気ままに何処でも万葉集! さん プロフィール

  •  
気ままに何処でも万葉集!さん: 気ままに何処でも万葉集!
ハンドル名気ままに何処でも万葉集! さん
ブログタイトル気ままに何処でも万葉集!
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/codaisinonazo
サイト紹介文千年以上も前の出来事を直に見聞きするような…なんと万葉集は謎だらけ
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供23回 / 365日(平均0.4回/週) - 参加 2017/02/09 23:12

気ままに何処でも万葉集! さんのブログ記事

  • 志賀島の白水郎の遭難の歌を詠んだのは山上憶良なのか?
  • ここは、福岡県福岡市の志賀島。金印が出土した島です。この島の北側には、日本海が広がっています。昔、志賀島の北側の外海(玄界灘)に面したところに志賀海神社の本宮はありました。今日では、博多湾側に志賀海神社(延喜式内名神大社)は遷っています。いえいえ、神社の紹介ではありません。遭難した志賀の荒雄を偲んだ歌の紹介です。荒雄は「白水郎」ですから、海の男・船乗りでした。ですから、知り合いの百姓(ひゃくせい) [続きを読む]
  • 『六義園記』注解(島内景二著)が紹介する『六義園記』の序文
  • 『六義園記』注解では、「柳沢吉保が幕府歌学方・北村季吟(または、その高弟)の指南のもと、六義園記を書き上げた意味と、その思い」を丁寧に紹介されていました。今日は、その「序」の紹介です。元禄15年(1702)江戸駒込の地に造営された六義園は、大名庭園の最高傑作です。この庭園・六義園を造営した柳沢吉保は、「犬公方」と呼ばれた五代将軍綱吉に仕えた側用人で、名前の「吉」を将軍から拝領したほどの寵臣でした。 [続きを読む]
  • 柳沢吉保も知った有間皇子と間人皇后の物語
  •  江戸時代になっての話ですが、側用人柳沢吉保(1658〜1714)が徳川五代将軍・綱吉に仕えたのち隠居して六義園という庭園を駒込に造りました(1702年)。「回遊式築山泉水」の大名庭園です。江戸時代の大名庭園の中でも代表的なもので、明治になり三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸となりました。その後、岩崎家より東京市に寄付され、昭和28年に国の特別名勝に指定された文化財になっています。「六義園記」は、『大名庭園の最 [続きを読む]
  • 万葉集巻一の最終歌が外され巻八に移動された、其の理由
  • 人麻呂が編集した初期万葉集・巻一の冒頭歌と最終歌は何だったのか 巻一の冒頭歌は雄略天皇の御製歌でした。では、巻一の最終歌は何だったのでしょう。ちょっと興味が湧きますね。現存する巻一の最終歌は長皇子の歌になっています。以前にも書きましたが、長皇子は持統天皇のお気に入りでたいそう大事にされていました。ですから、巻一の最終歌には長皇子の歌が選ばれることに異存はないのですが、ちょっと変です。それは、長皇 [続きを読む]
  • 柿本朝臣人麻呂の妻に人麻呂の死を告げたのは誰か
  • 依羅娘子は人麻呂の死を知って、直接には会えないと悟った巻二の223は、人麻呂の「臨死の時の歌」でした。その歌を伝え聞いた後に、妻の依羅娘子(よさみのをとめ)が歌を詠んでいます。今日は帰って来るかも知れない、今日こそは、と私が待っている貴方は、石水の貝に交じっているというではありませんか。もう、あなたに直にお会いすることは、とてもできないでしょう。石川に雲よ立ち渡れ。その雲を見ながらあなたを偲びます [続きを読む]
  • 柿本人麻呂の妻依羅娘子、挽歌を詠む
  • 人麻呂の死を知った時、依羅乙女は何処にいたのか柿本あしん人麻呂が、死に臨んでの「自ら傷みて作る歌」が223番歌です。有間皇子と同じように人麻呂も「自傷歌」を残しました。旅の途中で「人麻呂は行き倒れ」死したという説がありますが、そうでしょうか。「自傷歌」という文字からして死に臨まされて、有間皇子と同じように刑死となったと、わたしは思います。万葉集の人麻呂の挽歌とその妻の歌を読んでみましょう。万葉集・巻 [続きを読む]
  • 柿本朝臣人麻呂が事挙げしたのは、王朝の弥栄だった 
  • 柿本人麻呂は「事挙げ」を決意し、万葉集を奏上<今回の時代状況> 文武天皇の御代の弥栄を願い「皇統の正当性と皇統の歴史を文武天皇に伝えるために」万葉集は編纂編集された。文武天皇の崩御により万葉集は行き場を失ったが、持統天皇の勅を貫くため即位したばかりの元明天皇(文武帝の母)に献上された。が、天武帝の皇子が生き残っている中での元明天皇の即位は、諸臣をまとめるには困難な時期だった。<巻十三の3254番 [続きを読む]
  • 万葉とは、すぎにし君=草壁皇子と軽皇子をつなぐ霊的な言葉
  • 前回のブログは、次のようにおわりました。今日は、初期万葉集の編纂に話を進めます。? 人麻呂こそが勅を受けて万葉集の編纂をした。いよいよ、この事に迫らなければならない。今日は「すぎにし人の形見とぞ」?からです。万葉集巻一の主題は「軽皇子、安騎の野に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」? 万葉集の中心歌は45~49番歌である。原万葉集=初期万葉集は、この歌がクライマックスとなるように編集されていた。 [続きを読む]
  • 万葉集巻一・持統天皇は近江朝を偲び、有間皇子の霊魂を鎮め続けた
  • 万葉集は持統天皇が「孫の文武天皇の為に編纂させた史書だった」という立場からブログを進めています。今日は「すぎにしひとの形見ぞと」の?からです。孫の軽皇子に皇統をつなぐには持統帝の即位しかなかったのである。だから、持統天皇は即位した。が、その即位後の吉野行幸・紀伊國行幸とは……持統帝は何をしたかったのだろうか。行幸にどんな目的があったのだろうか。朱鳥四年の紀伊国行幸の目的は、軽皇子の母・阿閇皇女に有 [続きを読む]
  • 持統天皇の御代には、柿本人麻呂が登場し持統天皇に歌を献じた
  • 万葉集は、文武天皇の為に編纂された教育書であり、皇統の史書だったと書いた「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。持統天皇が編纂させた「初期万葉集」の巻一に掲載された歌を読みながら進めてきました。今日は、?からです。持統天皇の御代にはどんな出来事があり、どんな歌が詠まれたのか? 持統天皇の天香具山の歌と在位中の行幸から浮かんでくる謎持統天皇には常に謎が付きまとう。その代表歌を再確認してみよう。 [続きを読む]
  • 万葉集巻一・天智帝と天武帝の御代の歌の編集意図は、全く違っている
  • 初期万葉集は、皇統の正当性と歴史を文武天皇に伝えるために編纂された「万葉集」の編纂の時期は、長期に渡ります。人麻呂による8世紀初頭、家持により8世紀半ば、平城天皇の臣下により9世紀初頭、といった具合です。人麻呂編纂のものを初期万葉集、家持編纂のものを後期万葉集とよび、平城天皇の勅により初期万葉集と後期万葉集が合体再編集されたと思っています。なぜ編集の手を入れたのか。それは、触れたくない事実が歌とし [続きを読む]
  • 額田王と中皇命は大事件を歌に詠んだ
  • 万葉集は「持統天皇が孫の文武天皇の為に編纂させた歴史書・皇統の歌物語」であるというスタンスでこの、回を通して紹介しています。歴史書として詠むと、どの歌も非常に分かりやすいし、何故その一に置かれたかがよくわかるのです。では「すぎにし人の形見とぞ」の続きです。この歌は中皇命自身の儀式歌ではなく、臣下に献じさせた歌なのである万葉集3・4番歌の中皇命とは間人皇后、難波天皇の儀式歌を間人連老に献じさせた⑳ [続きを読む]
  • 持統天皇は孫の文武天皇に皇統の歴史を伝えようとした
  • 「すぎにし人の形見とぞ」の続きです。「持統天皇は香久山を詠んで、舒明・天智の皇統であると主張し、文武天皇の皇統を示そうとした⑯ では、巻一28番歌。これが、持統天皇の香具山の歌である。持統天皇が畝傍姫だとしたら、何故香久山を詠んだのか、不思議である。考えられるのは、畝傍姫である持統帝が「香具山の皇統の世を寿いで詠んだ歌」であるということだ。もちろん、孫の文武天皇に教え諭すために。28 春過ぎて夏来 [続きを読む]
  • 人麻呂が編集した初期万葉集に残る皇統の歴史
  • 「すぎにし人の形見ぞと」という題で話した時の資料を紹介しています。今日は⑥からで、万葉集の1番歌(冒頭歌)です。⑥では、万葉集の冒頭歌の紹介。泊瀬朝倉宮御宇天皇=雄略天皇の歌である。(なぜ万葉集の冒頭歌が雄略天皇なのか、持統天皇の祖先と云うのだろうか。それにしても、雄略天皇の祖先は応神・仁徳天皇であるが、この王統は武烈帝で滅びて「継体天皇」に変わっている。)ただ、この冒頭歌で雄略天皇は、菜を摘 [続きを読む]
  • 万葉集は文武天皇のために人麻呂が編纂した歴史書
  • 人麻呂は謎だらけの歌人なのか?   否! 彼は大王の忠実なしもべだったそうなのです。人麻呂の歌は率直で誠実です。「もののふの やそ宇治川の…」の歌は、人麻呂が、個人的な思いを詠んだと編集されています。近江大津宮を見て春草に被われた荒れた旧都を見て古に心を寄せ、瀬田川では身を投げた近江朝に仕えた娘を偲び、更に宇治川まで下って命を落としたあまたの武人を思ったのです。余りに感傷的な歌ですが、人麻呂がここ [続きを読む]
  • 間人(はしひと)皇后は、間人(たいざ)に逃れたという伝承
  • 間人皇后は、タイザに逃れた…という伝承丹後半島北部の港町、間人(たいざ)には「聖徳太子の母・用明天皇の皇后である穴穂部間人皇后が蘇我物部戦争を逃れて、一次避難した」という伝承が残されています。避難生活も終わり、ヤマトへ帰る時が来ました。皇后は御名である「間人」を土地に残されたのでした。が、郷人は「畏れ多い」として「皇后の退座」の意味から「退座=たいざ=間人」として地名を「たいざ」とした、のだそうで [続きを読む]
  • 丹後半島へ逃げた間人皇后
  • 丹後半島に間人(たいざ)を訪ねました。間人(たいざ)は、丹後半島の北にある美しい漁港です。日本海の荒波の打ち寄せる間人(たいざ)の立岩(たていわ)。とても有名な岩場です。立岩は玄武岩の柱状節理の岩場で、荒々しい岩肌が風にさらされていました。ここは、竹野川の河口です。竹野川は立岩にぶつかり、そっと日本海に注ぎ込みます。河口が立岩に遮られているので、水は少しずつしか海に流れ出ることはできません。この立 [続きを読む]
  • おほきみの遠の朝廷とあり通う筑紫國
  • おほきみの遠の朝廷とあり通う嶋門を見れば神代しおもほゆ人麻呂が筑紫國に下る時に詠んだ歌ですが、あまりにも有名ですね。この歌を読みながら、人麻呂は筑紫に何をしに行くのだろうか、神代とは何時だろうか、「朝廷」とあるから伊弉冉や伊弉諾の神代ではなく、祖先の大王の神代であれば誰の王朝だろうか、とか様々に考えます。それも、人麻呂個人が「大王の遠のみかど」と通っているのではなく、「通い続けている人々」が、「遥 [続きを読む]
  • 文武天皇が天子になった日の決意
  • (持統天皇と文武天皇が暮らした藤原宮の址)持統天皇は太上天皇として孫の軽皇子を支え続けました。それは、文武天皇が15歳という若さで即位したからです。政務について知らないことが多いので、持統天皇の援助は不可欠だったのです。その文武天皇の歌は、万葉集には一首あるのみです。それも「或は御製歌」とされています。万葉集巻一「大行天皇、吉野にいでます時の歌」74 み吉野の山のあらしの寒けくに はたや今夜(こよ [続きを読む]
  • 万葉集と書紀の食い違う記述・麻績王には如何なる罪があったのか
  • 万葉集巻一23、24・番歌の麻績王(をみのおほきみ)とは何者か麻績王にはいかなる罪があったのか・人が同情したのはなぜか23 打ち麻(そ)を 麻績王 白水郎なれや 伊良籠の島の玉藻刈ります24 空蝉の 命を惜しみ浪にぬれ 伊良麌の島の玉藻刈り食(お)す巻一「明日香浄御原天皇代」に在るこの歌は不思議です。麻績王(をみのおほきみ)が伊良麌(いらご)の島に流罪になった時の歌で、物語のように掲載 [続きを読む]
  • 万葉集3番歌の謎・たまきはる宇智の大野に立った大王
  • たまきはる宇智の大野に立った大王は、誰か?此の天皇は誰でしょう。前歌の2番歌に「高市岡本宮御宇天皇代」とあり、その次の3番歌ですから同じ時代として、この天皇は舒明天皇とされています。舒明天皇が宇智の大野で御猟された時、中皇命が間人連老に儀式歌を献じさせたということです。この中皇命が今まで紹介したように、有間皇子事件の時に歌を詠んだ中皇命(間人皇后)だとしたら、この歌が詠まれた時の中皇命は十二歳から [続きを読む]
  • 「持統天皇の紀伊国行幸を歩こう」和歌山県に提案します
  • 春は万葉集の旅・持統天皇の紀伊国行幸を歩くつらつら椿つらつらに…でもなく、爛漫のソメイヨシノでもなく、山桜の風情溢れた紀伊路が最高!!なのです(玉津島神社の万葉歌碑)春に向けて、和歌山県の方々に提案です。「持統天皇の紀伊国行幸の跡を歩く旅」の企画をされませんか。これまで和歌山には幾度も出かけましたが、ヤマザクラの頃が最高でした。もちろん、高野山も南紀白浜も素晴らしい観光地ですし、とても満足させても [続きを読む]
  • 呼兒鳥となって持統天皇を呼び続けるのは誰なのか
  • 巻一70 倭には鳴きてか来らむ呼兒鳥象の中山呼びぞ越ゆなるなつかしい倭には、呼兒鳥がもう鳴いて来ているだろうか。この吉野では象の中山を吾子と呼びながら越えている。(いったい誰を呼んでいるのでしょう。やはり、あの方が別れた吾子を呼ばれているのでしょうね。)謎の鳥・呼兒鳥(万葉集事典では下記のように説明されています)かっこうか。郭公。渡り鳥。夏鳥。ほととぎすより大きい。灰青色。尾が長く白斑。蛾の幼虫を [続きを読む]
  • 持統天皇が選んだ東国への最終行幸
  • 大宝二年(702)十月〜十一月、崩御前に東国行幸最晩年に、紀伊国を訪ねた持統天皇(写真は牟婁の湯のある白浜海岸)その目的は何だったのか? ですね。大宝元年の紀伊国行幸は文武天皇に「有間皇子事件」を伝えるという目的がありました。では、東国への行幸の目的は何だったのでしょう? 何しろ、崩御のひと月前なのです。冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする十一月十三日、行幸は尾張国 [続きを読む]
  • 別に編集された持統天皇の紀伊国行幸の歌
  • 持統天皇・もう一つの紀伊国行幸持統天皇(太上天皇)と文武天皇(大行天皇)の紀伊国行幸を繰り返し取り上げてきました。この行幸の目的は「有間皇子の霊魂を鎮める儀式をするためだった」として巻九の紀伊國行幸13首(1667〜79)を紹介しました。また、この有間皇子事件を目撃した額田王と事件そのものに関わった中皇命(なかのすめらみこと)の歌も紹介しました。大宝元年(701)、持統天皇の紀ノ國行幸を万葉集は「大 [続きを読む]