は、巻一の持統天皇の御製歌「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣乾したり天の香具山」(28番歌)の次に置かれています。持統天皇の御代になって活躍した人のようですね。しかも、29番歌の題詞には「近江の荒都を過ぎる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」とあり、作者名より前に状況や地名が書かれていますから、研究者の説によれば「これは公的な場で詠まれた歌」ということになります。人麻呂が公的な場で詠 [続きを読む]
  • 中皇命の運命を万葉集は物語る
  • 中皇命の愛と決意万葉集巻一の冒頭を見ると、雄略天皇・舒明天皇の歌に続いて「中皇命が間人連老をして舒明天皇(629〜641年在位)に献上させた歌」となっています。この時代、中皇命と呼ばれるべき女性は、間人皇女以外にはいないそうです。中皇命とは、皇位継承の玉璽を預かっている重要な立場の女性のことです。天皇に近い女性が選ばれます。間人皇女は孝徳天皇の皇后に立ちました。ですから、孝徳帝崩御の後に「中皇命」 [続きを読む]
  • 間人皇后が間人に逃れた理由(1)
  • 間人(たいざ)という町を知っていますか?日本海側の漁師町です。そこで行われるお祭りは、「間人皇后をカクマッタことを誇りに思い、そのことを忘れないために」続けているそうです。間人(はしひと)皇后とは穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后なのだそうです。蘇我物部戦争(仏教を取り入れるか否かを争ったという戦争)の難を逃れた穴穂部間人皇后を間人(たいざ)の人々がお世話した、という伝承。このことを誇りに思って [続きを読む]
  • 万葉集冒頭歌・雄略天皇とは何者か?
  • 万葉集は何故か雄略天皇の歌で始まる雄略天皇(泊瀬朝倉宮御宇天皇)允恭天皇の第五皇子允恭天皇の長男は木梨軽皇子兄の安康天皇も雄略天皇も、長男の皇太子・木梨軽皇子が生きていれば皇位には着けませんでしたね。(埼玉県行田市の稲荷山古墳)泊瀬朝倉宮御宇天皇・大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)といえば、埼玉古墳群の稲荷山鉄剣で有名な天皇ですね。「辛亥年」と象嵌された稲荷山古墳の鉄剣によると [続きを読む]
  • 倭は国のまほろば・古事記・倭建命の国偲び歌
  • 平群を詠んだ古代の英雄・倭建命平群で少し寄り道しましょう。奈良県平群町には長屋王墓だけでなく、様々な伝承があります。聖徳太子ゆかりの信貴山や、松永久秀の信貴山城もありますね。倭建の国偲び歌・ヤマトは国のまほろば父の都は纏向の日代の宮です。命尽きる時、偲んだのはヤマトです。そして、平群の熊白樫の葉をよみました。なぜ平群の熊白樫なのでしょう。この人は、如何なる星の下に生れたのでしょう。まず、小碓命は少 [続きを読む]
  • 長屋王に殉じたのか、丈部龍麻呂!大伴三中、挽歌を詠む
  • 長屋王事件の年・神亀六年=天平元年の己巳丈部龍麻呂は長屋王の賜死に殉じたのでしょうか万葉集巻三「挽歌」には、気になる歌が並んでいます「神亀六年己巳(つちのとみ)左大臣長屋王賜死の後倉橋女王の作る歌一首」と、「膳部王を悲傷する歌一首」に並んで、「天平元年己巳、摂津国班田の史生丈部(はせつかべ)龍麻呂自ら経(わな)きて死にし時に、判官(じょう)大伴宿祢三中(みなか)が作る歌一首併せて短歌」があります。 [続きを読む]
  • 武市皇子の男子・長屋王の悲劇・その2
  • 高市皇子の御子・長屋王事件を悲しむ歌神亀六年二月、長屋王の理不尽な賜死を嘆いたのは、残された家族でした。長屋王と共に死を強要されたのは吉備内親王とその子供たちで、他の女性との子ども達は残されました。とはいえ、ゆくゆくは有力男子の命を断たれていくのですが…では、長屋王の死を傷む歌を詠みましょう。巻三「神亀六年己巳、左大臣長屋王が死を賜りし後に倉橋部女王の作れる歌一首441 大皇(おおきみ)の命かしこ [続きを読む]
  • 高市皇子の男子・長屋王の悲劇
  • 長屋王事件の悲哀と、そのあとさき万葉集には長屋王は無実だったと暗示されている巻三の「長屋王の故郷の歌一首」268 吾背子が古家の里の明日香にはちどり鳴くなり嬬待ちかねて「我が父の故郷である明日香には沢山の鳥が鳴いている。その声は妻を待ちかねているようだ。まるで古の都の人々の霊魂が新京へ去った人々の帰りを待ちかねているように聞こえる」この歌の前に、「志貴皇子の御歌一首」が置かれています。267 むさ [続きを読む]
  • 古代天皇家と饒速日と天香久山
  • 天香具山と饒速日命と天皇家前回紹介した三人の天皇御製歌に、天香具山が詠まれていました。さて、天香具山とは如何なる山なのでしょう。香具山は藤原宮の東に位置する山で、万葉集巻一「藤原宮御井の歌」にも『日本の青香久山は日経(ひのたて)の大御門に 春山としみさび立てり』と詠まれています。畝傍山は日の横の大御門、耳成山は背友(そとも北)の大御門、影友(かげとも南)の大御門には吉野山、このように神山が都を守る [続きを読む]
  • 天の香久山を詠んだ三人の天皇
  • 天の香久山を詠んだ三人の天皇香具山は小さな山です。神代より信仰されていたようで、ヤマト攻略の時に香具山の土が使われました。香具山は藤原宮の東に在ります。藤原宮の北には耳成山。耳成山は藤原宮のシンボルでした。なにしろ「耳に成す山」なのですから、〇〇ミミのように「耳」のつく大王が織られましたね。耳成山の麓に住む王こそ「大王」だったと云うことです。さて、藤原宮の西には畝傍山でしたね。畝傍・耳成・香久山が [続きを読む]
  • 大巳貴こそ天地創造の神
  • 欅が素晴らしい府中の大國魂神社の参道です。創立は景行天皇四十一年とされ、当時は武蔵国造が代々奉仕しましたが、大化改新によって武蔵国府がこの地に置かれたので、国司が国造に代わって奉仕するようになったと略誌に書かれています。大國魂神社のご祭神は大国魂大神ですが、この大神は出雲の大国主神と御同神です。大昔、武蔵国を開き、人民に衣食住の道を教え、また医療法やまじないの術も授けられたと伝わります。大國魂神 [続きを読む]
  • 悲しみの王妃・祟り神となる(2)
  • 十市皇女は祟り神となった十市皇女は天武天皇と額田王の間に生まれた皇女です。そして、天智天皇の一子・大伴皇子の妃になり葛野王をもうけました。しかし、壬申の乱で夫は破れて自経しました。乱後は、敵将の高市皇子の下に嫁ぎ、ついに宮中で突然死(自死)に至りました。天武七年(678)当時の人は悲運の王妃の彷徨える霊魂を畏れたと思います。それが比賣塚の伝承と重なったと思うのです。何時の時代か、比賣は十市皇女とな [続きを読む]
  • 悲しみの王妃、祟り神となる?
  • 悲しみの王妃、祟り神となる?この小さな神社のご祭神は十市皇女、天武天皇と額田王の間に生まれた長女になります。比賣神社に十市皇女が鎮座されたのは、昭和五十六年五月九日となっています。脇座には、市杵嶋比賣が寄り添っています。市杵嶋比賣は、女神として十市皇女の周りを祓い清めているのでしょう。この小さな神社は、奈良の新薬師寺の門前に在ります。新薬師寺は、聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が建立した寺院です [続きを読む]
  • 衣通姫・軽太郎皇女は内部告発する
  • 衣通姫は内部告発する・君が行きけ長くなりぬ木梨軽皇子は仁徳天皇と磐姫皇后の孫で、允恭宇天皇(伊邪本和気命)の長子です。母は応神天皇(品陀和気命)の御子で大郎子(意富本杼王)の妹・大中津比賣です。仁徳天皇の後は、子の履中天皇(伊邪本和気命)、弟の反正天皇(水歯別命)、弟の允恭天皇と兄弟で皇位を継承したとされています。履中(64歳)反正(60歳)允恭(78歳)と長生きでしたので、木梨軽皇子が姦通の嫌疑をかけ [続きを読む]
  • 難波天皇の御代を寿ぐ難波津の歌
  • 難波天皇の御代を寿いだ歌難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花この歌は、現代では「競技かるた」の開始時に詠まれることが通例となっているそうです。難波津に咲くやこの花冬ごもり 今を春べと咲くやこの花また、「いろはにほへと」のように書道の手習いのはじめにも使われた歌で、徳島県の観音寺遺跡から万葉仮名で「奈尓波ツ尓昨久矢己乃波奈」と記された7世紀のものと思われる習書木簡が出土しました。他に [続きを読む]
  • 仁徳天皇と鹿・政敵の暗殺を意味するのか
  • 雄鹿が鳴かなかったのは、すでに殺されていたから万葉集の巻九「紀伊国行幸十三首」の編集を思い出しますと、「鹿が鳴かなかったのは既に殺されていたからだ」という暗示になっていました。「鹿の死は政変」であったとも読めました。十二首目の「木の国の昔さつおのなり矢持ち 鹿とり靡べし坂の上にぞ或る」は、まさに鹿を弓で殺したことが辺りを平定したことになるという歌でした。万葉集巻九の冒頭歌「ゆふされば小掠の山に臥す [続きを読む]