鎌倉殿 さん プロフィール

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鎌倉殿さん: 教科書の歴史はウソばかり!?北条氏末裔の憂鬱
ハンドル名鎌倉殿 さん
ブログタイトル教科書の歴史はウソばかり!?北条氏末裔の憂鬱
ブログURLhttp://rashimban2.blog.fc2.com/
サイト紹介文鎌倉北条氏(宗政流)の末裔の一人が、世間の印象があまりよくない北条氏(特に得宗家)の誤解を払拭する。
自由文鎌倉北条氏の末裔の一人として私が学校や塾の日本史授業で鎌倉時代を教えるとき言いようのない無念さを覚える。教科書があまりに最新の研究成果を考慮せず誤った通説を載せているからだ。教科書執筆者の学説は古い。鎌倉北条氏の治世が本当に教科書に書かれているようなものであったのか、細川重男先生・秋山哲雄先生をはじめ最新の研究者の著書を引用しながら紹介し、北条氏につけられたマイナスイメージの払拭に努めたい。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供87回 / 338日(平均1.8回/週) - 参加 2017/04/20 18:49

鎌倉殿 さんのブログ記事

  • 蘇我氏は本当に悪人なの?
  •  「大化の改新」について、東京書籍の中学歴史教科書には次のように記されています。大化の改新:7世紀の中ごろ、唐が対立する高句麗を攻撃し、そのために百済、新羅の両国でも緊張が高まりました。日本でも、戦争に備えて国力を高める必要が出てきましたが、そのころ国内では、蘇我氏の独裁的な政治に対する不満が高まっていました。 こうした中で中大兄皇子は、645年、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)などとともに蘇我蝦夷・入鹿の [続きを読む]
  • 渡来人は一方的に来たのか?
  •  「渡来人」について、東京書籍の中学歴史教科書には「大陸文化を伝えた渡来人」という項目で次のように記されています。大陸文化を伝えた渡来人:朝鮮半島の諸国との交流などの中で、朝鮮半島から日本列島に、一族でまとまって移り住む人々が増えました。こうした渡来人は、鉄製の農具を広め、農業用の大きなため池をつくる技術のほか、高温で焼く、かたく黒っぽい土器(須恵器)や、上質の絹織物をつくる技術を伝えました。渡 [続きを読む]
  • 稲作は本当に朝鮮半島から来たの?
  •  東京書籍の中学歴史教科書には「弥生文化の成立」という項目で次のように記されています。弥生文化の成立: 紀元前4世紀ごろ、大陸(おもに朝鮮半島)から移り住んだ人々によって、稲作が伝えられ、やがて東日本にまで広まりました。人々は、水田の近くにむらをつくって住み、たて穴住居の近くにはねずみや湿気を防ぐために高床倉庫をつくり、収穫した米をたくわえました。稲作とともに、青銅器や鉄器などの金属器も伝わりま [続きを読む]
  • 邪馬台国と卑弥呼
  •  中学校で習う日本の歴史の中で、最初に出てくる本格的な人名(日本人)は誰かと問えば、おそらく 「卑弥呼」 と答える人が多いでしょう。実際には群馬県の岩宿遺跡を発掘した 「相沢忠洋」 が最初に出てきますが、黒太文字で最初に出てくるのは 「卑弥呼」 なのであながち間違いではありません。その卑弥呼について、東京書籍の中学歴史教科書には 「邪馬台国の女王」 という項目で次のように記されています。(集英社学習漫画よ [続きを読む]
  • 徳政と悪党
  • 徳政と悪党 平和令と悪党タグでは、弘安の役前後の第二次異国征伐(高麗出兵)時に顕在化した畿内悪党の海外派兵計画について述べている。幕府は、戦時であることを強調して戒厳体制を解かず、朝廷管理下の武士・寺社に対する影響力を維持し続けた。朝廷や、当事者である寺社・公家権門もまた、幕府の調停能力に期待し、問題の解決を委ねるケールが多かったことは見て来た通りである。西国境相論の裁許や悪党の逮捕、さらに配流・ [続きを読む]
  • 危機管理政権の苦悩
  • 危機管理政権の苦悩 今回も山川出版社教科書『詳説日本史』の次の部分の検証から話を始めたい。 「(幕府は)御家人以外に、全国の荘園・公領の武士をも動員する権利を朝廷から獲得するとともに、蒙古襲来を機会に西国一帯に幕府勢力を強めていった。…(中略)…幕府の支配が全国的に強化される中で、北条氏の権力はさらに拡大し、なかでも家督をつぐ得宗の勢力が強大となった。それとともに得宗の家臣である御内人と本来の御家 [続きを読む]
  • 得宗独裁―御家人と御内人と
  • 得宗独裁―御家人と御内人と 山川出版社教科書『詳説日本史』には次のような記述がある。 「(幕府は)御家人以外に、全国の荘園・公領の武士をも動員する権利を朝廷から獲得するとともに、蒙古襲来を機会に西国一帯に幕府勢力を強めていった。…(中略)…幕府の支配が全国的に強化される中で、北条氏の権力はさらに拡大し、なかでも家督をつぐ得宗の勢力が強大となった。それとともに得宗の家臣である御内人と本来の御家人との [続きを読む]
  • 北条時宗公の公武合体
  • 北条時宗公の公武合体 弘安5年(1282年)12月5日、ついに得宗北条時宗公の意を受けた使節佐藤業連(なりつら)が上洛し、六波羅の警備責任者を興福寺の要求通りに流刑とすること、ただし係争地(論所)は関東御領とすることなどを伝えた。翌7日には、これを受けて、その旨を伝達するとする亀山上皇の院宣が発給されたことは前に述べた通りである。 その後も、罪の軽重や、朝廷側の八幡与党源氏公卿の処分問題をめぐり紛糾したが、 [続きを読む]
  • 武家の干渉か、朝廷の責任放棄か
  • 武家の干渉か、朝廷の責任放棄か 京都被官の武士・寺社勢力の戦場動員およびその勅許、大和・山城の悪党追捕と徴兵、西国境相論への介入と関東御領化。幕府は異国征伐の高麗出兵という演出によって、朝廷のもつ既得権を大きく侵害し(≒委譲させ)ていた。だが、それは、武力にものをいわせた脅迫的な干渉どうやらそうではない。もう一度、前回の大隅・薪境相論における幕府と朝廷の関係をみていきたい。 この事件解決のキーパー [続きを読む]
  • 寺社の蜂起と朝廷
  • 寺社の蜂起と朝廷 弘安4年(1281年)閏7月、蒙古軍の壊滅という歴史的な大勝利の陰で、関東(幕府)と京都(朝廷)が政治的駆け引きの火花を散らしていたことは、これまで見てきた通りである。高麗征伐(異国征伐)計画は、幕府側の切り札として出されたものだった。国家存亡の危機に際し、幕府と朝廷が一致団結して局に当たっていた、というのは虚像なのである。武家と公家だけではない。実は、朝廷の管轄する寺社勢力内部におい [続きを読む]
  • 政治の中の蒙古襲来
  • 政治の中の蒙古襲来 前回、第二次高麗征伐(異国征伐)に悪党が九州に派遣されたことにふれた。では、捕縛され九州に送られた悪党がなぜ大和・山城だったのか、とりわけ南都寺僧がターゲットにされたのか、という問題が指摘されよう。海津一朗氏は、この意味を解くことによって、異国征伐(高麗征伐)が立案されたことの理由が明らかになると述べ、見解を示している。 第二次高麗征伐(異国征伐)が企画された当時の、幕府と朝廷 [続きを読む]
  • 「召人預状」にみる悪党、海外派兵
  • 第二次高麗出兵計画 蒙古襲来は日本にとってまさに空前絶後の「国難」であった。だが、夷狄から国土を守るという過程の中で当事者間に同床異夢と思われる事例がいくつかある。14世紀の前半は、対蒙古の戒厳体制がつづく「冷戦の時代」であり、それと並行して、文永・弘安の蒙古襲来の戦後処理が行われた時期であった。この時期は、国内(≒幕府・朝廷)の敵対勢力である強盗や海賊が大量に逮捕され、六波羅探題や西国守護所に送ら [続きを読む]
  • 楠木正成について
  •  楠木正成は鎌倉幕府滅亡の「きっかけ」をつくり、戦前の皇国史観の残滓で、現在でも「南朝の忠臣」のように崇められている人物です。皇居前には今でも銅像が立っています。さて、教科書改訂前までは、河内出身の「悪党」と教えられてきた楠木正成ですが、現在の日本史用語集(山川出版社)には次のように記載されています。楠木正成: 河内国の豪族。元弘の変に呼応して挙兵。河内の赤坂城・千早城で 幕府軍を引きつけ、御家人 [続きを読む]
  • 北条高時公政権?
  • 形式・先例偏重主義の政策 嘉元の乱以後幕府滅亡にいたる鎌倉幕府最後の28年は、寄合合議制の完成期である。北条貞時公晩年の延慶2年(1309)4月時点で確認される寄合構成員は、 【北条氏】北条貞時公(得宗)・北条師時(執権)・北条熈時・金沢貞顕・大仏宗宣(連署) 【文 士】長井宗秀・太田時連 【外様御家人】安達時顕 【御内人】長崎円喜・尾藤演心 の10名であった。この2年後、応長元年(1311)11月26日、貞時公は4 [続きを読む]
  • 16代執権 赤橋(北条)守時
  • 極楽寺流赤橋氏の嫡流 守時は永仁3年(1295)に北条久時の子として生まれた。北条泰時公の弟重時に始まる北条氏の門流を「極楽寺流」といい、重時の子、長時(赤橋氏)、時茂(常葉氏)、義政(塩田氏)、業時(普恩寺氏)の諸家があった。極楽寺流の諸氏は、鎌倉時代を通して幕府の要職に就いた者が多いが、中でも赤橋氏は家祖長時が6代執権を務めたことにもより、得宗家に次ぐ高い家格を有した。ちなみに、「赤橋氏」と称するの [続きを読む]
  • 15代執権 金沢(北条)貞顕
  • 金沢北条氏家督となるまで 金沢貞顕は弘安元年(1278)に金沢顕時の子として生まれた。母は遠藤為俊娘とされる。金沢北条氏は北条義時公の六男実泰を祖とする庶流であるが、実泰の子実時が北条泰時公に登用されて活躍し、北条時頼公・時宗公の政権下で評定衆や一番引付頭人などの要職に就いた。実時は武蔵国六浦荘金沢郷に別邸を設け、金沢文庫を創設したことでもよく知られている。その子顕時も北条時宗公・貞時公政権で評定衆や [続きを読む]
  • 14代執権 北条高時公
  • 『太平記』によってつくられたイメージ 「頗(すこぶ)る亡気の体(てい)にて、将軍家の執権も叶い難かりけり」(まったく愚かで、将軍の執権などとても務められない)、「正体無き」(正気ではない)。『保暦間記』の北条高時公評価である。西源院本『太平記』巻五「相模入道好田楽事(でんがくをこのむのこと)?(ならびに)犬事(いぬのこと)」は高時公が田楽と闘犬に熱中し追従した幕府有力者たちが田楽法師や犬に居万の富を投じた様 [続きを読む]
  • 9代将軍 守邦親王
  • 知られざる血脈 鎌倉将軍も、第9代将軍守邦親王をもって終焉を迎える。守邦親王は、8代将軍久明親王の王子、母は7代将軍惟康親王の娘である。延慶元年(1308)8月、父が将軍を更迭された後を受けて8歳で将軍に任官した。その直後、親王宣下され、三品に叙されている。 源頼朝から始まる源氏将軍の系統が3代で絶えたことは、よく知られている。しかし偶然の所産とはいえ、最後の将軍守邦親王は源家の血筋をかすかにではあるが伝え [続きを読む]
  • 13代執権 普恩寺(北条)基時
  • 極楽寺流普恩寺氏 北条泰時公の弟重時に始まる鎌倉北条氏の門流を「極楽寺流」といい、重時の子、長時(赤橋氏)、時茂(常葉氏)、義政(塩田氏)、業時(普恩寺氏)の諸家があった(筆頭家格は赤橋氏)。基時はこの業時の孫にあたる。「普恩寺氏」と称するのは、孫の基時が創建した普恩寺という寺院名に由来する(『鎌倉廃寺辞典』)。 基時の祖父業時は連署を務めたが、父時兼は31歳で死去したこともあり、執権や連署への就任 [続きを読む]
  • 12代執権 政村流北条熈時
  • 熈時の出自と幕府内での活動 北条熈時(ひろとき)は、弘安2年(1279)北条為時の子(政村流、嘉元の乱で殺害された連署時村の孫)として生まれた。生年は複数の史料でまちまちであるが、今日では弘安2年説が有力である。熈時の属する政村流北条家は、北条氏庶家などのなかでも格家が高い。北条義時公の子である家祖政村は連署・7代執権を務め、政村の子で熈時の祖父にあたる時村は連署にまで至っている。父為時は幕府要職への就任 [続きを読む]
  • 11代執権 大仏(北条)宗宣
  • 誕生と烏帽子親 大仏宗宣(むねのぶ)は、正元元年(1259)に生まれた。父は大仏宣時(のぶとき)、母は北条時広(北条時房の孫で宣時の従兄)の娘である。後に鎌倉幕府の連署となる父宣時は22歳で、当時未だ幕府の役職には就任していなかった。 宗宣の元服の時期は不明であるが、弘安5年(1282)2月、24歳での雅楽允(うたのじょう)任官以前である。元服に際し、宗宣は烏帽子親の得宗北条時宗公より「宗」の字を賜ったとされている。 [続きを読む]
  • 10代執権 北条師時
  • 「相模四郎」師時 北条師時は、建治元年(1275)に生まれた。父は得宗北条時宗公の同母弟宗政、母は北条政村の娘である。叔父時宗公は師時を猶子(相続権のない養子)とし、もう一人の弟宗頼の子、兼時と宗方も猶子とした。『六波羅守護次第』兼時の項には時宗公の嫡子北条貞時公の猶子とあるが、年齢などから時宗公の猶子と考えられている。 早世した弟たち(宗政・宗頼)の遺児の面倒を見るためもあるだろうが、兄弟の存在が確 [続きを読む]
  • 8代将軍 久明親王
  • 久明親王の将軍任官と持明院統 久明親王は、持明院統初代後深草天皇の皇子として生まれた。『将軍執権次第』は誕生を建治2年(1276)9月11日としている。しかし『保暦間記』『鎌倉年代記』などの史書の多くは将軍任官時における久明の年齢を16歳としており、逆算すると文永11年(1274)の誕生となる。文永11年は第一次蒙古襲来すなわち文永の役の年である。『勘仲記』等の同時代史料に久明の誕生記事が見当たらないことから、いず [続きを読む]
  • 9代執権 北条貞時公
  • 執権就任と霜月騒動 北条貞時公は文永8年(1571)12月12日、北条時宗公の子として生まれた。母は時宗公の正室で安達義景の娘(兄泰盛の養女となる)堀内殿である。幼名は幸寿。得宗家の内管領(得宗家公文所執事)平頼綱が乳父として養育にあたった。時宗公に他に男子はおらず、まさに得宗家の御曹子であった。建治3年(1277)12月、父の例に倣い7歳で元服する。将軍御所において、父の執権時宗公をはじめとする北条氏一門や、外 [続きを読む]
  • 7代将軍 惟康親王
  • 異例ずくめの経歴 惟康親王は、文永元年(1264)鎌倉で生まれた。父は6代将軍宗尊親王(後嵯峨天皇皇子)、母は関白近衛兼経の娘宰子である。父が将軍職を罷免され京都へ送還(追放)されたため、3歳にして従四位下・征夷大将軍となった。征夷大将軍の最年少記録である。当時の名乗りは、惟康王であった。文永7年(1270)、7歳で元服し、従三位に昇叙された。同時に源氏賜姓されて、源惟康を名乗る。源実朝の暗殺以来、51年ぶりの [続きを読む]