気ままに何処でも万葉集! さん プロフィール

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気ままに何処でも万葉集!さん: 気ままに何処でも万葉集!
ハンドル名気ままに何処でも万葉集! さん
ブログタイトル気ままに何処でも万葉集!
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/codaisinonazo
サイト紹介文千年以上も前の出来事を直に見聞きするような…なんと万葉集は謎だらけ
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供36回 / 365日(平均0.7回/週) - 参加 2017/02/09 23:12

気ままに何処でも万葉集! さんのブログ記事

  • 間人(はしひと)皇后は、間人(たいざ)に逃れたという伝承
  • 間人皇后は、タイザに逃れた…という伝承丹後半島北部の港町、間人(たいざ)には「聖徳太子の母・用明天皇の皇后である穴穂部間人皇后が蘇我物部戦争を逃れて、一次避難した」という伝承が残されています。避難生活も終わり、ヤマトへ帰る時が来ました。皇后は御名である「間人」を土地に残されたのでした。が、郷人は「畏れ多い」として「皇后の退座」の意味から「退座=たいざ=間人」として地名を「たいざ」とした、のだそうで [続きを読む]
  • 丹後半島へ逃げた間人皇后
  • 丹後半島に間人(たいざ)を訪ねました。間人(たいざ)は、丹後半島の北にある美しい漁港です。日本海の荒波の打ち寄せる間人(たいざ)の立岩(たていわ)。とても有名な岩場です。立岩は玄武岩の柱状節理の岩場で、荒々しい岩肌が風にさらされていました。ここは、竹野川の河口です。竹野川は立岩にぶつかり、そっと日本海に注ぎ込みます。河口が立岩に遮られているので、水は少しずつしか海に流れ出ることはできません。この立 [続きを読む]
  • おほきみの遠の朝廷とあり通う筑紫國
  • おほきみの遠の朝廷とあり通う嶋門を見れば神代しおもほゆ人麻呂が筑紫國に下る時に詠んだ歌ですが、あまりにも有名ですね。この歌を読みながら、人麻呂は筑紫に何をしに行くのだろうか、神代とは何時だろうか、「朝廷」とあるから伊弉冉や伊弉諾の神代ではなく、祖先の大王の神代であれば誰の王朝だろうか、とか様々に考えます。それも、人麻呂個人が「大王の遠のみかど」と通っているのではなく、「通い続けている人々」が、「遥 [続きを読む]
  • 文武天皇が天子になった日の決意
  • (持統天皇と文武天皇が暮らした藤原宮の址)持統天皇は太上天皇として孫の軽皇子を支え続けました。それは、文武天皇が15歳という若さで即位したからです。政務について知らないことが多いので、持統天皇の援助は不可欠だったのです。その文武天皇の歌は、万葉集には一首あるのみです。それも「或は御製歌」とされています。万葉集巻一「大行天皇、吉野にいでます時の歌」74 み吉野の山のあらしの寒けくに はたや今夜(こよ [続きを読む]
  • 万葉集と書紀の食い違う記述・麻績王には如何なる罪があったのか
  • 万葉集巻一23、24・番歌の麻績王(をみのおほきみ)とは何者か麻績王にはいかなる罪があったのか・人が同情したのはなぜか23 打ち麻(そ)を 麻績王 白水郎なれや 伊良籠の島の玉藻刈ります24 空蝉の 命を惜しみ浪にぬれ 伊良麌の島の玉藻刈り食(お)す巻一「明日香浄御原天皇代」に在るこの歌は不思議です。麻績王(をみのおほきみ)が伊良麌(いらご)の島に流罪になった時の歌で、物語のように掲載 [続きを読む]
  • 万葉集3番歌の謎・たまきはる宇智の大野に立った大王
  • たまきはる宇智の大野に立った大王は、誰か?此の天皇は誰でしょう。前歌の2番歌に「高市岡本宮御宇天皇代」とあり、その次の3番歌ですから同じ時代として、この天皇は舒明天皇とされています。舒明天皇が宇智の大野で御猟された時、中皇命が間人連老に儀式歌を献じさせたということです。この中皇命が今まで紹介したように、有間皇子事件の時に歌を詠んだ中皇命(間人皇后)だとしたら、この歌が詠まれた時の中皇命は十二歳から [続きを読む]
  • 「持統天皇の紀伊国行幸を歩こう」和歌山県に提案します
  • 春は万葉集の旅・持統天皇の紀伊国行幸を歩くつらつら椿つらつらに…でもなく、爛漫のソメイヨシノでもなく、山桜の風情溢れた紀伊路が最高!!なのです(玉津島神社の万葉歌碑)春に向けて、和歌山県の方々に提案です。「持統天皇の紀伊国行幸の跡を歩く旅」の企画をされませんか。これまで和歌山には幾度も出かけましたが、ヤマザクラの頃が最高でした。もちろん、高野山も南紀白浜も素晴らしい観光地ですし、とても満足させても [続きを読む]
  • 呼兒鳥となって持統天皇を呼び続けるのは誰なのか
  • 巻一70 倭には鳴きてか来らむ呼兒鳥象の中山呼びぞ越ゆなるなつかしい倭には、呼兒鳥がもう鳴いて来ているだろうか。この吉野では象の中山を吾子と呼びながら越えている。(いったい誰を呼んでいるのでしょう。やはり、あの方が別れた吾子を呼ばれているのでしょうね。)謎の鳥・呼兒鳥(万葉集事典では下記のように説明されています)かっこうか。郭公。渡り鳥。夏鳥。ほととぎすより大きい。灰青色。尾が長く白斑。蛾の幼虫を [続きを読む]
  • 持統天皇が選んだ東国への最終行幸
  • 大宝二年(702)十月〜十一月、崩御前に東国行幸最晩年に、紀伊国を訪ねた持統天皇(写真は牟婁の湯のある白浜海岸)その目的は何だったのか? ですね。大宝元年の紀伊国行幸は文武天皇に「有間皇子事件」を伝えるという目的がありました。では、東国への行幸の目的は何だったのでしょう? 何しろ、崩御のひと月前なのです。冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする十一月十三日、行幸は尾張国 [続きを読む]
  • 別に編集された持統天皇の紀伊国行幸の歌
  • 持統天皇・もう一つの紀伊国行幸持統天皇(太上天皇)と文武天皇(大行天皇)の紀伊国行幸を繰り返し取り上げてきました。この行幸の目的は「有間皇子の霊魂を鎮める儀式をするためだった」として巻九の紀伊國行幸13首(1667〜79)を紹介しました。また、この有間皇子事件を目撃した額田王と事件そのものに関わった中皇命(なかのすめらみこと)の歌も紹介しました。大宝元年(701)、持統天皇の紀ノ國行幸を万葉集は「大 [続きを読む]
  • 天智天皇の挽歌を詠んだのは、後宮の女性達
  • 天智天皇の葬送儀式で詠まれた挽歌天智帝は大津宮で崩御、そして山科に陵があります。倭姫皇后の他にも、婦人・額田王・舎人吉年・石川夫人の詠んだ挽歌が残されています。 天皇の崩(かむあが)りましし時に、婦人(おみなめ)が作る歌一首 姓氏未詳150 現実のこの世に生きているのだから神となられた大王にお会いすることはできずに離れていて、朝から大王を思って嘆き、離れていてもわたくしが慕い続けている大王、もし玉 [続きを読む]
  • 天智天皇の挽歌を詠んだ女性たち
  • 倭姫太后は、何処へ行ってしまったのか天智天皇の最後をみとった皇后の、その後の消息は分かりません。何処へ行かれたのでしょう、不思議です。広い琵琶湖の南の対岸と少し近くなるところに楽浪の志賀の大津京はありました。天智天皇の都です。園城寺の辺りに大友皇子の屋敷があったそうです。若干の柱跡が見つかっているだけですが、この辺りを額田王も天智天皇も歩いたかも知れませんね。天智天皇は近江大津宮での崩御でした。御 [続きを読む]
  • ささなみの志賀の大津は霊魂の都となった
  • ささなみの志賀の大津は霊魂の都となった明日香が霊魂の都「飛ぶ鳥の明日香」となったように、近江の大津も霊魂の都となりました。「ささなみ」は琵琶湖西南の沿岸一帯の地名だそうです。地名としては滅びても枕詞として使われていると、古語辞典に書かれています。「ささなみ」のという枕詞で始まる歌は、万葉集中に十一首あります。巻一、巻二までは誰が詠んだ歌か分かりますが、巻七〜十二までは「羇旅歌」などで作者名はわかり [続きを読む]
  • 柿本人麻呂が長皇子を賛美した意味
  • やすみしし吾大王 高光る 吾日の皇子と、柿本朝臣人麻呂が称えたのは長皇子長皇子は、天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)の間に生れました。弟は弓削皇子、母の兄は川嶋皇子でした。生まれながらにして日の皇子と崇められたのでしょう。天智帝と天武帝の血統ですからね。弓削皇子が「兄こそ皇位継承者と主張しても不思議ではありませんね。では、人麻呂の歌を読みましょう。皇子の狩場では、鹿も鶉も身をかがめて畏れ従い、同じ [続きを読む]
  • 大王は神にしませば〜人麻呂が詠んだ王朝の皇子
  • おほきみは神にしませば〜と詠まれた歌は、六首六首の中に「大王は神にしませば天雲の雷の上に…」の歌があります。この歌の雷岳はどこなのか、下の写真の明日香の小さな丘なのか、様々に取りざたされましたね。では、6首を見てみましょう。? 王(おほきみ)は神にしませば天雲の 五百重が下に隠りたまいぬ (巻二〜205)?皇(おほきみ)は神にしませば 天雲の雷(いかづち)の上に廬せるかも (巻三〜235)©皇は神に [続きを読む]
  • 柿本人麻呂が舎人皇子に歌を献じ、警告した?
  • 宮廷歌人とされる柿本人麻呂の歌は八十八首(長歌19・短歌69)、人麻呂歌集の歌は、三百六十九首(長歌2・短歌332・旋頭歌35)、人麻呂の歌の中(短3) 計 四百六十首このように多くの歌の中に、柿本人麻呂のメッセージを込めたのでしょう。舎人皇子に献じた歌を読んでみましょう。おや、ちょっと意味深な歌になっていますね。万葉集には叙景歌はないそうです。まして、人麻呂がただの風景を詠んだとは思えませんから [続きを読む]
  • 石走る淡海国のささなみの大津宮に天の下知らしめしけむ天皇
  • 石走る淡海国のささなみの大津宮に天の下知らしめしけむ天皇「近江の荒都を過ぎる時の柿本朝臣人麻呂の作る歌」の反歌は、有名ですね。今日は、「ささなみ」のに注目してみましょうか。上の反歌は、30・31挽歌です。30 楽浪の思賀(しが)の辛崎幸くあれど 大宮人の船待ちかねつ31 左散難弥乃(ささなみの)志我の大わだ淀むとも 昔の人に亦もあはめやもささなみの志賀の辛崎はずっとそのままであるのに、昔日の大宮人 [続きを読む]
  • 柿本朝臣人麻呂は天智天皇を大王とたたえた
  • 柿本朝臣人麻呂の登場人麻呂の歌は、巻一の持統天皇の御製歌「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣乾したり天の香具山」(28番歌)の次に置かれています。持統天皇の御代になって活躍した人のようですね。しかも、29番歌の題詞には「近江の荒都を過ぎる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」とあり、作者名より前に状況や地名が書かれていますから、研究者の説によれば「これは公的な場で詠まれた歌」ということになります。人麻呂が公的な場で詠 [続きを読む]
  • 中皇命の運命を万葉集は物語る
  • 中皇命の愛と決意万葉集巻一の冒頭を見ると、雄略天皇・舒明天皇の歌に続いて「中皇命が間人連老をして舒明天皇(629〜641年在位)に献上させた歌」となっています。この時代、中皇命と呼ばれるべき女性は、間人皇女以外にはいないそうです。中皇命とは、皇位継承の玉璽を預かっている重要な立場の女性のことです。天皇に近い女性が選ばれます。間人皇女は孝徳天皇の皇后に立ちました。ですから、孝徳帝崩御の後に「中皇命」 [続きを読む]
  • 間人皇后が間人に逃れた理由(1)
  • 間人(たいざ)という町を知っていますか?日本海側の漁師町です。そこで行われるお祭りは、「間人皇后をカクマッタことを誇りに思い、そのことを忘れないために」続けているそうです。間人(はしひと)皇后とは穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后なのだそうです。蘇我物部戦争(仏教を取り入れるか否かを争ったという戦争)の難を逃れた穴穂部間人皇后を間人(たいざ)の人々がお世話した、という伝承。このことを誇りに思って [続きを読む]
  • 万葉集冒頭歌・雄略天皇とは何者か?
  • 万葉集は何故か雄略天皇の歌で始まる雄略天皇(泊瀬朝倉宮御宇天皇)允恭天皇の第五皇子允恭天皇の長男は木梨軽皇子兄の安康天皇も雄略天皇も、長男の皇太子・木梨軽皇子が生きていれば皇位には着けませんでしたね。(埼玉県行田市の稲荷山古墳)泊瀬朝倉宮御宇天皇・大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)といえば、埼玉古墳群の稲荷山鉄剣で有名な天皇ですね。「辛亥年」と象嵌された稲荷山古墳の鉄剣によると [続きを読む]
  • 倭は国のまほろば・古事記・倭建命の国偲び歌
  • 平群を詠んだ古代の英雄・倭建命平群で少し寄り道しましょう。奈良県平群町には長屋王墓だけでなく、様々な伝承があります。聖徳太子ゆかりの信貴山や、松永久秀の信貴山城もありますね。倭建の国偲び歌・ヤマトは国のまほろば父の都は纏向の日代の宮です。命尽きる時、偲んだのはヤマトです。そして、平群の熊白樫の葉をよみました。なぜ平群の熊白樫なのでしょう。この人は、如何なる星の下に生れたのでしょう。まず、小碓命は少 [続きを読む]
  • 長屋王に殉じたのか、丈部龍麻呂!大伴三中、挽歌を詠む
  • 長屋王事件の年・神亀六年=天平元年の己巳丈部龍麻呂は長屋王の賜死に殉じたのでしょうか万葉集巻三「挽歌」には、気になる歌が並んでいます「神亀六年己巳(つちのとみ)左大臣長屋王賜死の後倉橋女王の作る歌一首」と、「膳部王を悲傷する歌一首」に並んで、「天平元年己巳、摂津国班田の史生丈部(はせつかべ)龍麻呂自ら経(わな)きて死にし時に、判官(じょう)大伴宿祢三中(みなか)が作る歌一首併せて短歌」があります。 [続きを読む]
  • 武市皇子の男子・長屋王の悲劇・その2
  • 高市皇子の御子・長屋王事件を悲しむ歌神亀六年二月、長屋王の理不尽な賜死を嘆いたのは、残された家族でした。長屋王と共に死を強要されたのは吉備内親王とその子供たちで、他の女性との子ども達は残されました。とはいえ、ゆくゆくは有力男子の命を断たれていくのですが…では、長屋王の死を傷む歌を詠みましょう。巻三「神亀六年己巳、左大臣長屋王が死を賜りし後に倉橋部女王の作れる歌一首441 大皇(おおきみ)の命かしこ [続きを読む]
  • 高市皇子の男子・長屋王の悲劇
  • 長屋王事件の悲哀と、そのあとさき万葉集には長屋王は無実だったと暗示されている巻三の「長屋王の故郷の歌一首」268 吾背子が古家の里の明日香にはちどり鳴くなり嬬待ちかねて「我が父の故郷である明日香には沢山の鳥が鳴いている。その声は妻を待ちかねているようだ。まるで古の都の人々の霊魂が新京へ去った人々の帰りを待ちかねているように聞こえる」この歌の前に、「志貴皇子の御歌一首」が置かれています。267 むさ [続きを読む]