琉次郎 さん プロフィール

  •  
琉次郎さん: 江戸雑記録
ハンドル名琉次郎 さん
ブログタイトル江戸雑記録
ブログURLhttp://edo.ashigaru.net/
サイト紹介文化政・天保ごろの江戸のお役人について、気まぐれに語ります。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供20回 / 365日(平均0.4回/週) - 参加 2017/05/16 22:29

琉次郎 さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • [用語集]幕府の給与規則
  • ■「蔵米取」:一俵三斗五升入で支給■「地方取」:四ツ物成。即ち、一石につき、四斗の割合■「足高」:すべて蔵米で支給。一石は三斗五升入一俵の割合 例えば、役高千石の内、家禄が地方五百石ならば、不足分の五百石が足高となり、蔵米で三斗五升入五百俵が支給されます。地方五百石は四ツ物成ですから二百石、足高は三斗五升入で五百俵ですから百七十五石で、あわせて三百七十五石が収入となります。■地方取の幕臣が蔵米取の [続きを読む]
  • 男扶持五合、女扶持三合 … ほんとにそんなに食べてたの?
  •  江戸幕府の「一人扶持」とは、成人男性一人が一日に食べる米の量を五合とみなし、月に一斗五升を月俸として支給する給与方式のことをいいます。また成人男性の「男扶持五合」に対して、成人女性の「女扶持三合」という基準もありました。 この話をすると、たいてい「えっ、そんなに食べていたの?」と驚かれます。一汁一菜の粗食イメージがあるからでしょうか。しかし裏返せば、不足するカロリーを補うためには米を大量に食べる [続きを読む]
  • 今太閤と言われた鈴木藤吉郎[補遺]
  • (本編はこちら) 1.東條八太夫父子のその後 鈴木藤吉郎と対立し、先手組に左遷された東條八太夫父子はその後どうなったのでしょうか。 万延元(1860)年六月二十日、東條八太夫、八太郎の父子はそろって長崎奉行支配調役並を申渡されます。八太夫は藤吉郎の姦計によって、長崎転任になったといわれていますが、本編で見たように藤吉郎は八太夫が町奉行所を追われてから七か月後に獄へ繋がれ、長崎転任の辞令が出る一年前にはす [続きを読む]
  • 今太閤と言われた鈴木藤吉郎(後)
  • (前編はこちら) 5.東條八太夫の反旗 鳴り物入りで町奉行所の潤澤掛に就任した鈴木藤吉郎には、錚々たるメンバーが部下として付けられました。南組の支配与力で、当時町方で「第一の勢力家」といわれた吟味方上席の東條(ひがしじょう)八太夫もその一人でした。南町奉行の池田播磨守は、何ごとも八太夫に相談し、八太夫もまた万事を引き受け、「東條八太夫組池田播磨守」(※1)などと囁かれるほど、八太夫に絶大な信頼を寄せ [続きを読む]
  • [大河]西郷どんと阿部正弘
  •  子どもの頃(1970年代)に観た作品の印象が強すぎるせいか、近年の大河ドラマにはがっかりさせられることも多く、観る前からあまり期待しないようにしています。それでも歴史・時代ドラマが絶滅寸前のいま、地上波ではほかに見たいものもなく、ずるずると観つづけています。そんなわけで、今年の大河『西郷どん』もほとんど期待せずに観ていたのですが、いつしか毎週それなりに楽しみにするようになっていました。  前回(4/8) [続きを読む]
  • 今太閤と言われた鈴木藤吉郎(前)
  • 1.前半生 安政年間にこんな川柳があったといいます。 「藤吉ははしばで旗を揚げにけり」 藤吉とは、もちろん豊太閤(羽柴秀吉)のことではありません。本稿の主人公・鈴木藤吉郎は享和元(1801)年、下野国の百姓(※1)に生まれ、米相場で財を成し、それを元手に大名や旗本にも金を貸し付け、水戸老候(前水戸藩主徳川斉昭)や老中首座阿部伊勢守(正弘)ら時の権力者とも付き合いがありました。  冒頭の川柳は、藤吉郎の住居 [続きを読む]
  • 町奉行役宅
  •  町奉行など、特定の役目につく幕臣が住む官舎を役宅または役屋敷といいました。町奉行所もその一つで、番所(役所)としての機能と、役宅(住居)としての機能を兼ね備えていました。町奉行所は、南北ともにほぼ同じつくりとなっていますので、ここでは北町奉行所を例にとって見てみましょう。 用部屋を中心に東には役向きの表玄関、北には勝手向きの内玄関がありました。東側は番所、西側は役宅と、大きく二つのエリアに分かれ [続きを読む]
  • [用語集]旗本・御家人の家格
  •  旗本・御家人の身分や家格は時代による変遷もあり、非常に複雑で、曖昧な点も少なくありません。本記事では、八代将軍吉宗の頃に身分・家格体系が整備され、比較的多くの記録が残されている江戸中後期(主に天保年間とその前後の時代)の様子について、本ブログで比較的多用する(予定の)用語を中心に簡単な説明をしていきます。 【旗本】【永々目見以上】【御家人】【目見】【高家】【寄合】【三番頭】【役寄合】【交代寄合】 [続きを読む]
  • 天保十二丑年十月 北町奉行所住居向絵図面
  •  こちらは北の御番所絵図面です。 画像上方が北になります。表門は南北両町奉行所とも東向き(この画像では右側が東) 北に張り出している建物群は奉行の家来が住む長屋で、北西角にある一番大きな部屋は中間部屋です。厩もあります。南町奉行所では、家来の長屋が北から西へとまわりこんでいるため、東西に長くなっています。役所や役宅(奉行の住居部分)は南北ともにほぼ同じような構造となっていました。また、鬼門となる北 [続きを読む]
  • 天保十三寅年二月 南町奉行所住居向絵図面
  •  こんなものも、一日中ながめていても飽きることのないものの一つです。 絵図面上を部屋から部屋へとゆっくり視線を這わせながら、いつしか町方の組与力同心になったような心持でいろいろと妄想を膨らませていきます。楽しくも幸せなひとときです。  北町奉行所の平面図はこちら 天保13年2月 南町奉行所平面図 ※ すると別ウィンドウで大きな画像を開きます画像上部に東向きの表門があります。また、北から西へとまわり [続きを読む]
  • 町方与力同心の給与:与力篇(前)
  •  町方与力の給与は地方(じかた。土地=知行所・給知による給与方式)ではありましたが、誰某に何処といったような銘々の知行分はなく、一人二百石宛五十人で一万石の給知を上総下総両国のうちに、大繩(一括)で与えられていました。 享保四(1719)年、中町奉行の坪内能登守が御役御免になると、後任は置かれず、町奉行は従前の二人制に復し、与力の定員も南北各組二十五騎(両組あわせて五十騎)となって幕末まで続きます。文 [続きを読む]
  • データ集
  •  本ページで公開しているデータは、 ・データ作成者が個人的な目的や関心により、作成したものであり、内容の正確さを保証するものではありません。・勘違いや誤読・誤入力等による誤りを少なからず含んでいる可能性があります。・複数の、性質の異なる史料を元にデータ作成しているため、史料間の異同等による不整合を含んでいる場合があります。 (公開中)・天保十二丑年十月 北町奉行所住居向絵図面 2018.3.21更新・天保十三 [続きを読む]
  • 廻り方同心の大量処分
  •  北町奉行所隠密廻同心・神田造酒右衛門については、以前の記事で少し触れましたが、造酒右衛門には吉十郎という忰があり、彼も同じ廻り方で臨時廻りを勤めていました(※1) 文政十一(1828)年ごろには、父から忰への番代があったようで、吉十郎は名を造酒右衛門と改めています。この造酒右衛門が使っていた手先に、三之助という博徒の親分がいました。三之助は人宿(※2)を業とする一方で、自らも先手加役(火附盗賊改)松浦 [続きを読む]
  • 更新記録と目次
  • (新着・更新記事)・[用語集]幕府の給与規則 2018.6.17公開・男扶持五合、女扶持三合 … ほんとにそんなに食べてたの? 2018.5.2公開・今太閤と言われた鈴木藤吉郎[補遺] 2018.4.19公開・今太閤と言われた鈴木藤吉郎(後) 2018.4.17公開・今太閤と言われた鈴木藤吉郎(前) 2018.4.16公開・町奉行所の三大分課 2018.4.15加筆修正・町奉行吟味物調役のこと 2018.4.5加筆修正 (目次:■はカテゴリ、・は新着・更 [続きを読む]
  • 町奉行吟味物調役のこと
  •  前回の記事の後半で、町奉行吟味物調役と内与力の話を少ししました。 町奉行吟味物調役(設置当初は支配留役といいましたが、まもなく吟味物調役と改められました。※1)は、寛政八(1796)年三月十七日に始めて置かれ、文化八(1811)年八月二十八日に廃止されるまでの僅か十五年間しか存続しなかったため、その役名を知る人も少ないようです。この点、天明八年から幕末までつづき、川路聖謨(後の勘定奉行)や久須美祐明(後 [続きを読む]
  • 町奉行所の三大分課
  •  どのような役所や企業にも、大きな権限をもち、組織内で権勢を振るう、有力な部署があります。現代の役所なら大臣官房や財務省の主計局、企業なら社長室や経営企画室、人事部といったところがそうでしょうか。江戸の町奉行所にも、そんな有力な分課が三つありました。 1.用部屋 用部屋には組与力は配置されず、かわりに奉行の家来である内与力(公用人・目安方)が万事を取り仕切っていました。いわば町奉行官房とでもいうべき [続きを読む]
  • 無題 2017/8/31
  •  先ほど、池波正太郎さん原作の時代劇「仕掛人・藤枝梅安 梅安乱れ雲」を何の気なしに見ていたら、大坂の闇社会を牛耳る白子屋菊右衛門が町方与力の稲沢文蔵に賄賂を渡しながら、「稲沢様だけではございません。北の谷村様、嶋様、それに南の吉田様、村井様にも…」というセリフが出てきました。稲沢文蔵という名の与力は確認できませんが、北組の谷村、嶋、南組の稲沢、吉田、村井といえば、実際に存在した与力家の名前で [続きを読む]
  • 北町奉行所臨時廻同心・桑野平九郎
  •  桑野平九郎は、文政・天保期に臨時廻りを勤めた北組の同心です。抱入(本勤の若同心として採用)は享和二(1802)年、二十三歳のときでした。それから二十年余が過ぎ、町方同心としてのキャリアを積み重ね、ベテランの域にさしかかりつつあった平九郎は、文政六〜九(1823〜26)年頃、臨時廻りの増役となり、文政十一(1828)年には本役へと転じています。五十を目前にしての異動でしたが、奉行所の花形ともいうべき三廻りとして [続きを読む]
  • 物書同心は窓際族か
  •  みなさんは「物書同心」というと、どんなイメージを思い浮かべますか。 奉行所の片隅にある一室で、机の上に高く積み上げられた書類を横目に、一日中、黙々と書物をしている。「物書」同心という呼称がそんな姿を連想させるためか、地味で軽いお役目、閑職、あるいは窓際族といった文脈で語られていることが多いように思います。けれども「天保十一年北町奉行所職員録」をご覧いただければ分かるように、「物書同心」は「年寄役 [続きを読む]
  • 定廻り同心は本当に六人だったか
  •  町方同心に関する解説記事には、たいてい「定町廻り六人、臨時廻り六人」と書かれています。 元南組与力の佐久間長敬著『江戸町奉行事蹟問答』にも「定町廻り 六人」との記述があります。ただし、別の箇所では「定町廻り同心四人」とも述べており、混乱があります。文化・文政のころから文久の初めごろまで、実際に定廻りに任じられた人の数を見るかぎり、定廻りの定員は四人であったと考えるほかありません。 『万世江戸町鑑 [続きを読む]
  • 隠密廻りのおじいちゃんたち
  •  時代劇に出てくる隠密廻りといえば、さながら現代の潜入捜査官といったところでしょうか。決死の覚悟で悪の組織に潜り込み、犯罪の証拠を探り出すのが彼らの役目です。そして、たいていは正体を暴かれ、命がけで入手した証拠を主人公に託して、息絶えるというのがお決まりの役回りではないでしょうか。では、実際の隠密廻りはどうだったのでしょう。  隠密廻りは、三廻り(隠密廻り・定廻り・臨時廻り)の筆頭格で、定廻りや臨 [続きを読む]
  • 見習与力から筆頭与力へ
  •  文政から嘉永ごろの町方与力同心の勤務歴を見ていると、本当に年功序列が徹底していることに改めて驚かされます。番代(ばんがわり、※1)時の年齢がばらばらなので、年齢だけをみていると、昇進スピードに大きな差があったようにも見えますが、見習期間も加味した勤務年数を切り口に見ていくと、見事なほど整然と年功による序列が出来上がっていることに気づかされます。  文化十二(1815)年、北町奉行所の見習与力だった高橋 [続きを読む]
  • 金さんの部下たち 〜 天保十一年北町奉行所職員録
  •  マニアなら、日がな眺めているだけで、あれこれと妄想を膨らませ、しあわせな気分になれるものってありますよね。歴史や時代劇のファンなら、こんなのもそのうちの一つなんじゃないかと思って、データ化してみました。 ・天保十一年北町奉行所職員録・天保十一年北町奉行所分掌  時代劇でおなじみの「金さん」こと遠山左衛門尉は、南北両町奉行を勤めた数少ない旗本の一人としても知られています(※1)。初めて町奉行となった [続きを読む]
  • 過去の記事 …