石田明夫の「会津の歴史」 さん プロフィール

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石田明夫の「会津の歴史」さん: 石田明夫の「会津の歴史」
ハンドル名石田明夫の「会津の歴史」 さん
ブログタイトル石田明夫の「会津の歴史」
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/aizu01
サイト紹介文全国的な視野で見た最新の会津の歴史です
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供12回 / 4日(平均21.0回/週) - 参加 2018/05/04 10:14

石田明夫の「会津の歴史」 さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • 戊辰・会津戦争23 母成峠の戦い1
  • 母成峠の戦い1 会津古城研究会長 石田明夫   1868年8月4日、新潟県では、新発田藩が裏切り、五泉市の村松藩(三万石)が落城しました。6日には、相馬中村藩(6万石)が降伏、11日には、新潟県の村上藩(5万石)が降伏しました。そこで、会津藩の松平容保は、8月1日、から8月14日まで、福島県西会津町の野沢に出向き、越後方面のテコ入れに当たっていましたが、会津藩の東側、福島県の中通り方面の攻撃が激しくなっ [続きを読む]
  • 戊辰・会津戦争22 会津藩魔の7月29日
  • 会津藩魔の7月29日 会津古城研究会長 石田明夫   会津藩の戦いは、東の白河城と二本松城の戦いが良く知られていますが、西の越後でも激しい戦いがありました。そのなかで、7月29日は、東と西で、会津藩を左右した激しい戦いがあり大きな敗北をしたのです。 7月28日『会津戊辰戦史』、西軍は、西軍に寝返った新発田藩預り沼垂港と海上の摂津艦ら三隻から、新潟港を守備する会津藩、米沢藩、仙台藩の六小隊(約300人弱 [続きを読む]
  • 戊辰・会津戦争21 越後長岡・会津藩の戦い3
  • 越後長岡・会津藩の戦い3 会津古城研究会長 石田明夫   慶応4年(1868)5月19日『衝鋒隊戦記』によると、会津藩家老一瀬要人(かなめ)と旧幕府軍衝鋒(しようほう)隊の古屋佐久左衛門、ガトリング砲を操った長岡藩家老の河井継之助(つぎのすけ)ら僅か50人での奮戦もむなしく、西軍に長岡城は奪われました。6月2日、東軍は、新潟県見附市の今町の戦いで反転攻勢に出て、長岡城奪還作戦を開始します。なお、長岡城は、現在の長岡駅 [続きを読む]
  • 戊辰・会津戦争20 越後長岡・会津藩の戦い2
  • 越後長岡・会津藩の戦い2  会津古城研究会長 石田明夫   慶応4年(1868)5月4日、奥羽列藩同盟に参加した長岡藩。それから北越戦争が開始されます。『北国戦争概略衝鋒隊之記』によると5月13日西軍は、長岡城進攻に欠かせなかった小千谷市の朝日山の確保を目指しますが、朝日山にいた会津藩の萱野権兵衛隊と桑名藩の立見鑑三郎と長岡藩兵約五千に対し、西軍は約一万で攻めますが、一週間戦闘が続いたものの落ちませんでした [続きを読む]
  • 戊辰・会津戦争19 越後長岡・会津藩の戦い1
  • 越後長岡・会津藩の戦い1  会津古城研究会長 石田明夫    白河城が慶応四年(1868)5月1日、西軍に奪われた翌日2日、越後にも西軍が迫っていました。『長岡藩戦争之記』によると当時会津藩領だった小千谷(小千谷市)において、長岡藩家老河井継之助は、「武装中立」を主張し、慈眼寺において山道軍軍監土佐藩岩村精一郎と会談し、進攻停止を訴えましたが、会津藩3千人が三条まで来ているとの情報を得たと話したことから、継 [続きを読む]
  • 戊辰・会津戦争18 白河口の決戦3
  • 白河口の決戦3 会津古城研究会長 石田明夫   白河城は慶応四年(1868)5月1日に西軍に奪われ、その後東軍は7回白河城奪還作戦をしますが、西軍から白河城を取り戻すことはできませんでした。白河城敗戦の責任を取り、白河口総督西郷頼母は、8月2日免職閉門となっています。 白河城の戦いの中で、東軍でも西軍に恐れられた部隊がありました。「仙台カラスと十六ささげ 無けりゃ官軍 高枕」(十六ささげとは阿部家棚倉藩脱藩 [続きを読む]
  • 戊辰・会津戦争17 白河口の決戦2
  •  白河口の決戦2 会津古城研究会長 石田明夫   慶応四年(1868)閏四月28日、西軍は、白坂口に再び攻め入り、29日会津藩は日向茂太郎と井深右近ら大砲二門で守備していたところを撃破したのです。 5月1日、西軍は、隊を三方に分け進軍しました。まず西と東から薩摩藩の川村隊が攻撃を開始。東軍は兵士の数は多かったのですが、東の南湖北側を守備していた仙台藩は、新式銃も少なく時代遅れの鎧を着た、西洋式の訓練を受けていな [続きを読む]
  • 戊辰・会津戦争16 白河口の決戦1
  •  白河口の決戦1 会津古城研究会長 石田明夫    宇都宮城を奪還し、北へ進行政策を進めた西軍の次の標的は、白河城の攻略でした。対する東軍の奥羽越列藩同盟は、何としても奥羽の関門、白河城を死守し、ここから先に進めないようにすることでした。 慶応四年(1868)、白河城(小峰城)は、白河藩主阿正静(まさきよ)公が慶応二年(1866)に、棚倉城へ移封とされていたことから、白河城は城主不在で二本松藩の預かりとなっ [続きを読む]
  • 戊辰・会津戦争15 奥羽列藩同盟の成立
  •   奥羽列藩同盟の成立 会津古城研究会長 石田明夫   宇都宮城を西軍が奪還した1868年4月23日、仙台藩は、奥羽鎮撫総督府の再三の会津藩攻撃命令に対し、郡山市熱海町の中山と竹ノ内へ攻入り、会津藩を攻撃しています。閏4月(この年は4月が二回あり潤4月がある)1日、郡山周辺で会津藩と仙台藩との小規模な銃撃戦がありますが、仙台藩と二本松藩は西軍の言いなりだったのです。 閏4月4日、松平容保公の恭順降伏の嘆願を受 [続きを読む]
  • 戊辰・会津戦争14 宇都宮戦争と日光を救った者
  • 宇都宮戦争と日光を救った者 会津古城研究会長 石田明夫   江戸城開城が決定されると、西軍の標的は、旧幕府軍の一掃と会津藩攻撃に向けられました。1868年3月23日、西軍は奥羽鎮撫総督の九条道孝らが仙台に入り、25日には、仙台藩と米沢藩に対し会津征伐を命じます。同日『戊辰事情慨旨』では、米沢藩と仙台藩の使者が若松城下に入り、会津藩救済を談合しています。そのため、両藩とも会津藩攻撃の行動はしませんでした。 4 [続きを読む]
  • 戊辰・会津戦争13 江戸城無血開城と会津藩士の出陣
  • 江戸城無血開城と会津藩士の出陣 会津古城研究会長 石田明夫   新政府の西軍は、鳥羽伏見の戦いに勝利すると、慶応4年(1868)1月10日、徳川慶喜、会津藩の松平容保公ら27名に対し官位の剥奪と屋敷の没収を決定しました。その日、会津藩大砲隊などは『大砲隊戊辰戦記』によると紀州にいたのです。 その後、幕府内部では、主戦派の勘定奉行兼陸軍奉行の小栗上野介忠順(ただまさ)と軍艦頭の榎本武揚(たけあき)が作戦を練っていま [続きを読む]
  • 戊辰・会津戦争12 若松城下の女性と娘子軍の誕生
  • 「若松城下の女性と娘子軍の誕生」  会津古城研究会長 石田明夫   江戸詰めだった会津藩士と家族は、西軍の進行により若松城下へ帰ることになります。江戸詰めで代々住んでいた家臣も会津の遠縁を頼り、若松城下へ戻りました。 『会津戊辰戦争』によると、城下の女性たちの中には若松城下で「娘子軍(じょうしぐん)」と呼ばれる女性だけの軍事訓練をする団体が結成さたという。それは、江戸詰めの家臣や家族が会津に戻り、 [続きを読む]
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