tonchan さん プロフィール

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tonchanさん: とんちやんの独り言〜時々歴史
ハンドル名tonchan さん
ブログタイトルとんちやんの独り言〜時々歴史
ブログURLhttp://tonchannohitorigoto.blog.fc2.com/
サイト紹介文日本の古代史を中心に拙い記事を思いつくまま日記的に載せています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供49回 / 176日(平均1.9回/週) - 参加 2018/01/24 22:07

tonchan さんのブログ記事

  • 緩やかな社会変化
  • 弥生時代に水稲栽培技術が日本に伝来し、広まっていったが、それによる社会の変化は緩やかなものであった。考古学者の谷畑美帆さんによると、狩猟や漁撈中心の暮らしから穀物や堅果類による炭水化物中心の暮らしに変化した場合、発掘される人骨にクリブラ・オルビタリアという頭蓋骨の一部が肥厚する骨病変(鉄分欠乏等の栄養障害によるものと考えられている)や虫歯の発生頻度が増大することが海外でも報告されている。しかし縄文時 [続きを読む]
  • 律令国家の目指したもの
  • 蘇我馬子から始まった律令制度構築への動きは、中大兄皇子の近江令、天武天皇の飛鳥浄御原令を経て藤原不比等の大宝律令によって100年近くを要して完成した。これらの目指したものは強力で機動的な朝廷直轄軍の編成と維持であった。六世紀後半、激動する中国と朝鮮半島情勢に対して倭国は安全保障の面で自国の軍事力の維持、強化が課題となっていた。しかし実態は旧態依然とした各豪族の私兵の連合が主体であり、有事に際しての決 [続きを読む]
  • 関西とはどこからか
  • 三関すなわち鈴鹿関、不破関、愛発関より西を関西と呼ぶようになった。壬申の乱以前より大和政権は三つの主要な街道に砦を築いて武器を保管し、東国からの攻めに備えていた。統一国家といっても現代日本人にはイメージしにくい国境のようなものが古代はあった。 [続きを読む]
  • 続く皇位継承争いその2(壬申の乱)
  • 中大兄皇子は斉明天皇の崩御の7年後、668年に即位した。(天智天皇)弟の大海人皇子を皇太弟としたが、翌年、天智の子の大友皇子を太政大臣として後継にする動きを見せると大海人皇子は辞退した。669年中臣鎌足が亡くなり671年天智天皇は病に臥せると、大海人皇子に後継させる意向を示したが、皇子は罠に気づき辞退して吉野に離れた。天皇が崩御し、朝廷が吉野へ討伐軍を送る動きを見せると大海人皇子は吉野を脱出し、尾張氏他の豪 [続きを読む]
  • 唐、新羅の脅威
  • 660年、百済が唐と新羅の連合軍に敗れて滅亡した。中大兄皇子は斉明天皇と共に筑紫に移り百済王子・扶余豊璋に兵を預けて朝鮮に出兵したが、白村江の戦いで連合軍に大敗した。続いて高句麗も唐に滅ぼされたため、中大兄皇子は東国から兵士を徴収し、防人として九州の防衛をさせた。斉明天皇は九州の地で崩御したが、皇子は即位せず、称制を行った。 [続きを読む]
  • 続く皇位継承争い
  • 馬子の後を継いで大臣となった蘇我蝦夷は、田村皇子(舒明天皇)を即位させたが山背大兄皇子が反旗を翻したため、後ろ盾となって画策していた蘇我境部摩理勢を誅殺した。皇極天皇の代になり蝦夷の後継の蘇我入鹿は、古人大兄皇子(舒明天皇の第一皇子)を皇太子に擁立したが、即位を目論む山背大兄皇子が邪魔となり殺害した。645年、中大兄皇子(古人大兄皇子の弟)は百済系の中臣鎌足を後ろ楯にして皇位継承を目論み、蘇我入鹿と古人大 [続きを読む]
  • コラム:独裁のメリット・デメリット
  • 古代ローマは王政で建国されてやがて共和政に移行しました。一年交代の執政官二人が選挙で選ばれ行政を行い、重要事項は元老院で決議されました。しかし戦争の勝利が続き広大な領土を統治するようになると、突然の蛮族の侵略等緊急事態に対応するためには1人の元首によって統治した方がベターであるという考え方に変わりました。(カエサルの時代から)独裁のメリットは意志決定の速さがありますが、デメリットとして能力のない非適 [続きを読む]
  • 隋の脅威と文化吸収
  • 581年中国で統一王朝の隋が建国され、文帝の治世では後の唐に受け継がれる律令制度が整備士され、官吏の人事をそれまでの貴族による任命から科挙による人材抜擢を行うようにし、さらに口分田を人民に分け与えて皇帝が直接徴収できるようにし、中央権力の強化がなされた。外交では高句麗遠征のための大軍が準備された。そのような情勢の中、倭の蘇我馬子は隋に対する脅威と自身の権力基盤のさらなる強化のため、遣隋使を度々派遣し [続きを読む]
  • 武力による皇位継承争いの時代
  • 大伴氏の失脚の後、敏達天皇の時代に物部守屋、蘇我馬子、中臣氏が実権を握るべく権力争いをするようになった。用明天皇が崩御すると、穴穂部皇子を皇位につけようとする守屋と炊屋姫を推す馬子が激しく対立し、ついに587年、蘇我馬子は軍勢を集め河内渋川郡の物部守屋の砦を武力で攻め落とし、実権を独占した。 [続きを読む]
  • 蘇我氏と物部氏の2極化
  • 欽明天皇が即位した時、大伴金村、物部尾興、蘇我稲目が大連・大臣になったが、金村は任那の割譲を批判され、朝廷に姿を見せなくなって失脚した。政権は任那を再興するべく百済と密に交流し、538年聖明王から仏像と経典が贈られた。しかし新羅の侵略が強まり聖明王も殺された。さらに562年任那が滅ぼされたため、新羅討伐軍が派遣されたが敗北した。 [続きを読む]
  • 磐井の乱
  • 527年、任那を侵略していた新羅を討つため、大伴金村の命で朝鮮半島南部へ近江毛野臣がヤマト政権軍を進軍させようとした。しかしそれを知った新羅が筑紫国造磐井に反乱を起こさせた。近江毛野の進軍が阻まれたため、翌528年物部麁鹿火の軍が派遣され、乱を鎮圧した。九州の戦後処理は麁鹿火に一任された。 [続きを読む]
  • 大伴氏の政治
  • 継体天皇の治世、大伴金村は親百済派の支持を受けて実権を握った。475年高句麗に漢城を陥落された百済は、任那の四県の割譲を倭に要請し、大伴金村はこれを受け入れた。物部氏ら反対派はこれを責め次第に反目するようになり、将来の没落の要因となった。しかし継体、安閑、宣化天皇の代が変わっても金村はしばらく実権を握り続けた。 [続きを読む]
  • 雄略天皇崩御後の混迷
  • 雄略天皇は大伴氏、東漢氏を親衛兵力として政敵や親族を次々と殺害してしまったため、崩御した後の皇位継承争いが不安定な時期が続いた。そんな中で蘇我氏の地盤である越から応神天皇の5世の孫と言われる継体天皇が507年即位した。継体天皇は尾張とのつながりも持ち、また、秦氏の勢力地域である。河内、その後山城に宮を置いた。継体の即位に反対していた大和豪族の平群、三輪氏、葛城氏は蘇我氏にとって代わられ衰退していった。 [続きを読む]
  • 物部氏の分裂と政変
  • 吉備とその拠点である河内を本拠地としていた物部氏は大和建国から政権の中枢にいたが、渡来系との癒着による中央政治の腐敗と地方の衰退が続く中で、台頭していた蘇我氏と大伴氏は吉備・渡来勢力打倒のため、物部氏の軍の一部を懐柔し味方につけることに成功した。そして雄略天皇を擁して天皇中心による政治の革新を旗印に抵抗勢力を武力で抑え込み、吉備の討伐を行った。物部目、大伴室屋、蘇我系豪族の平群氏が実権を握り政権を [続きを読む]
  • 倭の五王の朝貢
  • 百済と倭は同盟して高句麗と戦争をしたが敗れたため、さらなる高句麗の進攻を防ぐために宋の力による朝鮮半島の鎮静化を求め、朝貢を繰り返した。倭の五王と呼ばれる讃、珍、済、興、武が413年から478年の間に少なくとも9回朝貢し、百済および高句麗の支配権を持つ称号を求めたが、両国も宋と友好関係を築いていたため、叶うことはなかった。武は雄略天皇である可能性が高いが、これ以上の朝貢に見切りをつけ、以後行わなくなった [続きを読む]
  • 巨大古墳の出現
  • 15年続いた高句麗との戦争で大量の武器の需要が続いたが、生産の中心であった吉備は莫大な富を築いた。戦時体制という事で全国からの税を重く取り、地方は疲弊したが吉備とその畿内拠点である河内(この時期、天皇の宮も河内にあった)には集めた富で多くの巨大古墳が造営された。戦争の敗北により軍事力が低下した大和政権は天皇の権威を高めることで統治を行うようになった。天皇はそれまでは各豪族の代表、まとめ役として祭祀を行 [続きを読む]
  • 高句麗との戦争
  • 3世紀に大量に渡来し、帰化した人々は、その進んだ技術と文化を持っていたため、厚遇され有力な豪族として大和政権に影響力を持つようになった。高句麗に滅ぼされた東晋から避難してきた漢氏の支持を受けていた政権中枢の為政者は、帯方郡の奪還に向けて軍備を増強し、百済と講和を結んだ。(369年に百済から七枝刀が献上されている)七枝刀そして391年より百済に大々的に軍を送り込み、400年、新羅の領有をめぐって好太王率いる高句 [続きを読む]
  • 4世紀:技術の発達と人口増加
  • 弥生時代のAD200年頃、日本の人口は60万人程度であったという研究データがあるが、奈良時代の8世紀初めで540万人程度に増加している。(単純計算すると100年で100万人増加なので4世紀は160万人から260万人程度と計算される)4世紀、大和政権が平和で安定した社会基盤を作った事で各地の農業生産量も増え、渡来人の増加による技術進歩も加速した事が、人口増加の要因と考えられる。 国内情勢が安定していた倭国と加羅・任那諸国に対 [続きを読む]
  • 4世紀:安全保障と経済の成長
  • 大和政権が九州地方などの敵対勢力を一掃し、国内に平和をもたらした事で、4世紀は経済活動が盛んな成長の時代となった。九州と朝鮮半島との最短航路上にある沖ノ島と宗像大社ではこの時代から航海の安全を祈願する祭祀が本格的に行われるようになり、その頃から沖ノ島に奉納された大陸との交流を示す宝物など8万点が国宝に指定されている。国宝(純金製指輪)朝鮮半島側のもっとも近い港付近には金官国(魏志倭人伝に記載の狗邪韓国 [続きを読む]
  • 弥生時代の暮らし
  • 縄文時代から日本では栽培のしやすい陸稲・粟・稗等の穀物の他、小豆や野菜、果実、海産物などを食していた。穀物等の食料は高床式倉庫に貯蔵した。高床式倉庫(Wikipediaより)水稲が伝わって米を作るようになったが、初めの頃はまだ主食として蒸して炊く飯ではなく、土器に他の穀物と混ぜて水で煮る雑炊のようなものをスプーンのような食器で食べていた。陸稲(おかぼ:斜面の畑に直蒔きし、雑草にも強い)粟稗弥生時代の酒日本書紀 [続きを読む]
  • 青銅器の作り方
  • 鉱床に存在する自然銅等の金属を叩くことで硬く変形させ、道具として使える事を人類は発見した。やがて古代中国では木炭や薪で鉱石をるつぼの中で溶かし、様々な金属の塊を作る鋳造が出来るようになった。 銅は原料も豊富にあって加工も容易なため広く使われるようになったが、錫(すず)を少し混ぜると適度に硬くかつ脆すぎない道具に適した金属になることを発見した。錫は銅鉱石の中に一緒に含まれていることが多いため世界各地で [続きを読む]
  • コラム:記紀・神社伝承の価値
  • 古事記、日本書紀には国生み神話や天照大神、スサノオの活躍を始めとする出雲の説話や天孫降臨、神武東征、欠史八代、祟神天皇、ヤマトタケル、神功皇后などの楽しいストーリーが散りばめられており、自分も大好きです。 また、脇役としてアメノウズメや猿田彦、天穂日尊やタケミカヅチ、塩土翁、ニギハヤヒと長スネ彦、四道将軍や武内宿禰など魅力的なキャラクターに満ちあふれています。 これらは記紀だけでなく、先代旧事本記 [続きを読む]