由比 貴資 さん プロフィール

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由比 貴資さん: ブログ猫間障子
ハンドル名由比 貴資 さん
ブログタイトルブログ猫間障子
ブログURLhttp://nekomasho-ji.sblo.jp/
サイト紹介文福岡県の最西部、糸島のささやかな名所旧跡を訪ねて、その歴史や伝説を紹介するフォトブログです。
自由文山あり海あり、川あり平野あり、豊かな自然に包まれ、歴史ロマンをぐっと秘めた糸島をのぞいてみてください。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供14回 / 365日(平均0.3回/週) - 参加 2017/06/01 15:13

由比 貴資 さんのブログ記事

  • 荻浦の干拓地とその農業用水の開発  2018年11月
  • ◯ 荻浦の干拓地とその農業用水の開発 ・ 荻浦の新田干拓(元禄開) ・ 丸田池と新開溜池 ・ まだ足りない用水にはサイフォン式灌漑装置、筑前井手 ・ サイフォン式とは(荻浦干拓地/長野川の筑前井手/多久川 2018年11月撮影)現在の堰(筑前井手)より赤坂橋(赤坂交差点)を望む荻浦の新田干拓(元禄開)元禄10(1697)年の志摩郡福岡領・辺田周辺(大石)に続き、その対岸の加布羅から西1kmが干拓されたのは、元禄13(17 [続きを読む]
  • 糸島に伝わる2つの人柱伝説  2018年10月
  • ◯ 糸島に伝わる2つの人柱伝説 ・ 荻浦の人柱伝説「幽心土手」 ・ 大入配崎の人柱伝説「遅れてきた青年」 ・ 郷土に残る2つの人柱伝説の共通点 ・ 荻浦人柱の実際の記録と、幽心土手(荻浦・幽心地蔵/大入・人柱供養塔 2018年10月撮影) 荻浦の人柱伝説「幽心土手」郷土の江戸時代は、干拓の時代であった。福岡藩は、年貢増収を図るため、農耕地を広げるべく郡内の開発を計画すると、富豪たちの出資によって、雷山川流域の [続きを読む]
  • 糸島の干拓と千早新田  2018年8月-9月
  • ◯ 糸島の干拓と千早新田 ・ 社会科見学の記憶 ・ 干拓とは ・ 郷土の干拓について ・ 干拓新田ができるまでの流れ ・ 郷土の干拓、千早新田(油比・新田/泉川/千早新田 2018年8月-9月撮影) 社会科見学の記憶私が前原小4年の秋、加布里浜を目指す遠足の途中で、社会科見学を兼ねて千早新田を訪れた。前もって社会の授業で「干拓」について学習した上での実地見学だったと思う。この時「昔の人が海を陸地にして、その上に [続きを読む]
  • 長野川の悲話 焼けどんの火  2018年8月
  • ◯ 長野川の悲話 焼けどんの火 ・ 若宮さま ・ 長野川の悲話「焼けどんの火」 ・ 寛永か、寛政か ・ 唐津領時代の怡土郡西部 ・ 中津領時代の怡土郡西部(若宮さま/川付の風景 2018年8月撮影)若宮さま毎年、12月23日と盆正月は、団子の入った「ぜんざい」を墓前に供えるという。「若宮さま」と呼ばれる、トタン葺の小さなそのお墓は、長野川の清流が流れる川付西側の山中にある。その向かいの集落で、現在までお墓の管理 [続きを読む]
  • 長野川の悲話 病児とともに流された母  2018年7月
  • ◯ 長野川の悲話 病児とともに流された母 ・ 長野川と長糸 ・ 昔は暴れ川だった? ・ 畝津丸橋という橋 ・ 糸島伝説の悲話「ながれ天神」 ・ ながれ天神供養碑(長野川・宇美八幡宮前付近/新蛇石橋付近/ながれ天神供養碑 2018年7月撮影)長野川と長糸糸島を代表する名所の一つ、白糸の滝を源流にする長野川の水は、4つの渓谷からの流水が川付の宇美八幡宮前で合流し、本、東、神在を経て泉川(雷山川)と交わり、加布里湾 [続きを読む]
  • 伊都国の王墓遺跡をたずねる  2018年6月
  • ◯ 伊都国の王墓遺跡をたずねる ・ 糸島史といえば、伊都国 ・ 倭について ・ 伊都国について ・ 糸島最古の王墓、三雲南小路遺跡 ・ 幻の王墓、井原鑓溝遺跡(推定地) ・ 驚異的な副葬品の数々、平原遺跡(三雲南小路遺跡/井原鑓溝遺跡推定地/平原遺跡 2018年6月撮影)糸島史といえば、伊都国糸島史において、全国的に最も注目を集めるのは、やはり大陸との交易の拠点として栄えた「伊都国(いとこく)」の時代である。 [続きを読む]
  • 臼杵氏端城の城主・臼杵重察の墓を探す  2018年5月
  • ◯ 臼杵氏端城の城主・臼杵重察の墓を探す ・ 臼杵氏端城について ・ 城主・臼杵重察の墓を探す ・ 戦国期志摩郡の大友氏支配、その終焉まで ・ 戦国期志摩郡の在地勢力図(臼杵氏端城跡/鷺城跡 2018年5月撮影) 臼杵氏端城について糸島半島の北側は、博多湾に面する今津。今宿方面から今津橋を渡って、そのまま県道54号線を海岸に沿って進むこと600メートル、西警察署(今津駐在所)の斜向いに小さな丘陵がある。この丘陵一 [続きを読む]
  • 桜井神社における與止姫命の正体についての考察  2018年4月
  • ◯ 桜井神社における與止姫命の正体についての考察 ・ 志摩桜井と桜井神社(與止姫大明神) ・ 「与止姫大明神を祭っています」 ・ 與止姫命とは ・ 桜井の浦姫伝説 ・ なぜ「與止姫」大明神なのか(桜井神社/桜井大神宮/二見ヶ浦/浦姫神社/他 2018年4月撮影)志摩桜井と桜井神社(與止姫大明神)糸島の頭頂部に位置する志摩「桜井」は、昔、円光寺という寺の境内に桜の大樹があって、その下に清い水の井戸があったこと [続きを読む]
  • 渡し守金六さんと糸島水道  2018年3月
  • ◯ 渡し守金六さんと糸島水道 ・ 渡し守金六さん 〜糸島水道時代の悲話〜 ・ 金六さんの墓 ・ 志摩(島)を形成した「糸島水道」とは ・ 渡し守金六さんの伝説はいつの時代の話か(渡守金六之墓/他 2018年3月撮影)渡し守金六さん 〜糸島水道時代の悲話〜ある年の暮れ、海の吹雪く夜半である。前原で渡し守を生業とする金六さんの家の戸を叩く者がある。  誰かいな・・こげな時間に・・・戸を開けると、激しい風雪が家の [続きを読む]
  • 法螺貝を吹いて、海賊から村を守った青年僧の死  2018年1月
  • 志摩の武将が隠遁して開基した法正寺真宗本願寺派で、「龍江山」を山号とする法正寺(ほうしょうじ)は、志摩の西側、県道506号線から船越漁港へ入る入口傍にある。天正16(1588)年に、了清という僧が開基した。了清は、俗名を小金丸政種といった。寺宝には、高祖城・原田家寄進の品が伝わる。志摩の武将、小金丸氏志摩の可也山北麓辺り在郷の武士であった小金丸氏は、戦国の頃には志摩七党の頭領として、大友氏の支配下にあった [続きを読む]
  • 加布里にある天満宮を太宰府より勧請したのは誰か?  2017年11月
  • 「加布里」は「冠」だった糸島の「首」に位置する、かつての糸島水道の西出口ともいえる辺りには、「加布里(かふり)」という変わった響きの港町がある。遠い昔、吉備真備がこの地の石上に冠(かんむり)を置いたことが、その由来だという。「かふり」は「か(ん)むり」の転訛で、明治7(1874)年にこの地に造られた初めての小学校は、まさに「冠小学校」であった。『筑前國続風土記』の「加布里」の項には、「西に古城の址有」 [続きを読む]
  • 今津、今宿に今に残る元寇防塁跡  2017年9月
  • 蒙古襲来まで用兵、夫孰所好 (戦争することを誰が好むところだろうか)日本に「通交」という名の「服属」を求めたモンゴル帝国の二度目の使節が提出した国書の結びである。その後、四度の使節への返信を無視した幕府は、いち早く蒙古軍侵攻の警戒を強め、東国御家人にも九州への赴任を命じて異国警護体制を敷いた。その実質的な指揮は、当時の鎮西奉行である少弐資能、大友頼泰の二名であった。特に少弐資能は、蒙古襲来の矢面に [続きを読む]
  • 真名子(二丈大入)に伝わる『追ってくる生首』の話  2017年8月
  • 追ってくる生首「とっちょう」佐波から真名子に向かって山道を奥深く進んだところに、地元の人がそう呼ぶ場所がある。ただでさえ山深く、鬱蒼たる木々の葉が天蓋を遮っており、この辺りは昼間でも薄気味悪いくらい。明治頃までは、ここで身の毛もよだつ恐怖体験をした人が少なくなかったらしい。体験者の一人である大入の老農の話によると、この「とっちょう」には洞穴が二つか三つかあって、その横を通り抜けていると、なにやら微 [続きを読む]
  • 志摩野北に伝わる『魔の森・オタッチョウ』の話  2017年7月
  • オタッチョウの傍を通ると夕暮れの陽が野北の西海に落ち、辺りはすっかり薄暗くなった彦山の麓。野北牧場の登り口、その西側に「オタッチョウ」という変な名前の場所がある。オタッチョウは草木が鬱蒼と生い茂る森の中にあって、苔むした、十ばかりの五輪の塔が、円を囲むように並んで立っている。塔列の上に掲げられた注連縄は、どのような結界を意味するのか、いかなる者の立ち入りを拒んでいるのか。そして今、その傍を通ろうと [続きを読む]
  • 志摩桜井に伝わる『釜負いの幽霊』の話  2017年7月
  • 峠道に出る女の幽霊県道569号線を志摩桜井から吉田に抜ける緩やかな峠道の途中にある、末松という集落。この辺りでは昔、里人の間で幽霊話が絶えなかったという。ある人は、吉田の方に向かってふらふらさまよう人魂を見たとか、夜の峠道ですれ違った、何か重いものを背負って歩く女の顔がなかったとか…。ひどい話になると、雨の夜、若い女のむせび泣く声を聞こえるので、声のする方を探すと、自分の差した傘の上に女の生首があっ [続きを読む]
  • 糸島における神功皇后の足跡をたどる  2017年7月
  • 神功皇后と糸島一般的に、「神功皇后(じんぐう こうごう)」といえば神話上の人物であり、記紀による神話特有の超自然的な人物像の伝承と相まって、実在性に乏しいとの見方が強い。その一方で、皇后は実在したと見る向きがあるのは、皇后にまつわる伝承が各地に数多く残っているからである。現在私が住む飯塚市の「いいづか」という地名も、三韓征伐の帰途にあった皇后が、従軍した兵士との別れに「いつか再び」といったことに由 [続きを読む]
  • 幕末動乱のさなか、自決した小倉藩士  2017年7月
  • 小倉藩士を祀る祠丸田池公園の西側、前原西の住宅地の一角には、「小倉塚」と呼ばれる小さな祠がある。かつて筒井原といって松原があったこの場所で、激動の幕末時代に自決した一人の小倉藩士が祀られている。幕末の動乱、長州藩と小倉藩の確執幕末の時代に入ると、周防国と長門国(山口県)を領する長州藩は、尊皇攘夷論を掲げて、おもに京都の政局において中心的存在になっていた。尊王攘夷とは、天皇(朝廷)を第一に尊び、外敵 [続きを読む]
  • 志摩師吉の大石に祀られた巨大な石と女神  2017年5月
  • 志摩師吉の大石に祀られた巨大な石加布羅(がぶら)橋から、県道54号線を志摩師吉(もろよし)方面に進むこと300メートル、高台の新興住宅地の東口には、でんと巨大な石が鎮座している。石は複数あって、最も大きなもので、高さ2.5メートル、長さ5メートル、幅3メートルもある。この辺りの地名を「大石」と呼ぶのは、この巨石が起こりといわれている。嘉永4(1851)年、福岡藩よりこの大石を切り出すようにとお達しがあった。同年 [続きを読む]
  • 平等寺跡の山茶花塚 2017年4月
  • 潤の平等寺跡国道202号線が雷山川と交わる潤(うるう)橋から北西50メートルには、うるう幼稚園があって、その隣に真清水(益水)観音堂がある。この場所一帯は、かつて「平等寺」という禅宗の古寺があった。お堂の北50メートルに「番田(番殿・ばんでん)」、東100メートルに「鐘撞(かねつき)」という通称地名が残っていることからも、100メートル四方もあったという、七堂伽藍を極めた大寺の規模が想像できるだろう。創建は、 [続きを読む]
  • ひっくしの由来と桑原・四所神社  2017年3月
  • 桑原の「ひっくし」柑子岳の南、桑原に流れる大原川の東橋辺りには、「飛櫛」という地名があった。あった、というのは公式地名としては既に消滅しているからである。飛櫛は「ひっくし」と読み、現在は「桑原飛櫛貝塚」にその名を留めるのみ。近くには、北に東泉寺、西に四所神社がある。この変わった響きの地名の起こりは、戦国時代まで遡るという。東泉寺は、寛文年間(1661-1673年)に、大応国師によって博多・福崇寺の末寺とし [続きを読む]
  • 草場池の大蛇を退治したのは、楢崎将監光方ではないか   2017年3月
  • 白木神社のこと柑子岳の「村上登山口」から、西に100メートルのところにある神社である。祭神は、「林業の神様」として知られる五十猛命(いそたけ の みこと)。正親町天皇の永禄年間(1558-1570年)、柑子岳城に臼杵氏居城の時には山中の立野という場所にあったが、現在の場所へは落城後に移築された。また、同区には、柑子岳城の城代・臼杵進士兵衛鎮氏と、その家臣であった楢崎将鑑光方を祀る「楢崎神社」がある。趣がある木造 [続きを読む]