皿尾城の空の下 さん プロフィール

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皿尾城の空の下さん: 皿尾城の空の下
ハンドル名皿尾城の空の下 さん
ブログタイトル皿尾城の空の下
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/hisaizuraiden
サイト紹介文写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供125回 / 305日(平均2.9回/週) - 参加 2017/06/20 21:18

皿尾城の空の下 さんのブログ記事

  • 市民大学二年生に向けて
  • 行田市民大学に入学して一年。5月からはいよいよ二年生の講義がはじまります。新年度を前に、9期生歴史文化班の皆さんと食事会に行きました。私よりも人生の先輩にあたる皆さんですが、いつも明るく郷土研究だけではなく様々なことに、興味をもって生活されていることを感じます。同じ時間を過ごすことができ、本当に良かったなと思います。場所は行田市前谷にある、松風というお店でした。色々なお店を知っているなと感心します [続きを読む]
  • 夢の在り処 奥州平泉への旅④
  • 後三年合戦の結末を知ると、改めて人の弱さ儚さを思います。藤原清衡、源義家連合軍は、金沢の柵まで清原家衡を追い詰めると、兵糧攻めにします。清原家は降伏すべく女子供から外に出すと、出て来た矢先に全ての者が切り殺されました。女子供に紛れて逃げるのを防ぎ、自ら死を選ばせるのを迫るのです。 こうして終わった後三年合戦の果てに藤原清衡は妻子を亡くし、弟を殺し、目の前で親兄弟が絶望の中で殺し合う様を目にして来た [続きを読む]
  • 夢の在り処 奥州平泉への旅③
  • 永保三年(1083)清原家の長老、吉彦秀武は専制政治を敷く清原真衡への反発から、挙兵します。後三年合戦の始まりです。清衡軍も加勢し、真衡の館を攻め入りますが、陸奥守源義家の出陣により撤退します。その後清原真衡が急死すると、奥六郡と呼ばれるみちのくの地は、清衡と異父兄弟である、家衡が治めるようになります。 幼き頃から兄清衡を慕って来た清原家衡でしたが、清原武衡の策略にそそのかされ、自らが清原家の主と成るべ [続きを読む]
  • 夢の在り処 奥州平泉藤原氏への旅②
  • 永承6年(1051)に始まった前九年合戦は東北の地が生み出す富を求めてやって来た者が、陸奥守源頼義に率いられ、安部氏と争った戦です。源頼義は息子義家と共に、奥六郡に拠点をおく安倍頼時を攻め、朝廷の力を利用し、遂に安倍氏を滅ぼします。この時頼義に加勢したのが、出羽国(秋田県)の豪族清原氏です。前九年合戦の論功行賞として陸奥府鎮守将軍となったのは、清原武貞でした。源氏の勢力拡大を危惧した朝廷は源頼義、義家親子 [続きを読む]
  • 夢の在り処 奥州藤原氏への旅①
  • 今年の春の旅路に選んだのは、奥州岩手県でした。花巻温泉に一泊し、宮沢賢治の世界に触れ、鋭気を養い向かったのは、世界遺産である中尊寺です。藤原清衡は今から九百年近く前に、岩手県の平泉を本拠地として、みちのくに栄華を築いたとされています。その象徴である金色堂は、文字通り金箔をはりつめた輝くお堂で、阿弥陀如来を本尊とし、仏様が立つ壇の下には藤原清衡、基衡、秀衡の3代の遺体が納められています。奥州藤原氏の [続きを読む]
  • 自治共同勤勉
  • 歴史は古き城跡に今新しき希望あり共同の道に進むときみどりひとしく草もえて正しき自治の花さけば修むる業も身に近し秩父の空の風晴れて富士鮮やかにそびえたり勤労の力ゆるぎなく常に明るく健やかに行田の若き喜びと忍中学の名を誇れ昭和二十九年制定の校歌の歌詞の中には校訓が刻まれています。終戦後九年、世の中が目まぐるしく変わり、政治の面でも保守、革新が対立していた頃です。校歌が生まれて三十年後、私は忍中学に入学 [続きを読む]
  • 意先筆後
  • 意先筆後(いせんひつご)とは書道の心構えとして、始めに文字の全体の構図をイメージし、まとまってから筆を進めるという教え。木を見て森を見ずの対極のようだ。野球のホームランバッターは打席に入る際、打球がスタンドに入るのをイメージしているという。歳を重ねる毎に書道も上達している。中学に入っても続けるようだ。マイペースの弟。それぞれ自分のペースで精進してほしい! [続きを読む]
  • 羽生領総鎮守 小松神社②
  • 天文五年(1536)羽生城主広田直繁と弟木戸忠朝は、小松神社に三宝荒神御正体を寄進したと伝えらています。木戸忠朝は皿尾城に入り、成田長泰らと戦ったとされています。当時元服を迎えた年頃と考えられていて、羽生領主として地盤を固める目的があったと思われます。神社の由緒書きによれば、天文二十三年(1554)羽生城主木戸忠朝親子により、社殿が修理されたと記されています。戦国期に於いて羽生城は隣国忍城成田氏に対抗するため [続きを読む]
  • 羽生領総鎮守 小松神社①
  • 国道122号バイパス下岩瀬交差点を右に折れ、武州中島紺屋の手前、やや奥まったところに鎮守の杜が隠れています。社記によれば景行天皇の御代、日本武尊が東征の途中この地に陣を敷き、小さな祠を建立し、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀ったことに由来します。秩父三社同様、神話の世界のお話です。 時代は下り、神亀三年(726)東征に向かう藤原宇合、高橋安麻呂が戦勝祈願し参拝したとも伝えられます。更に天慶三年(940)平将門 [続きを読む]
  • 三寒四温、早春の日に生まれた君へ
  • 弥生三月に入り日差しに溢れた暖かな日が続いたと思うと、寒の戻りで冷たい雨が降りだす日になりました。三寒四温とは良く言ったもので、少しずつ時節が進む日本の気候を端的に表した言葉のように思います。「一歩進んで二歩下がる」という歌もありましたが、「七転び八起き」と言うように物事の進歩も、人の成長も、壁を乗り越えつつ、少しずつ前に進むことが大切だと思います。梅の花が咲き始めました。桜よりひとつき早く、寒さ [続きを読む]
  • 験担ぎと神頼み
  • 寒の戻りで冷たい雨となりました。仕事でも人不足から中々上手くいかず、悩む日々が続いています。上手くやるより、懸命にやる、結果は後の産物だと自分に言い聞かせていますが、心が沈むと浮かび上がるのに時間もかかります。こういう時の神頼み。験担ぎで、小松神社に参拝しました。願うことではなく、苦しくも今日を生きていることの感謝のつもりで。「験を担ぐ」と言いますが、江戸時代に粋な言い回しとして「縁起を担ぐ」の「 [続きを読む]
  • 一夜飾り
  • 明日は桃の節句。節分過ぎて日を選んで飾った雛人形も明日が主役の日。いつ飾りいつ片付けるか、片付けが遅いと嫁ぐのも遅くなるともいわれている。飾りつけの日に謂れはなく、大安吉日を選べば良いそうだ。但し前日に飾る「一夜飾り」は縁起が悪いらしい。これこそ風習そのもので、「一夜飾り」は通夜葬儀に繋がるかららしい。もとは正月飾りを大晦日にする事への戒めから来ているのだろう。明日は忙しく家族揃って食事とならない [続きを読む]
  • 岩槻城鎮守 久伊豆神社
  • さいたま市岩槻区は「人形の町」として広く知られるが、明治四年の廃藩置県の折、岩槻県となり当初埼玉県の県庁が置かれるはずとなっていた。交通や庁舎の面で不便なことから、県庁所在地とはならなかったが、古くからの宿場町だ。かつては元荒川の流域であり、その歴史は欽明天皇の代まで遡る。土師氏が出雲国から国造としてこの地に久伊豆明神を勧請したのが始まりという。中興の祖は鎌倉の扇ヶ谷上杉家とされ、家人の太田道灌は [続きを読む]
  • それは 人が人として生きること
  • 明日から弥生三月。別れの季節も近い。雛人形も飾り付け、娘の六年間も思い出している。「思いやり」「感謝」「やってみること」子供に大事にしてほしい心構えが自分自身大切にしているか、疑問が残る。最後の学校便りに宮沢章二の言葉が載っている。掲載してくれるのは校長先生。この二年間ずっと読みながら励まされてきた。あなたの「心」はどんな形ですかとひとに聞かれてもこたえようがない自分にも他人にも「こころ」は見えな [続きを読む]
  • お寅の思いを今に 丸ヶ崎 子鱠神社
  • 国道16号線見沼区丸ヶ崎交差点には多聞院というお寺があり、かつては氷川神社(丸ヶ崎)の持ち寺でありました。神仏分離政策により、神社は寺からはなれ、明治四十年以降、政府の合祀政策により、無格社の村社への合祀が進められます。合祀後も祟りが起こったり、信仰が厚かったりなどの理由で、社や祠としてその地に残された神社も数多くあります。その一つが子鱠神社です。鳥居がなく祠として残っています。弁天様として小さく祀ら [続きを読む]
  • 丸ヶ崎 氷川神社
  • 東大宮にある丸ヶ崎氷川神社。新編武蔵風土記稿によれば村の鎮守、また多聞院とあるようです。「埼玉の神社」によれば、武蔵国における氷川神社は355社。元荒川と多摩川の間に多いとされ、いずれにしても一ノ宮氷川神社を勘請しています。元禄11年の丸ヶ崎村絵図には、「わしみや」と読める社があり、久喜の鷲宮神社の神領に含まれていたかもしれません。下が境内末社[鷲宮神社。/c528a732efabcbbe11b4b9857a4af156.jpg]神楽殿には [続きを読む]
  • 答えに△はあり得るか
  • 三学期も残り僅かとなり、小学校では各教科のテストが次々に返ってきている。3月になれば卒業式関連の準備が多く、教わる内容はほとんど終わったらしい。たくさんの出版社から、マンガやキャラクターを使った学習補助に役立つ本が出されている。我が家のお気に入りはドラえもんシリーズ。弟は四字熟語。姉は百人一首を読んでいる。大人が読んでも勿論楽しめる。六年生の姉の漢字テストが返ってきた。点数よりも採点基準に納得いか [続きを読む]
  • 我がまほろばは
  • 日本尊命が最後に詠んだとされる歌「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し麗し」 インターネットやAIによって現在の情報量は江戸時代の200年分の情報量を数日で越えてしまうというような話を聞いた。変化に対応出来ない品種は滅び行くしかない。だから変化はチャンスと捉えよと。 百年年後、いや30年後国のまほろばはどうなっているのだろう。それぞれの故郷がまほろばとなる日はくるのだろうか。 [続きを読む]
  • 忍城裏鬼門守護 大宮神社
  • 忍城の西、大宮口と呼ばれる城門は天正18年石田三成が忍城攻めの火蓋を切った所とされる。やがて攻めあぐねて、世に有名な水攻めが始まる事となった。大宮口の久伊豆神社は、その名前通り武蔵一ノ宮氷川神社から勧請している。但し御祭神は事代主命。創建年代は明らかでないが、成田氏が忍城築城に際して、裏鬼門に当たる故をもって産土神久伊豆神社を祀ったものである。城表鬼門避けの長野の久伊豆神社と区別している。拝殿前には [続きを読む]
  • 市民大学最終回はグループ研究発表
  • 行田市民大学9期生グループ研究発表会が行われました。場所はものつくり大学です。真冬の寒さに戻りましたが、月に二度通った市民大学講座も本日が最終回。大学の理念の元、毎回の講座とは別にグループごとテーマを決め、最終回の今日発表することになっていました。グループは5つに別れ、歴史文化が二班、福祉健康、産業経済、行政の分野で研究発表します。持ち時間は質疑応答含め20分。資料は両面でA4用紙10枚に制限されます。 [続きを読む]
  • 持田竹之花 諏訪神社
  • 忍城の持田口に当たる竹之花の地は中仙道に備える重要地点でありました。竹之花には剣神社があり、その末社として祭りは行われています。但し、創建は建久の頃とされ、成田泰時は、延徳二年(1490)忍氏を滅ぼし、忍城に入城する際、この諏訪社を城内に移したとされます。鎮守を失った竹之花は隣村(沼尻)と相談し、分霊を祀ったと伝わります。祭神は建御名方命。村境を流れる忍川には沼尻橋がかかります。現在の社殿は平成になって建 [続きを読む]
  • しもつかれ、すみつかれ
  • [user_image 36/13/e3f9f40d6e0d3afa11fabc761f47faed.jpgB級グルメという言葉が流行って久しいか、北関東の郷土料理に「しもつかれ」なるものがある。我がではずっと「すみつかれ」と言って母が今でも作っている。下総の国茨城では国名にちなみに「しもつかれ」の名でスーパーの店頭にも並ぶ。 初午の日に赤飯と共に稲荷神社に備えるのが習わし。鮭の頭と野菜の残りを煮込み大根おろしと混ぜた料理だ。子供のころは、決して美味し [続きを読む]
  • 鷺栖神社と石田堤
  •  荒川左岸に位置する行田市門井町は元荒川水源近くに位置し、忍城水攻めの際に築かれた石田堤の西の端にあたります。当地の鷺巣神社は現在この堤後に建てられていて、小高い塚の上に立つ社殿の様子はことのほか美しく見えます。元は神明社と称し、いつのころからかこの社に鷺が飛来するようになり、棚田村の鷺栖神社から分霊し勧請したと伝わります。慶長期に社殿が構築されたとあるため江戸初期の頃です。その後大井村から分村し [続きを読む]
  • 忍城鎮守 諏訪神社
  • 第82代後鳥羽天皇の建久の御代(1190年頃)忍三郎、五郎一族が、この地に館を築いていたが、延徳三年(1493)頃成田下総守親泰が攻略し、近辺を統一したとされます。この時持田村の鎮守諏訪神社を移したのが、忍城諏訪神社の始まりと言われます。御祭神は建御名方命。天孫降臨の際、高天ヶ原から国譲りを迫った建御雷神に対し、大国主命の御子事代主命は即座に応じたのに対して、建御名方命は拒み、建御雷命に力比べを挑みます。敗れた [続きを読む]
  • グループ研究発表を前に
  • 行田市民大学9期生研究発表が今週木曜日に迫りましたが、今日は研究発表資料の提出日でした。場所は行田市教育委員会会議室です。会計報告も済み、後は当日の発表を残すのみです。限られた時間のなかで、ここまでまとめられたことに充実感を覚えますが、やはり当日、短時間(持ち時間15分)で、自分たちの研究成果を伝えるために必要なことは何かを自問しています。要点を絞ること、掘り下げすぎず、興味が向きそうなテーマで話を広 [続きを読む]