由比 貴資 さん プロフィール

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由比 貴資さん: ブログ猫間障子
ハンドル名由比 貴資 さん
ブログタイトルブログ猫間障子
ブログURLhttp://nekomasho-ji.sblo.jp/
サイト紹介文福岡県の最西部、糸島のささやかな名所旧跡を訪ねて、その歴史や伝説を紹介するフォトブログです。
自由文山あり海あり、川あり平野あり、豊かな自然に包まれ、歴史ロマンをぐっと秘めた糸島をのぞいてみてください。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供19回 / 144日(平均0.9回/週) - 参加 2017/06/01 15:13

由比 貴資 さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • 今津、今宿に今に残る元寇防塁跡  2017年9月
  • 蒙古襲来まで用兵、夫孰所好 (戦争することを誰が好むところだろうか)日本に「通交」という名の「服属」を求めたモンゴル帝国の二度目の使節が提出した国書の結びである。その後、四度の使節への返信を無視した幕府は、いち早く蒙古軍侵攻の警戒を強め、東国御家人にも九州への赴任を命じて異国警護体制を敷いた。その実質的な指揮は、当時の鎮西奉行である少弐資能、大友頼泰の二名であった。特に少弐資能は、蒙古襲来の矢面に [続きを読む]
  • 真名子(二丈大入)に伝わる『追ってくる生首』の話  2017年8月
  • 追ってくる生首「とっちょう」佐波から真名子に向かって山道を奥深く進んだところに、地元の人がそう呼ぶ場所がある。ただでさえ山深く、鬱蒼たる木々の葉が天蓋を遮っており、この辺りは昼間でも薄気味悪いくらい。明治頃までは、ここで身の毛もよだつ恐怖体験をした人が少なくなかったらしい。体験者の一人である大入の老農の話によると、この「とっちょう」には洞穴が二つか三つかあって、その横を通り抜けていると、なにやら微 [続きを読む]
  • 志摩野北に伝わる『魔の森・オタッチョウ』の話  2017年7月
  • オタッチョウの傍を通ると夕暮れの陽が野北の西海に落ち、辺りはすっかり薄暗くなった彦山の麓。野北牧場の登り口、その西側に「オタッチョウ」という変な名前の場所がある。オタッチョウは草木が鬱蒼と生い茂る森の中にあって、苔むした、十ばかりの五輪の塔が、円を囲むように並んで立っている。塔列の上に掲げられた注連縄は、どのような結界を意味するのか、いかなる者の立ち入りを拒んでいるのか。そして今、その傍を通ろうと [続きを読む]
  • 志摩桜井に伝わる『釜負いの幽霊』の話  2017年7月
  • 峠道に出る女の幽霊県道569号線を志摩桜井から吉田に抜ける緩やかな峠道の途中にある、末松という集落。この辺りでは昔、里人の間で幽霊話が絶えなかったという。ある人は、吉田の方に向かってふらふらさまよう人魂を見たとか、夜の峠道ですれ違った、何か重いものを背負って歩く女の顔がなかったとか…。ひどい話になると、雨の夜、若い女のむせび泣く声を聞こえるので、声のする方を探すと、自分の差した傘の上に女の生首があっ [続きを読む]
  • 糸島における神功皇后の足跡をたどる  2017年7月
  • 神功皇后と糸島一般的に、「神功皇后(じんぐう こうごう)」といえば神話上の人物であり、記紀による神話特有の超自然的な人物像の伝承と相まって、実在性に乏しいとの見方が強い。その一方で、皇后は実在したと見る向きがあるのは、皇后にまつわる伝承が各地に数多く残っているからである。現在私が住む飯塚市の「いいづか」という地名も、三韓征伐の帰途にあった皇后が、従軍した兵士との別れに「いつか再び」といったことに由 [続きを読む]
  • 幕末動乱のさなか、自決した小倉藩士  2017年7月
  • 小倉藩士を祀る祠丸田池公園の西側、前原西の住宅地の一角には、「小倉塚」と呼ばれる小さな祠がある。かつて筒井原といって松原があったこの場所で、激動の幕末時代に自決した一人の小倉藩士が祀られている。幕末の動乱、長州藩と小倉藩の確執幕末の時代に入ると、周防国と長門国(山口県)を領する長州藩は、尊皇攘夷論を掲げて、おもに京都の政局において中心的存在になっていた。尊王攘夷とは、天皇(朝廷)を第一に尊び、外敵 [続きを読む]
  • 志摩師吉の大石に祀られた巨大な石と女神  2017年5月
  • 志摩師吉の大石に祀られた巨大な石加布羅(がぶら)橋から、県道54号線を志摩師吉(もろよし)方面に進むこと300メートル、高台の新興住宅地の東口には、でんと巨大な石が鎮座している。石は複数あって、最も大きなもので、高さ2.5メートル、長さ5メートル、幅3メートルもある。この辺りの地名を「大石」と呼ぶのは、この巨石が起こりといわれている。嘉永4(1851)年、福岡藩よりこの大石を切り出すようにとお達しがあった。同年 [続きを読む]
  • 平等寺跡の山茶花塚 2017年4月
  • 潤の平等寺跡国道202号線が雷山川と交わる潤(うるう)橋から北西50メートルには、うるう幼稚園があって、その隣に真清水(益水)観音堂がある。この場所一帯は、かつて「平等寺」という禅宗の古寺があった。お堂の北50メートルに「番田(番殿・ばんでん)」、東100メートルに「鐘撞(かねつき)」という通称地名が残っていることからも、100メートル四方もあったという、七堂伽藍を極めた大寺の規模が想像できるだろう。創建は、 [続きを読む]
  • ひっくしの由来と桑原・四所神社  2017年3月
  • 桑原の「ひっくし」柑子岳の南、桑原に流れる大原川の東橋辺りには、「飛櫛」という地名があった。あった、というのは公式地名としては既に消滅しているからである。飛櫛は「ひっくし」と読み、現在は「桑原飛櫛貝塚」にその名を留めるのみ。近くには、北に東泉寺、西に四所神社がある。この変わった響きの地名の起こりは、戦国時代まで遡るという。東泉寺は、寛文年間(1661-1673年)に、大応国師によって博多・福崇寺の末寺とし [続きを読む]
  • 草場池の大蛇を退治したのは、楢崎将監光方ではないか   2017年3月
  • 白木神社のこと柑子岳の「村上登山口」から、西に100メートルのところにある神社である。祭神は、「林業の神様」として知られる五十猛命(いそたけ の みこと)。正親町天皇の永禄年間(1558-1570年)、柑子岳城に臼杵氏居城の時には山中の立野という場所にあったが、現在の場所へは落城後に移築された。また、同区には、柑子岳城の城代・臼杵進士兵衛鎮氏と、その家臣であった楢崎将鑑光方を祀る「楢崎神社」がある。趣がある木造 [続きを読む]
  • 柑子岳と、柑子岳城を取り巻く戦国糸島   2017年1月
  • 柑子岳の眺望福岡市西区の北に位置する柑子岳(こうしだけ)は、かつては志摩郡の内で、東は草場村、西は今津村に属した。標高254.5mの低い山だが、登山ルートが整備されており、展望所から見晴らす景色も素晴らしい。ハイキングがてらの登山客も、年間を通して少なくないようである。私は訪れたのは1月末、「一ノ谷登り口」から東回りに登って、山頂には30分ほどで、一周には1時間から1時間半くらいかかったと思う。当日は天気に [続きを読む]
  • 六所神社と油比神社  2017年1月
  • 境内は一体どこにある…志摩イオン方面から県道85号線を東進すること1km足らず、右手に大きな鳥居が見えてくる。扁額には「六所神社」と認められるが、通りに対して斜向きの鳥居の後ろには、田畑が広がるばかりで、肝心の境内も社殿も見当たらない。さらに東に150mで、また鳥居。ここが、社殿の前後に巨大な2本のヒノキがまっすぐ伸びる、六所神社の境内である。六所神社の盛衰祭神は、熊野三神と住吉三神の合わせて六柱を祀る。こ [続きを読む]
  • 今津の鎮守の杜、登志神社と四所神社   2016年12月
  • 今津を守る神古来より外国船が多く来集する地であった今津には、その鎮守のために「登志神社」と「四所神社」が祀られていた。登志神社のこと登志宮こと登志神社は今津の産神で、古くは大社であって朝廷の崇敬も厚く、神領も多かった。祭神は、豊受皇大神、中筒男命、姫大神の三柱である。神宝には、縁起をはじめ、猿楽面、笛、假面などがあったというが、天保15(1844)年にすべて焼失した。現在、9月初旬には境内にて、今津人形 [続きを読む]
  • 今津と臨済宗の開祖・栄西の足跡  2016年12月
  • 今津の昔現在の福岡市の西北、博多湾の西に面する「今津」は、古くは中国からの船が多く来集した港で、「登志湊(としのみなと)」と呼ばれていた。古代の律令制における国・郡・里の当時の名称を記した辞書『和名抄』(平安時代中期成立)を紐解けば、志摩七郷の一つに「登志」の郷名が認められる。今津と怡土庄平安時代の終わり、中央の有力な大寺社や公家は、海外の珍しい品々を入手しようと、こぞって博多沿岸の荘園権利を求め [続きを読む]
  • 楠田寺と身代わり地蔵伝説のこと   2016年12月
  • 怡土七ヵ寺の一、楠田寺とは東(ひがし)の真方、バイパス下の真方交差点から、県道を長野峠に向かって南に200メートル進んだ辺り、左手の小山の中腹に寺院がある。山門も扁額もなく、どこから境内なのかすらわからない。緩やかな山道の詰まりに古びた堂舎が一棟あるだけ。ここが、かつては七堂伽藍の隆盛を極めた、楠田寺(くすでんじ)とはなかなか想像できないだろう。山号を種宝山と号し、二丈波呂・龍国寺の末寺である。その [続きを読む]
  • 祖父の思い出   〜祖父のノートより
  • 祖母は九人の子を育てたせいか子ども嫌いで、祖母の膝に私が腰掛けると、衣服にシワがよるといって、払いのけられたのをよく覚えている。祖父はそれほど他所の孫と内の孫とを区別はしなかった。祖父は従弟たちが来るとよく世話をしていた。兄はそれを見て、従兄弟たちに対抗意識を持っていたようだったが、これが後々まで響いてくることになる。私は、相当大きくなるまで祖父っ子であった。「ショウスケ来い」とすぐ命令される。そ [続きを読む]
  • 修行を積んだ蛇は龍になるという 【 養円寺の昇龍伝説 】   2016年10月
  • 海千山千長く経験を積んで、世の中の裏も表も知り尽くした強(したた)か者のことを、やや皮肉を込めて「海千山千(うみせんやません)」などと表現する。この言葉の語源をたどれば、海または山に千年棲んだ蛇は、やがて龍になる(立派になる)という故事に由来するらしい。龍興山・養円寺さて、その「龍」の字を山号に冠する寺院は糸島にもいくつかある。佐波海岸から加茂川に沿って、南に300メートル進んだところには、「龍興山 [続きを読む]
  • 糸島でたった一つだけの式内社、志登神社とは   2016年9月
  • 小学校の遠足で行った小学校では春と秋に遠足に行くが、私が前原小1年の秋には、「志登神社」に訪れたことを覚えている。それがよほど印象に残っているわけでもないのだが、私が神社と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、いつもここである。田畑の中に、こんもりと佇む緑深い鎮守の森。鳥居をくぐれば、参道の左右に並んだ石灯籠の間を、さらりと、涼風が抜き抜けてくる。糸島唯一の式内社とは今から1100年以上昔の平安時代中期、醍醐 [続きを読む]
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