toshiw47 さん プロフィール

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toshiw47さん: 瀬戸の島から
ハンドル名toshiw47 さん
ブログタイトル瀬戸の島から
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv
サイト紹介文瀬戸内海の島々や四国をフェイールドに出会った歴史をお届けします。国会議員増田穣三の評伝もあります。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供77回 / 365日(平均1.5回/週) - 参加 2017/07/08 09:34

toshiw47 さんのブログ記事

  • 美馬市安楽寺 真宗の讃岐布教の拠点寺
  • 真宗の讃岐布教の拠点寺院だった安楽寺  徳島県の美馬市郡里は、吉野川北岸の河岸段丘の上に早くから開けた所です。古墳時代には、吉野川の?岩を積み重ねた横穴石室を持つ徳島らしい特色を持つ国指定の「段の塚山」古墳。そして、その系譜を引く首長によって造営されたと思われる国指定の郡里廃寺跡など、遺跡の系譜をたどることが出来ます。 その段丘の先端に地元人たちから「赤門寺」と親しみを込めて呼ばれているお寺 [続きを読む]
  • 瀬戸内海 志々島の繁栄と漁場
  • 広い漁業権を持ち繁栄した島 志々島詫間の波打八幡神社の下の宮ノ下港から船に乗り、志々島をめざします。船は宮ノ下港を出発して、志々島経由で粟島にいく航路を進みます。波穏やかな瀬戸内海を15分足らずで志々島の港に入って行きます。港からみると家は数多くありますが、ほとんどが無住。住んでいる人がいません。人口は二桁です。しかし、江戸時代から百年ほど前の大正時代にかけては、漁場と廻船業で大いに繁栄していた島 [続きを読む]
  • 三豊市 汐木湊の今昔
  • 汐木山の麓の汐木湊の今昔詫間湾の南に、かつては甘南備山として美しいおむすび型の姿を見せていた汐木山。今は採石のために、その「美貌」も昔のことになってしまいました。そのふもとをあてもなく原チャリツーリングしていると・・・河辺に大きな燈籠が見えてきました。燈籠大好き人間としては、燈籠に吸い付けられる俄のようなもの・・・自然と近づいていきます。汐木荒魂神社の東方の馬場先に、建っているのですが場違いに大き [続きを読む]
  • 満濃池をこわした国司の物語(『今昔物語集』巻三十一より)
  • 満濃池をこわした国司の物語(『今昔物語集』巻三十一より) 昔むかし、讃岐の国のいなかに、満濃の池という、それは大きな池がありました。土地には水が少なく、満足に米もとれずに、みんなつらい暮らしをしておったとか。 そのころ、高野山に、弘法人師さまというえらいお坊さまがおってのう、みんなのなんぎを聞いて、たいそう心をいためられたそうな。「かわいそうになあ。これでは、みんな、ごはんを食べられなくなってしま [続きを読む]
  • 満濃池の龍神(『今昔物語』巻二十より)
  • 満濃池の龍神(『今昔物語』巻二十より)昔むかし、いまから千百年あまり前の弘仁(八二〇年)の頃のお話です。 讃岐の国のお役人、国司清原夏野は弘仁九年の大洪水とそれにつづく、翌年の大干ばつ、またその翌年も干ばつと、大雨や日照りで農民を苦しめる災いにどうしたものか”と強く心をいためておりました。 大雨はともかく、夏の日照りの水不足を防ぐ手はないものかと、ずっとずっと考えこんでいました。そこではたと思い [続きを読む]
  • 三豊市高瀬町の国市池の誕生物語
  • 国市池の誕生と成長は?天上の神々が地上に降りてくる階段の役割を果たすのがかんなび山。形はおむすび形。三豊ではカンナビ山といえば爺神山。この山をこの地域に生きてきた人たちは、自分たちの先祖が天から降り立った山としてあがめてきました。 私たちにとって爺神山は、「父なる神の山」なのです。神は「南面」して人々に接すると伝わります。だから爺神山の南に位置する丘は、神々への祈りの場でした。そこに建てられたの [続きを読む]
  • 丸亀平野における稲作の拡大とため池の発生・展開について
  • 丸亀平野における稲作の拡大とため池の発生と展開について、 丸亀平野を空から見るとため池が多いのに、改めて驚かされます。この一つ一つのため池にも歴史があり、先人達の血と汗で維持されてきたことがようやく理解できる年頃となってきました。現時点でも私の「備忘録」を残しておくことにします。香川清美の「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)から学んだことを最初にまとめておきます。香川氏は、昭和二 [続きを読む]
  • 満濃池の中にあったという池内村を資料で訪ねて見ると・・ 
  • 満濃池は修築と決壊を繰り返して現在に至っています。空海が築池別当を勤めて改修した30年後には、再び満濃池は洪水により決壊します。そして、改修されますが平安末期に決壊すると、以後は江戸時代初期に修復されるまで450年間、満濃池は姿を消していました。鎌倉・室町時代は武士集団の分立、抗争が続き、復旧工事を行う労働力の組織化を行えるシステムが働かなくなったのが原因です。そのため旧満濃池の底地は、耕地化さ [続きを読む]
  • 庚申信仰への疑問 その1 庚申塔・三猿・鶏・そして山伏
  • 庚申待とその建塔の目的は? 本来の庚申待ちには、祖霊供養または先祖祭の目的とおなじで、先祖の加護によって厄難をのがれ、豊作を願うのが目的がありました。これが仏教化すると「七難即滅、七福即生」というようになり、七色菓子が必須の供物となります。また六道の苦をのがれるという信仰も生まれてきたことが『庚申尊縁起』には見えます。 山伏達の指導で、仏教の唱導に利用されたことがうかがえます。  この縁起には庚申 [続きを読む]
  • 庚申信仰 道教の三尸虫説だけではとらえきれない庶民信仰
  • 従来の庚申信仰の説明は、道教の三尸虫説だが・ 庚申信仰については、従来は次のように説明されてきました。中国の道教によるもので、人間の体には三尸虫というものが潜んでおり、それが庚申の夜には体をぬけ出し天に上り、その宿り主の人間の60日間の行動を天帝に報告するという。そうするとたいていの人問は人帝の罰をうけ命を縮める。  だから庚申の夜には寝ずに起ていなければならない。そのためには講を作って、一晩中詰 [続きを読む]
  • 四国霊場88番 大窪寺 奥の院の行場から発祥した寺
  • 大窪寺 奥の院の行場から発祥した寺 この寺には結願によってあげられた松葉杖とか金剛杖、笈、あるいはギブスなどがたくさんあります。結願寺とは、遍路の間に使ったものを全部そこに納めて帰るところです。巡礼・遍路の間に身につけたものを全部そこに置いて帰ります。大窪寺の歴史はよくわかりません。『四国領礼霊場記』の縁起によると、行基が開山してその後、弘法大師が中興したというありきたりの縁起になっています。本尊 [続きを読む]
  • 四国霊場64番 前神寺は石鎚信仰の中心的なお寺だった
  •  前神寺−もともと常住(成就)にあった寺で奥社は石鎚山 現在、六十四番の石鉄山前神寺は真言宗石鉄派として一派をなし、独立寺院になっています。しかし、明治以前の神仏分離前までは石鎚信仰の中核的なお寺でした。 お寺も、現在のロープウエイを下りた成就に中社があり「常住」と呼ばれていました。そこに常住僧がいたのです。 神仏分離で、石土という名前は仏教的な要素が入っていると言うことで石鎚神社と呼ばれるよ [続きを読む]
  • 四国霊場63番 吉祥寺 石鎚信仰の担い手の一つだったお寺  
  • 吉祥寺 石鎚信仰の担い手の一つだったお寺 六十三番の古祥寺も町の中にあるのであまり霊場らしくありません。が、もとは本格的な霊場でした。このお寺には奥の院といわれるものが二つあります。その一つの柴井という泉あとのもので、古い奥の院は坂元山にあります。国道から坂元に入って、三六ハメートルの山を越えたところが石鎚の登山道です。現在は前神寺から、福王子、檜王子を通って石鎚山に登りますが坂元山から入ると海岸 [続きを読む]
  • 四国霊場62番 宝寿寺 札所となる一の宮
  •  宝寿寺−札所となる一の宮 六十二番の宝寿寺は町の中にあって、家並に埋没してしまっているといっては、言葉が過ぎるかもしれませんが、そんなふうです。 宝寿寺の御詠歌は非常に古い御詠歌だとかもいます。「さみだれのあとに出でたる玉の井は 白坪なるや一の宮かは」という御詠歌は、かなり古いかたちです。御詠歌から、このお寺はもとは白坪というところにあり「一の宮」と呼ばれていた。白坪にあったときは、玉の井という [続きを読む]
  • 四国霊場61番 香園寺 奥の院は白滝不動
  • 香園寺の本堂は二階 香園寺という寺名は、「栴檀は双葉より芳し」の栴檀山という山号からきたものと考えられます。香園寺となったのは、教王院の「きやうわう」が「けうわう」から「けんをん」となり、「香苑」と変おったわけです。教という宇は、かかしは「けう」と読みました。教王は大日如来です。大日如来を本尊としていることから、教王院という名前が出たのだとおもいます。「後の世をおもへば詣れ香園寺 とめて止まらぬ白 [続きを読む]
  • 四国霊場60番 横峰寺 奥の院は石鎚山
  • 四国霊場60番 横峰寺 奥の院は石鎚山  六十番横峰寺の奥の院は西日本随一の高峰の石鎚山(1982?)ですから、奥の院に参拝しようとすれば石鎚山に登らなげればなりません。石鎚信仰がよく残っている霊場の一つが横峰です。 横峰寺の縁起には、役行者が星ヶ森で練行中に石鎚山頂に蔵王権現を見た、蔵王権現の尊像を、行基菩薩が大日如来の胸中に納めて寺を建てた、と書かれています。本尊の大日如来の胸の中には役行者が刻ん [続きを読む]
  • 四国霊場59番 伊予国分寺 最勝院の薬師堂が本堂 
  • 国分寺−最勝院の薬師堂が本堂 なぜ四国の霊場を、八十八にしたかというのもよく聞かれる問題です。 華厳宗の場合は十一の倍数を尊んで、六十六、九十九億、七十七天王などといっておりますから、そのあたりからきたものと考えています。 国分寺と一の宮は四国ではいずれも霊場となっています。これは辺路修行が六十六部回国のように、国めぐりの性格をもっていたからです。しかし、天平年間に建立された国分寺が堂塔を残してい [続きを読む]
  • 四国霊場58番 仙遊寺 海のかなたを礼拝する山だから作礼山
  • 仙遊寺 もとは泉が涌くという泉涌寺です。  五十八番の作礼山仙遊寺は、栄福寺からごく近いところにあって、その間の距離は1キロ足らずではないかとおもいます。栄福寺は勝岡という八幡さんの丘の麓にありますが、仙遊寺はその丘と相対する山の上に建てられています。表参道から登ると非常に急な坂を登らなければなりません。そこから二〇〇メートルほど下ると弘法大師の加持水があります。縁起では、仙人が遊んだから仙遊寺だ [続きを読む]
  • 四国霊場54番 延命寺 宝冠の不動明王
  • 延命寺−宝冠の不動明王 五十四番の延命寺は、五十三番の円明寺と同じ名前だったといわれています。明治以後に同じ名前では困るというので、延命寺と直したとことがはっきりしています。 今治から北のほうに半島が延びており、その半島と大三島の間が難所の来島海峡です。延命寺の奥の院は、眼下に来島海峡を望む山の上にあります。現在は山全体が公園になっており、車で楽にあがれますが、頂上の旧跡のあるあたりへは入れません [続きを読む]
  • 四国霊場55番 南光坊 大山祗神社の別宮
  • 南光坊ー大山祗神社の別宮南光坊は大通智勝如来という非常に珍しい仏様を本尊にしています。法華経にはある上子様が非常に仏教に帰依していて、難行苦行の末に過去七仏というお釈迦様の前の仏様のひとつである大通智勝仏になったと書かれています。これが大三島の大山祗神社の本地仏であったために、大山祗神社の別宮の南光坊にまつられたのだとおもいます。明治に神仏分離以前は、納経受付は神社がしていました。別宮そのものがや [続きを読む]
  • 四国霊場56番 泰山寺 海の神は山の神
  • 泰山寺ー海の神は山の神 仏教以前にわれわれの遠い祖先は、何を信仰していたのか?何に祈りを捧げていたのかは、辺路を考察することによって明らかになってくるのです。五十六番の金林山泰山寺は、正しくそういうところです。泰山寺は松山から車で三十分ぐらいの道路に面した平凡なお寺で、もとはうしろの金輪山(金林山)に奥の院があったようです。 『四国偏礼霊場記』は高野山の学僧が書いたものですから、なかなかの名文です [続きを読む]
  • 四国霊場53番 円明寺 賦算札のこと
  • 円明寺ー賦算札のこと 「仲遍路」の札のあるのが五十三番の円明寺です。太山寺と同じ西山の北側に位置しているので、奥の院はみな同じ峰だとかもいます。峰が平らなところに下がってきたところにあったようですから、このお寺は海に近かっかようです。 縁起はほとんど未詳ですが、もと和気西山の海岸にあった寺で、これも辺路の寺であったことを示しています。奥の院は聖武天皇勅願によるとされていますが、海に面しか辺路修行者 [続きを読む]
  • 四国霊場52番 太山寺 鎌倉時代の本堂のある寺
  • 太山寺―鎌倉時代の本堂  松山の西に一つの山脈があります。せいぜい標高二、三百メートルと大して高くないのですが、屏風のように松山市街と海とを隔てています。山の麓にある五十二番の太山寺と五十三番の円明寺は、いずれも山の頂上に奥の院をもっています。太山寺は山懐に抱かれているので、奥の院はすぐそばですが、円明寺は和気という集落へ移りましだから、奥の院までかなり離れています。 太山寺の御詠歌も新しいとおも [続きを読む]
  • 四国霊場51番 石手寺 熊野権現を別当として守るお寺
  • 石手寺―衛門三郎の伝説 石手寺は、衛門三郎の伝説があるところです。本尊は行基の作と伝えられる薬師如来です。八十八か所の本尊でいちばん多いのは、病気を治してくださる薬師如来です。 出雲の一畑薬師の例で言いますと、額堂にいて祈願する人が、明け方になると磯に下りて海藻を拾って薬師さんに上げるのです。それがいちばんの供養だといわれています。海のかなたから寄ってくるのが薬師だということを、これは示しています [続きを読む]
  • 四国霊場50番 繁田寺 一遍上人の学問寺
  • 繁多寺 一遍上人の学問寺  東山の北側に行くと五十番の繁多寺があって、その隣に桑原八幡があります。四国には八幡さんがらみの寺がたいへん多くて、石竹八幡、先祖八幡、地主八幡など、亡くなった先祖か八幡としてまつります。阿弥陀八幡などもまつられています。東山をめぐって、二つのお寺と二つの八幡があるのは、東山が聖地であったということです。  繁多寺の奥の院は山の上のお堂でした。昔は東山の頂上に、修行者のい [続きを読む]