暗闇検校の埼玉県の城館跡 さん プロフィール

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暗闇検校の埼玉県の城館跡さん: 暗闇検校の埼玉県の城館跡
ハンドル名暗闇検校の埼玉県の城館跡 さん
ブログタイトル暗闇検校の埼玉県の城館跡
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/kurayamikengyou
サイト紹介文このブログは、主に私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話します。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供115回 / 91日(平均8.8回/週) - 参加 2018/02/27 22:14

暗闇検校の埼玉県の城館跡 さんのブログ記事

  • 新開氏館跡 1985年(深谷市)
  • 新開氏は平安期から鎌倉期、深谷市北部の小山川と利根川にはさまれた新戒地区に居住していた豪族で、新羅系渡来人秦氏の系譜に属するとされています。室町期には、細川氏に従って四国の徳島の阿南市にある牛岐城に入り、長曾我部氏に滅ぼされるまで続いたと言います。私がここを訪ねたのは1985年秋で、学校帰りに回り込んだので、こんな真っ暗な有様になってしまいました。新開氏館は、地元では男寺、女寺と呼ばれている東側の東雲 [続きを読む]
  • 東松山市東平付近
  • 東松山東平付近は、北に冑山古墳、西には山田城、山崎城を抱える、国営武蔵丘陵森林公園、地域内にも多くの遺跡が確認されている古代から開けた地域です。近年では開発が進み、風景がコロコロと変化するため、数年ぶりにひょっこりと出かけると、場所と記憶が合いません。この日も、ある遺跡見学を目的に冬の寒風の中をほっつき歩いたのですが、以前は無かった農場ができたり、砂利道が舗装されていて、自分の現在地が全く分からな [続きを読む]
  • 吉見百穴 (2017.07.25)
  • そろそろ、紹介する城跡や史跡のデータも尽きて参りました。それでも、冬休みの約1か月の間に、約3か月分の調査データ、過去データを確保できたのは自分でも驚いております。夏の休みの帰郷のときには、城郭調査・探訪に加えて、すこし切り口を変えた調査を考えたいと思います。吉見町の百穴と言えば全国的にも有名なので、今さらという感じもありますが、松山城が近いせいもあり、結構よく訪ねる史跡です。今年の1月にも、松山 [続きを読む]
  • 池上遺跡 1982年(熊谷市)
  • 池上遺跡は国道17号バイパス建設工事の際に発見された遺跡で、新聞紙上に記事が掲載されたため、当時、中学生だった私も、勇んで見に行きました。場所は成田氏館跡に近く、地固めの土がどんどん吸い込まれてしまうほどの底の深い低湿地帯でした。現場はすでに発掘作業が完了していたようで、事務所のプレハブも遺物や遺構を守るブルーシートなど発掘現場に付き物のものは、全くありませんでした。ここは、もうすぐ埋められてしまう [続きを読む]
  • 大串次郎館跡 1986年(川島町)
  • 大串次郎館跡は、源義経麾下として源義仲追討に従い、後年、奥州藤原征伐にも参加して、軍功を上げるなどした猛将大串次郎の居館と伝えられています。たしかこの時は、6月頃だったと思います。現在ほど、気温が高くなかった当時ですが、湿気が強くて、蒸し暑く、実家のある熊谷から自転車で川島町までの道のりは平たんな道がだらだら続いているため、吉見町内を通過する農道で、さすがに飽きてしまい閉口したのを覚えています。館 [続きを読む]
  • 曲田城 1985年(深谷市)
  • 曲田城(まがったじょう)は、上杉氏家臣の岡谷加賀守香丹の居城でした。先日、大沼弾正忠館跡とそれほど離れていない、深谷市街地の北のはずれにある水田地帯にありました。当時、鳥よけのアセチレン砲がなり続けているような場所でした。私がここを訪ねたのは、秋、高校の帰りに自転車で回り込んだのでした。もちろん、着いたのは夕方で、水田に長方形の大きな堀があって、この農業用水路なのか水堀なのかわからぬものを眺めなが [続きを読む]
  • 大蔵館 1986年(嵐山町)
  • 嵐山町一帯は、菅谷館をはじめとした武蔵武士にかかる史跡がたくさんあります。大蔵館は源義賢の館跡であり、源義仲の生地でもあります。私自身、1985年前後に何度か訪問していますが、うっそうとした森に囲まれており、当時のカメラ性能もあいまって、これと言った写真がとれません。この写真は、夕闇の中撮影したもので、なぜこの時間帯に・・・と思わず首をかしげてしまいます。別の写真に、私の両親も写っていたので、おそらく [続きを読む]
  • 上岡観音 1982年(東松山市)
  • 上岡観音は、「上岡の馬頭観音」として知られています。上岡観音は、以前は随分栄えたお寺で、上岡観音の前を通過している県道407号線は、上岡観音前で大きく拡幅されており、門前町の名残があります。2月19日の絵馬市が有名で、わたしも3〜5歳くらいのとき、両親に連れて行ってもらったのですが、あまりにも人手が多くて混雑していたため、現場で車から降ろしてもらえず、代わりに、縁日の夜店で操り人形を買ってもらったのを [続きを読む]
  • 黒岩横穴群 1982年(吉見町)
  • 黒岩横穴群は、吉見町の八丁湖湖岸にあります。黒岩横穴群は、正式には黒岩横穴墓群と言います。近年では、雑草が生い茂り、横穴群のある岩丘上の土砂が崩れ落ちてくるため、露出した穴が埋まってしまい、穴を観察するのは難しくなっております。私は中学生のころ、5月になると、自転車でこの横穴群を訪ねてきました。当時、大里、吉見の荒川沿いの水田地帯は、しばしば濃霧が発生し、この濃霧の中を走っていくのが、異世界的な味 [続きを読む]
  • 富田堀の内(男衾氏館跡)1985年 (寄居町)
  • 富田堀の内は、男衾野五郎重任の館跡と推測されています。県道254号に面した民家の背後にある山の斜面上にあります。富田堀の内前の御宅で話を伺ったところでは、この富田堀の内も、かつては土塁状のものがあったものの、訪問時はそれもはっきりしなくなっており、土壇状のものが残されるのみでした。ここも、滑川の水房館のように、かつては子供たちの遊び場だったそうですが、子どもが入らなくなってから、やぶになってしまい、 [続きを読む]
  • JR赤羽駅北口一番街シルクロード
  • 草むらしか映っていないような古い城郭の写真が続いたので、今日は息抜きに、町中の写真をアップします。赤羽駅を出て北口に1番街シルクロードというのがあります。シルクロードというよりもビールロードというか、チューハイロードというか、そういう場所なのですが、こういう風景がお好きな方はいらっしゃらないですかね。ここは入り口附近で、真昼間では、皆、店が閉まっています。ここに灯りがともるのは、5時過ぎでしょう。 [続きを読む]
  • 泉福寺館 1985年(滑川町)
  • 滑川町の泉福寺館は、三門館のある台地に対して、低地を挟んだ舌状の台地上にあります。斜面に対して直角に竪堀を切り、長方形にした江南台地上によく見られるタイプの陣城です。恐らく、泉福寺館は三門館と一対になって機能していたものではないかと推測します。この泉福寺館を訪ねたのは秋でした。三門館に行こうと思っていたのですが、勘違いをして向かい側の泉福寺のある台地に登ってしまったのです。たまたま登った場所に、館 [続きを読む]
  • 大沼弾正忠館跡 1985年(深谷市)
  • 深谷市にある西蔵寺は、大沼弾正忠館跡とされています。大沼氏は上杉氏の家臣と言われていますが、細かい事蹟は明らかになっていないそうです。深谷市役所(深谷城)の北にあり、それほど離れていません。1985年頃の深谷市北部の郊外地域は、利根川氾濫原であったため粘土が多産し、それを利用した瓦や土管の生産が盛んでした。西蔵寺周辺にも、天日干しされている瓦、土管が広範囲に並べられていました。深谷周辺の城館跡は、平日 [続きを読む]
  • 大河内金兵衛陣屋跡 1985年(寄居町)
  • 大河内金兵衛陣屋跡は、鉢形城近く、県道81号線沿いの南側、阿部豊後守陣屋跡の向い側辺りを山側に登っていきます。大河内金兵衛陣屋跡は、江戸初期に旧鉢形領支配のために代官大河内金兵衛が設置したと伝えられています。私の記憶では、この陣屋はなかなか見つからず、坂を何度も上り下りした記憶ばかりが残っていて、肝心の館跡の記憶が曖昧です。无動寺太郎館跡と記憶が混ざってしまい、思い出しても確定的なことが言えないのが [続きを読む]
  • 城原城 1984年(滑川町)
  • 城原城・・・「じょうはらじょう」と読むらしいのですが、ここは、わたしが、熊谷市外の「山城」に行った、初めての場所です。伊勢新九郎治重という、後北条氏を思わせるような人物の居城跡と伝えられています。実は、城原城については、完全に失念しておりまして、こういう記憶に関しては比較的長期間保存し続ける自信があったのですが、城原城については、記録メモを取っていなければまったく思い出せなかったはずです。ただ、記 [続きを読む]
  • 大堀 1984年(滑川町)
  • 埼玉県内には、当時の身分からはとても信じられないような、高貴な貴族や武士の館跡と伝えられるものがあります。九条兼実が住んだといわれる、大堀はその代表格でしょう。一種の「流され王伝説」、「貴種流離譚」のようなもので、実際に、九条兼実が住んだかについては疑わしいようですが。大堀のある辺りは、月輪という場所で、九条兼実が月輪殿と呼ばれたことにちなんでいるようです。大堀はうっそうとした森の中にあり、結構気 [続きを読む]
  • 幡羅太郎館跡 1985年(深谷市)
  • 幡羅太郎館跡は鎌倉期の館跡とされ、成田氏は幡羅氏の後裔と言われています。この1985年頃の私は、高校の帰りにそのまま城館跡巡りをしているようなアホだったので、残っている写真がおおむねうす暗いです。幡羅太郎館跡は、一般の農家の敷地になっており、高い土塁と深い空堀が残っている大きなものです。土塁はかなり立派なもので、大きな木の根が絡みついていました。限られた時間で何か所も廻ろうとしたせいで、細かいところを [続きを読む]
  • 羽尾堀の内 1984年
  • 羽尾堀の内は羽尾恒儀の居館跡と伝えられていますが、羽尾氏については詳しい文献・文書等が無く、詳細は不明です。ですが、東松山の青鳥城にも築城者として羽尾恒儀の伝承があるところから、羽尾氏の名は地元の有力豪族として知られていたのでしょう。羽尾堀の内は、羽尾神社境内にあります。羽尾神社の社殿裏に土塁・空堀遺構がありますが、一枚目の写真は何がなんだかよくわかりません。おそらく土塁をうつしたものだと思ういま [続きを読む]
  • 阿部鉄丸陣屋跡 1985年(寄居町)
  • 阿部鉄丸陣屋跡は、忍藩鉢形領の管理にために享保12年に置かれたものです。阿部鉄丸陣屋跡は寄居町立原地区にあり、鉢形城跡を通り越えて、間もなくだったので、比較的見つけやすかったのを覚えています。いまでも、忘れられないのが、陣屋跡には農家があり、わたしが訪ねていった日は何かのお祝い事があったらしく、庭に何台も自家用車が止められていて白いタイツを穿いた子供が、ピョンピョンとジャンプをしていて、にぎやかだっ [続きを読む]
  • 折原堀の内 1985年(寄居町)
  • 折原堀ノ内は、寄居町鉢形城の西の折原地区にあります。丹党織原氏の居館跡とされています。写真は、1985年頃のものですが、これでは何のことなのやら全く分かりません。恐らく奥の屋敷林らしいところに、遺構とされる水堀があったのかもしれませんが今となってはです。もう少し、よく見てまわればよかったと思います。実はこの写真については、記憶はあったものの、どこを撮影したのか自信を持てませんでしたが、、ネガフィルムの [続きを読む]
  • 松山城跡 1984年(吉見町)
  • 最近、大分手持ちのネタが尽きてきました。わたしは、現在、仕事の関係で埼玉県在住ではないので、城跡の探訪・調査は冬期と夏期の里帰り時になります。ちなみに勤務先地域の城郭には全く関心がありません。自分が、その地に本当に根付いていないためでしょう。今日は古い、資料の中から、松山城跡の写真を見つけ出しましたので、記事にしてみました。武州の名城松山城跡は吉見町の凝灰岩質左岸の丘の上にあります。南西側市野川対 [続きを読む]
  • 村岡九頭竜大権現石祠(熊谷市)
  • 村岡九頭竜大権現石祠は、荒川大橋の傍ら、村岡側にあります。この付近は、過去何度も荒川の水害に見舞われており、堤防が何重にもなっております。創建時期は不明だそうですが、現在の石祠は大正15年に再建されたものだそうです。この辺りは、以前、川砂利関係の会社があり、砂利を運ぶトラックが走り回っていたので、今でも砂っぽい感じがします。 [続きを読む]
  • 東城 1985年(旧妻沼町)
  • 旧妻沼町の東城は斎藤実盛の築城と伝えられており、福川岸の集落にあります。現在は、城跡域はやや荒廃が進んでいます。下の写真は、1985年頃のものです。夏場で樹が茂っているため、うす暗いのですが、それでも、人の出入りしている気配があります。八幡社の参拝者が減っている雰囲気が濃厚ですが、遺構は30年間よく保存され続けていると思います。(付記:南側から撮影したとして掲載した写真は、資料との照合の結果、妻沼町内に [続きを読む]
  • 少間池跡(熊谷市)
  • 水の神にも様々ありますが、この記事では少間池(さやまいけ)跡について、書きたいと思います。少間池跡は、熊谷市西部にある観音山の近くにあります。私が少間池を初めて見たのは、1983年頃だったと思います。当時は、水田の中にある水深30センチも無いような沼地で、周囲の10aほどではなかったかと思います。少間池は祭祀遺跡で、遊水地を神として祀ったものでした。現在の少間池は水田区画整理のために単なる整備された水田に [続きを読む]
  • 久下の渡し跡の九頭竜神石祠(熊谷市)
  • 荒川流域には多くの水の神にかかわる信仰の痕跡が残されています。久下氏館調査の傍ら、久下の渡し跡付近にある九頭竜神の石祠を見つけました。荒川は江戸初期の元荒川の締め切りによって、河川流路が統合され大河川化した後、水害が増加したと言われています。しかし、熊谷側の堤防は切れず、大里、吉見側に水害が集中し、しかも、上流の村が、下流の村落を犠牲にして、自村の水害を免れるため、意図的に堤防修繕を行なわないなど [続きを読む]