荒川和人 さん プロフィール

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荒川和人さん: 日本音楽の伝説
ハンドル名荒川和人 さん
ブログタイトル日本音楽の伝説
ブログURLhttps://ameblo.jp/heianokina
サイト紹介文六国史、枕草子、源氏物語、十訓抄、古事談などの古典から、音楽にまつわる伝説・伝承をピックアップ!
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供162回 / 365日(平均3.1回/週) - 参加 2017/08/20 23:02

荒川和人 さんのブログ記事

  • 太平記(15)能楽⑥世阿弥の不遇
  • 世阿弥が活躍した室町時代は、鎌倉時代と異なり、公家と武家の文化が融合していました。そこへ、禅宗の「わび」「さび」という美意識や、日明貿易による中国文化が影響を与え、より優雅で味わい深い雰囲気が求められました。現代人がイメージする日本文化のかたちは、この頃出来上がったといえます。さて、3代将軍・足利義満が亡くなった後、4代将軍・足利義持とその息子の5代将軍・足利義量は能楽にあまり関心を示さず、代わって [続きを読む]
  • 【ニュース】フランスで雅楽公演 宮内庁
  • フランスで雅楽公演 宮内庁、6年ぶり海外で2018/8/28付日本経済新聞 朝刊宮内庁は27日、同庁楽部が9月にフランスで、日本伝統の音楽と舞「雅楽」の公演を行うと発表した。楽部の海外公演は2012年夏の英国とオランダ以来で6年ぶり。 今回の公演は、日仏友好160周年を記念してフランスの首都パリを中心に開催している日本博「ジャポニスム2018」の一環。いずれも現地時間の9月3日にパリ、同6日には東部ストラスブールで合奏 [続きを読む]
  • 太平記(14)能楽⑤観阿弥の死
  • 現代に伝わる能楽は、世阿弥の父の観阿弥がかなりの部分をつくりあげたと考えられますが、観阿弥自身の著作は何も残っていません。しかしながら、観阿弥の事跡は、世阿弥が著した様々な書物に散見され、これらの記述から観阿弥の人物像をうかがい知ることができます。 「鬼の能にすぐれていた」「大柄であったが、女性を演じると優美であった」「民衆に愛された」などの記述があります。 どうやら観阿弥は、大和猿楽の一座を率いて [続きを読む]
  • 太平記(13)能楽④皇仁庭と難波
  • 能楽の演目の中に、「難波」(なにわ)という演目があります。応永21年(1414年)閏7月の奥書がある世阿弥の自筆能本『難波梅』が現存しており、「難波」は、世阿弥の作であることがはっきりしている演目の一つです。また、この「難波」は、世阿弥が雅楽について、非常に深く研究したことを示すよい証拠となる演目でもあります。 雅楽曲の中に、「皇仁庭」(おうにんてい)という王仁博士が作曲したとされる演目があります。王仁博士 [続きを読む]
  • 太平記(12)能楽③東遊と羽衣
  • 観阿弥や世阿弥は、雅楽の舞楽を随分研究したようです。能舞台は雅楽の舞楽の舞台と広さが同じですし、能楽の演目の中には、雅楽でも有名な曲がたくさん登場します。皇室で伝承されている「東遊」(あずまあそび)の舞は、清少納言が『枕草子』の中で、「舞は駿河舞。求子(もとめご)いとおかし」と絶賛している曲です。 能楽では「羽衣」(はごろも)の中に登場します。「東遊」(あずまあそび)は関東ですと、大宮の氷川大社で [続きを読む]
  • 太平記(11)能楽②世阿弥
  • 1375年のことです。観阿弥一座の評判は、足利将軍の耳にも届いていました。17歳の三代将軍・足利義満は観阿弥一座に興味をもち、京都の新熊野(いまくまの)神社を訪れ、当時12歳の観阿弥の息子の鬼若(おにわか)、すなわち後の世阿弥(ぜあみ)を観て、彼の芸に惚れこんでしまったのです。世阿弥はこれを機縁に、足利義満の寵愛を受けることになります。そして足利将軍のバックアップを受け、観阿弥一座は、室町幕府お抱えとなっ [続きを読む]
  • 太平記(10)能楽①観阿弥
  • 南朝に軟禁されていた光厳上皇様が開放された翌年の1358年の春、四月のことです。足利尊氏が背中にできた癰(よう、腫物)のため、あっけなく亡くなってしまいます。足利尊氏の生涯は、戦乱に明け暮れ、常に死と隣り合わせであったためか、神仏への崇敬も深く、熊野大社の造営などにも尽力しています。しかしながら、彼の願文を見ると、「もし足利家が繁栄するならば、社殿を新築し田地を寄進す」といった、神に対してもビジネス交 [続きを読む]
  • 太平記(9)南北朝④光厳上皇(後編)
  • 後醍醐天皇様が、太陽のような活動的な帝とすれば、北朝の光厳上皇様は、月のような悟り深き帝と言えるでしょう。北朝の権力の頂点にあっても、多くの苦労を乗り越え、風雅な悟り深き人生を歩まれた立派な帝でした。 実際、光厳上皇様は、勅撰和歌集『風雅和歌集』を編纂されていますが、南北朝の対立から、和歌の宗匠である京極家と断絶状態であったため、自ら『風雅和歌集』を編纂されたのでした。 後醍醐天皇崩御の後の1351年の [続きを読む]
  • 太平記(8)南北朝③ 後醍醐天皇崩御
  • 1339年の夏、後醍醐天皇様は体調を崩され、8月9日より、病の床に伏すようになりました。病状は次第に悪化し、薬師如来に祈っても霊験は無く、医者たちの処方も効果がありません。命のともしびは、たちまち細り、崩御の時がいよいよ迫ってきました。そして1339年8月16日、後醍醐天皇様は、ついに吉野で崩御されました。左手に法華経を、右手に剣を持ち、座したまま亡くなったといわれています。 「妻子も珍宝も王位も、あの世までは [続きを読む]
  • 太平記(7)南北朝② 光厳上皇(前編)
  • 後醍醐天皇様があまりに有名なため、北朝の光厳上皇様(量仁(かずひと)親王)は、あまり知られておりません。しかし、光厳天皇様は、雅楽や和歌などの風雅の道を極めながらも、南北朝の動乱の修羅場を、何度もくぐり抜けた優れた方だったのです。後醍醐天皇様が即位を否定したため、歴代125名の天皇様の中に数えられておりませんが、事実上、北朝初代天皇といえるでしょう。 叔父である花園天皇様の日記『花園院宸記』には、 [続きを読む]
  • 太平記(6)南北朝① 尊氏の陰謀
  • 湊川で楠木正成が戦死し、足利軍が入京すると後醍醐天皇様はすでに比叡山に逃れた後でした。朝廷方は比叡山に籠り徹底抗戦し、名和長年らの武将も戦死してしまいますが、足利尊氏も比叡山を攻め落とすことができずに膠着状態が続きました。そこで、足利尊氏は詭計をめぐらし、和睦の使者を後醍醐天皇様の元へ派遣したのです。後醍醐天皇様は、足利尊氏を信用していたわけではなかったため、比叡山から下山する際、先手を打って恒良 [続きを読む]
  • 太平記(6)南北朝①
  • 湊川で楠正成が戦死し、足利軍が入京すると後醍醐天皇様はすでに比叡山に逃れていた後でした。朝廷方は比叡山に籠り徹底抗戦し、名和長年らの武将も戦死してしまいますが、足利尊氏も比叡山を攻め落とすことができずにました。結局、足利尊氏は詭計をめぐらし、和睦の使者を後醍醐天皇様の元へ派遣したのでした。後醍醐天皇様は、足利尊氏を信用していたわけではなかったため、比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲 [続きを読む]
  • 太平記(6)南北朝①
  • 湊川で楠正成が戦死し、足利軍が入京すると後醍醐天皇様はすでに比叡山に逃れていた後でした。朝廷方は比叡山に籠り徹底抗戦し、名和長年らの武将も戦死してしまいますが、足利尊氏も比叡山を攻め落とすことができずにました。結局、足利尊氏は詭計をめぐらし、和睦の使者を後醍醐天皇様の元へ派遣したのでした。 後醍醐天皇様は、足利尊氏を信用していたわけではなかったため、比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に [続きを読む]
  • 太平記(5)田楽・猿楽
  • 鎌倉時代から南北朝にかけての時代、武士が政治の前面に出てくるのに従い、地方の祭礼が盛んになりました。基本的に、武士は地方の領地を基盤としていたためです。 地方の祭礼には、田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)などの芸能が取り入れられました。田楽は、五穀豊穣や疫病払いを願って、田んぼの神を祀る祭礼ですが、平安後期以降、戦乱で亡くなった方も多かったため、死霊が疫病をまき散らし、五穀豊穣を妨げないように、死 [続きを読む]
  • 太平記(4)室町幕府成立
  • 足利尊氏は楠木正成を湊川で打ち破り、京都を制圧しましたが、彼は尊敬する後醍醐天皇様に反逆してしまった後悔のためでしょうか、「この世は、そもそも夢であるから遁世したい。私に仏の功徳をお授けください。今生の果報は、総て弟の直義が賜り、直義が安寧に過ごせることを願います」という趣旨の願文を、清水寺に納めています。 足利尊氏は、比叡山に逃れた後醍醐天皇様の面子を立てる形で、自ら和議を申し入れました。 ところ [続きを読む]
  • 太平記(3)桜井の別れ
  • 1336年、足利尊氏は、新田軍との激戦の末、入京しましたが、すでに皇族たちは一人残らず比叡山に避難した後でした。そこへ奥州に派遣されていた北畠顕家が到着。新田義貞と合流し、足利軍を撃破すると、足利尊氏も九州に落ちていきました。 ところが、九州に落ちた足利尊氏は、北九州の宗像大社の宗像氏範の支援を受け、勢力を立て直すと、宗像大社で出陣式を行い、再び京都に向かいました。途中で、光厳上皇様の院宣を得るこ [続きを読む]
  • 太平記(2)動乱再び②
  • 足利尊氏は、新田義貞の陰謀であると朝廷に訴えましたが、逆に、弟の足利直義が北条時行の鎌倉侵攻の際、幽閉されていた大塔宮護良親王を北条に取られることを恐れて、暗殺してしまったことが伝えられると、朝廷は、新田義貞支持で固まりました。かくして足利尊氏・直義の兄弟は反逆者と断定され、新田義貞に追討の命が下ったのでした。足利尊氏は、「われは弓矢をとる武家に生れ、清和源氏の流れを汲んでいるが、足利家は承久の乱 [続きを読む]
  • 太平記(1)動乱再び①
  • 後醍醐天皇様の親政は、華やかに船出したように見えましたが、たちまちのうちに陰りが現れ始めました。側近である万里小路(までのこうじ)藤房が、公然と天皇親政を非難し始めたのです。批判の内容は、恩賞が公家に厚く、武士がかえりみられなかったこと、私費で戦さをしたのにかかわらず、御家人などの称号を廃止したうえ、内裏造営のために課税がされたことなどでした。実はこの事件は、万里小路藤房ひとりの謀反ではなく、北条 [続きを読む]
  • 【ニュース】金メダル 羽生結弦選手
  • 羽生結弦選手がケガを乗り越え、金メダルを獲得されました!素晴らしい! フリー演技で使用した曲は、17年前の映画「陰陽師」のサントラから何曲かをピックアップしたものだそうです。和風の曲がオリンピックで使われるのは珍しく、龍笛の響きが陰陽師の呪術的な怪しさをよく表現していました。 おもに梅林茂氏が作曲された曲ですが、「一行の腑」という龍笛の曲は、伶楽舎の芝祐靖先生(元宮内庁楽部)の作曲です。 東京オリンピ [続きを読む]
  • 建武年中行事(9)四月の章
  • 『建武年中行事』の四月の章は、「更衣」(ころもがえ)から始まります。平安時代や鎌倉時代は、衣装だけでなく、御所の几帳や畳なども変えたようです。 ところで、代表的な催馬楽(さいばら)である「更衣」(ころもがえ)という古代歌謡は、平安時代の人々の人情を良く伝えています。『源氏物語』乙女の巻にも、光源氏の長男である夕霧の笛に合わせて、内大臣が「更衣」を謡うシーンがあります。おそらく当時の流行歌だったので [続きを読む]
  • 建武年中行事(8)石清水の臨時祭
  • 春日大社の春日祭と並び、勅使を派遣する石清水八幡宮の臨時祭は、『枕草子』や『徒然草』など、数々の古典に登場する祭りです。 <『建武年中行事』 現代語訳>三月中旬の午の日、石清水八幡宮の臨時祭である。もしその日が代々の天皇の命日に当たる場合には、三月下旬の午の日に催行する。(この臨時祭は平将門の乱の平定祈願から始まりました) 二月に、派遣する蔵人(くろうど)と舞人を選定。蔵人頭(くろうどのとう)が、「 [続きを読む]
  • 建武年中行事(7)釈奠
  • 釈奠(せきてん)は、中国の儒教の祭礼ですが、わが国でも奈良時代に律令制度導入された際、釈奠の儀式も一緒に定着しました。後醍醐天皇の時代でも、釈奠は催行されていたようです。もともと天平時代に、吉備真備が中心となって、釈奠(せきてん)は整備されました。<『建武年中行事』> 釈奠上丁の日、大学寮にて釈奠(せきてん)あり。孔子、顔回ならびに九哲の影かけて、道々のともがら論議す。上卿の外もまいりて、廟はいに [続きを読む]
  • 建武年中行事(6)春日の祭
  • 『建武年中行事』では、二月のお祭りとして「祈年祭」と「春日祭」をあげています。 <祈年(としごいの)祭>二月四日は、祈年祭一日より、御神事のよし見えたれど、白河院の仰せにて前後斎なり。弁兼ねてより、諸国のめしものをよほし整えて、二三日かけて、神祇官に幣をつつましむ。忌部つつむなり。安上案下、三千余社の神々をまつる。国司遣わすなり。諸国にも祈年を行ふなり。※『建武年中行事』を著した後醍醐天皇の時代に [続きを読む]