パイかん さん プロフィール

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パイかんさん: 元沖縄第32軍高級参謀八原博通大佐について
ハンドル名パイかん さん
ブログタイトル元沖縄第32軍高級参謀八原博通大佐について
ブログURLhttp://colonelyahara.blog.fc2.com/
サイト紹介文元沖縄第32軍高級参謀八原博通大佐について調べたことを紹介しています
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供56回 / 239日(平均1.6回/週) - 参加 2017/11/15 07:48

パイかん さんのブログ記事

  • 八原博通 沖縄死闘三か月の回想―“軍談作家”伊藤正徳にもの申す―文芸朝日1964年③
  • 1964年の文芸朝日3(9)118の(p46〜50)掲載の、八原さん記述の記事の続きです以前の記事はこちら八原博通 沖縄死闘三か月の回想―“軍談作家”伊藤正徳にもの申す―文芸朝日1964年①八原博通 沖縄死闘三か月の回想―“軍談作家”伊藤正徳にもの申す―文芸朝日1964年②作戦方針変動への反省方針は明確で、滅多なことで動揺してはならない。大兵団になればなるほど、ますますそうで、場当たりの決心や処置では、その総合戦力は激減 [続きを読む]
  • 西野 弘二『紅焔(KOUEN)―沖縄軍参謀部付一少佐の手記』 1994年②
  • 参謀部所属西野少佐の『紅焔(KOUEN)―沖縄軍参謀部付一少佐の手記』 より司令官、参謀長自決のその時を描いた絵と詩です船出おお死よ死の中に生があるのか生の中に死があるのか壕は今 混沌としている伏して冷たくなった 草産す屍を前に軍司令官と参謀長の船出だ永遠の旅路に未だ生ある十数名の者達集まって訣別する 別れの酒杯は回った司令官は軍装をととのえ参謀長はワイシャツ姿で背には血書忠則尽命と軍刀を片手に 淡々と両 [続きを読む]
  • 西野 弘二『紅焔(KOUEN)―沖縄軍参謀部付一少佐の手記』 1994年
  • 「沖縄決戦」にもたびたび登場する、参謀部所属の西野少佐の手記、詩、絵などをまとめた書籍『紅焔(KOUEN)―沖縄軍参謀部付一少佐の手記』 より6月19日の、木村、薬丸、三宅、長野ら参謀たちとの別れの宴を描いた絵と詩のようですおそらく、青い丸で囲った方が八原大佐ではないかと最後の晩餐虚脱と迷夢が襲った壕暗闇の壁 光の壁妖魔の巣と化した鍾乳洞人の影が動く 闇を分けて劇は終った狂乱の三ヵ月 草生す屍かげろうと共に [続きを読む]
  • 32軍における日時の把握について
  • Roy Appleman らによる米軍公刊戦史OKINAWA: THE LAST BATTLEのChapterXVよりThe evidence is conflicting concerning the date when the 32d Army headquarters left Shuri. The cook for the 32d Army staff said that the Army headquarters left Shuri on 26 May and arrived at the Hill 89 headquarters cave near Mabuni on 29 May. Officers of the 62d Division confirmed this, stating that the Army headquartes left [続きを読む]
  • 八原氏の行動の時系列
  • 八原氏の終戦前後の行動について様々な資料からの推測に基づく時系列を書き出してみました6月19日 長野、薬丸、木村、三宅の各参謀が変装し司令部壕から出ていく6月X-1日 八原氏、背広(ゴルフジャケツ?)に着替えていったん司令部壕から出るが、他の人に知られないように再び壕に戻る(参考:吉村 昭 『新装版 総員起シ 』、新垣隆生「逃げまどった司令部」 、新垣隆生『牛島中将自決現場にいた私』)6月X日午前4時30分   [続きを読む]
  • 1945年2月の第32軍司令部写真
  • https://history.army.mil/books/wwii/okinawa/chapter4.htmより引用JAPANESE COMMANDERS on Okinawa (photographed early in February
    1945). In center: (1) Admiral Minoru Ota, (2) Lt. Gen. Mitsuru Ushijima, (3) Lt. Gen. Isamu Cho, (4) Col. Hitoshi Kanayama, (5) C
    ol. Kikuji Hongo, and (6) Col. Hiromichi Yahara.よく見かけるこの写真ですが、八原大佐はいったいどこなの
    か全然わからなかったのですが上記サイトによ [続きを読む]
  • 古川成美『死生の門─沖縄戦秘録』1949年
  • 古川成美『死生の門─沖縄戦秘録』1949年著者名、書名ともにWikipediaでは検索してもでてこない本著ですが、八原氏と深い関りがある書ですので特に紹介したいと思います。まず著者の古川成美氏ですが、1941年(25歳時)広島文理科大学史学科を卒業し、教員として勤めていましたが、1944年(28歳時)召集され、独立高射砲第81大隊(球12425部隊)として沖縄戦に参加し辛くも生き残ったという経歴を持っています。戦後は広島文理科大 [続きを読む]
  • NAKAMUTA Tetsuoらの捕虜尋問調書の入手方法
  • 今回は牛島司令官・長参謀長の自決の目撃者として、米軍にその証言を重要視された料理人NAKAMUTA Tetsuo氏ほかの捕虜尋問調書の入手方法について紹介したいと思います国立国会図書館憲政資料室のホームページ(http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/)上で日本占領関係資料⇒発生機関別索引⇒第二次世界大戦(現地軍)⇒太平洋戦域 太平洋地域(POA)<ニミッツ麾下 マリアナ諸島、マーシャル諸島、硫黄島、沖縄、ほか>⇒第二次世界大 [続きを読む]
  • 『証言沖縄戦: 戦禍を掘る』 琉球新報社(1995年)②
  • 『証言沖縄戦: 戦禍を掘る』 より引用(p194〜200)司令部の犠牲者も日を追って増えてきた。いつの間にか米軍の“馬乗り攻撃”でやられ、艦砲が直撃して死者が壕内を埋めた。安谷屋さんは六月十六日前後と記憶している。いつものように獣医部の壕のわきを通り過ぎて参謀部に向かっていた。 「獣医部は司令部壕の南にある丘で畑側に面していた。私が参謀部に向かう時通りかかったら、中が暑かったからか竪穴の壕入り口には二、 [続きを読む]
  • 『証言沖縄戦: 戦禍を掘る』 琉球新報社(1995年)①
  • 『証言沖縄戦: 戦禍を掘る』より引用(p188-200)ただ一人の県出身将校三十二軍司令部には、ただ一人、県出身の将校がいた。安谷屋謙さん(七九)=与那原町与那原四〇九.教育畑にいた安谷屋さんだが、歴史の流れの中で軍隊という組織に組み込まれていった。沖縄戦を指揮していく組織と人間たちを、県人として身近に見てきた唯一の将校だ。 だが、安谷屋さんは三十二軍司令部の“沖縄戦”を語るのは今回が初めてと言う。目の前 [続きを読む]
  • 『鉄の暴風』沖縄タイムス編 1950年
  • s950年発行の『鉄の暴風』より引用神山島斬り込み(中略)「船舶工兵隊が神山島に挺身斬り込みをかけるんだそうだ。・・・」兵隊の声が彼の睡りをつきくずした。神山砲に対抗できる砲のない日本軍として、それを沈黙させるには、夜間の斬り込み以外は手がない。 十字路の一角の奥まった場所には、くもの巣のようにはりまわされた軍用電話線に、白銀色の受話器が、何個もぶらさがっている。矢原(注:原文ママ)高級参謀が片手の久 [続きを読む]
  • 八原氏の捕虜尋問調書(1945年8月6日付)③
  • 1945年8月6日付の八原氏の捕虜尋問調書は1. PERSONAL DETAILS2. ASSESSMENT3. INTETELLIGENCEから成り、このうち3. INTETELLIGENCEはさらにa. chronologyb. Pre-L-Day Estimates and PreparationsC. Enemy OperationsD. Enemy IntelligenceE. Battle Lessons(注:何故かCから大文字になりますw)から構成されています。今回はこのD. Enemy Intelligence の項を紹介したいと思います。D. Enemy Intelligence 32d Army intelligence [続きを読む]
  • 濱川昌也『第三十二軍司令部秘話 私の沖縄戦記』④1990年
  • 濱川昌也氏の『第三十二軍司令部秘話 私の沖縄戦記』より引用(p11-12)坂口次級副官の、階級は大尉でありながら軍の階級制を無視、隷下部隊から業務連絡のため司令部に出頭してくる佐官級の高級将校と対等に対応している姿勢に、私は奇異さを感じた。 あとで副官部勤務の魚住豊明軍曹に聞いたところ、軍隊にも“やくざ”のように親分子分の関係があり、坂口大尉は長勇参謀長の一の子分で、自分も子分の一人であるという。そのとき [続きを読む]
  • 濱川昌也『第三十二軍司令部秘話 私の沖縄戦記』③1990年
  • 濱川昌也氏の『第三十二軍司令部秘話 私の沖縄戦記』より(p196-199)(注:六月二十日朝から摩文仁丘が激しい砲撃を受けていたが、午後三時ごろになって中断したとのこと)摩文仁部落を隔てた前方の丘のうえに据えられていた米軍の大砲は、一門から三門に増えていたが、砲撃は中止していた。休憩中とみえ砲の側で米兵が座って煙草をすっている姿が見える。しかしそのさらに後ろにいる米兵の一団の中に沖縄の娘らしき姿が見えたのには [続きを読む]
  • 濱川昌也『第三十二軍司令部秘話 私の沖縄戦記』②1990年
  • 濱川昌也氏の『第三十二軍司令部秘話 私の沖縄戦記』より(p128) さて、この後退計画(注:いわゆる南部撤退)が策定されるまでは、敗戦気分で重苦しい空気が洞窟内に漂い、米軍の進攻につれて、日一日と近づく死との対決で将兵の心はすさみ、殺気だっていた。また総攻撃に失敗して以来、参謀長は虚無感から抜け出ようとするかの如く朝からアルコールびたりであった。 こんな状況になってくると人間の柄が見えてくる。今まで偉 [続きを読む]
  • 佐木隆三『証言記録 沖縄住民虐殺』 1976年
  • 1976年初版の佐木隆三氏『証言記録 沖縄住民虐殺』より八原氏に関するものではないのですが、司令官と参謀長の人柄を示すエピソードがあったので引用(p56-58)新垣正達さん(当時二十七歳)は、この軍馬手の班長をつとめたから、知念栄章さんの上司なのだった。(中略)「わたしは、参謀長の馬当番でしてね。これは、もう、たいへんだった。軍馬手は、当番兵みたいにずうっとつきっきりじゃないから、あの少将がどんな性格か知らな [続きを読む]