ぼ輔 さん プロフィール

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ぼ輔さん: 鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代の東海道遺構
ハンドル名ぼ輔 さん
ブログタイトル鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代の東海道遺構
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/mementosmori
サイト紹介文日本最大の鎌倉城とその遺構。頼朝に封印された古代東海道遺構の紹介!
自由文国内の勢力争いの為の城郭とは異質な、、
日本の存亡を賭けた、フビライハンのモンゴル帝国襲来に対抗する為の鎌倉城です。
世界最大の国力に対抗した 世界有数の巨大な城跡となり、当然全国の武士を総動員して守る城となった。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供37回 / 195日(平均1.3回/週) - 参加 2018/05/31 09:17

ぼ輔 さんのブログ記事

  • 鎌倉城 蒙古襲来の前後。
  • コメントより、、、、  2017-02-16> (英)さん > (個人的には、初期の記事から貫かれていた、頼朝による> 大規模な地形改変の話との整合性は気になりますが。)> (博多湾で津波の話はあまり聞かないですし。) そうです!初期の頃のブログは、鎌倉城は、朝廷対鎌倉幕府の為の城!その様に想定しました。実際に、源氏の時代の城はその想定で作られたと考えて居ます。城の縄張りも、七口周囲とその峰の登り口や中間に攻防に [続きを読む]
  • 戦う砦跡 鎌倉城の平場
  • 日本城郭大系2 記 2015年06月26日  に記載の地図ですが、「まんだら堂」と書かれた北側に東平場と呼ばれる場所が有り、平場の状態を観察できる。左の上の柵に人がいるので大きさの参考にしてください。同じ場所の反対側です。一段下がった平場です。人工的に造成した土地ですが、個人資産で大規模な造成はやらないのは、現代の重機を使わない時代の常識です。農家ならば尚更の話です。地方の士族の城とは、、規模が全く違うの [続きを読む]
  • 新田軍は化粧坂に 戦う砦跡
  • この図より、戦闘に必要な鎌倉軍の平場を探そう!っと言う訳です。平場とその下にある崖が、鎌倉の戦う為の砦の証拠です。ドレだけ見つける事が出来ますか?緑のラインは、化粧坂から水堰橋に向かう鎌倉城大手の道です。大手道の正面は、北鎌倉女子高校の周囲で土壁で乗り越えられない工作をしたと思えますが、住宅地となりその証拠は不明です。更に瓜ヶ谷から直接葛ヶ原を北から攻める兵と、梶原から葛原に向け南から攻める軍が考 [続きを読む]
  • 新田軍は化粧坂に 3
  • 「新田軍は化粧坂に2」の地図の様に、、地形を知れば洲崎で勝利した新田軍が山之内に向かった目的は明確と考えますが如何?水堰橋から真正面の大手道に攻める手段もあるし、大手道の葛原を南と北から挟み撃ちの攻撃も有る。新田義貞は、鎌倉城の一番の弱点で攻撃し易い場所と考えたのが鎌倉城の大手道の水堰橋から台峰を通り葛原から化粧坂に向かう道と考えた。それほど鎌倉を囲む他の場所の切岸は攻撃困難な崖に作って有った訳で [続きを読む]
  • 新田軍は化粧坂に 2
  • 新田軍は「化粧坂に向けて進軍した!」しかし、 戦った場所は、洲崎で戦いとなり、新田軍は橋を作って柏尾川と湿地を越える工作をし、川を挟んだ戦いが洲崎の戦いが主であったと考えられる。山之内に入った記述から!向かう先は何処でしょうか?大半の方が巨福呂坂へ向かったと考えるのではないでしょうか? しかし 巨福呂坂は既に堀口三郎貞満を上将軍の十万余騎が攻撃をしています。(注1) 新田義貞の主力軍は初めから化粧坂 [続きを読む]
  • 長窪の砦2
  • この二つの切通は、高野地区に有ります。よって「高野の切通」と呼ばれると、どちらの切通? っと迷います。高野地区と大船地区の境界に有るのが高野の切通と呼ばれますが「大船の切通」とも言います。長窪に行く為の道を「長窪の切通」と言いますが、高野地区に在り 脇は高野公園です。混乱を招く呼称で注意が必要です。正確な切通の呼称で有るか? 俗称なのかも不明です。上記地図の緑色の点線は切通です。近年の長窪砦です。 [続きを読む]
  • 長窪の砦1
  • 前にも同じ長窪の事を書いた!何を今更蒸し返すのか? 何てね、、、 以前の記事で、鎌倉に
    対しそんな見方も有るのか?程度の認識は芽生えたと思いますが、城としか思えない資料を! 
    誰でも調べられ確認できる資料提示しよう。  と言う訳です。この地図は、国土地理院です。
    〈https://maps.gsi.go.jp/#13/35.337697/139.534931/&base=std&base_grayscale=1&ls=std%2C0.77%7Cslopemap%7Crelief_free&blend=01&disp=
    111&lcd=reli [続きを読む]
  • 新田軍は、化粧坂に向けて攻撃をした。
  • 新田軍は遊行寺を横切り、柏尾川の西岸の村岡城、貝殻坂周囲に集まった。目指すは、対岸の洲崎である上町屋ですが、、、その間には柏尾川が有る。川だけではなく、昔からこの場は沼地状態であり、橋を架けて洲崎に進撃をした場所です。大正時代に柏尾川補修工事で新田軍が架けたと思われる橋脚跡が出土しており、その場所は神戸製鋼の敷地で有ったと言われている。  上図:橙色の粧坂から水堰橋は、鎌倉城大手道。洲崎で勝利した [続きを読む]
  • 稲村ケ崎の砂鉄(コメント)より
  • この記事は、目新しい事は無く、解りやすくマトメタ文です。一か月程で消去します。〉比重諸々について (失礼します。) 2018-09-21 〉こちらのブログでは「砂鉄が海流によって運ばれた」〉との説明に対して否定的ですが、なぜ否定的なのかわ〉かりません。 先ずは潮流ですが、海上保安庁のHPをご覧ください。http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/KAIYO/oceanradar/currentsagami.html この海流図とは別に、〉「稲村ヶ崎の砂の [続きを読む]
  • 素人と、玄人 後編
  • 2018/3/23記鎌倉時代の、鎌倉幕府に関する歴史解明の困難さ!それは、鎌倉滅亡の戦火に書類は焼かれ、建物は焼かれ、、、それを裏付ける文献が限られる。太平記、梅松論、東鑑、十六夜日記、玉葉、などの限られた文献です。もう一つは、鎌倉の地形に関して、武家の鎌倉の象徴の「鎌倉城郭遺構」が絶望的に調査不足で在り、調べれば理解できる事を、調べずに鎌倉城を語られる。この城の広さは、日本一で、あまりの広大さに全容を調 [続きを読む]
  • 化粧坂の攻防? 太平記に載って無いジャン!
  • 『太平記』より新田義貞「鎌倉攻め」にて、最重要視したのが化粧坂でその人数から重要度が理解できる。新田勢六十万七千余騎の総数ですが、 五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける此れにより 大半の兵を「粧坂」に割り当てた!何故化粧坂を目指したのか??鎌倉七口の中で、化粧坂だけが切通構造ではなかった!以前は鎌倉幕府に仕え、鎌倉城を自分たちの手で作り上げた砦です。その構造や弱点は熟知していた筈で、鎌倉城の大手道に [続きを読む]
  • 鎌倉城について考察の変遷
  • このブログは、、鎌倉に関しての古代道路と、それに絡む鎌倉城の記載です。確定したものを書いている訳ではなく、私自身の頭脳の理解する過程を書いています。日付けが古いものは、情報量が少なく、考え方も狭小です。新しいものは資料も多くなり、考え方も範囲が広く考える事が出来ます。例えば鎌倉城ですが、書かれた時期により、情報量と頭脳の理解範囲や視点が段々に広がっていきます。 初期は、頼朝が石橋山の合戦破れ千葉に [続きを読む]
  • 鎌倉城と蒙古襲来9
  • 投稿日時:2017年06月22日元寇は、鎌倉幕府に遠く離れた地方の出来事ではなく、、鎌倉に外国の軍隊が攻め込んで来る! そんな緊急で危機感の有る話なのです。鎌倉に元の軍隊が押し寄せる!、、、幕府は如何に対処したのか!!その様な「当たり前の想定」に対して、歴史書は何も答えが無い。1276年、鎌倉幕府は博多湾に石塁を築くよう命じた元の勅使を斬首して半年後です。石塁を築いたのは、関西の武士で作り上げた。関東の武士の [続きを読む]
  • 旧東海道の道幅 コメントより6
  • 江戸東海道は、地方の謀反に対して、幕府が行ったことは、参勤交代や「出女入り鉄砲」の関所を作り交通を制限したり、川に橋脚を造らない、道を狭くする等の軍事目的が在った訳です。  結果として家康の遺訓『家康公御遺言百箇条』の 大海道 6間(約10.8m)等は、お家の安泰が優先され、 完全に無視された訳です。品川宿では、3間程となり、藤沢宿では道幅3間或は5間(広小路)と【相模国風土記稿】に書かれており、宿場は3 [続きを読む]
  • 旧東海道の道幅 コメントより5
  • 問題点1右の黄色の図において、A〜C〜画面下で直角に曲がる旧道ですが、C点以降は道が細い!A〜C間は旧道の拡張工事を終えC点で工事が止まっている。問題点2A〜B間では旧道とは別に更に道幅の広い新道が造られている!!何故C点で旧道の拡張工事は止まったのか?問題点3考えられる事は、この先は坂の傾斜が強すぎて車両の昇り降りが困難であった。道路工事の監督は、ココで初めて気が付いたと、、、言う訳でしょうね!傾斜を弱 [続きを読む]
  • 旧東海道の道幅 コメントより4
  • 【相模国風土記稿】に藤沢宿の記載が有り、〉東海道往還、宿内に係る事屈曲して30余町に及べり、〉往還中、民戸連佳する所12町17間、 〉道幅3間或は5間に至る。早い話が、藤沢宿の道幅は5.4m(3間)から 9m(5間)である!当時としては、破格の道幅です。9mの無駄に太い道があったんですね、、、これは、東海道としての道幅ではなくて、、防火帯としての、火災の延焼を防ぐための空間で有った訳です。その空間を広小路と称す [続きを読む]
  • 旧東海道の道幅 コメントより3
  • 旧東海道の道幅は、、とても広かった!それが、今回のテーマです。当然今までの記述とは矛盾します。証拠1家の大きさや、人物に比較して、道幅はご覧の通りです。私の生まれた当時から現代までは、証拠として写真が有ります、、、証拠2ご覧の通り昭和時代の巨大な道幅です。私の知る時代は戦後間もない昭和26年で、道幅はこの写真と同じです。江戸の浮世絵と合致する道幅です。ですから、「此れが真実です。」と断定するのは、、 [続きを読む]
  • 旧東海道の道幅 コメントより2
  • さて、、明治期迅速測図が左右に有りますが、左は明治末期で 右は明治中頃です。左は鉄道東海道線が敷設され、緑色で示した国道一号線が作られています。右の図は、本来の江戸時代からの東海道と推測できます。左の図は、、、如何でしょうか?赤の字で示した処は、破線で書かれています。この違いは、、以前は国が法律で管理した道路であるが、破線の道路は「里道」に成った事を示します。里道とは公道だが管理は国から離れる事で [続きを読む]
  • 旧東海道の道幅 コメントより1
  • 家康の遺訓『家康公御遺言百箇条』の 大海道 6間(約10.8m)は、品川宿では、3間程となり、家康の威光は無視された訳です。唯一、家康を祭った日光へ行く日光街道は、、東海道よ立派で有った訳です。東海道の宿場町の道幅は3間程度と「推測」するわけです。箱根の石畳は一間程ですから、、街道は1〜3間と考えるのです。〉うにゅ〜 さん〉右側の写真は「戦前」のものということですから、〉この道幅が江戸期、もしくは明治 [続きを読む]
  • 旧東海道の道幅4
  • 東京には震災も空襲にも逃れた宿場が有った。その宿場は、品川宿です。昭和33年(売春防止法施行)まで、古い宿が残っていたそうですが、江戸時代の建物は無くても、街並みと道幅は引き継いだと考えられる。それが、、、下の写真です。如何でしょうか??この幅は大海道6間の道幅は無く、小海道の3間(約5.4m)程度と考えられる。現代の写真では、お気に召さない時は、、「生麦事件」と言うのがある。江戸時代末期(1862年9月14日) [続きを読む]
  • 旧東海道の道幅3
  • 〉江戸時代の街道の道幅 (うにゅー)〉2018-07-15 23:42:53〉本筋とは関係ない話かもしれませんが、江戸時代に現役バリバリだった〉旧街道は、その広さ故に、金欠だった明治政府がその道幅の一部を地元〉に売却したということがあったのだそうな。何かの番組で、武相国境の〉境木から先、品濃坂までのきれいに旧道が残っている部分について、〉そう解説していました。あの細々とした旧道の心もとなさが本来の姿かと〉思っていたのが [続きを読む]
  • 旧東海道の道幅2
  • 前回は、箱根の山中では江戸東海道でも、道幅が狭くて当然かも、、、なんて思われた方も居るでしょうね!そんな訳でダメ押しです。場所は、横浜の保土谷宿と戸塚宿の間に江戸東海道が残っているのです。その景観は土地開発で跡形もない状態ですがその道幅が見所です。場所は権太坂や品濃一理塚という名の場所です。真ん中に大型車侵入禁止の標識がある道が江戸東海道です。普通車一台が通れる道ですが、、、これですら、普通車が通 [続きを読む]
  • 旧東海道の道幅1
  • 街道の道幅例えば、江戸の東海道ですが、、、街中は道幅が広く作られていた様子です。今では街中の道路は車を通す為に更に広げられ一部例外を除き、調べようが在りません。木曽路の妻籠宿や馬籠宿。東北の大内宿などを見ると結構な広さが有ります。その一部例外の大内宿は、下図の通り!(大内宿観光協会チラシ)しかし、箱根の例をあげますと、宿場を外れると、、、写真のごとくの両手を広げた程度の幅です。当時の考えからすれば [続きを読む]
  • 下大槻から関本へ15
  • 素直に真上から見た傾斜部を黒く表した地図で、薄く衛星写真が載っています。(国土交通省より)矢印は写した方向と、その写真ナンバーです。12131415161718車は下からは登れません! 峰から下りこれ以上降りれない場所です。この様に、歩行、馬、荷車が限界な恐らく道幅は1間(1.8m)で郡道で有ったそうです。この当時(明治時代)は、地方最大の街道で在り、矢倉沢街道も同じ道幅の様です。この道が古代東海道とは [続きを読む]
  • 鎌倉の砂鉄6の補足
  • 海水の動き-流況・波高表示(相模) - 海上保安庁 海洋情報部http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/KAIYO/oceanradar/currentsagami.htmlこれ等は、時間によりサキ潮やカシマ潮になる訳ですが、江の島でいえば、東浜は境川の土砂が入り込まないので、砂浜が柔らかく、西浜は砂地と川の土と泥で硬く、車が通れる状態です。この砂浜の違いは、黒潮海流の流れが強く、三浦半島から鎌倉江の島に向かうサキ潮が基調であり、カシマ潮の流れ [続きを読む]