荒川和人 さん プロフィール

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荒川和人さん: 日本音楽の伝説
ハンドル名荒川和人 さん
ブログタイトル日本音楽の伝説
ブログURLhttps://ameblo.jp/heianokina
サイト紹介文六国史、枕草子、源氏物語、十訓抄、古事談などの古典から、音楽にまつわる伝説・伝承をピックアップ!
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供272回 / 278日(平均6.8回/週) - 参加 2017/08/20 23:02

荒川和人 さんのブログ記事

  • 太平記(7)南北朝② 光厳上皇
  • 後醍醐天皇様があまりに有名なため、北朝の光厳上皇様(量仁(かずひと)親王)は、あまり知られておりません。しかし、光厳天皇様は、雅楽や和歌などの風雅の道を極めながらも、南北朝の動乱の修羅場を、何度もくぐり抜けた優れた方だったのです。後醍醐天皇様が即位を否定したため、歴代125名の天皇様の中に数えられておりませんが、事実上、北朝初代天皇といえるでしょう。 叔父である花園天皇様の日記『花園院宸記』には、 [続きを読む]
  • 太平記(6)南北朝①
  • 湊川で楠正成が戦死し、足利軍が入京すると後醍醐天皇様はすでに比叡山に逃れた後でした。朝廷方は比叡山に籠り徹底抗戦し、名和長年らの武将も戦死してしまいますが、足利尊氏も比叡山を攻め落とすことができずに膠着状態が続きました。そこで、足利尊氏は詭計をめぐらし、和睦の使者を後醍醐天皇様の元へ派遣したのです。後醍醐天皇様は、足利尊氏を信用していたわけではなかったため、比叡山から下山する際、先手を打って恒良親 [続きを読む]
  • 太平記(6)南北朝①
  • 湊川で楠正成が戦死し、足利軍が入京すると後醍醐天皇様はすでに比叡山に逃れていた後でした。朝廷方は比叡山に籠り徹底抗戦し、名和長年らの武将も戦死してしまいますが、足利尊氏も比叡山を攻め落とすことができずにました。結局、足利尊氏は詭計をめぐらし、和睦の使者を後醍醐天皇様の元へ派遣したのでした。後醍醐天皇様は、足利尊氏を信用していたわけではなかったため、比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲 [続きを読む]
  • 太平記(6)南北朝①
  • 湊川で楠正成が戦死し、足利軍が入京すると後醍醐天皇様はすでに比叡山に逃れていた後でした。朝廷方は比叡山に籠り徹底抗戦し、名和長年らの武将も戦死してしまいますが、足利尊氏も比叡山を攻め落とすことができずにました。結局、足利尊氏は詭計をめぐらし、和睦の使者を後醍醐天皇様の元へ派遣したのでした。 後醍醐天皇様は、足利尊氏を信用していたわけではなかったため、比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に [続きを読む]
  • 太平記(5)田楽・猿楽
  • 鎌倉時代から南北朝にかけての時代、武士が政治の前面に出てくるのに従い、地方の祭礼が盛んになりました。基本的に、武士は地方の領地を基盤としていたためです。 地方の祭礼には、田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)などの芸能が取り入れられました。田楽は、五穀豊穣や疫病払いを願って、田んぼの神を祀る祭礼ですが、平安後期以降、戦乱で亡くなった方も多かったため、死霊が疫病をまき散らし、五穀豊穣を妨げないように、死 [続きを読む]
  • 太平記(4)室町幕府成立
  • 足利尊氏は楠木正成を湊川で打ち破り、京都を制圧しましたが、彼は尊敬する後醍醐天皇様に反逆してしまった後悔のためでしょうか、「この世は、そもそも夢であるから遁世したい。私に仏の功徳をお授けください。今生の果報は、総て弟の直義が賜り、直義が安寧に過ごせることを願います」という趣旨の願文を、清水寺に納めています。 足利尊氏は、比叡山に逃れた後醍醐天皇様の面子を立てる形で、自ら和議を申し入れました。 ところ [続きを読む]
  • 太平記(3)桜井の別れ
  • 1336年、足利尊氏は、新田軍との激戦の末、入京しましたが、すでに皇族たちは一人残らず比叡山に避難した後でした。そこへ奥州に派遣されていた北畠顕家が到着。新田義貞と合流し、足利軍を撃破すると、足利尊氏も九州に落ちていきました。 ところが、九州に落ちた足利尊氏は、北九州の宗像大社の宗像氏範の支援を受け、勢力を立て直すと、宗像大社で出陣式を行い、再び京都に向かいました。途中で、光厳上皇様の院宣を得るこ [続きを読む]
  • 太平記(2)動乱再び②
  • 足利尊氏は、新田義貞の陰謀であると朝廷に訴えましたが、逆に、弟の足利直義が北条時行の鎌倉侵攻の際、幽閉されていた大塔宮護良親王を北条に取られることを恐れて、暗殺してしまったことが伝えられると、朝廷は、新田義貞支持で固まりました。かくして足利尊氏・直義の兄弟は反逆者と断定され、新田義貞に追討の命が下ったのでした。足利尊氏は、「われは弓矢をとる武家に生れ、清和源氏の流れを汲んでいるが、足利家は承久の乱 [続きを読む]
  • 太平記(1)動乱再び①
  • 後醍醐天皇様の親政は、華やかに船出したように見えましたが、たちまちのうちに陰りが現れ始めました。側近である万里小路(までのこうじ)藤房が、公然と天皇親政を非難し始めたのです。批判の内容は、恩賞が公家に厚く、武士がかえりみられなかったこと、私費で戦さをしたのにかかわらず、御家人などの称号を廃止したうえ、内裏造営のために課税がされたことなどでした。実はこの事件は、万里小路藤房ひとりの謀反ではなく、北条 [続きを読む]
  • 【ニュース】金メダル 羽生結弦選手
  • 羽生結弦選手がケガを乗り越え、金メダルを獲得されました!素晴らしい! フリー演技で使用した曲は、17年前の映画「陰陽師」のサントラから何曲かをピックアップしたものだそうです。和風の曲がオリンピックで使われるのは珍しく、龍笛の響きが陰陽師の呪術的な怪しさをよく表現していました。 おもに梅林茂氏が作曲された曲ですが、「一行の腑」という龍笛の曲は、伶楽舎の芝祐靖先生(元宮内庁楽部)の作曲です。 東京オリンピ [続きを読む]
  • 建武年中行事(9)四月の章
  • 『建武年中行事』の四月の章は、「更衣」(ころもがえ)から始まります。平安時代や鎌倉時代は、衣装だけでなく、御所の几帳や畳なども変えたようです。 ところで、代表的な催馬楽(さいばら)である「更衣」(ころもがえ)という古代歌謡は、平安時代の人々の人情を良く伝えています。『源氏物語』乙女の巻にも、光源氏の長男である夕霧の笛に合わせて、内大臣が「更衣」を謡うシーンがあります。おそらく当時の流行歌だったので [続きを読む]
  • 建武年中行事(8)石清水の臨時祭
  • 春日大社の春日祭と並び、勅使を派遣する石清水八幡宮の臨時祭は、『枕草子』や『徒然草』など、数々の古典に登場する祭りです。 <『建武年中行事』 現代語訳>三月中旬の午の日、石清水八幡宮の臨時祭である。もしその日が代々の天皇の命日に当たる場合には、三月下旬の午の日に催行する。(この臨時祭は平将門の乱の平定祈願から始まりました) 二月に、派遣する蔵人(くろうど)と舞人を選定。蔵人頭(くろうどのとう)が、「 [続きを読む]
  • 建武年中行事(7)釈奠
  • 釈奠(せきてん)は、中国の儒教の祭礼ですが、わが国でも奈良時代に律令制度導入された際、釈奠の儀式も一緒に定着しました。後醍醐天皇の時代でも、釈奠は催行されていたようです。もともと天平時代に、吉備真備が中心となって、釈奠(せきてん)は整備されました。<『建武年中行事』> 釈奠上丁の日、大学寮にて釈奠(せきてん)あり。孔子、顔回ならびに九哲の影かけて、道々のともがら論議す。上卿の外もまいりて、廟はいに [続きを読む]
  • 建武年中行事(6)春日の祭
  • 『建武年中行事』では、二月のお祭りとして「祈年祭」と「春日祭」をあげています。 <祈年(としごいの)祭>二月四日は、祈年祭一日より、御神事のよし見えたれど、白河院の仰せにて前後斎なり。弁兼ねてより、諸国のめしものをよほし整えて、二三日かけて、神祇官に幣をつつましむ。忌部つつむなり。安上案下、三千余社の神々をまつる。国司遣わすなり。諸国にも祈年を行ふなり。※『建武年中行事』を著した後醍醐天皇の時代に [続きを読む]
  • 建武年中行事(5)踏歌の節会
  • 正月十五日と十六日は「踏歌の節会」(とうかのせちえ)です。現代でも正月十五日までは松の内でお正月気分ですが、十五日は男踏歌、十六日は女踏歌の節会でした。もちろん皇室の長久の繁栄とその年の豊穣を祈念するための行事です。およそ宮中の正月の行事は「踏歌の節会」あたりで終わりです。踏歌は、基本的に群舞形式の歌舞です。男踏歌では漢詩や催馬楽を謡いますが、女踏歌は、和歌に合わせて舞妓が舞ったりしました。踏歌と [続きを読む]
  • 建武年中行事(4)白馬の節会
  • 正月7日は、「白馬の節会」(あおうまのせちえ)です。白馬なのに「あおうま」と読みます。宮中の紫宸殿での庭で、陛下が左右の馬寮の白馬を天覧ののち、群臣に宴を賜わる儀式で、遣唐使が活躍していた承和1 (834) 年に始まりました。中国の故事では、7日に青馬を見ると年中の邪気を払うといわれていますが、日本では白馬を神の馬として神聖視したところから白馬に変ったようです。奈良の大仏が建立された頃、大伴家持は「水鳥の鴨 [続きを読む]
  • 建武年中行事(3)殿上の淵酔
  • 元旦の節会が終わると、正月二日、三日は「吉書の奏」(きっしょのそう)といって、わざわざ幸運な出来事の報告などの文書を閲覧する儀式がありました。正月早々、嫌なニュースを耳にしたくないのは、1000年前の官僚たちも同じです。また、正月二日、三日は「殿上の淵酔」(でんじょうのえんずい)といって、殿上人たちが清涼殿で、朗詠(ろうえい)や今様(いまよう)を謡う宴会を開催しておりました。新年の儀式なので、もちろん [続きを読む]
  • 建武年中行事(2)元旦の節会
  • 元旦の夜明けのころの天皇様の「四方拝の儀」が終わると、次の儀式は「御薬の儀」といって、屠蘇(とそ)、白散(びゃくさん)、度障散(としょうさん)といった三種類の薬を供する儀式です。 現代でも正月にお屠蘇(とそ)を呑みますが、屠蘇を呑むのは正式な皇室の祭祀だったのです。その始まりは、空海が生きていた嵯峨天皇の時代からで、なんと!1200年も昔からある由緒正しい元旦の行事だったのです。もちろん一年の健康を願 [続きを読む]
  • 建武年中行事(1)四方拝
  • 後醍醐天皇は、有名な「建武の新政」に着手すると、皇室行事の復興を願い、『建武年中行事』という本を編纂しました。この本は、後醍醐天皇が自ら記述したといわれる有職故実書なのです。 後醍醐天皇が、皇太子時代以来、20年に及ぶ宮中生活の中で経験した多くの朝廷の神事や儀式・公事の内容・作法についてとりまとめ、1月から12月まで、月別に皇室祭祀について解説したもので、今日の皇室行事にも大きな影響を与えています。しか [続きを読む]
  • 増鏡(13)後醍醐天皇の帰還
  • さて都では、後醍醐天皇様が隠岐の島から帰還されるというので、騒ぎ立っておりました。天皇様は、まず東寺にお入りになって、様々な事項をお決めになりました。二条前大臣の道平殿が参上され、「内裏へお入りになる時の儀式は、神璽を御身に添えておられたので、ただ遠い行幸からお帰りになる形式が適当でございましょう」との旨を申し上げました。天下のことは、ただこの道平殿の取り計らいであろうということで、御一族は喜んで [続きを読む]
  • 増鏡(12)鎌倉幕府滅亡
  • 京都では、まだ世の中は鎮まりかねている有様だということで、隠岐島に流された後醍醐天皇様は、警固の者が油断をするすき間をうかがっておられました。良い時機が到来したのか、御所の警固に参上している武士たちも、天皇様に恭順する姿勢を見せるようになりました。ある日、脱出決行を決断され、まだ夜の明けない空の暗い紛れに、隠岐島を脱出して舟を押し出したのです。ちょうど折から霧がひどく降って、行く方向も見えませんで [続きを読む]
  • 増鏡(11)未来記
  • 元弘二年(1332年8月)地元の河内国に潜伏していた楠正成(くすのきまさしげ)は、四天王寺に詣でると、銀覆輪(ぎんぷくりん)の鞍をおいた馬に、銀覆輪の太刀と鎧一両を添えて献上しました。「これは大般若経読経のために、お布施として奉納させて頂くものです」しばらくすると、仏前でお経をあげていた長老格の僧侶が、読経した経文目録を持ってやって来ました。楠正成は、拝礼すると、その老僧に厳かに頼みごとをしました。「 [続きを読む]
  • 増鏡(10)楠木正成
  • 八月二十七日、後醍醐天皇様は笠置山(かさぎやま)に移り、本堂を皇居とされました。比叡山、東坂本の合戦では、六波羅勢が敗退したと伝えられたため、笠置の僧兵をはじめ、近国の武士たちが馳せ参じて来ましたが、名の聞えた有力な武将は一人もおりません。「この程度の兵力では、とても防衛できないそうもないな」と思いながら、後醍醐天皇様は床に就くと、不思議な夢を見たのです。内裏の紫宸殿の庭と思われるところに、大きな [続きを読む]
  • 増鏡(9)元弘の変2
  • さて京の都では、二十四日の夜、六波羅探題から常陸守の時知が馳せて参り、宮中を騒ぎたてながら捜索にやって来ました。部屋などに、たまたま逃げ残っていた女房たちの気持は、なんとも恐ろしいものだったそうです。後醍醐天皇様がいつもおられた清涼殿を見ると、楽器や書画が入った厨子をはじめ、お道具類など何やかやと、硯なども、そのまま散らかっており、今の今まで天皇様がいらっしゃった跡のように見えますが、宮仕えの人さ [続きを読む]
  • 増鏡(8)元弘の変1
  • 時代はいよいよ鎌倉幕府倒幕に向けて動き出しますが、後醍醐天皇の倒幕計画は、側近の吉田定房が幕府に密告したため、朝廷側は、逆に窮地に立たされてしまうのでした。 『増鏡』 むら時雨その(元弘元年の)夏、後醍醐天皇様は御病気でいらっしゃっり、薬を召すことがありました。ご容態が重くなられたというので、世間では落着かない様子でありました。ちょうどそんな折のこと、正中元年に鎌倉幕府に捕えられた日野悛基を、一体 [続きを読む]