toshiw47 さん プロフィール

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toshiw47さん: 瀬戸の島から
ハンドル名toshiw47 さん
ブログタイトル瀬戸の島から
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv
サイト紹介文瀬戸内海の島々や四国をフェイールドに出会った歴史をお届けします。国会議員増田穣三の評伝もあります。
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更新頻度(1年)情報提供112回 / 365日(平均2.1回/週) - 参加 2017/07/08 09:34

toshiw47 さんのブログ記事

  • 徳島県 剪宇(きりう)峠と北丈集落のお堂と家屋を訪ねて
  • 徳島県 剪宇峠と豊丈集落のお堂と家屋を訪ねて穴吹から剣に向かう国道492号を走るときには、この白人神社に祈願と安全の感謝。台風で被害を受けていた本殿も修復され輝いていました。さあ、とりあえずの目標は剪宇峠です。古宮で右折して県道259号に入り、北丈集落を目指します。県道とは名ばかりの狭い急勾配の道を登っていくと・・青い屋根のお堂が迎えてくれました。北丈のお堂のようです。この日はちょうど観音石像の開 [続きを読む]
  • 葛籠野・中熊  まんのう町のソラの集落を行く その3
  • 葛籠野・中熊  まんのう町のソラの集落を行く NO3島ケ峰のそば畑の展望所で絶景を満喫してさて、どうするか?Google地図を見ていると、ここから山越えで直接に葛籠野に下りていく林道があるようです。この林道をたどることにしました。しかし、この林道は廃道寸前状態。原付バイクでないと通行は困難でした。なんとか葛籠野の一番上の家まで下りてきました。そこに広がる光景は、まさに異次元体験でした。 葛籠野集落は、海技 [続きを読む]
  • まんのう町(旧琴南町)のソラの集落を行く 浅木原・中野・島ゲ峰
  • まんのう町「ソラ」の集落を行く 浅木原・中野・島ゲ峰沖野の川上神社から川沿いの旧道をたどって浅木原に登ってきました。しかし、県道が新しくなってからは旧道を通る人はいないようで倒木、流れ石などで道は荒れていて一苦労。原付バイクだからこそ通過可能です。 浅木原は阿讃山脈の最高峰龍王山にもっと近い集落で、県境尾根の稜線上の電波塔が目の前に広がります。山を開き畑作をする場所としては日当たりも良く、水も [続きを読む]
  • まんのう町(旧琴南町)のソラの集落を行く
  • まんのう町のソラの集落を行く (川奥・沖野)編  まずやって来たのは美霞洞渓谷の竜神社です。エピア美霞洞温泉の手前のトンネル前の駐車場から清流沿いに整備された遊歩道を歩くと、行き当たりがここです。 拝殿の背後の雄渕・雌淵が雨乞の聖地で、清流が響きます。「龍」と言えば空海の「善女竜王」で、ここでも雨乞祈祷が行われました。干魃の時には、この淵に船を浮かべて雨を祈る神事を行うと必ず雨が降ったと伝えられ [続きを読む]
  • 大阪城の巨石は、どこから運ばれてきたの?
  • 西の丸公園で行われる結婚式に参加するためにやってきたの大阪城。そのついでに見ておきたかったのは、石垣の巨石です。まず、大手門を入って迎えてくれるのが大阪城の巨石NO4・5の次の二つです。NO4  見付石(大手門 約108t 讃岐・小豆島 熊本藩主・加藤忠広NO5  二番石(大手門 約85t 讃岐・小豆島 熊本藩主・加藤忠広 加藤忠広は、おなじみ清正の後継者です。この二つは、瀬戸の海を渡って小豆島から運ばれてき [続きを読む]
  • 金比羅芝居小屋の建設と運営に、遊女の果たした役割は?
  • 金比羅芝居小屋の建設と運営に、遊女達の果たした役割は? 金比羅門前町 金山寺町周辺天保九年(1838)に、金比羅門前町の茶町が密集していた金山寺町は大きな火災にみまわれます。残された被害記録から当時の金山地町の町屋の様子が分かります。それによると、この町筋の総家数は八四軒で、その内茶屋・酌取女旦雇宿は二十三軒確認できます。前後の記録では三十二軒ともあります。他に金光院家中四軒、大工四軒、明家(明屋)六 [続きを読む]
  • 讃岐琴平 金比羅門前町の遊女たち NO2
  •  金毘羅の遊女の変遷をたどってみると・・・①町の一角に参詣客相手の酌取女が出没しはじめる元禄期②酌取女及び茶屋(遊女宿)の存在を金光院側か認めた文政期③門前町の発展と共に当局側の保護のもと繁栄のピークを迎えた天保期④高級芸者の活躍する弘化〜慶応期以上四つの時期に区切ることができます。前回①〜③を見ました。今日は④高級芸者の活躍する弘化〜慶応期を見て行きます。慶応四年(明治元、一八六八)には、町方の [続きを読む]
  • 讃岐琴平 金比羅門前町の遊女たち
  • 金比羅の街に、遊女達が現れたのはいつ頃でしょう?近世の金比羅の街は、金毘羅大権現という信仰上の聖地と門前町という歓楽街とがワンセットの宗教都市として繁栄するようになります。参拝が終わった後、人々は精進落としに茶屋に上がり、浮き世の憂さを落としたのです。それにつれて遊郭や遊女の記録も現れるようになります。金比羅の街にいつ頃、遊女達が現れたのかをまず見てみましょう 遊女に関する記録が初めて見えるのは元 [続きを読む]
  • 金比羅舟々は、いつ頃、どこで歌われ始めたのでしょうか?
  • 金比羅舟々は、いつ頃、どこで歌われ始めたのでしょうか?金毘羅船々(こんぴらふねふね) 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ♪ まわれば 四国は讃州(さんしゅう)那珂の郡(なかのごおり) 象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現(こんぴら だいごんげん) 一度まわれば? 小さい頃は「お池に帆掛けて」と信じて唄っていました。追い風に帆を上げてと言う意味だと知ったのは、ずーっと後のことです。そう言えば「赤と [続きを読む]
  • 国指定無形文化財佐文綾子踊り 綾子踊りは悪霊払いの踊り?
  • 綾子踊りは悪霊払いの踊り?今年は、9月の第1日曜日に隔年毎に開かれる「国指定無形文化財佐文綾子踊り」の公開年でした。佐文の賀茂神社境内で奉納されたこの「踊り」を見ながら考えました。この踊りについては、昔から疑問がありました。その一つは「綾子踊り」と言いながら綾子は踊らない、女装した幼い男子が「小踊り」として、正面で「主役」を勤める編成です。 もうひとつは、詠われる地唄のほとんどが雨乞には関係のない [続きを読む]
  • 「空海=多度津白方生誕説」をめぐる寺社めぐり NO2 弥谷寺
  • 「空海=多度津白方生誕説」をめぐる寺社めぐり  弥谷寺 「空海=多度津白方生誕説」が、いつ、どこで、誰の手によって、どんな目的で創り出されたのかをみてきました。最後に、白方の背後の天霧山中にある弥谷寺を見ていくことにしましょう。 弥谷寺は佐伯真魚(空海の幼年名)が修行した地と「高野大師行状図画」にも伝えられ、古くから空海の修行場として信じられてきました。現在、十世紀末から十一世紀初期ころの仏像が確 [続きを読む]
  • 「空海=多度津白方生誕説」をめぐる寺めぐり 仏母院・海岸寺
  • 「空海=多度津白方生誕説」をめぐる寺社めぐり  まず仏母院の歴史を資料でみてみましょう。江戸時代初期の澄禅による現存最古とされる『四国辺路日記』(1653)には 夫ヨリ五町斗往テ 藤新太夫ノ住シ三角屋敷在、是大師誕生ノ所。御影堂在、御童形也、十歳ノ姿卜也。寺ヲハ幡山三角寺仏院卜云。此住持御影堂ヲ開帳シテ拝モラル。堂東向三間四面。此堂再興七シ謂但馬国銀山ノ米原源斎卜云者、讃岐国多度郡屏風が浦ノ三角寺ノ御 [続きを読む]
  • 「空海=多度津白方生誕説」は、いつ、誰によって語られ始めたのか
  • 「空海=多度津白方誕生説」は誰によって語られ始めたのか?多度津白方の海岸寺奥の院 空海は、善通寺の誕生院で生まれたと信じられています。誕生院は佐伯氏の旧邸宅とされ、誕生時に産湯を使ったという池も境内にあります。(なお、父が善通であったというのは俗説で、資料的には確認されていません) ところが、この正統的なる弘法大師伝に対して、空海が多度津白方の屏風が浦で生まれ、父をとうしん太夫、母をあこや御前とす [続きを読む]
  • 善通寺西院 御影堂を中心とする近世的な伽藍配置への脱皮
  • 善通寺西院の伽藍配置は、どのように進められたのか善通寺伽藍について 善通寺の伽藍は、古代以来の金堂や五重塔などがある東側の区画と、弘法大師誕生所の由緒をもつ善通寺本坊がおかれた西側の誕生院の2つの区画とから成ります。前者を「伽藍」または「東院」、後者は「誕生院」または「西院」と呼んでいます。西院は永禄の戦火で焼けたのか?善通寺は、戦国時代の永禄元年(1558)、三好實休軍が天霧城の香川氏攻撃をする際の本 [続きを読む]
  • 四国巡礼善通寺の五重塔は、いつ誰が建てたの?
  • 五重塔は、いつ誰が建てたのでしょうか?春咲きに塩飽本島の島遍路巡礼中に笠島集落で御接待を受けました。その時に、1冊の本が目にとまりました。「塩飽大工」と題された労作です。この本からは、塩飽大工が係わった香川・岡山の寺社建築を訪ねて、それを体系的に明らかにしていこうという気概が感じられます。この本に導かれて五重塔の建立経過を見ていきましょう。善通寺の五重塔は、戦国時代の永禄の兵火で焼失します。その後 [続きを読む]
  • 善通寺金堂の本尊薬師如来は、いつどこからやってきたの?
  • 善通寺金堂の薬師如来立像は、いつどこからやってきたのか?善通寺の金堂に入ると丈六の薬師座像が迎えてくれます。この大きなお薬師さまと向かい合うと、堂々とした姿に威圧感さえ最初は感じます。このお薬師さまは、どのようにしてここに安置されたのでしょうか。それが垣間見える史料が残っています。 戦国時代に金堂が消失して以後、百年以上も善通寺には金堂も五重塔もない状態が続きました。元禄時代になって、世の中が落ち [続きを読む]
  • 江戸時代の初め 大麻山や五岳山は牧場だった?
  • 讃岐の大麻山・五岳山は牧場だった?江戸時代初期、讃岐の生駒騒動により生駒家が改易となった時に引継史料として書かれた『生駒実記』に、こんな記事を見つけました。「多度郡 田野平らにして山少し上に金ひら有り、大麻山・五岳山等の能き牧有るに又三野郡麻山を加ふ」多度郡は、平野が多く山が少ないが、山には金毘羅さんがある。大麻山・五岳山(現、善通寺市)等には良好な牧場があって、これに三野郡の麻山が加えると [続きを読む]
  • 11師団跡を探して善通寺街歩き その2
  • 11師団跡を探して善通寺街歩き その2 赤門→ 歩兵第43聯隊 → 兵器部 → 師団司令部 → 工兵第11大隊 →伏見病院跡 → 山砲兵第11聯隊 → 南大門  善通寺の繁華街 赤門筋周辺駅前通りの河原町が、旅館街や師団相手の出入りの店が続く街並みであったのに対して、赤門筋は善通寺の繁華街でした。その中心は琴平参宮電鉄の善通寺赤門前停留所で、善通寺の参拝客や第十一師団関係の人々で賑わいました。赤門 [続きを読む]
  • 11師団跡を訪ねて善通寺街歩き
  • 善通寺11師団の跡をめぐって歩いてみましょうまず列車で降り立つのがJR善通寺駅です。 現在は 登録有形文化財(建造物)に指定されています。寄棟造を本屋として真壁造につくり,西正面やや北寄りに切妻造でハーフティンバー風意匠の車寄ポーチを張り出しています。舟肘木状の持送りなどに和風デザインもはめ込まれ和洋折衷の建物です。 この建物は1922(大正11)年、11師団設置以来の歴史的ビッグイベントである陸軍特別大演習 [続きを読む]
  • 11師団と善通寺 遊郭誘致をめぐる住民紛争
  • 11師団と善通寺 遊郭設置問題について日清戦争後1897年に、師団設置が決まると師団工事のため多くの労働者が善通寺に流入します。その数は3000人〜5000人になります。今後、入営する将士たちの流入も増えることが予想されました。 善通寺では風紀の乱れが懸念されるようになります。その結果、「公娼を設けされは思はさるの惨状を極むること無しと言い難し」として遊郭の善通寺への設置が県によって計画されます。しかし、 [続きを読む]
  • 11師団は、善通寺の産業に何をもたらしたのでしょうか?
  • 善通寺にやってきた師団は、産業に何をもたらしたか?設立されたばかりの電力会社には追い風に・・まず、電力関係では、設立されたばかりの讃岐電灯株式会社の成長の追い風になりました。師団創立の前年に操業を始めたこの電力会社は、需要数の拡大に苦戦していました。しかし、師団開設後の日露戦争期に師団から電灯等の大口契約を受け、1000灯余りが新設されるなど順風が吹きます。 また金融面では、師団設置に伴う金融的処理の [続きを読む]
  • 第11師団は、なぜ善通寺に設置されたのか
  • 片田舎の善通寺に師団がやって来たのはどうして?日清戦争で得た賠償金は3億6000万円は、当時の国家予算の3年分にあたるものでした。その約84%は軍事費に使われたと言われます。そのひとつの使用用途が次の戦争に備えての師団増設でした。師団空白地帯だった四国については善通寺が選ばれます。第11師団は、それまで城下町に設置されていた師団が初めて城下町以外の田舎町に設置された事例です。なぜ善通寺が選ばれたのでしょう。 [続きを読む]
  • シーボルト 瀬戸内海を行く 鞆から室津まで
  • シーボルト 瀬戸内海を行く 鞆から室津までシーボルトの船は、鞆の港も素通りしてゆきます。オランダ商館長が、よほどに先を急いでいたらしいのです。無理にも船を動かそうとします。しかし、帆船の時代に風に逆らい、潮流にあらがって進むのはムリです。そのときは曳船を雇うより他は仕方がありません。このときも、商館長の命が降ります。船は曳船四十艘をやとって水島灘を漕ぎ進みます。「四十艘に百五十、あるいはそれ以上の [続きを読む]
  • シーボルト 瀬戸内海を行く 下関から鞆まで
  • シーボルト 瀬戸内海を行く文政九年(一八二六)三月春先に 瀬戸内海を過ぎたオランダ使節の一行がありました。和船を借りての航海ですが、そのなかにオランダ東インド会社の商館付き医者のシーボルトの姿がありました。彼はその航路について丹念に書きとめています。それを参考に下関から室津までの瀬戸内海の船旅を追ってみることにしましょう。 シーボルトの乗った和船は、三月二日朝の八時近くに下関の港を出帆します。3月 [続きを読む]
  • 幕末の満濃池決壊は工法ミス?
  • 幕末の満濃池決壊は工法ミス? 満濃池はペリー来航の翌年、嘉永七(1854)年7月に決壊します。幕末の満濃池決壊については「伊賀上野地震の影響説」と「工法ミス説」があります。通説は「地震影響説」で各町史やパンフレットはこの立場です。ただ『町史ことひら』は、地震の影響もあるものの、当時の工法上の問題が決壊に大きく影響しているとしています。さてどうなんでしょうか?長谷川喜平次の提案で木樋から石樋へ 満濃池の [続きを読む]