尼子二郎 さん プロフィール

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尼子二郎さん: 犀の角
ハンドル名尼子二郎 さん
ブログタイトル犀の角
ブログURLhttp://sai001.com
サイト紹介文自分の思索を中心に書く哲学ブログ。テーマは、信念、認識、ニヒリズム、国家、男性学、ジェンダー等々。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供61回 / 36日(平均11.9回/週) - 参加 2018/04/23 17:46

尼子二郎 さんのブログ記事

  • 種(41)異性
  • 異性私には、なぜ他の人たちには見えている男女の違いが見えないのだろうか。あるいは、少ししか見えないのだろうか。例えば、女を見て、「綺麗な女だ」と思う。しかし、その女に声をかけたいという欲望と、その「綺麗だ」という感想の間には、深い断絶がある。女から好意を感じようと、感じまいと、同じようにそうだ。稀に、年に一度ほど、あるいはもっと少なく、そうした欲望から行動を起こしたと自分で感じると、私は深い羞恥心 [続きを読む]
  • 社会(1)セクハラ、男性と女性の相互の主観性の問題、具体的提言
  • 最近、相次いで官庁や、市政におけるセクハラの問題が注目を集めている。私はその具体的事例の一つ一つについて云々しようとは思わない。しかし、こうした問題の全てに伏在する現象として、「男性目線での分かりづらさ」つまり「男性の主観性」と一方でセクハラそれ自体が持つ「女性の主観性への依存」という二つの問題が常に見え隠れするように思える。そこで、この二つの問題を解決し、日本社会におけるセクハラの減少や根絶のた [続きを読む]
  • 種(9)〜(20)男女(ジェンダー)、知や真理、ニーチェ、その他
  • 男女(ジェンダー)に関する種男女の伝統的規範男女の伝統的規範について考える時、なぜ女の弱さが価値化されたのか、というよりむしろ価値化することが出来たのか、ということが違和感なく説明できなければならない。というのも、伝統的規範が出来たであろう古い時代には、人間は今よりはるかに厳しい自然の環境に囲まれて生活していたはずであり、特に女の筋力の劣等性や妊娠中の運動能力低下のようなものは、もっと深刻な欠点だ [続きを読む]
  • 種(29)マスキュリズム
  • マスキュリズムは潜在的には日本で発達する可能性が大いにある。むしろ私は「発達してしまう危険が」と言いたいくらいだが。というのも私は自分がマスキュリストにならないために戦っているようなものだからである。今はまだ、マスキュリズムに近い感性を持った男たちは、杜撰(ずさん)な論理や強引な行動に支配されている。しかし、それが徐々に洗練され、論理的に整理され、「理論武装」してしまったなら、フェミニズムがそうで [続きを読む]
  • 種(26)規則、概念
  • ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」で、おそらく「規則の可変性」を発見して驚いたということなのだろう。私が語るのはそれとはまた別のことだ。つまり、確かに「規則は可変的」なのだが、しかし、規則が変わったとしても規則自体は存在し続ける、ということだ。というのも、その規則自体は、「概念」の存在によって必然的に生起するものだからだ。 [続きを読む]
  • 種(38)肉体
  • 肉体肉体が違う意味を持つのは、「知」がそれを認めていればこそだ。しかし確実に、「情動」から還流していく「違い」もあるはずなのだ。私にはそれがなかなか見えてこない。人々が思っているほど、それは確かなのだろうか。それとも、私が間違っているのだろうか。 [続きを読む]
  • 種(21)理解
  • 理解、それはいささかも「共感能力」ではない。というのも、「共感」は対象の情念や情緒を「経験」したことがなければ成り立ち得ないのに対し、「理解」にはそうした「経験」が不足していても成り立ち得るからだ。そして「理解」とは、対象の必然性の把握である。 [続きを読む]
  • 種(36)真偽
  • 真偽「真である」と言っただけではその価値を証明したことにはならない。「偽である」と言っただけではその無価値を証明したことにはならない。 [続きを読む]
  • 種(35)「男とは何か」という問い
  • 「男とは何か」という問い「男とは何か」という問いは、歴史的な問いでなければならない。というのも、男女平等の推進とともに、男女の相違は限りなく「0」の近似値に近づいてゆく。最終的に、解剖学的相違(肉体の相違)と、生来のわずかな内的相違(欲求の相違)、その二つだけが残される。我々には、「男」という固有の運命よりも、はるかに多くの「人間」としての共通の運命に埋め尽くされることになる。それならば、そうした [続きを読む]
  • 種(34)サルトルの「実存主義」
  • サルトルの「実存主義」私はサルトルの「実存主義」に深い功利性を見る。彼は「社会参加」がしたかった、だから「社会参加の哲学」を作り出したに違いない。「実存主義はヒューマニズムである」しかし真の哲学は「ヒューマニズム――非ヒューマニズム」という対立項では測ることのできないものである。「私の哲学はヒューマニズムだ」と宣言した時点で、「私の哲学は真の哲学ではなく、似非(えせ)哲学である」と白状したに等しい。 [続きを読む]
  • 種(33)壊れた本能
  • 壊れた本能岸田秀は「人間は本能の壊れた動物である」と言っている。そうではない。人間の本能は「可塑性」を有している、と言うべきだ。そしてこれを作り変えるのが「文化」だ。 [続きを読む]