小川村風土記 さん プロフィール

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小川村風土記さん: 長門国風土記の小川村を読んでみた
ハンドル名小川村風土記 さん
ブログタイトル長門国風土記の小川村を読んでみた
ブログURLhttp://ogawamura.tyoshublog.com/
サイト紹介文江戸時代に書かれた、旧田万川町小川地区の様子がわかる古文書(防長風土注進案)を現代語訳しています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供47回 / 54日(平均6.1回/週) - 参加 2018/03/12 16:53

小川村風土記 さんのブログ記事

  • 田畑の面積と石高の計算
  • 中・下小川村の面積と設定石高は次のとおりです。田畑面積 424町1反6畝6歩(419.9 ha)石高 3,414石3斗4升1合(米換算でおよそ512.2 t)さて、中・下小川村では次の4箇所に年貢を納めています。1)中小川村御米蔵分2)下小川村御米蔵分3)繁澤主水知行所分4)渡辺丹波知行所分ちなみに3)と4)は萩藩永大家老(益田公)の家臣に与えられている領地です。(萩の殿様→益田公→家来)以下、1)〜4)を順番に見 [続きを読む]
  • ○気候、植え付けの時期
  • 山間部ではございますが、奥阿武郡御宰判では土地が低いうえに海辺も遠くないので、気候はほぼ暖かく冬の降雪もあまりありません。どんなに積もっても5〜6寸(15〜18 cm)を超えることはまれです。このため弥富、福田で雪が積もっている時でも上小川あたりからだんだん少なくなり、中・下小川ではよほど寒くない限りは雪が積もることはありません。植え付けの時期ですが、2月の春分に最も近い戌の日(社日)に籾種を箕でより分 [続きを読む]
  • 地形、土地の状態など
  • ○山川地形四方はすべて高い山に囲まれており、南西から北東にかけて里がある。このため中程を本郷という。村の中を本川筋が流れております。村内を10分とすれば2分8歩が田畑、7分2歩が山野でございます。○日当たりと土地の状態日当たりは良く、土地は中の上。同質の土が厚く層をなす厚地が4割、深さ10センチごとに土の質が変わる薄地が6割。麦田7に対して水田3と昔から伝わっております。(以下、小字ごとの状態を解説して [続きを読む]
  • 地名に関する代官所の考え
  • 御代官所の考えでは、相馬総二良というものの履歴などはまだ考証されていない。(注:相馬総二郎友信は津和野を支配した吉見家の家臣)鍋山長者というもののことはいささか憶測が入っているようだ。先に(他村で)述べた洞仙山の項で補足してある。三明という地名はおそらく屯倉(みやけ、古代の大和王権の直轄地)だろう。古来この小川村には駅があり、特に石見の隣であり北は海に近いということもあり、駅長や軍団も近くに置 [続きを読む]
  • 地名の由来
  • 足谷と申すのは、かつては葭(あし)原でございました。川から北は芦谷といい、川から西を葭原と申しておりましたが、後に今のように書き誤ったということでございます。いものやと申すのは、かつて鋳物師が住んでおりましたので地名になったということでございます。名崎と申しますこの場所は、酒屋が酒を造り始めたところ非常に良い酒で世間の評判も高かったので自然と地名(名酒=なざけ?)になりました。その後月日が経ち [続きを読む]
  • 中・上小川村の小名
  • 当時の中・上小川村の小字です。今は存在しないものもあるようです。海坂  人家あり     大山田 同 後山  同        細野  同 小松原 同        鍋山  同 土床  同        後境  同 上北山 同        平原  同 大歳迫 同        川井迫 同 下北山 同        岡   同 川井  同        水間  同 大浴  同        大 [続きを読む]
  • 村の広さなど
  • ここから中・下小川村になります。○村の広さ村内は東西2里10丁(9.0 km)、南北1里10丁(5.0 km)ほど。ただし東は石見国境の海坂砂ケ峠から西は上田万村境の小木尾山まで、南は上小川村境の百の山から北は石見国境の岩金山までおよその距離である。東西に広く、南北に狭い範囲でした。位置関係はこんな感じでしょうか。          石見国          ▲岩金山 上田万村               石見 [続きを読む]
  • 吉見阿波守墓
  • 前にも書いた平山村の木戸というところに田村左内という者の屋敷があり、抱(だき、屋根の谷間)の内に(この墓が)あります。高さ4尺(1.2 m)あまり、横幅2尺(0.6 m)の三角形で、中ほどの厚さが2寸(6 cm)くらいです。上下が細い石で礎石は埋もれて見えません。法名、俗名、年月日などはありません。石垣は横1丈(3.03 m)、入7尺(2.1 m)ぐらいで、中程に右の上記のような石墳がございます。往古より阿波守墓と伝わって [続きを読む]
  • 小平原古塚
  • 平山落城のときに討ち死にした者を埋葬した場所であると伝わっております。上の塚廻りは2間ほどで高さ1尺(およそ3.6 x 0.3 m)、中の塚廻りは4間(7.2 m)ほど、下の塚廻りは5間(9 m)ほどです。それぞれ1丁(110 m)ほどの間隔で並んでおり、石をかきあげて作った土塚でございます。 [続きを読む]
  • 鎌ケ山の城
  • 千疋村の南にあります。非常に高い山で面積はわかりません。険しい野山の頂上にやぐらの跡とおぼしきところがあります。ちなみに山上の平地は5町(5 ha)ほどでございます。この山の半分より少し上に田地があります。この田へ通う道は非常な難所でございます。昔はこのような険しい道の先に城があったように思えます。以前このあたりの山野で騒がしい音がすることがあり、里人もとても怖れて山に通うこともいたしませんでした [続きを読む]
  • 蕣(あさがお)の城
  • 一丸から五反畠、杉の原、立野の上まで続く山で、面積はおよそ50〜60町(0.5〜0.6 km2)もございます。一丸の上の山を甲(ツメ)の丸、立野の上は北の要害と申します。城主は吉見阿波守の嫡子の右馬之助だったとのことです。平山の城が1月に落城すると出家して善慶と名を改め、この城跡に一宇の寺を建立しました。これを蕣城台竹林山正福寺と言います。天台宗でありましたが乱世の時に廃寺となりました。現在の尊正寺の開基道 [続きを読む]
  • 平山星の城
  • 弥富村との境にあり、今は竹代山でございます。面積は15町2反9畝(15.1 ha)です。麓の平山村との間に木戸というところがあり、ここから頂上まで登ること10丁(1.1 km)ほどの山中に曲輪跡とおぼしき平地があります。山を廻って南谷というところは岩が切り立ち岸となっているような険しい場所でございます。城主は吉見阿波守でしたが、落城後は町野掃部介(かもんのすけ)隆風の居城になったと伝わっています。(欄外注:江戸 [続きを読む]
  • 上小川村の寺院
  • 上小川村には次の4つの寺院がありました。いずれも浄土真宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。・竹林山尊正寺(五反畠村、本山は萩瑞坊)・松林山光明寺(立野村、本山は萩瑞坊)・長水山西光寺(上野原村、京都西本願寺の直末)・霍林寺光請寺(上野原村、京都西本願寺の直末)○竹林山尊正寺益田刑部の知行所、畠高8斗5升(127.5 kg)を免除天正2年甲戌(1574) 河野五郎左衛門入道道円が開基寛永元甲子年(1624) 3代目寺 [続きを読む]
  • 武氏八幡宮に伝わるエピソード
  • 元禄3年(1690)8月21日、上小川村武氏山八幡宮では旧例の御祭礼が開かれ多くの人でにぎわっておりました。領主である益田家から津田仁右衛門、岩本惣左右衛門の2人が祭事奉行として派遣されていましたが、神輿を大庭に担ぎ出したところ内側に長さ1尺(30 cm)あまりの白蛇が突然現れました。人々はこれは不思議なことだと拝みながらそのまま神輿を進めていたところ、白蛇は急に大きくなって神輿を二重巻にしました。高貴な存 [続きを読む]
  • 武氏八幡宮
  • 武氏八幡宮は須佐の益田公の知行地。田にかかる税(米6斗=90 kg)は免除。神殿 桁行き2間1尺5寸、奥行き1間2尺2寸(4.1 x 2.5 m)、萱葺き釣屋 2間×1間半(3.6 x 2.7 m)、瓦葺き拝殿 2間×2間(3.6 x 3.6 m)、車寄せ横9尺2寸(3 m)、入5尺4寸(2 m)、唐破風付き、瓦葺き神楽殿 桁行き5間半、奥行き2間半(9.9 x 4.5 m)、萱葺き祭神 応神天皇、神功皇后、宗像三女神祭日 8月22日、23日22日は宵祭です。 [続きを読む]
  • 上小川村の神社
  • 上小川村には次の6つの神社がありました。・武氏八幡宮(上野原、豊前宇佐神宮から勧請)・宮内大明神(同上、伊勢から勧請)・長羅山恵比須神社(長羅村、芸州厳島から勧請)・冥利山八王子社(原中村)・祇園社(宇谷村)・石山土徳神(千疋村)最も歴史が古く規模も大きいのは武氏八幡宮です。他の神社は通り一遍のことが記載されているだけですが、武氏八幡宮ではさまざまなエピソードが語られています。以下、武氏八幡宮 [続きを読む]
  • 竹木、薬草、禽獣魚虫
  • ○竹木の部松、樫、椎、椿、楢、桜、合歓木(カウカイ)などがございますが、ようやく薪にできるほどで村内に残らず行き届いているとは申せません。竹は平山竹代には8寸(24 cm)廻り以下の分がございます。地元の山には無数あり、何とか使用分に足りております。○薬草の部半夏(ハンゲ)、麦門冬、忍冬(スイカズラ)、金銀花、本麻、独活、羌活(きょうかつ)、前胡(ぜんこ)、桔梗、香附子(こうぶし)、木通(アケビ)、 [続きを読む]
  • 農作物
  • 原文には詳しく書かれていますが、まとめると次のようになります。(単位は石)米 1,466米以外 1,251米以外の内訳雑穀 780 麦 550 粟 180 黍 30 稗 20蕎麦 190豆類 215 大豆 200(うち自家消費60) 小豆 15芋 66茄子 250荷ほど野菜は大根や蕪、茄子を作っていたようです。米は全体の半分強ですが、自分たちの口に入るのはもっと少なくなります。米以外では雑穀が6割強です。豆も作っていましたが、自家消費 [続きを読む]
  • 半紙の計算が合わない??
  • 前の記事で書いた半紙漉立ですが、計算が合わない気がします。筆者の勘違いがあるのでしょうか??生産量875丸(=3.5丸 x 250軒)に対し、消費量785丸4〆 上納紙265丸 給主買上374丸 残り146丸4〆(各戸配布41丸4〆少々+役所庄屋消費15丸+販売90丸)単純に計算すれば 生産量−消費量=90丸 となりますが、この90丸はこれはどこに行ってしまったのでしょう?原文には何も言及がありません・・・で、ふと思ったのですが [続きを読む]
  • 半紙
  • 半紙漉立875丸位紙屋は250軒。毎年春に100日間板を立てて押しならし、一船で3丸半の紙ができあがります。上納紙が265丸、御給主様の御買上げ紙が374丸、残りは146丸4〆。このうち紙布着料を1軒あたり4反とすれば306軒(本百姓+門男)で1,224反。1反2束(そく)織りとすれば41丸ほど(=各戸配布の総量)。地下役庄などの使い紙や障子紙を各軒3束ほど(に相当)とすれば15丸余り。残り90丸ほどを塩、醤油、綿、油などにするた [続きを読む]
  • 戸数、人口など
  • ○戸数309軒(本百姓213、門男93、社家3)門男は「もうど」と読み、自分の耕作地がない小作百姓です。○人口など人口1,072人(内訳とあわない気がするのですが・・・)給領百姓 男548人、女502人僧9人、俗女7人、社人男6人、女5人うち地下役人12人職人札8(大工5、木挽1、桶屋1)商人札 記載なし益田公御家来衆(在宅藩士)130人雑戸7軒○家畜牛207疋、馬2疋(駅馬なし) [続きを読む]
  • 河川、橋、井出、溝など
  • ○本河鈴野川村、弥富の河内、福田村新田の奥八幡原の麓などから流れ出し、弥富村と鈴野川村の境から中小川村との境まで村内18丁(2 km)、川幅25間(45 m)で、下流は上田万村を過ぎて下田万村の湊で海に入ります。村内に船の往来はありません。○支流西川、千疋川、道切川、一丸川、広津川、宇谷川の6本。千疋川、道切川、一丸川、広津川、宇谷川がそれぞれ西川に流れ込み、西川から本河に入ります。原文には詳しく記載され [続きを読む]
  • 山関係
  • ○領主預かりの山(御給主様御預かり山)平山と鱈ノ木山の2か所がありました。面積15町5反2畝(15.4 ha)に対して立銀(課税額)78匁8分5厘(約10万円)原文には内訳も出ていますが、ここでは省略します。○合壁山合壁山は「がっぺきやま」と読みます。領民の私有林です。面積は319町7反(316.5 ha)で、立銀は686匁5分9厘(約86万円)です。○山野「さんや」と読み、村内の入会地です。村内の8分6歩(86%)が山林で、このうち [続きを読む]
  • 交通
  • ここでは交通に関する項目をひとまとめにしました。○高札場上野原に1か所あり、捨馬、御制札、駄賃定め用の札かけが付いています。大きさは横6尺(1.8 m)で、3尺(90 cm)ほど中に入っています。木製の井形の垣があり、屋根は板葺きです。こんな感じだったのでしょうか。○一里塚千疋に1か所ありました。次の文字が入っていたようです。石見境の土床より2里(7.9 km)赤間関より27里12丁(107 km)赤間関には長門の国府があ [続きを読む]