「人はなぜ生きるのか」「なぜ生まれてきたのか」生きる意味を求めネガティブにデイープに人生を語ります。
生まれてきた意味、生きること、幸福不幸、自己解放など生きていて感じることについて語らせてもらっています。 まだ始めたばかりですがよろしくお願い致します。
少しつめたい風が身体を通りぬける いつもと違う感覚 心地良さにつられ頭を上げる うろこみたいな 羊みたいな ほうきでなぞったような そんなのがたくさんたくさん 青の中に泳いでいる そういえばこの間は 綿菓子みたいのがブルーとの 境目をはっきりさせていた 眩しくてあまり見られなかったけど あのときの自分は今の自分とは違う どのときの自分も今の自分ではないけど たとえ長生きしたいと思ってなくても 時が過ぎるということは 切ないことなのかもしれない いやそれは時を眺めたからかもしれない
「お酒が好き」というのは表現としておかしい、 ということで正しく定義する。 【酒への依存を恥じることなく、 花を「愛でる」かのような付加価値を付け 酒を飲む自分を正当化すること。】 つまり、欠けているのは自覚と羞恥心だ。
哲学者の哲学をあたかも自分の哲学のように話す人間がいる。有名な哲学論を知っているかなんて本当は意味がないと思う。哲学者の主観でしかないから。それをひっそりと心に留めておくのはいいが自分発のように人前で話すのは全く違う。 本来哲学ってそれぞれの生き方や考え方で。生きる意味などといった問題に対しての答えは百人いれば百通り存在し、正しいとか間違ってるかとかそんな物差しはないはずだ。 違う人間として生まれてきて人間同士がうまくいかないのは当たり前。共通点なんて本当はほとんどないんだ。結局はそれを認めあうことくらいしかできない。 私たちは生まれたときからすでに不平等で不自由で孤独だ。私がわたしに気づいた…
選択肢あふれる世の中日本というある意味恵まれた環境で 多くの選択肢があるということ幸せといえばそうかもしれない でも今の自分の在り方への疑いはつぎからつぎへと止まらない もっといい仕事もっといい相手もっといい生活 どこに終点があるのだろう 選び始めればきりのないこと わたしはこれ以上なのかこれ以下なのか これ以上がより幸せなのかでもその幸せの解釈を解剖してみたらやはり今以上ではないのか 死ぬまで問い続けるのだとしたら選択肢があることが必ずしも良いかはわからない 全て自分で決めなくてはいけないそして責任も全て自分に還る これは幸せなのか不幸せなのか
いつ死ぬのだろういつまで生きるのだろう思っているより早いかもしれない 社会的評価を気にするのはもうやめて今日から自分らしく生きよう いかに楽に生きるかそれだけを考えよう お金はあまり稼げないかもしれない自慢できる仕事じゃないかもしれない でもそれを誰が評価するっていうんだだれが見てるっていうんだ 本当は自分が自分を評価している自信のない部分を社会的な評価で補おうとしている 本当は自分の楽しみを一番大切にしたらいいんだ 今日からは楽をして生きようどうしたら死にたくなくなる生活になるのか それだけを考えよう人がどう思おうといい ほんの一瞬の世間の評価と大部分を占める内面との生活どっちを大事にするの…
この時期、来年の年賀状を書くために昨年来た年賀状を振り返る。 幸せそうに写る家族の姿赤ちゃんのドアップだったり息子の野球姿だったり 家族皆で行った旅行の記念写真だったりどれも幸せにあふれている。 私にも家族がいるこの人達と同じだ。 でも年賀状の中の人達はとてもとても幸せそうに映る本当はみなそれぞれ悩みもあるのだろうけど。 結局、世の中ってのはこういうステレオタイプな幸せの価値観で覆われている。 名の知れた会社で働いている、大きな家に住んでいる、容姿の良い相手と結婚して子供も二人いる、とか。 そういったところに近づくことがまるで幸せの本質に近づけるみたいに無言で誘われていくけど そこに頑張って近…
つねに過去は好きではない後悔が残るからだいい記憶より悪い記憶が蘇るからだ 過去を振り返ることは苦であり夢や希望があまりない 今これから生きていくためには過去はなかったものであり 今どうするかしかない 今や先に楽しいことが起きる想像ができないと今を生きることは苦でしかない それにしても人生とは苦である なかなか楽の体験がやってこない 何度も何度も試され一体いつまでこれを繰り返し続けるのだろうと憂鬱になる 周りを見ると不幸そうな人もいるがわりと自分より平坦な人生を送っているように見える 人生は自分で決められる部分もあるがその時最善の選択をしても結果が苦でしかないことが多い そういうとき結局人生はサ…
資本主義世界の中で生きるということ。 私たちは魂まで持っていかれたのだろうか。 本当の自分に蓋をし虚勢を張り内省しない大人たち。 負の感情に蓋をし正の感情も見えてこなくなり無感動 無表情。 電車ではベビーカーがあろうが子連れがいようが我先に 乗り降りしようとする。エレベーターも我先に。 まるで周りの人達を無いものとして生きているようだ。 こんな人間の良さをなくした人間を育てるための 社会になんの価値があるの。 たとえ知らない相手でもあってもその人の背景を想像して みることはできないものか。 自分さえよければいい、そんなおやじたちを作った社会が 急に変わりはしない。 目も合わせない、遊びに来ても…
恋愛で自他の境界線をはっきりとさせて 本気で恋愛することはできるのか。 依存と共存という観点から考えてみる。 <依存>他が自分と同じように考えている、言わなくても分かってもらえると感じている。 相手の考え方は今後も変わらないだろうという前提。 自分が満たされていないとき相手に愛を乞う。 <共存>他が考えていることがわからないからこれまでの その人との関わりから予測、または自身の経験値から想像する。 相手の考えは常に変化するから相手の今を感じようと観察する。 自分が満たされていないとき原因を考えまずは自分で解決策を考える。 このように考えてみた時、例えば心が弱っていて相手に相談をしたりスキンシッ…
人と人が恋愛関係でいられるのは結局架空の空間だけだ。 ひとたび現実に入れば摩擦の渦に飲まれ目が覚める。 出会い、運命といったことは偶然でしかなく 結婚した相手も結婚していなければ不倫の対象になり 結婚していない相手も結婚すれば嫌悪の対象になる。 出会って間がない相手(想像、デフォルメされた恋人像)と 夢世界を回遊するのは快楽的なことではあるけれど 現実世界からかけ離れた架空の出来事でしかない。 架空の快楽はあまりに刺激的な媚薬 現実ではないと知りながらまた人は刺激を探し始める。 それらが生きる源になっていることも当然否定できない。
今ある責任の重さで死ぬことが許されないなら せめて私を土に還して 私はもともと人間界の荒波でもまれるように 生まれてきたいわけではなかった 運悪く人間として生まれてしまい これまで一生懸命生きてきたけど もう限界だ これ以上感情をゆさぶられたくない どうか私を土に還して 自然の一部としてそっとそこにいさせて それがわたしの本来の在り方 死ぬことが許されないなら せめてもう土に還してほしい
お前はどこに向かっているのだ この先はまだまだ長い お前が向かう先には お前の求めているものがあるのか 行くあてなく さまよいつづけたその先に 見えるもの そんなものはないだろう
今日人の心をもらい元気になった 弱っている心を癒してもらった 私は「自分で自分を癒すのが一番安全」なのを知っている 普段そう人に言っておきながら 結局人の胸を借りた 意と反して私は元気になってしまった また一つ弱くなった 人に頼って生きるのも正解でなければ 自分自身だけに頼って生きるのも正解ではない でも私は私一人の力で生きたい
人を好きになってふられたら 自分がなくなったような苦しさがあったが ほんとうは最初からなかったんだ 自分で自分を愛せないから 人に愛してもらっていたということなのか
生きるということは 迷いつづけること 不安や困難に打ち勝つこと それらは自分のためにというが 本当は他との関わりの為でしかない
今日とある約束を忘れていた。こういう瞬間自分が自分でいられなくなる。なんで、覚えていなかったスケジュールを確認しなかった。 お前はそういうことを一番やらかさないやつだろうそういうことをするやつが一番きらいだろう なんでそれをお前がやってるんだいい加減なやつだとぜったい思われている。 もう過ぎてしまったから後には戻せない。でもやっぱりそんなことを自分がするなんて許せない。 こんなことを延々一日中考え続けることになる。 誰でも失敗する。きちんと管理していても抜けることがある。なぜここまで抜けることに極端におびえるのか。 誠意を尽くして相手に謝って許しを得たとしても決して自分は自分を許さない。 それ…
きほん人と本音で話さない。話しても理解してもらえないし。自分を知られたくないし。 たまに本音で話すことがある。普段感じていることを思いっきり吐き出してみる。 なんだかとってもすっきりしてひさびさ心で話せたなと思う。 でもすぐに 「あんなふうに言ったけど正直すぎたな。」 「あれについてむこうはああ返してきたけど どういう意味なんだろう。」 裸になってた自分が急に後ろめたい闇に引っ張られる。 瞬く間に気持ちがブルーになってくる。 自分に自信がないってのはこういうことを言うんだろうか。
赤ちゃんを連れている家族を見ると幸せにあふれているようにみえる。 かつて自分の子供が赤ちゃんだった頃とにかく必死だった。 なんでもそうだけど外に出てしまうと今の自分が不幸せに映る。 それともあの枠の内にいて夢中だった頃は本当は幸せだったのかもしれない。 それとも内からも外からも幸せとは見えないものなのだろうか。 簡単には満足しない、という人間の進化のための特性(遺伝子)が その人間自体を苦しめるということになってしまっているのか。 事故や病など日常ではない経験から日常のありがたみを感じるようになるというがそれはまた別の概念ではないかと思う。 結局死ぬときに「この人生も悪くなかったな」と思うのだ…
弱気になるネガティブ感情が心の宝石だったらどうしますか? 【③TEDプレゼンまとめと感想】 全③回
【③TEDプレゼンまとめと感想】 Vulnerabilityはみんなの心に潜む弱気になる感情です。この感情は私たちをとても不安にさせこわいものですが、 この気持ちから逃げてしまえば、学びがなく成長できません。私たちは本当の自分をさらけだしこの気持ちに立ち向かい(=これがcourage勇気)人との繋がりを持つべきなのです。 Vulnerabilityを感じ全身全霊で立ち向かうからこそ未知の世界と出会えるのです。成長が待っているのです。そこで逃げてしまったらそれはweakness(弱さ)ということになります。 「成功の反対は失敗ではなく何もしないことだ」「私たちはあらゆる失敗から多くを学んで成長す…
弱気になるネガティブ感情が心の宝石だったらどうしますか? 【②TEDプレゼン後半内容】 全③回
【②TEDプレゼン後半内容】 【①TEDプレゼン前半内容】 のつづき ブレネーはこのAのような自己価値が高く愛と帰属意識の高い人達を 「whole-hearted people(全部の心の人、全身全霊の人)」と呼んでいる。 この人達はsense of courage(本当の意味での勇気)を持っている。 Courage(勇気)の「cor」はラテン語の「heart(心)」から来ており 元来の意味は「自分がどんな人間であるかを本当の(全部の)心で話すこと」。 自分の本当の心をさらけ出すことが「courage(勇気)」なのだと。 また「whole-hearted people」は自分が不完全なことに対…
弱気になるネガティブ感情が心の宝石だったらどうしますか? 【①TEDプレゼン前半内容】 全③回
【①TEDプレゼン前半内容】 傷つきやすい心、弱気になる心、めげそうになる心、こういった心の不安定な感情は 一般的に「弱い心」としてマイナスに捉えられていると思います。 強い心があればくよくよ悩んだりせずに生きていけると 。 私は感受性も強く典型的な弱気になりやすいタイプな為いつもこうした心の問題と 戦ってきました。 それが、先日とあるTEDのプレゼンテーションを見たことにより 大きく変わることとなります。 ネガティブ視していた脆く弱気になる感情が 「心にある宝石」 「人間を成長させる苦い薬」 (なのかも)という話をしたいと思います。 プレゼンターは Brene Brown(ブレネーブラウン)…
とにかく淋しかった。淋しくてさみしくて。孤独で。ひとりぼっちで。 とにかくこの果てしない空虚感はどこから来るのか、どうしたら埋められるのか必死で探していた。 親から充分に受けなかった愛情のせいなのか。持って生まれたものなのか。 この感情を消すにはどうすればいいのか、そればかり考えていた。 時に人が埋めてくれた気がした。何かをしていると忘れている気がした。 だけれどもその瞬間が過ぎればまた元どおり。 たぶんさみしかったんだなって、ずっと子供のときに淋しかったんだなって、でも今さらお母さんにも言えないなって。 カウンセラーの人たちが言う。自分の心の中の子供の部分(インナーチャイルド)を大人になった…
たいていの人は表面的な会話を好む。だれだれがどうした、なになにがあった、など。 自分の事についてはなんとなく話すがなにをどう感じたかはあまり詳しく話さない。 私が知りたいのはどう感じたか今後どうしていきたいのか、それにより他とどう関わりたいのか。 私はだいたいいつも不消化な状態だ。目の前で繰り広げられる会話を前に 魂は幽体離脱状態魂そこにあらず。 私が求めているのは対話であり相手と自分の心の交換をすることそこでの新たな発見を求めている。 皆本当の自分を隠して生きている。本当の自分では勝負していない。 人生という土俵で裸に近い心で戦っている人間はごくわずか。本来は年齢とともに心も成長し精神年齢も…
自分を解放すること甘えさせることはどこまで可能なのだろうか。 自分に厳しくすることは自分にとって安心に近づくことだが 自分を甘えさせることは不安を招くことになる。 自分を解放し甘えさせたとき果たして自分は現実に戻れるのだろうか。 人に甘えることも人に頼ることも人を信じることも 本当にそうしてしまったとき私は捨てられないの? 自分はがんばってもがんばってもまだまだ先へと挑戦していくことが人生の目標であり 身近なことで満足してしまったら私は許されないのではないか そんな縛りは親からなのか社会からなのかまさか自分自身からなのか。 自分にブレーキをかけて甘えすぎないように監視して生きている。 このバリ…
死ぬことはこわくないというと変な目で見られる。 死ぬことこわくないこわいのは子供を残すことだけ。 どんなに辛いことがあった日もまた夜は明けて当たり前のように一日が始まってしまう。 そのことのほうが余程私を闇に落とす。 私に合わせて時は過ぎていかない。あくまで時に合わせるのだ。 死ぬということは日々の辛い感覚から解放されること。感じず自由になれること。 死にはしない。生まれた以上責任がある。 今はとくに。今は死ねない。 でも死ねないという重圧ははかり知れないほどはるかはるか遠く重い。
日常に非日常を持ち込むことがプラスになるのかどうかという考えだが、急がば回れのごとくあえて取り込むことで日常に意味やモチベージョンを与えるきっかけになる可能性はある。 しかしながら、現実と仮現実の乖離に苦しむことがあることもやはり否定できない。 日常と非日常、現実と仮現実、これらに境界線を持たせることなく生きられる人々。 自分と何が違い何が同じなのか。「刹那的」こんな言葉がふと浮かぶ。 自分が決めた枠組みにしっかりとはまっていることを安心と捉える一方 私の中にある刹那的な部分を置いていくわけにはいかない。自分にも充分に刹那的なところがあるのだ。刹那的であることに惹かれる一方それを強く否定する。…
今私は健康で周りに家族がいて友達もいて仕事も趣味もそれなりで恋人もいて これで本当に幸せなのですか。ただ幸せと気づいていないだけなのですか。 幸せとは結局相対的な概念であって人それぞれであっていいはず。 いわゆる条件が整っているからって幸せと偽らないといけないなんてあまりにも心の不自由が伴う。 幸せの定義は自分で決めればいいしかしそれほどに難しいこともない。 世の中には多くの共通項的概念が存在し自由な感性で自由な発想を持ち続けるには相当な反発力が必要だ。 幸せという響きはもはや脅迫観念ではないのか。幸せにならないといけない、といわれているようで。 私はというと 日々心の自由と戦っている。幸せと…
人に多くの生産性を求める現世。幾ら稼げるか=人間の資産価値という図式も決して間違いではない。 意味を持って産み出されたわけではないのに生まれた瞬間から生産性を問われる。なにができるのかって。 その昔はただ生きていることに価値があったはず。 もう今はただ生きているだけでは幸せになれない。生きているだけでは意味をつけてもらえない社会。それが資本主義社会か いや貨幣という価値が出来上がった時代からか。 そういえば世界一貧しい大統領が言っていなかったかな、「私たちは幸せになるために生まれてきた」 もはや私たちはこんな言葉を目の前にして涙が出る。 ただ生まれただけで価値があった時代はもうないのだ。産まれ…
だれが産んでくれと頼んだ。だれが。 産まれることを選択できないまま気が付いたらこの世にいた。 ただ生きているわけにはいかないから生きる意味を見出す旅が始まる。 生きてる意味ってなんなんだよ。ただ息してるだけじゃぁだめなんだろ。 ヒトは私に生産性を求める。お前はこの世に何が生み出せるんだって。 しかもそれには経済的な生産性が大きく絡んでいる。 たとえお前がいい人間だって金稼げてなかったらダメ人間なんだ。たとえボランティアで人の命を救おうとしていても。 産まれる選択肢なくいきなり放り出されて意味を見出さなくてはいけないなんて。産まれない選択肢があってもいいんじゃないのか。
生きる意味ってなんなんだ 使命をあたえられて生まれてきた意味があって生まれてきたそんなのくそくらえだ 生きる意味なんてないんだ産み出されてしまったから覚悟を決めて意味を作り出す作業をするだけなんだ 人生に意味をつけるのは簡単なことではない時にせっかく見つけた意味だって簡単に失われるヒトに意味を補ってもらってもそれが欠けたら絶望だ だからまあなんとか自分で自分に意味をつけてみるこんなことやあんなことができるやつだってこんなつらい経験ものりこえられたやつだって だけど目に見えた実感じゃないから自信が持てないだからみな目に見えるタイトル(社会的地位)を求めるでも目に見える価値はだいたい汚れているし真…
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