鎌倉殿 さん プロフィール

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鎌倉殿さん: 武田勝頼公と北条夫人の部屋
ハンドル名鎌倉殿 さん
ブログタイトル武田勝頼公と北条夫人の部屋
ブログURLhttp://rashimban3.blog.fc2.com/
サイト紹介文「日本にかくれなき弓取」と評された武田勝頼公、「芝欄」と称えられた妻・北条夫人。その部屋へご招待。
自由文近年、武田勝頼公の施策を当時の状況に即して見直そうという動向が現れているが、まだ十分に支持を得られているわけでない。柴辻俊六氏のごとく「贔屓の引き倒し」と酷評する者もいる。武田氏滅亡は信玄の残した負の遺産による所が大きい。逆に勝頼公がみせる温かみある人間性は特筆に値する。このブログでは平山優先生・丸島和洋先生・笹本正治先生らの著書を引用しながら武田勝頼公と彼を支えた北条夫人(桂林院殿)を顕彰する。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供82回 / 365日(平均1.6回/週) - 参加 2017/04/19 22:53

鎌倉殿 さんのブログ記事

  • 勝頼公、北条夫人(桂林院殿)を娶る?
  • 勝頼公、北条夫人(桂林院殿)を娶る? 中世、諏訪は「諏方」と書いたのだが、勝頼公と北条夫人の束の間の幸せとして諏方下社秋宮千手堂落慶供養が挙げられよう。天正5年(1577)3月3日、諏方下社の本地仏を安置した秋宮千手堂の堂舎及び三重塔の落慶供養の法会が行われた。長い戦乱で仏堂が荒廃していたのを勝頼公が再興を命じ、この上巳の節句(雛祭り)に、盛大な落慶供養が行われた。財源の一切を受け持った願主は、諏方の春 [続きを読む]
  • 勝頼公、北条夫人(桂林院殿)を娶る①
  • 勝頼公、北条夫人(桂林院殿)を娶る① 北条夫人(桂林院殿)は北条氏政の妹で、永禄7年(1564)に北条氏康の6女として生まれ、武田勝頼公の継室として嫁いだ。母は家老松田憲秀の娘(松寿院殿)という。勝頼公と最後まで行動を共にする夫人である。このブログでは以下北条夫人と記す。輿入れの時期については、『北条五代記』『甲陽軍鑑』とも天正5年(1577)で一致しており、中でも『小田原編年録』は同年1月22日と詳しい日付ま [続きを読む]
  • 勝頼公、一向一揆支援に動く
  • 勝頼公、一向一揆支援に動く 天正5年(1577年)草々のこと、北信濃の中俣(長野県須坂市)にある浄土真宗寺院勝善寺の順西(じゅんさい) は、石山本願寺より支援の要請を受けたものの、それに応えることができず困惑していた。順西は、2月28日付で本願寺重臣下間頼廉に書状を送り、内心では本願寺の籠城に参加したいと思ってはいたが、織田領国を通過せねばならず、通行が不自由でとても叶わないと述べ、決して本願寺を軽んじてい [続きを読む]
  • 上杉謙信の北陸侵攻戦と信長の危機
  • 上杉謙信の北陸侵攻戦と信長の危機 話を少し戻す。織田信長は、天正4年(1576年)5月と7月の二度におよぶ石山本願寺・毛利軍との合戦に敗れ、上杉謙信とも断交することとなり、上杉・武田・北条・毛利・本願寺に包囲される危機に陥った。そこで信長も、大友・島津氏などに支援を求め、毛利氏を九州方面から封じ込めようと躍起になった(『島津家文書』)。 これに対し、上杉謙信は、天正4年(1576年)9月には越中の栂尾城(富山 [続きを読む]
  • 甲相越三国和睦構想の挫折
  • 甲相越三国和睦構想の挫折 織田信長を追い詰め、戦国史を左右する大きな可能性を秘めた甲相越三国和睦は、不思議なことに天正4年(1576年)9月を最後に、史料から姿を消してしまう。実際には、足利義昭が天正4年11月、薩摩島津氏に送った書状に言及されているが、当事者間では9月を最後に史料から姿を消す。また、このことに関する武田勝頼公と上杉謙信、あるいは北条氏政の交渉を示す文書も、一切見いだすことができない。わずか [続きを読む]
  • 武田勝頼公、和睦構想に賛意を示す
  • 武田勝頼公、和睦構想に賛意を示す 毛利軍の東進と、織田軍の敗退は、東国の政治情勢にも大きく影響したと考えられる。足利義昭が提示した2度目の甲相越三国和睦構想は、公式に武田・北条・上杉三氏に通達されたのが6月12日であったが、上杉謙信は6月中に受諾を決断した。また北条氏政も8月になって、受諾するとの意思を足利義昭に伝えてきた。 では武田勝頼公はどのような動きをしていたのであろうか。武田・北条両氏は同盟関係 [続きを読む]
  • 毛利水軍VS織田水軍
  • 毛利水軍VS織田水軍 足利義昭が伝えた毛利軍の摂津侵攻は虚報ではなく、事実であった。天正4年(1576年)5月3日の本願寺軍との合戦で、織田軍は原田直政ら多数が戦死する被害を受けると、この知らせを受けた信長が親征して本願寺軍と激戦に及び、信長自身も鉄炮傷を足に受けながらも、これを潰走させることに成功した。だが、信長は石山本願寺を陥落できず、やむなく包囲・封鎖して孤立させる持久戦を選択した。そのため、本願寺 [続きを読む]
  • 甲相越三国和睦構想と毛利氏
  • 甲相越三国和睦構想と毛利氏 毛利輝元が足利義昭支援を決定し、石山本願寺とも結ぶ決意をしたことを知った織田信長は、三者の連携が整わぬうちに本願寺を陥落させる必要性に迫られ、天正4年(1576年)4月から6月にかけて大軍をもって石山本願寺を攻撃した。だが石山本願寺の抵抗は頑強で、織田軍は数多くの犠牲者を出し、攻めあぐんだ。5月3日には、織田軍の原田直政・三好康長・明智光秀・筒井順慶らの軍勢が本願寺の猛攻に遭い [続きを読む]
  • 勝頼公、足利義昭や毛利輝元との連絡を図る
  • 勝頼公、足利義昭や毛利輝元との連絡を図る 武田勝頼公は、足利義昭が備後国鞆に移って毛利氏の保護下に入り、帰洛の準備を整えている情報を、天正4年(1576)6月16日に石山本願寺を通じて知り(『戦武』二六七九号)、ただちに義昭や毛利氏に協力する旨を認(したた)めた書状を送った。だが、武田氏の使者は、敵国(織田・徳川領)で捕縛されたり、突破を試みるも達成できず甲斐に引き返すことを余儀なくされ、連絡をつけるのに大 [続きを読む]
  • 足利義昭、北条氏の説得に動く
  • 足利義昭、北条氏の説得に動く 懸案であった上杉謙信と石山本願寺の和睦が実現し、毛利輝元の全面支援が達成されると、備後国鞆に身を寄せていた足利義昭は、再び甲相越三国和睦を現実化させるべく、北条氏政の弟氏規(うじのり)に御内書を送り、上杉謙信との和睦を打診した(『戦北』四四七一号)。【A】足利義昭御内書(『戦北』四四七一号) 至当国(備後国鞆)移座所、毛利令馳走、既海陸及行候、委細輝元可申越条、 可相談 [続きを読む]
  • 要害城(積翠寺城)の修理
  • 要害城(積翠寺城)の修理 その一方で、この時期、武田氏は本国甲斐国の防衛拠点の整備を行っている。天正4年(1576年)6月1日、武田氏は御印判衆(普請役などが免除された郷村支配の中心となる者で、武田氏からの印判状を受け取る者たち)へ、積翠寺(甲府市)背後にある要害城(積翠寺城)の普請を命じた。 要害とは地形が険しく守りに有利な場所のことで、ここでは躑躅ケ崎にある武田氏館の詰めの城である。いうならば、近世 [続きを読む]
  • 上杉謙信、石山本願寺・加賀一向一揆と和睦す
  • 上杉謙信、石山本願寺・加賀一向一揆と和睦す ところで、上杉謙信が義昭の政治工作を無下にしなかったのは、彼が未だ室町将軍(※1588年まで将軍位)であったからというだけでなく、上杉氏の置かれた状況がそれまでと違ってきていたからであろう。上杉謙信は、天正3年(1575)7月まで織田信長と友好関係を保っていたが、信長が天正元年(1573)に越前朝倉義景を滅ぼし、次いで越前一向一揆を掃討して、加賀・能登への攻勢を強める [続きを読む]
  • 足利義昭の執念
  • 信長打倒への再起 織田信長との和睦と帰洛に失敗し、河内国若江城を明け渡し、和泉国堺に移り、さらに紀伊国由良に滞在していた足利義昭は、京都回復には毛利氏の強い支援を得るしかないと考えていた。しかし、信長との全面衝突を回避したい毛利氏は、足利義昭を庇護することに難色を示し続け、毛利領国への入国を拒んでいた。 埒が明かぬとみた義昭は、天正4年(1576)2月、突如由良を引き払い、毛利氏の同意を得ないまま、自ら [続きを読む]
  • 勝頼公、木曾義昌を警戒す
  • 勝頼公、木曾義昌を警戒す 現在でも弔問外交という言葉があるが、武田勝頼公は父信玄の葬儀に伴い、武田氏一族や重臣層を甲府に招集した。長篠合戦で生き残った人々が初めて一堂に会する場となったのである。この時、勝頼公は、天正4年(1574年)4月3日付で木曾義昌の家臣団に対し起請文の提出を命じている(『戦武』二六二九号)。 この起請文は全7カ条で構成されている。内容を要約すると、次のようになる。(1)武田勝頼公と [続きを読む]
  • 父信玄の葬儀?
  • 葬儀の執行 いずれにせよ信玄の遺骸は、甲府で荼毘に付されたと推察され、その後遺骨は再び躑躅ケ崎館に戻り、七仏事が執行された。確実な記録に残されているのは、初七日(4月16日執行、円蔵院〈穴山武田信友菩提寺〉桂岩徳芳香語)、二七日忌(4月16日執行、鉄觜道角)、三七日忌(4月19日執行、普同庵〈恵林寺塔頭〉末宗瑞曷)、四七日忌(4月20日執行、駿河清見寺大輝祥暹)、五七日忌(不明)、六七日忌(4月22日執行、龍門 [続きを読む]
  • 父信玄の葬儀?
  • 葬儀に向けた準備 三河・遠江反攻計画を挟んだ時期にあたる天正4年(1576)4月、勝頼公は亡父信玄の葬儀を挙行し、その喪を正式に発することとした。葬儀の準備は正月から開始され、当初は2月に行われる予定であったらしい。だが諸事情から、命日前後にずれ込むこととなったようだ。 ところで信玄の葬儀に関しては、「天正玄公仏事法語」(県内記録七号)、「快川和尚法語」、「鉄山集」(県外記録一四三・一四四・一五〇・一五 [続きを読む]
  • 伝馬制度
  • 伝馬制度 公用の人や荷物を運送するために人馬を宿駅に常置させ、宿駅間を継ぎ送る「伝馬」は、律令国家が地方支配のために全国的に整備した交通機関であるが、戦国時代になると主に東国の戦国大名が軍事や領国支配の必要性から各々に伝馬制度を整備し、人・商品・情報の流通の円滑化を図った。領国独自の制度でありながらも隣国とのつながりも考慮されており、それは江戸時代の伝馬制度の萌芽ともいえる。 さて、天正3年(1575 [続きを読む]
  • 勝頼公、三河・遠江での反攻を企図す
  • 勝頼公、三河・遠江での反攻を企図す 波乱の天正3年が暮れ、明けて天正4年(1576)、勝頼公は前年以来宣言していた三河への侵攻を実施しようと考えた。そのため、海津城代春日虎綱を信濃・三河国境に配備して、織田・徳川方の動向を監視させ、あわせて侵攻のタイミングをうかがっていた。春日虎綱が海津城を空けることが可能であったのは、上杉謙信が織田・徳川両氏に呼応して北信濃に侵攻する懸念が解消されていたからであろう( [続きを読む]
  • 国境諸口の防備
  • 国境諸口の防備 前回に続き保科正俊宛勝頼公書状より、国境諸口の防備指示についてみてみよう。勝頼公は、伊那郡内の主要城郭に備えや人質などに関する指示を出すと、次に国境各口の防衛のための指令を列挙している。まず重視されたのが信濃・美濃国境の妻籠城の防衛である。織田軍が岩村方面から侵攻した場合に、妻籠城が最初に攻撃を受ける懸念が高かったからである。その在番については、松尾小笠原衆が配備され、とりわけ重要 [続きを読む]
  • 勝頼公、信濃防衛策を指示す
  • 勝頼公、信濃防衛策を指示す 勝頼公は、天正3年(1575)8月10日に保科筑前守正俊に28カ条にも及ぶ長文の指令を出し、信濃防衛のための軍勢配備を命じた(『戦武』二五一四号)。この文書は、長らく元亀3年(1572)の武田信玄が西上作戦を展開するにあたって出した命令と考えられてきたが、最新の研究により天正3年8月、武田勝頼公が長篠敗戦と岩村城攻防戦の発生や、伊那坂西一族の謀叛などへの対応と、遠江への出陣を前に信濃防 [続きを読む]
  • 武田勝頼公の信濃防衛計画
  • 勝頼公の織田・徳川領国反攻計画 武田勝頼公が三河長篠で大敗したとの情報は、すぐに諸国に広まった。だが、武田軍が撃破されたことを疑う者もいたようだ。奈良の多門院英俊は天正3年(1575)5月24日に、長篠で武田軍が大敗したとの情報に接し「実否沙汰」と記した(『多門院日記』)。英俊は情報が事実か訝(いぶか)しがみ、周囲の人々も精度について噂しあったようだ。だが27日になって詳細が判明し、援軍として織田軍に派遣され [続きを読む]
  • 足利義昭の甲相越三国和睦構想
  • 戦国のオルガナイザー足利義昭 戦国時代の帰趨を決定した元亀・天正争乱において、織田信長に対抗する諸戦国大名を結びつけるオルガナイザーの役割を果たし、結集核となったのが、室町幕府最後の将軍足利義昭である。義昭は、石山本願寺、近江国浅井長政、越前国朝倉義景らと結び、さらに元亀4年(1573)4月には武田信玄とも連携を図った。この結果、形成されることになったのが信長包囲網である。 しかし、元亀4年4月に、武田軍 [続きを読む]
  • 岩村城落城
  • 岩村城落城 信濃から派遣された夜襲隊は、武田勝頼公が派遣した後詰とみて間違いないが、それでは勝頼公本隊はどうしていたであろうか。武田勝頼公が、本隊を率いて後詰に出陣したのは事実である。遠江小山城、高天神城の救援と徳川軍の撃退に成功した勝頼公は、10月には甲斐に帰還しており、引き続き今度は岩村城に出陣しようとしたらしい。この時期、岩村城を織田信忠軍、二俣城を徳川家康軍に包囲されていた。武田氏は、甲斐・ [続きを読む]
  • 追い詰められる岩村城
  • 追い詰められる岩村城 織田信忠軍は、頑強に抵抗する岩村城を容易に陥落させることができなかった。しかし、要害を恃んで持ちこたえているとはいえ、岩村城籠城衆も後詰がなければ落城しか道がない。そのため、甲斐の武田勝頼公にしばしば援軍の催促に及んでいた。勝頼公は、急ぎ新たな将卒の募集を行い、軍勢を整えることに腐心していたが、その兵力の量的かつ質的低下は深刻であった。 また6月から三河・遠江では徳川軍の反攻 [続きを読む]
  • 坂西一族の謀叛、上杉謙信との和睦
  • 信長の武田方国衆調略 織田信忠・佐久間信盛の美濃、奥三河侵攻は、境界を接する信濃国木曾・伊那両郡の武田方国衆に動揺をもたらした。勝頼公は、木曾氏の離叛を食い止めるため、7月13日に木曾郡国衆木曾義昌(勝頼公の義弟、信玄の娘婿)の重臣山村七郎右衛門尉良利(よしとし)に判物を送り、永年にわたる武田氏への協力を賞し、信濃国手塚(長野県上田市)で知行を与え、木曾谷の諸士を取りまとめ義昌に無二の奉公をするよう求 [続きを読む]