M・ITO さん プロフィール

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M・ITOさん: 邪馬台国と日本書紀の界隈
ハンドル名M・ITO さん
ブログタイトル邪馬台国と日本書紀の界隈
ブログURLhttps://ameblo.jp/yamatai-nihongi/
サイト紹介文邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について綴っています。
自由文邪馬台国については、「魏志倭人伝」後世改ざん説という新説により「熊本説」にたどり着きました。詳細は『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)にまとめました。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供34回 / 156日(平均1.5回/週) - 参加 2017/05/08 13:00

M・ITO さんのブログ記事

  • 弥生時代中期の播磨地方における中心集落〈新宮宮内遺跡〉
  •  帰郷した際に「新宮宮内遺跡(しんぐうみやうちいせき)」を見学してきました。 新宮宮内遺跡は、兵庫県たつの市新宮町にある弥生時代の集落遺跡で、国指定の史跡になっています。 遺跡のある播磨地域は、吉備や河内などに比べるとなじみがないかもしれませんが、瀬戸内海の航路と、出雲と畿内をつなぐ陸路が交わる交通の要衝です。讃岐地方との交流も密だったと考えられ、弥生時代に重要な役割を果たした地域です。 「新宮宮 [続きを読む]
  • 狗奴国熊本説から邪馬台国熊本説へ‼
  •  私は、『邪馬台国は熊本にあった!』の中で、「魏志倭人伝」を丁寧に読み解いて、方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)という邪馬台国の拠点集落にたどり着いたつもりでした。邪馬台国の比定地は、熊本平野全域だと考えました。しかし、そこには「狗奴国」がありました。といいますか、狗奴国熊本説があったのです。  誤解を恐れずにいえば、狗奴国熊本説は、福岡県や佐賀県が自県内に多くの邪馬台国候補地を乱立させた [続きを読む]
  • 原日本紀の復元011 継体天皇〈2〉 継体天皇はいつ即位したのか?
  •  前記事で、523年を、継体天皇(けいたいてんのう)17年として考えてみることに決めました。また、いったん『日本書紀』の記す年代を基準としてみていくことにしました。とりあえず、『日本書紀』の継体天皇紀と、無事績年を除いた年表を、主要な治世年で比較しておきます(表1)。 ■表1 継体天皇の年代比較  さて、どこから手をつければよいかですが、まずは継体天皇がどんな天皇だったかということからみていこうと思 [続きを読む]
  • 「魏志倭人伝」の九州上陸地点〈5〉末盧国踏査の可能性と唐津説のまとめ
  •  ここまで2回続けて、倭地調査と地図作成についてみてきました。 それに関連して、「魏志倭人伝」中の末盧国(まつらこく)の記述に興味深い部分があります。 草木茂盛行不見前人(草木が旺盛に茂って、前を行く人が見えないほどである)  これはどんな状況について記したものでしょうか。唐津湾奥の平野部への上陸時の記述とは思えません(その可能性も完全否定はしませんが)。伊都国への行程で出会った光景であったとしたら [続きを読む]
  • 「魏志倭人伝」の九州上陸地点〈4〉地図作成からみる唐津上陸
  •  前記事では、梯儁(ていしゅん)が帰国後に提出した報告書に地図が付されていたのではないかという新説について述べました。 「本当に当時、そんな地図があったのか?」と思われた方も多いと思います。今回はまず、当時、地図があったと考える根拠からみていきます。  実は、「地図は文字よりも古くからあった」といわれるほど、古代から痕跡が残っています。中国でも、殷の時代(紀元前17世紀〜紀元前11世紀)から地図が [続きを読む]
  • 「魏志倭人伝」の九州上陸地点〈3〉倭地調査と地図に関する新説
  •  前記事では、危機回避という点から唐津上陸を考えました。 今回は、私が「リスクの最小化」よりも強く、唐津上陸の要因となったと考える「倭地の調査・報告」という視点から考えてみます。  梯儁(ていしゅん)一行の使命が、皇帝の下賜品を卑弥呼に届けることだったのは、疑いようがありません。しかし、私は、梯儁一行にはもう一つの使命があったと考えています。 それが、倭地の調査および報告です。 公孫氏が遼東、楽浪 [続きを読む]
  • 「魏志倭人伝」の九州上陸地点〈2〉危険回避からみる唐津上陸
  •  今回は、唐津上陸説を「リスクの最小化」という視点から考えてみます。  240年に来倭した梯儁(ていしゅん)一行というのは、いったいどのような特性を備えた集団だったのでしょうか。 最初にいえるのは、前記事で見たように、公孫氏滅亡により再開された魏と倭の交渉において、魏側からの「最初の」使節だったということです。没交渉の間に、倭に関する情報は失われたり、古くなっていたものと考えられます。直前に来た難 [続きを読む]
  • 「魏志倭人伝」の九州上陸地点〈1〉唐津説の前提条件
  •  「魏志倭人伝」では、帯方郡(たいほうぐん)を出発した郡使一行は、朝鮮半島南部にあった狗邪韓国(くやかんこく)から海を渡り、対馬国、一大国(いちだいこく)を経て、ついに九州島にあった末盧国(まつらこく)に上陸したことが記されています。この上陸地点はどこだったのでしょうか?  2017年7月29日、全国邪馬台国連絡協議会の第3回討論型研究発表会が、「魏の使者の上陸地点は?」というテーマで開催されまし [続きを読む]
  • 永遠のテーマ? 「魏志倭人伝」の一里は何メートル?
  •  「魏志倭人伝」を読んで邪馬台国へたどり着こうと考える人は、必ずこの「一里問題(仮)」にぶつかります。例えば、書かれた行程をたどって九州島の末盧国(まつらこく)へ上陸したとします。次は、末盧国から500里のところに伊都国を探さなければなりません。さらに、伊都国(いとこく)から100里のところに奴国を……。その過程では、1里が何メートルかを決めなければ先に進めないのです。しかし、邪馬台国論争はすでに [続きを読む]
  • 狗邪韓国は倭地=卑弥呼を戴く女王国の一つか?
  •  「魏志倭人伝」の行程記述において、魏の帯方郡(たいほうぐん:中心は現在のソウル市付近にあったとされる)を出発した郡使一行が、七千余里の道程を経てたどり着くのが狗邪韓国(くやかんこく)とされています。 従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千余里(帯方郡から倭へ行くには、まず海岸にそって水行して、韓国を経て、南へ、あるいは東へと行くと、七千余里でその〈倭の〉北岸である狗邪韓国 [続きを読む]
  • 原日本紀の復元007 崇峻天皇〈1〉暗殺されたのは35歳?
  •  崇峻(すしゅん)天皇の治世には無事績年はありません。だから、実年代と事績を列挙することに何も障害はないのですが、天皇の年齢というところで疑念が残ります。『日本書紀』には崇峻天皇の年齢が記されていないのです。 そこで記述の中に手がかりを求めました。最大の手がかりは崇峻天皇(泊瀬部天皇〈はつせべのすめらみこと〉)が欽明(きんめい)天皇の第十二子であるという記述です。十二というのは大きな数字ですが、実 [続きを読む]
  • 邪馬台国・卑弥呼の墓はどこにある?〈熊本行3〉
  •  以前の記事で、熊本に行った目的の一つに「卑弥呼の墓が作られたであろうと思われる場所を見つけること」があると書きました。  私は『邪馬台国は熊本にあった!』の中で、卑弥呼の墓は山陵や山頂を整形した直径25メートル程度の円墳であると考え、「邪馬台国である熊本平野を見渡すことのできる山上に直径二五メートルの円墳が築かれ、都の人々は常にそれを仰ぎ見、時には山を登って祭祀を行ったのではないだろうか」と幻想 [続きを読む]
  • 原日本紀の復元006 推古天皇〈2〉実年代と事績
  • 推古天皇:豊御食炊屋姫天皇:33代天皇  推古天皇は、歴代天皇で最初の女性天皇であり、容姿端麗であったとされます。そして、推古天皇の治世には非常に重要な事績が多く見られます。 ●仏教の興隆を図り、法興寺を建立(推古4年)●冠位十二階の制定(推古11年)●十七条の憲法を発布(推古12年)●遣隋使の派遣(推古15年、16年など) *『隋書』では推古8年(600年)に最初の遣隋使を送ったとされる●天皇紀、 [続きを読む]
  • 邪馬台国・卑弥呼の遣使は景初二年? 景初三年?〈2〉
  • 「魏志倭人伝」の記述からみると、卑弥呼の最初の遣使は「景初(けいしょ)二年」だったという結論にたどり着きました。 しかし、二年(238年)であれば遼東で司馬懿(しばい)と公孫淵(こうそんえん)が交戦中であり、その混乱の中を難升米(なしめ)一行が洛陽に行くことは不可能であるとして、三年だったと考える説があります。その「景初三年」説を生んだ遼東と朝鮮半島の状況はどうだったでしょうか。『三国志』のいくつ [続きを読む]
  • 邪馬台国・卑弥呼の遣使は景初二年? 景初三年?〈1〉
  •  今年(平成29年)の初めから2回にわたって、「卑弥呼が魏に対して最初に使いを送ったのは、景初(けいしょ)二年か?三年か?」というテーマの会に参加する機会がありました。それまで、両説が存在することは知っていましたが、特に問題視することなく読み飛ばしていた個所でした。しかし、調べてみるとこれがなかなか奥の深い問題であることを痛感しました。そこで、この機会に自分の考えをまとめておく必要性を感じ、私なり [続きを読む]
  • ここが『日本書紀』のいう「高天原」か!?〈熊本行2〉
  •  写真は、幣立神宮近くから北東側(上)と北西側(下)を撮影したものです。 写真上の奥の方には阿蘇の外輪山、写真下の奥の方には宮崎県の最高峰・祖母山があります。そして、その手前に広々とした高原が広がっているのです。 ここから東に10キロメートル強行くと高千穂神社、高千穂峡に着きます。そこからすぐにイメージできるのは「ここが高天原だったのでは?」ということです。この辺りには時に見事な雲海が現れること [続きを読む]