ヒストリスト1976 さん プロフィール

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ヒストリスト1976さん: 「知りたいこと」を調べるブログ
ハンドル名ヒストリスト1976 さん
ブログタイトル「知りたいこと」を調べるブログ
ブログURLhttps://historist.org/
サイト紹介文趣味の歴史や、エンタメ、日々の生活について知りたいことを調べて発信していくブログ。中国史。戦国時代
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供58回 / 223日(平均1.8回/週) - 参加 2018/04/01 17:56

ヒストリスト1976 さんのブログ記事

  • 隠れた(?)名スポット、鎌倉国宝館。仏像好きにはたまらない施設
  • たくさんの観光客。その影に隠れて・・・日本でも有数の観光地鎌倉。その象徴とも言うべき鶴岡八幡宮の敷地内にそれはあります。観光の中心となる八幡宮や、入り口からそこに向かうルートには、たくさんの人がごった返しています。その人の流れをはずれたところに、鎌倉国宝館はあります。賑わう八幡宮のあたりとは対象的に、ぽつりぽつりと人がいる程度の静かさです。素晴らしい展示物の数々しかし、「国宝館」の名前の通り、建物 [続きを読む]
  • 「跡形もない城跡」〜遺構がほとんどない地味な城たち〜 沼津城
  • 私は旅行や仕事などで、地方に行ったとき、そのゆく先々で城があった場所を訪ねています。それは立派な天守閣や石垣などが残っている城跡もあれば、山城で土塁や縄張りがはっきりわかるような城もあります。しかしそのような城以外で、「ここに城があったのだけど、今は市街地に埋もれて跡形もない城跡」を巡るのも好きです。いや、ほんと城があった痕跡は何もないのですが、そこに城があったと想像するだけでも楽しいのです。そん [続きを読む]
  • 佐賀の城を攻める 〜唐津城と名護屋城〜② そして名護屋城
  • 唐津城を攻めたあとは、車で名護屋城に向かいました。名護屋城は唐津市内にあります。ただ、唐津の中心地からは、車で30分ほど西北に走ったところにあります。名護屋城は私が近年で一番行ってみたいと思っていた城なので、念願叶い、だいぶテンション高く攻め入りました。肥前名護屋城名護屋城は、当然のごとく愛知県の名古屋城とは別物です。しかし、その規模は天下人の城として愛知の名古屋城に劣らないものがあります。元々は [続きを読む]
  • 佐賀の城を攻める 〜唐津城と名護屋城〜① まずは唐津城
  • 今年の夏休みは、九州に行きました。佐賀県唐津市の2城を攻めましたので、それについて書きたいと思います。佐賀市内にある佐賀城は以前行ったので、今回は行きませんでした。今回は唐津市の市街にある唐津城と、郊外にある名護屋城を回りました。とくに名護屋城は以前から一度は行ってみたい城でしたので、非常にテンションが上がりました。唐津市唐津市は佐賀県の北西部にあり、玄界灘に開けた市です。福岡市とも糸島半島経由で [続きを読む]
  • 毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程④ 〜安芸国人領主の盟主に〜
  • 大内方復帰後の元就の活躍尼子方から大内方へ復帰した元就は、まず広島湾付近での武田氏との戦いに大内氏方とし参戦し、勝利に貢献します。さらに志和米山城(東広島市)の尼子方国人領主である天野氏攻めにも参戦し、和平仲介の調整を行い天野氏を大内方に引き込むことに成功します。大永7年(1527年)に、不利に傾く安芸情勢を挽回するため尼子経久が備後に出陣してきます。ここでも元就は陶興房たちと、和智郷で尼子軍を迎 [続きを読む]
  • 毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程② 〜元就が家督を継ぐまで〜
  • 甥、幸松丸の後見としての元就の動き元就が幸松丸の後見となったころの安芸・備後は、多くの国人領主がそれぞれの所領を治める状態でした。国人領主は、自分の所有する土地は完全に自治しており、服属する大勢力が戦をするときには自らの兵力を率いて参戦していました。毛利氏もその国人領主たちの一つとして、隣国を治める大内氏と尼子氏という巨大勢力の圧力に左右されながら、生き残りをはかる立場でした。幸松丸後見時の安芸の [続きを読む]
  • 毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程①
  • 毛利元就と言えば、安芸の国(今の広島県の西半分)から出発し中国地方のほぼ全体を制圧した戦国大名として知られていますが、その過程のはじまりは安芸・備後(2国あわせて今の広島県全体)を支配下に置いたことからはじまります。のちの中国地方における毛利氏の覇権の基礎となった、毛利元就の安芸・備後への支配力を扶植する過程を見ていきたいと思います。毛利元就が生まれるまでの毛利氏毛利氏の先祖は、源頼朝の参謀の役割 [続きを読む]
  • 五胡十六国時代の覇権国家、後趙を描く④ 後趙の滅亡
  • 石勒死後の後継争い石勒が331年7月に病死したあと、息子の石弘が即位します。しかし、石弘は生来おとなしい性格であったらしく、石勒の華北制覇に大きく貢献した石虎に頭が上がりませんでした。石虎は自身の軍事力をベースに石弘を廃立し、334年11月に居摂趙天王の地位に就き実権を握ります。そして335年9月には自身の本拠である鄴に遷都し、337年に大趙天王に即位しました。このように、建国者の初代が死んだあと [続きを読む]
  • 五胡十六国時代の覇権国家、後趙を描く③ 石勒の華北統一
  • 後趙の建国石勒が前趙(漢)の部将として、華北東部で勢力を拡大していたころ、前趙内部では、318年7月に劉聡が死亡し、劉粲があとを継ぎ即位します。しかし8月に外戚の靳準が劉粲以下の劉氏をクーデターにより滅ぼし漢天王を自称します。この政変に対し、長安にいた劉曜と、東方の石勒の両者が前趙の首都平陽に向かいます。前趙(漢)の朝臣たちは劉曜を推し、劉曜は長安で即位します。その後平陽に攻め込み靳準を滅ぼします [続きを読む]
  • 五胡十六国時代の覇権国家、後趙を描く② 石勒の快進撃
  • 劉淵の部将として飛躍前趙(漢)の劉淵に帰順した石勒は、その部将として動き飛躍していきます。307年10月、烏桓の張伏利度の部族を帰伏させ手柄をたてます。これにより前趙から輔漢将軍・平晋王の地位を得て、自分で動かせる兵力と前趙内での地位を手に入れることに成功します。このあと、前趙の将軍として東方エリアの制圧、経営を担っていき、どんどん勢力を広げていきます。石勒とともに、漢人部将の王弥も前趙の東方エリアの [続きを読む]
  • 五胡十六国時代の覇権国家、後趙を描く①
  • 五胡十六国時代、前半の覇権国家となった後趙は、羯族の石勒が建国した国です。この石勒は、五胡十六国時代に現れる数々の人物の中で私が一番好きな人物です。五胡十六国時代でも1,2を争う傑物と言ってもよいでしょう。この石勒が建国した後趙という国について書きたいと思います。後趙は華北のほぼすべてを制覇するほどの勢力を築きますが、残念ながら五胡十六国時代名物と言ってもよい、建国時の君主が亡くなったあとのお家騒 [続きを読む]