荒川和人 さん プロフィール

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荒川和人さん: 日本音楽の伝説
ハンドル名荒川和人 さん
ブログタイトル日本音楽の伝説
ブログURLhttps://ameblo.jp/heianokina
サイト紹介文六国史、枕草子、源氏物語、十訓抄、古事談などの古典から、音楽にまつわる伝説・伝承をピックアップ!
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供224回 / 119日(平均13.2回/週) - 参加 2017/08/20 23:02

荒川和人 さんのブログ記事

  • 徒然草(7)衰へたる末の世とはいへど
  • 兼好法師は、御神楽が好きだったようですが、宮中の御神楽の様子が描かれている段があります。『徒然草』 第23段 衰へたる末の世とはいへど衰えた末法の世とは言うけれども、宮中の神々しい有り様は、世俗に染まらず素晴らしいものです。「露台」「朝餉の間」、何々殿、何々門などと、皇居内の建物の名称を耳にするだけでも、神々しく聴こえます。どこの家にもありそうな小窓や板の間、開き戸も、宮中で、小蔀・小板敷・高遣戸と [続きを読む]
  • 徒然草(6)神楽こそ
  • ところで、兼好法師自身は、どのような楽器が好みだったのでしょうか。『徒然草』 第16段 神楽こそ  神楽こそ、なまめかしく、おもしろけれ  おほかた、ものの音には、笛・篳篥(ひちりき)  常に聴きたきは、琵琶・和琴短い文章ですが、兼好法師は、宮中の御神楽がお好きだったようです。『枕草子』の清少納言と趣味があいますね。それとも『枕草子』を読んで、意図的に合わせたのでしょうか? [続きを読む]
  • 徒然草(5)六時礼讃
  • 寺院では、大抵、定刻ごとに勤行を行っていますが、一日を六時に分けて、定刻に讃文を唱える浄土宗の六時礼讃のルーツについて、兼好法師は述べています。『徒然草』 第227段 六時礼讃は六時礼讃(ろくじらいさん)は、法然上人の弟子で、安楽という僧侶が経文を集めて作成し、勤行をしたのが最初です。その後、太秦善観房(うずまさのぜんかんぼう)といふ僧侶が、節博士(ふしはかせ)(節回しの音符:博士譜)を定めて、声明 [続きを読む]
  • 徒然草(4)信濃前司行長
  • 鎌倉時代後期から室町時代にかけて生きた兼好法師の時代は、まだ源平合戦の記憶が生々しく残っていたようです。兼好法師の『徒然草』には、『平家物語』誕生の秘話が書かれてあります。昔の人々は、心が繊細で、純粋な方が多かったのでしょうか。現代では考えられないようなことで、出家したり、隠棲したりしたようです。『徒然草』 第226段 後鳥羽院の御時、信濃前司行長後鳥羽天皇様の時代、信濃の前国司であった中山行長(ゆき [続きを読む]
  • 徒然草(3)笛の穴
  • 四天王寺の鐘のお話の一つ前の段には、横笛の音律についてのお話があります。兼好法師の雅楽についての造詣の深さには驚かされます。『徒然草』 第219段 四条黄門命ぜられて云はく四条の黄門様(南朝の重臣・藤原隆資)が語られたことです。笙の名人の豊原竜秋は、音楽に関しては卓越した人物でありますが、先日、その竜秋殿が来て、次のように申しておりました。「短慮の至りでございまして、極めて言いづらいのですが、横笛の [続きを読む]
  • 徒然草(2)四天王寺の鐘
  • 昔の人々は、どうやって音律を調整していたのでしょうか?兼好法師の徒然草には、そのヒントが書かれてあります。『徒然草』 第220段「何事も、辺土は賤しく、かたくななれども、天王寺の舞楽のみ都に恥ぢず」「何事も、田舎は下品な点がありますが、四天王寺の舞楽だけは、都に劣るものではない」と言われています。四天王寺の楽人が言うには、「おそらく四天王寺の楽器が、※図に合わせて正確に調律されているからでしょう。そ [続きを読む]
  • 徒然草(1)いでや、この世に生まれては
  • 鴨長明の『方丈記』から100年後、日本三大随筆の最後である吉田兼好の『徒然草』にも、意外なほど、音楽に関する記述が多くみられます。『徒然草』を読むと、兼好法師が驚くほど管絃に通じていたことがわかります。まずは、巻頭の第1段から、兼好法師が考える”理想の男性像”(ただし鎌倉時代)を、ご紹介しましょう。『徒然草』 第1段 「いでや、この世に生まれては」より抜粋容貌や性格が良い人でも、学問を積み、才能を磨か [続きを読む]
  • とはずがたり(10)後深草上皇の死
  • 一年が短いように、人の一生も短いもので、たちまちのうちに死がやって来ます。『とわずがたり』の主人公・二条あかこが仕えた後深草上皇もついに亡くなってしまいます。『とわずがたり』の最終回は、後深草上皇の葬儀の模様です。 『とはずがたり』 第5巻 院死去後深草上皇様は、おこりの病のご様子と聞きました。「もう全快と承るか」と思っているうちに、重篤になられ、宮中では閻魔天の密教修法が行われたそうです。 ご病状 [続きを読む]
  • とはずがたり(9)浅草寺
  • 『とはずがたり』の著者である二条あかこは、出家して鎌倉に下った際、浅草寺に詣でています。ちょうど中秋の名月の時で、750年前の浅草寺の様子がよくわかります。『とはずがたり』 第4巻 十 浅草寺詣で、秋月の述懐 八月の初旬、私は武蔵野の秋の風情を楽しみたくなり、鎌倉から武蔵の国に戻ることにしました。武蔵の国には、浅草寺という御堂があり、十一面観音様がご本尊として祭られているそうです。霊験あらたかな御仏と [続きを読む]
  • とはずがたり(8)鎌倉紀行2
  • 『とはずがたり』 第4巻 三島大社、江ノ島 伊豆の国に到着し、三島大社に参詣しました。ご祈祷の様式は、熊野大社とほとんど同じで、敷いてある長筵(ながむしろ)なども、たいへん神々しい感じがしました。 この三島大社には、いまは亡き源頼朝公が始められたという、「浜の一万詣で」と呼ばれる独自な祈願のやり方があり、由緒ありげな女房たちが、壺装束(上流階級の外出着)で、行き帰りする様子を見ておりますと、心中苦しそ [続きを読む]
  • とはずがたり(7)鎌倉紀行
  • 御所を追放された二条は、その後、出家してしまいます。それでも彼女は名門の出だったため、資金援助をしてくれた方がいたのか、西行法師の足跡をたどり、鎌倉へ旅立ったのでした。『とはずがたり』の第4巻は、彼女の旅行記になっていますが、その日記は実に詳細なうえ、浅草や長野の善光寺、伊勢神宮などを旅し、鎌倉時代なのに、彼女の行動力には驚かされます。 『とはずがたり』 第4巻 きさらぎ(二月)の二十日過ぎ、月の出 [続きを読む]
  • とはずがたり(6)御所追放
  • 『とはずがたり』は、朝廷に仕えた女房の二条あかこの日記ですが、彼女は、ある日突然、御所を追放されてしまったのでした。才女のうえ、美人だったため、後深草上皇、亀山上皇の寵愛を受けましたが、一方で、強烈な嫉妬を買っていた様です。『とはずがたり』 第3巻二十三 御所追放時は流れ、初秋の頃のことです。祖父の四条兵部卿(ひょうぶきょう)の隆親(たかちか)から突然、手紙が届きました。手紙には、「御所の局(つぼね [続きを読む]
  • とはずがたり(5)九十の御賀
  • 天皇陛下の生前退位が話題になっています。高齢化社会を象徴するようなお話ですが、『とはずがたり』には、平清盛の曾孫にあたる北山准后(きたやまずごう)(四条貞子)の「九十の御賀」の祝典の様子が詳細に記載されています。北山准后は90歳どころか、107歳まで生きたのですが、鎌倉時代でも、長寿な方々はいらっしゃったのです。『とはずがたり』 第3巻二七 第一日の儀、法会・舞楽九十の御賀の儀が始まったらしく、後深草上 [続きを読む]
  • とはずがたり(4)今様伝授
  • 鎌倉時代の皇族たちは、音楽に長けた方々が多く、後深草上皇自らも、殿上人たちに「今様」を伝授しておりました。また、『とはずがたり』の記述から、鎌倉時代後期でも、白拍子(しらびょうし)たちがまだまだ活動している様子がわかります。白拍子というのは男装の舞人で、平安時代末期の静御前の母が始まりです。 『とはずがたり』 第2巻二十六 伏見で院の今様伝授と遊宴 大殿(鷹司兼平)はこの時、「ところで、私の息子の中 [続きを読む]
  • とはずがたり(3)大宮院の快気祝い
  • 『とはずがたり』に登場する宮中の宴会シーンです。細かい部分まで良く描写されており、文化史の史料としても貴重です。 『とはずがたり』 第3巻12 大宮院の快気祝い (後深草上皇様と亀山天皇様の母君である)大宮院様のご病気は脚気ということで、大したことはなく、後深草上皇様と亀山天皇様のご兄弟による快気祝いの宴を開くことになりました。 まず、彩色画を描いた破籠(わりご)十個と、ご飯とお肴を入れた御膳が、両院 [続きを読む]
  • とはずがたり(2)女楽事件
  • 女楽事件(あらすじ)後深草上皇と亀山天皇の兄弟間では、蹴鞠などの様々な競技が催されておりました。この二人の天皇が原因で、後に南北朝の対立に発展するのですが、この時代はまだ仲良しだったのです。そして、蹴鞠などの競技で負けた方は、負態(まけわざ)(罰ゲーム)として、両院が互いにそれぞれの女房たちを見せ合うという催しが行われておりました。建治三年(1277年)の二月、後深草上皇チームが蹴鞠で負けたため、罰ゲ [続きを読む]
  • とはずがたり(1)酒宴、大宮院と交歓
  • 『とはずがたり』は、鎌倉時代後期、ちょうど蒙古来襲の時代、後深草天皇に仕えた女房の二条(久我雅忠の娘、あかこ)が、自分の人生をふりかえる日記文学です。内容は、14歳(1271年)から49歳(1306年)ごろまでの宮中の様子や、出家してからの旅行記などです。講談社学術文庫のオビには、「複数の男性と愛欲の生活を続ける大胆・奔放な生き方・体験を露骨に記述する文学史上特異な作品」とあり、ドキドキしますが、実際はそんな [続きを読む]
  • 文机談(22)奥書
  • 『文机談』は、あまり知られていない古典ですが、ご紹介してきたように、その内容は緻密で詳細です。著者の隆円(りゅうえん)が、一体どのような気持ちで「文机談」を残したのか、奥書に彼の心情が記述されています。『文机談』の最終回として、奥書(おくがき)を紹介しておきましょう。『文机談』 奥書これらの事どもを、隆円(文机談の著者)は、尼さんに、こと細かく語り聞かせました。「驚くほど詳細なことまで、よく記憶さ [続きを読む]
  • 文机談(21)可求礼楽
  • 承久の乱で、朝廷が鎌倉幕府に敗北し、華やかな平安王朝文化も衰退へ向かいました。『文机談』には、楽道の衰退を心配する筆者の隆円の想いが記述されています。『文机談』 第4巻 可求礼楽事『文机談』の筆者である隆円が師事していた藤原孝時が亡くなり、ライバルの異母兄弟の孝経も亡くなりました。孝経は亡くなる直前、「今となっては、藤原孝頼(孝時の子)にこそ、跡を託そう」と、実の息子ではなく、孝時の子の孝頼を呼び [続きを読む]
  • 文机談(20)琵琶の修行 その2
  • (つづき)琵琶を練習する中で、初めは、完璧な演奏が30回に達するまで、同じ曲を練習し続けるのです。最初は2〜300回演奏して、やっと30回完璧に演奏できる程度でしたが、連続して30回完璧に演奏できるまで、宮様に指導して頂きました。この回数を数える役は、「松王」と呼ばれた高階信経がいつも勤めてくれました。彼も笛を吹き、歌をたしなむ風流人でした。大床に円座一枚を敷いて練習しました。霜が凍り、雪が舞い散る厳冬の夜 [続きを読む]
  • 文机談(19)琵琶の修行
  • 『文机談』の著者である隆円は、藤原孝道と孝時親子の流派の琵琶を学んでいました。『文机談』には、師匠である孝道や孝時が、どのように音楽を学んだのか、彼らの琵琶修行について記されています。『文机談』 第五巻より右馬頭・藤原孝時は、藤原孝道の長男ですが、父の孝道は、7歳の時から、漢詩の「李嶠百詠」を習い始め、9歳で弓を始めました。11歳から笛を始め、14歳で初めて琵琶を学びました。14歳の7月21日のことですが [続きを読む]
  • 文机談(18)琵琶の帝師(3)
  • さて、帝師となった藤原定輔(さだすけ)は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を討伐しようとした「承久の乱」の時、琵琶の才のおかげで命を救われました。 『文机談』 第4巻より「承久の乱」の時、(後鳥羽上皇様や順徳上皇様は島流しにされ、)多くの上達部たちが、朝廷の陰謀に加担した罪で、鎌倉幕府に処刑されてしまいました。定輔殿も、上皇様たちの琵琶の師として、朝恩厚い方でしたから、幕府の処罰を免れるのは難しい立場にありまし [続きを読む]
  • 文机談(17)琵琶の帝師 その2
  • さて、『文机談』には、琵琶の帝師となった藤原定輔(さだすけ)の失敗談が残っています。 『文机談』 第4巻より承久2(1220年)の春頃、久我の大相国が秘蔵していた琵琶の中でも、「黄菊」という琵琶の名器がありました。普通の琵琶よりも寸法が三分ほど大きいもので、紫藤で作られた琵琶でした。大相国は、この楽器を自分の身代わりと思い、ご祈祷のため石清水八幡宮へ寄進されたのです。 石清水八幡宮では、田中幸清の時です [続きを読む]
  • 文机談(16)琵琶の帝師
  • 大納言・藤原定輔(さだすけ)(1163−1227)は、妙音院・藤原師長様が、琵琶の伝授を許した五人の弟子の一人でした。技量は五人の弟子の中でも下位でしたが、二代に亘り、天皇様の琵琶の師となり、あの霊器「玄上」を五度まで弾かれたのです。これは因縁とでもいうべきものでしょうか。 つらつらと考えますと、定輔殿の出世は、只々、皇室への奉仕の報いと言えるでしょう。定輔殿は、官位も左馬頭と低く、朝廷でひたすら奉公人の [続きを読む]