Tomo さん プロフィール

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Tomoさん: Tomoの文藝エッセイ
ハンドル名Tomo さん
ブログタイトルTomoの文藝エッセイ
ブログURLhttps://ameblo.jp/tomolitessay/
サイト紹介文詩、俳句、小説、文藝全般についての随筆です。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供20回 / 158日(平均0.9回/週) - 参加 2018/01/31 15:24

Tomo さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • 野村喜和夫論⑤ー散文・詩での言葉の選択ー
  • 今回、今まで五月雨式に書いていた野村喜和夫論をひとつにしようと思った。というのは、彼は、現代詩界(もしあるなら)で良く発言し、良く『現代詩手帖』に評論を書いていることがわかったからだ。そして、本質的にわたしと考えるところと違いがあると思うので、それをまとめておこうと思った。私は、34年ぶりに手に取った『現代詩手帖』2011年7月号で、野村喜和夫氏の発言に驚いて、野村喜和夫氏の名前を知った。その時の巻頭座談 [続きを読む]
  • 野村喜和夫論④ー考えることと感じることー
  • 前回、『野村喜和夫論③ー知性と感性ー』で、私はつぎのように書いた。「私は、野村喜和夫氏の言葉との関係は、もともと素直な感性によるものであり、それは今も変わらないと思う、『ZOLO』を読み返してそう強く思った。確信に近い。それを、野村喜和夫氏は、彼が考える「知性の言葉」に変えて行った。今回、散文詩のために変えきれなかったところが、長く残ってしまった。行分け詩なら、次の行でごまかせるが、散文詩でそれを行 [続きを読む]
  • 野村喜和夫論③ー知性と感性ー
  • 前回、野村喜和夫氏の『ZOLO』について書いていて、下のように終えた。そして、その思いは別のところへと拡がっている。「・・・・・・・今、私は、現代詩の次の道を決めて行くには、野村氏の場合は、下の詩の感性を大切にすることだと思う。その先がどう開けて行くかは不明だが。「こうして私たち、私とそのかたわれたち、互いに互いの影をうばうようにして、すすむ、ときに、かさなり合うことがあっても、朝のほそい高みで、誰 [続きを読む]
  • 野村喜和夫論②ー『ZOLO』に見る書き手ー
  • 前回、『野村喜和夫論①』で私は、『速度の虜』と『他者の泉8』についてこう書いた・・・・・・私が、疑問に思ったのは、「欲望のままに、少女の尿を浴びていると、顔は、尿とともに、押し流されてしまう」ということは、その前の14行の言葉を必要とするほど、大切なテーマか、ということである。また『速度の虜』は五ページに渡る散文詩だが、「詩は速度への愛である」というテーマは、五ページの感情のこもらないホラー映画のよ [続きを読む]
  • 野村喜和夫論①ー詩人と言葉ー
  • 2013年1月に書いたものだ。誤字脱字、それとわかりづらいところに手を加えた。ーーーーーーーーーーーーーーーー前回、野村喜和夫氏の『ZOLO』を開いて、驚いたわたしは、次のように描いた。・・・・・・・・詩集名『ZOLO』。その仮面を取ると、人間は肉欲と死の悲しみといいたいのかもしれない。しかし、そのためには、詩を蹂躙しすぎているような気がする。つまり、言葉を強姦している、言葉に対する敬意がなくなっているのでは [続きを読む]
  • 野村喜和夫論(序)ー言葉の回りの詩人の位置ー
  • 5年前に書いたが、手は加えなかった。ーーーーーーーーーーーーーーーー現代詩は何の回りを回っているのか。ここ半年、現代詩については、そのことだけを考えていた。言葉のどこを詩人は歩んでいるのか? 昔、1979年までは、中原中也から荒地派、その後の現代詩の詩人の作品を楽しく読み、楽しく書いていた。吉本隆明、大岡信、北川透、清岡卓行、吉岡実、たくさんの詩人の作品を楽しんでいた。私が参加していた同人誌が三誌、詩 [続きを読む]
  • 野村喜和夫氏『現代詩詩作マニュアル』について−現代詩の立つ位置−
  • 現代詩はどこに立っているか?最近、現代詩として評価されている詩人の詩を読み、詩の批評を読んでいて感じたことは、現代詩の立っている場所を詩人たちが明確に言えなくなっているのではないか、ということだ。三十年ぶりに詩を読み始め、詩の評論を新たに開いた人間が何を言うか!とお怒りになる詩人の方がいらっしゃるだろう。万が一、このブログをお読みいただいて、お怒りになられたなら、本気でご連絡頂きたいとおもってい [続きを読む]
  • 村上春樹の世界②
  • 村上春樹について少し書くために、長編短編小説を読み直し、エッセイをできるだけたくさん読んだ。村上春樹にとっての作品を書き発表することの感覚が、どこかでわたしの中でひとつにならず、また彼のカタロニアやエルサレムでのスピーチとその後の作品がどうしても繋がらないために村上春樹というひとりの人間、作家について意味のない不安を感じるところがあったので、その不安を自分なりに明らかにしたいと感じたからである。こ [続きを読む]
  • 村上春樹の世界⑦騎士団長殺し(続)
  • 前回『騎士団長殺し』について感じるところを書いて、そのあと何か書き残しているという感じが残り、なぜか落ち着かなかった。今回はそのことだけを考えてみたい。それは、「村上春樹が変わった」と書いたが何が変わったのか明確に書くところまで行かなかったことだ。前回次のように書いた。ーーーーー「イデアである騎士団長が主人公に自分を殺せという時、こう語っている。ーーーー「・・・諸君は今ここで邪悪なる父を殺すのだ。 [続きを読む]
  • 村上春樹の世界⑥騎士団長殺し
  • 村上春樹は何かを変えたく思っている、あるいは何かが彼のなかで変わって今回『騎士団長殺し』を書き、発表したと感じられてならない。そのことがもう一度村上春樹について考えようと思った理由である。2017年2月25日に発売されたが、それまでの多分すべての作品を読んで、もう村上春樹の作品は読まなくてもいいかな、つまり、もう新しい変化はないだろうなと思っていたのである。『騎士団長殺し』は130万部は売れたというが、さほ [続きを読む]
  • カズオ・イシグロの世界⑤愛のさみしさ
  • カズオ・イシグロが2015年に発表した長編小説が『忘れられた巨人』である。5世紀頃、サクソン人がブリテン島に住み始めた時代のひと組の老夫婦が中心となるものがたりである。ブリトン人のアーサー王が、サクソン人とブリトン人の間の殺戮の争いの後勝利し、それぞれに憎しみが残っているにしても戦いを終わらせて平和をもたらして死んだ。その後、いつでもふたつの民族の間で争いが再発しかねない状態のブリテン島が舞台である。 [続きを読む]
  • カズオ・イシグロの世界④愛のかなしさ
  • カズオ・イシグロは『わたしたちが孤児だったころ』の後、2005年に『わたしを離さないで』、2009年に短編集『夜想曲集』、2015年に『忘れられた巨人』と長編小説は五年から十年の期間をかけて書き上げて発表している。『わたしを離さないで』は過去のある時代(1950年代から1970年代とされている)に、クローン人間が臓器提供のために作られ、社会から隔離されて共同生活をおくり、ある年齢になると臓器提供のために施設に移され、命 [続きを読む]
  • カズオ・イシグロの世界③個と外の境界の消滅
  • 前回取り上げた『日の名残り』では主人公スティーブンスは限られた狭い世界に関わることを誇りにし、歳をとってからそれはそれで良かったのだと自分に言い聞かせた。『わたしたちが孤児だったころ』では、主人公クリストファー・バンクスは10歳で孤児になる。戦前の上海の租界に住んでいたが、貿易会社勤めの父親とイギリスのアヘン貿易に反対運動をしていた母親が相次いで行方不明になる。クリストファーはイギリスに戻り、学校を [続きを読む]
  • カズオ・イシグロの世界②個と個の外
  • 前回、『遠い山なみの光』『浮世の画家』から感じるところを書いた。作者カズオ・イシグロは戦後にこだわり、そこに生活する人びとのかなしみ、人生を振り返る時のズレがおこること、個人の思いと全く違うところで社会は善悪を判断しているということをこまかく描いていたのではないか。それがわたしが感じたことである。 日本をその書く対象から外し、イギリスを書いたのが『日の名残り』である。『遠い山なみの光』で王立文学 [続きを読む]
  • カズオ・イシグロの世界①ひとの生きる姿
  • カズオ・イシグロの作品は、『遠い山なみの光』『浮世の画家』『日の名残り』『充たされざる者』『わたしたちが孤児だったころ』『わたしを離さないで』『夜想曲集』『忘れられた巨人』が日本語訳で出版されている。ノーベル賞受賞前に処女長編と最新長編以外は読んでいたが、ノーベル賞受賞によって、この二冊は手に入るまで三週間待たなければならなかった。近くの書店の最も入り口に近い平台が木の板を見せている状態だった。他 [続きを読む]
  • カズオ・イシグロの世界・付録ーインタビューより
  • 私は今回の物語では、社会における記憶だけでなく、個人のレベルにおける記憶についても書いています。例えば、夫婦の間における記憶ということについて非常に関心があったからです。愛というものの本当の大切さは何なのか。それは何に基づくものなのか。同じ思い出をシェアしていることに基づくものなのか。死に直面したら愛はどうなるのか。死を乗りこえるだけの強いものなのか。そういうことも記憶を使って考えたかった。へール [続きを読む]
  • 村上春樹の世界⑤
  • これまで村上春樹の小説から考えられることを書いてきた。今回はエッセイ、ノンフィクション、対談、ホームページでの読者とのやりとりから、考えてみようと思う。日本だけでなく世界で多くの読者をもつ作家、村上春樹が考えている「書くことの意味」についてである。「小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている、『小説家とは、多くを観察し、わずかにしか判断を観察を下さないことを生業と [続きを読む]
  • 村上春樹の世界④
  • 前回、次のように書いたーーーー村上春樹、彼の『良い物語』とは?考えながら、もしかすると、彼は現実の世界を描くことでは、あるいはリアリズムでは『良い物語』を書くことは難しいと感じているのではないだろうかと感じられてきた。すると、彼が『良い物語』の典型と考えているドストエフスキーのリアリズムまで彼はいつか戻るのかもしれない。ひとりの人物の中にひとつの世界、悪と正義の両方を描くことができるようになる時が [続きを読む]
  • 村上春樹の世界③
  • 村上春樹の小説を読み終え、先に「村上春樹の世界について」を書いた。そのあと、わたしの喉や胸でむずむずするものが残った。それは、彼が使う「良い物語」という言葉である。対談や随筆でも、「悪い物語」に対抗するには「良い物語」が必要であると何度も語り、書いている。この時の「悪い物語」とは『アンダーグランド』で彼が感じたオーム真理教のもつ物語の強さであり、その悪のことである。彼は、それを受け入れ許容する噐が [続きを読む]
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