お城 さん プロフィール

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お城さん: 百名城・城跡の探索ブログ
ハンドル名お城 さん
ブログタイトル百名城・城跡の探索ブログ
ブログURLhttp://trip-navi.jp/oshiro/
サイト紹介文城や城跡に関する情報サイトです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供34回 / 68日(平均3.5回/週) - 参加 2018/04/01 10:28

お城 さんのブログ記事

  • 足利学校
  • 足利学校は、鑁阿寺の南側向かいにあるので足利氏館を訪ねたら是非ついでに立ち寄ってみてはどうでしょうか?足利学校は日本最古の学校と言われていて、開校時期は諸説ありますが最古の説は平安時代が開校時期ということです。「学校」と書かれた額が付いた門は日本で唯一だそうです。孔子廟です。江戸時代までは学問と言えば、儒教や朱子学がメインだったようです。衆寮と呼ばれる建物です。学生が寄宿したり、遠くから通う学生が [続きを読む]
  • 笠間城 八幡台櫓・下屋敷跡
  • 笠間城跡のある佐白山の西側のふもとに城主の下屋敷があったようです。時鐘です。笠間藩があった頃には、城下に時間を知らせる役割をしていたようです。明治に入り城が破却されたときに一旦、近くの寺院に移築されていたのですが今世紀に入って、再び下屋敷跡に再移築されています。笠間城跡へとつながる山道です。千人武者溜まり駐車場から笠間城跡に向かうより倍以上の距離を歩く必要がありますので、車で行くなら千人武者溜まり [続きを読む]
  • 弘道館
  • 弘道館とは江戸後期に第9代水戸藩主の徳川斉昭によって作られた水戸藩の藩校で水戸城の三の丸にありました。国の重要文化財に指定されている正庁・至善堂です。正庁の脇には対試場と呼ばれる武道などの試験場があります。正庁内にある第15代将軍徳川慶喜が使用した長持ちです。徳川慶喜は水戸藩出身で、弘道館で幼少期に学んでいます。弘道館への入場は有料で200円です。入り口付近に券売所があります。ここには、水戸城の百名城ス [続きを読む]
  • 笠間城跡
  • 笠間城は続百名城の112番の城跡で茨城県笠間市にあります。13世紀初頭に、笠間時頼が築城し、その後城主は明治時代まで目まぐるしく変わりましたが、江戸時代は笠間藩の政庁として機能していましたが、明治に入り廃城となり天守閣や櫓などは破却されました。千人武者溜りと呼ばれた曲輪跡が駐車場となっているのでここから城跡に向かいます。駐車場奥から、進んでいくとすぐに大手門跡に到着します。門跡の遺構は石垣が若干残って [続きを読む]
  • 足利氏館
  • 百名城15番の足利氏館跡は栃木県足利市にあります。源八幡太郎義家の四男の足利義国が平安時代末期に築きました。足利義国を祖として、足利氏と新田氏に分かれていきます。二百数十年後の南北朝時代には、同祖である足利氏と新田氏は激しく戦い、新田氏は没落しました。現在は、国指定史跡の鑁阿寺で、足利氏の氏寺です。付近には、南にすぐのところに、日本最古の学校である足利学校があります。足利氏館 スタンプ百名城のスタン [続きを読む]
  • 水戸城跡
  • 水戸城は百名城14番目の城で茨城県水戸市にあります。馬場資幹が鎌倉時代初期に築城しています。佐竹氏が本拠とするまでは馬場城と呼ばれていたようです。城域は徐々に拡大して江戸期の徳川御三家の水戸徳川家が城主だった頃に最大になっています。2019年9月完成予定で二ノ丸の大手門の復元工事が行われています。上の写真は大手門が復元される場所です。水戸城 スタンプ水戸城の百名城のスタンプは三の丸の弘道館の入場券販売所に [続きを読む]
  • 乾門
  • 乾門は皇居の北西に位置することから名づけられた門で江戸期には上覧所があった場所です。明治に入り、西の丸の裏門である紅葉山下門がここに移築され乾門と呼ばれるようになりました。上覧所とは、旗本らが日ごろの武芸鍛錬の成果を将軍に披露したり「天下祭」と呼ばれた山王社や神田明神の祭礼行列が立ち寄る場所でした。桜の季節や紅葉の季節に行われる乾通一般公開は、坂下門から皇居に入り、ここ乾門か西桔橋門跡から出ます。 [続きを読む]
  • 半蔵門
  • 半蔵門は「こうじまちぐち」とも呼ばれていたようで紅葉山が吹上庭園につながる門でした。四谷とともに甲州街道の要衝として機能していました。現在は、皇居の通用門として使用されています。高麗門と渡櫓門の二重構造でしたが、明治期に渡櫓は撤去されて、現在は高麗門のみになっています。深くて広い半蔵濠と桜田濠にかかる門で徳川家康が江戸に入ってすぐのころに服部半蔵とその家臣がこの付近に屋敷を構えていたので名前がつい [続きを読む]
  • 出世稲荷神社
  • 出世稲荷神社は埼玉県川越市にあります。東京や京都にある出世稲荷神社の方が有名なようですが川越の出世稲荷神社は「いちょう稲荷神社」とも呼ばれているように大きなイチョウが2本並んでそびえたっています。出世稲荷神社へのアクセスは川越駅を北へ徒歩10分ほどです。出世稲荷神社の社殿です。社務所がなく、無人の神社のため御朱印は頂けないようです。追記です。出世稲荷神社のランドマークである2本のイチョウの木が葉っぱや [続きを読む]
  • 北の丸
  • 北の丸は現在は北の丸公園として開放されています。公園内には日本武道館、科学技術館などがあります。北の丸は家康が築城した当時は、ただの竹やぶだったようですが、家光の頃に造営されました。江戸初期は、大奥の女中の屋敷でしたが、八代将軍吉宗が三卿を置いた時から三卿の田安家と清水家の屋敷地となりました。明治から昭和初期は近衛連隊の駐屯地として使用されています。日本武道館です。武道館といいますがここで武道を見 [続きを読む]
  • 田安門
  • 田安門は北の丸の北端にある門で、高麗門と渡櫓門の二重構造の枡形門です。北の丸造営前に、田安門付近に田安大明神があっため名づけられました。昭和36年に国の重要文化財に指定されています。田安門をくぐるとすぐに日本武道館があります。北の丸は、三卿の田安徳川家と清水徳川家が東西を二分して所有していました。それぞれの家名も門の名前が由来です。渡り櫓門の南側階段があり昇っていくと弥生慰霊堂があります。枡形の中か [続きを読む]
  • 清水門
  • 江戸城の北の丸の北東部にある門が清水門です。北の丸を造営する前に清水門付近に清水寺があったために名づけられたそうです。高麗門と渡櫓門の二重構造の枡形門で、高い防御力を持っています。堀の外からの高麗門です。門が固定されているので、開門時間や閉門時間は特にないようでいつでも通れるようです。枡形の内部です。北の丸は三卿家の清水家と田安家が東西二分して所有していました。清水家の名前の由来は清水門からきてい [続きを読む]
  • 江戸城本丸跡
  • 江戸城の本丸跡には、本丸御殿と呼ばれた建物が一面に建てられていました。現在は、広場になっていて名残もほとんどありません。当時の遺構は富士見多門櫓や本丸の南の端にある富士見櫓が残っています。本丸跡に展望台なるものがあり、上の写真が入り口です。江戸末期の本丸御殿の火災で延焼し焼失した台所前櫓があった場所が展望台となっています。見晴らしも良く、あまり人の来ないのでボーっとするにはおススメです。展望台から [続きを読む]
  • 平川門
  • 平川門は江戸城の北側の門で、枡形の高麗門と櫓門の二重構造の堅牢な防御施設です。平川門の名前の由来はこの辺りに上平川村・下平川村があったことからその名前が付いたようです。大手門が正面玄関で、平川門が勝手口のような役割で奥女中が出入りするのに使用したとされています。また、不浄門とも呼ばれ、城内で死者が出た際は平川門から城外に出されたようです。平川橋を渡ると高麗門があり皇居内に入るにはここで手荷物検査を [続きを読む]
  • 稲付城跡
  • 稲付城は、東京都北区の静勝寺付近にあったとされる城郭です。武蔵野台地の舌状の崖の突端を利用して築かれました。扇谷上杉氏の家宰 太田道灌が江戸城と岩槻城をつなぐ拠点として築城されたといわれています。静昌寺境内には、太田道灌の座像を安置する御堂があり、毎月26日はその姿が公開されるそうです。 [続きを読む]
  • 平塚城跡
  • 平塚城は、東京都北区のJR京浜東北線の上中里駅そばにある平塚神社付近にあったとされています。源義家が後三年の役で奥州からの帰路に平塚城に立ち寄ったとされます。秩父平氏の流れをくむ、豊島氏が城主でしたが、長尾景春の乱の時に石神井城に続き、この平塚城も太田道灌の攻撃により落城しています。現在の平塚神社には城跡の遺構などは特にありません。拝殿は台地の先端部に建っていて、背後の上中里駅側から見ると崖の上に位 [続きを読む]
  • 金山城
  • 金山城は日本百名城の17番目の城で群馬県太田市にあります。新田一族の岩松家純が1469年に築城し、その後に岩松氏の重臣であった由良成繁に下剋上により城主が変わり、北条氏の支配下となりました。上杉謙信や武田勝頼からの攻撃を退けている堅固な城郭でした。1590年の豊年秀吉の小田原征伐で落城後、廃城になりました。金山城跡は廃城後は草木が茂り石垣なども埋もれていましたが平成7年から復元工事が始まり、石垣や池が姿を現 [続きを読む]
  • 旧下田邸書院・庭園
  • 箕輪城跡のスタンプ設置場所の箕郷支所の隣にある旧下田邸書院・庭園です。箕郷支所は、高崎市と合併前は箕郷町役場だった場所です。平成の大合併で2006年に多野郡新町、群馬郡群馬町・倉渕村と一緒に高崎市に編入されています。箕郷支所の同一の敷地内に旧下田邸は、武田氏に滅ぼされた長野氏の重臣の下田正勝の子孫が主家滅亡後に築いた屋敷です。地域の有力者であった下田家は江戸時代には代官に任じられていました。庭園は、赤 [続きを読む]
  • 郭馬出西虎口門
  • 二ノ丸南の郭馬出の虎口門が平成28年11月に復元工事が完了し公開されています。箕輪城主の井伊直政が高崎城に移転する前に建てられているので16世紀中に造られた門跡では関東最大級の規模です。馬出側からの画像です。木俣と呼ばれる曲輪からの写真です。木俣とは、家臣団の居住地だったと言われています。 [続きを読む]
  • 寿能城跡
  • 寿能城は、扇谷上杉氏の家宰 太田道灌の末裔である潮田資忠が築城し居城とした城郭です。築城は1560年頃で、大宮北高校から大宮第二公園まで広がる広大な城域でした。現在は宅地化が進んで、堀などの遺構はほとんど消滅しています。1590年の豊臣秀吉の北条征伐時に、浅野長政勢に攻められて落城しています。寿能城の本丸があったとされる寿能公園です。寿能公園内には城主の潮田資忠の墓があり、これが物見櫓跡と言われています。 [続きを読む]
  • 箕輪城跡
  • 箕輪城は15世紀末頃に長野氏によって築城されました。長野氏の業尚、憲業、業政、業盛の4代が本拠としていたようです。武田氏による上野侵攻に箕輪城を拠点として最後まで抵抗しましたが1566年に落城しました。その後は、武田氏、織田氏、北条氏と次々と主が変わり徳川家康の関東移封時に井伊直政が城主となりました。1598年に井伊直政は高崎城に移転し、箕輪城は廃城となりました。二の丸の郭馬出西虎口門です。平成28年11月に復 [続きを読む]
  • 八王子城本丸跡
  • 八王子城の本丸跡へは駐車場付近から40分くらい山道を登っていきます。標高460mに本丸跡があるので足腰に自身がないなら止めた方がいいです。駐車場奥にある八王子城の要害地区への入り口です。北条氏照の重臣 金子家重が守っていたと言われる金子丸です。尾根をひな壇状にした防御拠点だったようです。ここまでは麓から10分くらいです。八王子神社です。脇にある階段を昇っていくと本丸跡へ行けます。松木曲輪からの眺望です。中 [続きを読む]
  • 御主殿跡
  • 御主殿は、八王子城の麓にある城主の北条氏照の居住区や政務を行う施設があったとされています。石垣と土塁で囲まれた防御施設で、周辺にあるアシダ曲輪などと組み合わせて防御力を高めていました。虎口と呼ばれる御主殿の入り口は高低差が9mある「コ」の字になっています。御主殿と呼ばれる曲輪には、城主の北条氏照の居館があり主殿と呼ばれる政務を執り行った建物や会所と呼ばれた宴会場などの建物などが建ち並んでいたようです [続きを読む]
  • 中ノ門堀跡
  • 川越城の堀や土塁は、市街地開発でほとんど消失している中で中ノ門付近の堀は保存工事されて、公開されています。太田道灌が築城した城域は本丸と二の丸くらいでしたが1639年に川越藩主となった松平信綱は川越城を大規模な増築し、中ノ門もその時に造営されました。中ノ門は、3本の堀と二階建ての櫓門を組み合わせた堅牢な防御施設でした。 [続きを読む]
  • 八王子城
  • 八王子城は、北条氏の北条氏照が1571年に築城し、1587年頃にそれまでの本拠地である滝山城の防御に限界を感じて移転し、改築増強しました。八王子城の名前は、この山に牛頭天王と8人の王子が現れたとして八王子権現を祀ったことから八王子城と名付けられ、現在の市名にもなっています。1590年の豊臣秀吉の北条征伐で北方隊の前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの攻撃を6月23日に受けわずか1日の戦いで落城しました。落城の際には、北 [続きを読む]