みや さん プロフィール

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みやさん: 古都の礎
ハンドル名みや さん
ブログタイトル古都の礎
ブログURLhttps://ameblo.jp/rrerr/
サイト紹介文古都の史跡紹介
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供60回 / 265日(平均1.6回/週) - 参加 2017/08/03 19:02

みや さんのブログ記事

  • 薩摩島津伏見屋敷跡碑〜薩摩藩伏見屋敷跡
  • 伏見にある薩摩島津伏見屋敷跡碑です。 江戸時代、薩摩藩伏見屋敷があった跡地。江戸時代、参勤交代のために付近を通る西国大名に対し、江戸幕府は朝廷との接触を警戒して洛中に宿泊することを認めず、伏見に宿を取るように命じていました。この伏見藩邸は、薩摩藩主が参勤交代で行き来する際の宿となっており、御仮屋と呼ばれました。嘉永6年(1853年)、薩摩藩11代藩主・島津斉彬の養女、篤姫が、江戸幕府13代将軍・徳川家定の [続きを読む]
  • 長建寺〜島の弁天さん
  • 伏見にある長建寺です。 東光山長建寺といい、真言宗醍醐寺派の寺。この寺が建つ場所は中書島と呼ばれ、もとは宇治川の派流に四方を囲まれた中州でした。かつて豊臣秀吉が伏見城下に諸大名を集住させた際、中務少輔・脇坂安治がここに伏見屋敷を構えたため、中務の唐名・中書が島の名になったと言います。伏見城廃城により諸大名は伏見屋敷を次々と廃止。伏見奉行・建部政宇は、廃城後の伏見にかつての繁栄を取り戻そうと、中書島 [続きを読む]
  • =松尾大社 神幸祭(おいで) 2018年=
  • 2018年4月22日に行われた松尾大社神幸祭です。 松尾大社の祭礼。神幸祭はおいで、還幸祭はおかえりと呼ばれ、古くは3月卯日に神幸祭、4月酉日に還幸祭が行なわれていました。現在は毎年、4月20日以降の最初の日曜日に神幸祭、その3週間後の日曜日に還幸祭が行なわれています。2018年の神幸祭は、4月22日の日曜日に行われました。神幸祭では、松尾七社(大宮社、月読社、櫟谷社、宗像社、三宮社、衣手社、四之社)の神輿(月読社のみ [続きを読む]
  • 伏見十石船〜濠川の船
  • 伏見にある伏見十石船です。 伏見を流れる濠川(ほりかわ)。濠川は、文禄4年(1594年)、豊臣秀吉によって指月伏見城の外堀として開削されました。この前年、秀吉と淀殿の間に次男・お拾(後の豊臣秀頼)が誕生。秀吉はお拾に大坂城を与えることにし、大坂城と伏見を船で行き来するための水運を開削。巨椋池に流れ込んでいた宇治川を淀川と直結させます。宇治川派流を伏見城下に流れ込ませて伏見城外堀とするとともに、外堀に港を造り [続きを読む]
  • 伏見奉行所跡〜江戸幕府遠国奉行の一つ
  • 伏見にある伏見奉行所跡です。 江戸時代、江戸幕府の遠国奉行の一つ、伏見奉行所が置かれた跡地。伏見の地は安土桃山時代、太閤・豊臣秀吉の伏見城(指月伏見城/木幡山伏見城)が築かれ、政治の中心となります。秀吉の死後、徳川家康が入城。慶長5年(1600年)、家康の留守城であった伏見城は伏見城の戦いで焼失するも、関ケ原の戦いで勝利した家康が再建。慶長6年、伏見奉行が置かれます。この頃の伏見は家康のお膝元であり、伏見奉 [続きを読む]
  • 本教寺〜督姫ゆかりの寺
  • 伏見にある本教寺です。 福昌山本教寺という日蓮宗の寺。文禄4年(1594年)、日受により伏見・西浜町に創建されました。慶長19年(1614年)、日受に帰依した督姫(徳川家康次女)が、この土地を寄進したといいます。寺は大手筋商店街に面しています。この道はかつて伏見城大手門へと続く大手道でした。督姫(1565〜1615)は、徳川家康の次女。母は、側室・西郡局。天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変で没すると、徳川と後北条の間 [続きを読む]
  • 伏見城武家地黒田長政下屋敷跡参考地碑〜黒田官兵衛終焉の地
  • 伏見にある伏見城武家地黒田長政下屋敷跡参考地碑です。 慶長3年(1598年)8月18日、太閤・豊臣秀吉が伏見城(木幡山伏見城)で没。大坂城へ移った豊臣秀頼に代わり、徳川家康が伏見城に入ります。黒田長政はいち早く家康に接近。正室の糸姫(豊臣秀吉養女/蜂須賀正勝女)を離縁し、栄姫(徳川家康養女/保科正直女)と再婚。慶長5年、関ケ原の戦いでは長政の奔走により小早川秀秋、吉川秀家などの西軍大名の東軍寝返りを実現させ、合戦 [続きを読む]
  • 海宝寺〜伊達政宗伏見屋敷跡
  • 伏見にある海宝寺です。 福聚山海宝寺という黄檗宗の寺。江戸時代の享保年間、萬福寺12世・杲堂元昶が創建。萬福寺13世・竺庵浄印が隠居地としました。大丸創業者・下村彦右衛門正哲は伏見に生まれ、この寺を厚く信仰し、支援したと言います。戦国大名・伊達政宗の伏見屋敷が置かれた跡地。天正13年(1984年)、関白となった豊臣秀吉は諸大名に上洛して恭順するよう命を出しますが、関東の後北条は従わず、その北にいた奥羽・出羽の [続きを読む]
  • 古御香宮〜御香宮神社の御旅所
  • 伏見にある古御香宮です。 御香宮神社の御旅所。豊臣秀吉が伏見城を築城した際、御香宮神社を城の鎮守とし、伏見城の東北鬼門に位置するこの地に移転させます。秀吉が社殿を寄進し、社領300石としました。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉は木幡山伏見城において没。豊臣秀頼が大坂城に移ると、伏見城へは代わりに徳川家康が入城。家康は、慶長5年の関ケ原の戦いに勝利し、慶長7年、伏見城で征夷大将軍となります。慶長10年、家康は伏 [続きを読む]
  • 桃山天満宮〜伏見城跡残石
  • 桃山にある桃山天満宮です。 御香宮神社境内にあります(摂社、末社ではありません)。社伝によれば、室町時代、木幡山中腹にあった蔵光庵の僧・月溪の夢枕に一人の男が立ち「学問を見守ってやろう」と告げたと言います。後に、同門の僧から贈られた菅原道真像を見た月溪は、夢枕に立った人物であるとして、境内に菅原道真を祀る天満宮を創建。それがこちらの社であるとします。豊臣秀吉の伏見城築城により蔵光庵は嵯峨に移転。境 [続きを読む]
  • 御香宮神社〜御香水
  • 伏見にある御香宮神社です。 創建については諸説あり不詳。平安時代、境内から良い香のする名水が湧き出るということから清和天皇から御香宮の名を賜ったと言います。神功皇后を祭神とする筑紫国・香椎宮と関連があるともされます。天正18年(1890年)、関白豊臣秀吉が小田原征討の際、この社に願文と太刀(重要文化財)を奉納しています。文禄3年(1594年)、秀吉は伏見城築城に当たり、この社を城の鎮守とし、伏見城東北鬼門にある [続きを読む]
  • 伏見城跡〜豊臣秀吉・徳川家康の居城
  • 伏見にある伏見城跡です。 伏見城は、伏見に築かれた城。3度、建造されています(指月伏見城/豊臣期木幡山伏見城/徳川期木幡山伏見城)。天正13年(1884年)、関白となった豊臣秀吉は、洛中に関白屋敷として聚楽第を建造。天正16年、聚楽第へ移り、諸大名を周囲に集住させます。天正19年、秀吉は、甥の秀次に関白と聚楽第を譲って太閤となり、文禄元年(1592年)、宇治川を臨む伏見・指月丘に隠居屋敷(指月屋敷)を築いて移ります。文 [続きを読む]
  • 妙満寺〜顕門法華宗総本山
  • 岩倉にある妙満寺です。 妙塔山妙満寺といい、顕門法華宗総本山。永徳3年(1383年)、日什が町衆・天王寺屋通妙の帰依を受け、六条坊門室町に法華堂を開いたのが始まりと伝わります。康応元年(1389年)、妙満寺と称しました。伽藍焼失に寄り綾小路東洞院に移転。応仁元年(1467年)、応仁の乱で伽藍焼失、四条堀川に移ります。天文5年(1536年)、天文法華の乱により焼き払われ堺に避難。帰洛後、四条堀川に再建されるも、天正11年(1583 [続きを読む]
  • 大将軍神社(北区)〜北の大将軍
  • 西賀茂にある大将軍神社です。 社伝によれば推古19年(609年)の創建。平安京遷都がされると、その四方に鎮守のために大将軍が祀られます。この時、北の大将軍として大将軍神が祀られたと言います(東は大将軍神社、西は大将軍八神社、南は藤森神社摂社・大将軍社。北の大将軍についてはこの社ではなく今宮神社末社・紫野大将軍社という説もあります)。付近はかつて御所へ瓦を供給するための瓦窯が建ち並んだ区域。この社は瓦屋寺( [続きを読む]
  • 神光院〜上の弘法さん
  • 西賀茂にある神光院です。 放光山神光院といい、真言宗系の単立寺院。神光院創建以前にもこの地に寺があり、弘法大師・空海が42歳の厄年に籠り厄除けを行ったという伝承があります。付近は御所に瓦を納める瓦窯が建ち並んでいた地域でこの寺は瓦職人の宿として用いられたため、瓦屋寺の名があったといいます。鎌倉時代の建保5年(1217年)、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の神職・松下能久が神託を得て慶円を開山として神光院を創建しま [続きを読む]
  • 稲荷命婦元宮〜阿古町
  • 船岡山にある稲荷命婦元宮です。 建勲神社の末社。義照稲荷社の隣にあり、こちらも伏見稲荷大社と関連があるといいます。空海の弟子・真雅が書いたと言われる「稲荷流記」によれば(空海は嵯峨天皇から教王護国寺(東寺)を与えられています。東寺は秦氏の氏神から朝廷配下に入った伏見稲荷大社の神宮寺とされました)、狐が稲荷神のお使いとなった理由について次のように書いています。船岡山に善良な白狐の夫婦が住んでおり、世の人 [続きを読む]
  • 義照稲荷社〜船岡山の稲荷社
  • 船岡山にある義照稲荷社です。 建勲神社の末社。建勲神社が創建される前からこの地に鎮座。山城国の古代豪族・秦氏によって祀られたといいます。稲荷信仰は秦氏によって創始され、伏見稲荷大社も秦氏の創始によります。 拝殿。 本殿。祭神は、宇迦御魂大神、国床立大神、猿田彦大神。 義照稲荷社;京都市北区紫野北舟岡町 [続きを読む]
  • 建勲神社〜織田信長を祀る社
  • 紫野にある建勲神社です。 船岡山に鎮座する社。平安京遷都時、船岡山を平安宮の真北中央にして造ったと言います。天正10年(1582年)6月2日、織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれます。同13日、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は山崎の戦いで明智光秀を破り、天下人に名乗りを上げます。同10月10日、秀吉は船岡山北の大徳寺において信長葬儀を施行。天正11年、織田信長廟所として大徳寺塔頭・総見院を創建。船岡山に信長を祀る構想があ [続きを読む]
  • 実相院〜岩倉御所
  • 岩倉にある実相院です。 天台宗寺門派系の単立寺院。寛喜元年(1229年)、静基(鷹司兼基の子)によって園城寺僧房の一つとして創建されたとします(それ以前からあったともいいます)。当初は紫野今宮にありました。摂家の子弟が多く入寺する門跡寺院でしたが、南北朝時代、延暦寺が南朝・後醍醐天皇に味方したことから園城寺は北朝や足利尊氏に味方。実相院は足利将軍家の庇護を受け、足利家子弟が入寺するようになります。室町時代 [続きを読む]
  • 法雲寺〜久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡碑
  • 河原町二条にある法雲寺です。 清水山洗心院法雲寺という浄土宗の寺。江戸時代、永禄10年(1567年)、浄土宗の僧・然誉がこの地に草庵を築き、元和2年(1616年)、源誉が法雲寺としたことに始まります。ここは、藤原兼家の創建した法興院跡地にあるといいます。藤原兼家は平安時代の摂政・関白(藤原道長の父)。長兄・藤原伊尹の死後、次兄・藤原兼通と熾烈な摂関争いをして敗れます。寛和2年(986年)、19歳の花山天皇を出家させ [続きを読む]
  • 島原住吉神社〜島原西門碑
  • 西新屋敷にある島原住吉神社です。 江戸時代、付近の中堂寺村に住む住吉屋太兵衛の自宅に祀られたのが始まり。霊験あらたかで参拝者が増えたため、島原西北の現在地に移されたといいます。島原の鎮守社として信仰され、祭礼には島原の太夫たちが練り物を行ったそうです。この社は私社であったため、明治時代、国が神社を統括するようになると廃社となります。明治22年、付近にあった稲荷社を引き継ぐ形で江戸時代にあった場所の南 [続きを読む]
  • 輪違屋〜島原の置屋兼御茶屋
  • 西新屋敷にある輪違屋です。 島原で営業する置屋兼御茶屋。輪違屋は江戸時代の元禄元年(1688年)、島原において置屋として営業開始。島原には揚屋(料亭兼宴会場)、茶屋(宴会場)、置屋(傾城たちが所属)があり、置屋は客からの指名を受けて傾城を揚屋や茶屋へ派遣しました。島原の傾城たちには美貌や諸芸、人気によって太夫、天神、鹿恋(囲/かこい)、端(はし)のランクがあり、それぞれ呼ぶための料金が違っていました。揚屋に [続きを読む]
  • 角屋〜新選組刀傷の角屋碑
  • 西新屋敷にある角屋です。 島原で営業していた元揚屋。角屋は、天正17年(1789年)、二条万里小路に傾城町が開かれた頃に、初代徳右衛門が揚屋として営業開始。島原には揚屋(料亭兼宴会場)、茶屋(宴会場)、置屋(傾城が所属するところ)がありました。角屋は料理を提供する宴会場であり、客の指名する傾城を置屋から呼びました。慶長7年(1602年)、傾城町が六条三筋町に移転すると、角屋も移転。寛永18年(1641年)、現在地に移転 [続きを読む]
  • 島原大門〜島原の正門
  • 西新屋敷にある島原大門です。 かつて京都にあった花街・島原(嶌原、嶋原とも書きます)の正門。洛中に散在していた傾城は室町時代、幕府認可のもと運営され税を取ったといいます。天正17年(1789年)、室町幕府旧被官の浪士・原三郎座衛門と林又一郎が豊臣秀吉に願い出、傾城町を造営。二条万里小路に置かれた傾城町は周囲を塀と掘で囲い、出入口に大門を設けて柳並木を植えたため柳町と呼ばれました(平安京の万里小路が近世以降 [続きを読む]
  • 京都府庁旧本館〜容保桜
  • 下立売通新町西入にある京都府庁旧本館です。 幕末、この地には、京都守護職を拝命した会津藩主・松平容保によって京都守護職上屋敷が築かれました。慶應3年(1967年)、王政復古の大号令により京都守護職は廃止。跡地は収公され、京都府庁と第二日赤病院になりました。京都府庁旧本館は明治37年(1904年)竣工。昭和46年(1971年)まで現役で使われました。平成16年(2004年)、重要文化財に指定されています。京都府庁旧本館は、毎週火 [続きを読む]