何事も修行とおもひする人 さん プロフィール

  •  
何事も修行とおもひする人さん: 坐禅遊行家の備忘録
ハンドル名何事も修行とおもひする人 さん
ブログタイトル坐禅遊行家の備忘録
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/nanigotomosyugyou
サイト紹介文坐禅遊行での小さな思い付きを話して自分自身や誰かを支えたいなというブログ
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供44回 / 61日(平均5.0回/週) - 参加 2018/08/04 15:56

何事も修行とおもひする人 さんのブログ記事

  • 仏教/基本的な考え方の結論はこんなものでは?(2版)
  • *自分なりに考えていることの今のところのまとめ。(2018.9/28初出、改訂10/3) 権威者の見解に裏打ちされてはいないものも多数。1 メタ理論(1)自己の能力は不充分である。しかし、確実なことを知るには、現在、此処、自己から始めるしかない(2) (1)の帰結として、いかなる権威者の見解も盲信しない。自分で腹の底から納得できたら採用する2 認識論 (1)究極的には「本当のこと」はわからない。* 現状では、3(9) [続きを読む]
  • 何のために坐るのか?とか
  •  世の衣文解義【えもんげぎ】の漢は、実際的方面には斯る慈悲落草の手段すら入用であることを忘れて、只理想的無住想の坐禅で無ければ、邪禅があるかの如く思惟して、単に無暗に高尚にさえ徒に高唱すれば好いように思うのは未だ以て仏祖の妙道を知らざるの致す所である。 理想的には一切超脱の禅でなければならぬけれども、実際的には各人各種の目的の下に坐禅することを妨げんのである。 身心鍛錬の為めにも坐禅すべく、大臣に [続きを読む]
  • 仏教は、法を命じず、方法を示す
  • わたしのさとったこの真理は深遠で、見難く、難解であり、しずまり、絶妙であり思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところであるところがこの世の人々は執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている人々には、縁起という道理は見難いまたすべての形成作用のしずまること、すべての執着を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること止滅、やすらぎ(ニルヴァーナ)というこの道理もまた見難い。だからわたしが [続きを読む]
  • 確信することができた!
  • 禅を概念化してはならない。それはどこまでも体験的に把握すべきものである。しかしわれわれ人間は、誰も無言ではいられない。何らかの方法で自己を表現しなければならない。ゆえにもし経験に表現を与えることをやめるならば、われわれは一つの経験すら持ち得ないことになる。――人間は、永久に自己を表現しようとしつづけるがゆえに、人間なのである。――鈴木大拙『禅』 このブログは自己満足で考えてはき出したいことだけれど [続きを読む]
  • 「坐」るということ
  • 結果趺坐の姿勢は、右足と左足が一つになります。この姿勢は「二元」性の「一者」性を表わしてます。これは最も大事な教えです。二つではない、一つでもないということです。私たちの人生は、複数であるばかりでなく、単一です。私たちは、互いに支え合う、と同時に自立しています。−−鈴木俊?『禅マインド ビギナーズ・マインド』「坐」は、二人の人が同じ一つの地面の上で坐っているという表意文字らしい。言葉遊びのような感 [続きを読む]
  • 仏教/基本的な考え方の結論はこんなものでは?
  • *自分なりに考えていることの今のところのまとめ。 権威者の見解に裏打ちされてはいないものも多数。1 メタ理論(1)究極的には「本当のこと」はわからない。 * 現状では、3(9)*③と循環的な根拠づけになる。(2)どのような考え方も「本質的に」正当化されない。(3)生きる上での自分の考え方(当然の前提であるところの世界の存在の在り方を含めたもの)を「決める」ことが重要。(決断主義)(4)生きる上での [続きを読む]
  • 仏教における主体性と決断主義
  •  昔し為山迎山に問う「涅槃経四十巻あり、多少か是れ仏説にして、多少か是れ魔説なる」と迎山曰く「総に是れ魔説なり」と。為山此答を得て行山の道眼円明なるを称賛して居る。我門の眼睛開けば斯くなくてはならんのである。孤り涅槃経のみならず一大蔵経も総て是れ魔説である。禅門に伝わる汗牛充棟の祖録も悉く邪説である。況や各宗の教判如きは皆な悉く邪魔の臆説に過ぎぬ。――原田祖岳『禅学質疑解答』    禅、つまりは、仏 [続きを読む]
  • 資料・仏教における意志の肯定
  • 植木雅俊『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』【44頁】仏教が目指したことは、「真の自己」の覚知による一切の迷妄、苦からの解放であったといえる。仏教は、パーリ語のアナッタン(anattan)、あるいはサンスクリット語のアナートマン(anatman)を説いたと言われる。これが中国で「無我」、すなわち「我が無い」と訳されたために、仏教は自己を否定するものという誤解が生じた。ところが、原始仏典を読んでい [続きを読む]
  • 資料・坐相=仏性等
  • 秋月龍?・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山・加藤耕山老師随聞記』【107頁・加藤耕山老師の言】人間の下腹はあらゆる神経が集中している。腹が身体中を統制するのだ。坐禅は下腹に重心がくるような姿勢を保つ。つまらないことを考えると、頭に力が入ってしまうが、下腹に力を入れれば分裂せず、すべてのエネルギーを一つにして、宇宙全部がその中に収まってしまうのだ。世界と一つになる。天地と同根、万物と一体、仏教は人格、 [続きを読む]
  • 資料・無/無我
  • 花山勝友『[図解]禅のすべて』【168頁】趙州和尚に僧が「犬にも仏性はあるのでしょうか」と問います。和尚の答えは「無」でし【169頁】た。仏教には無我、無常など無の文字が多いのですが、これはただ「有る無し」という現象をさしているのではありません。たとえば「無我」とは自分の感覚から得た自分本位の考え方=我執から離れることです。ですから「無我」は「非我」とも表わされます。我執を離れた本来の「我」は仏に [続きを読む]
  • 凡夫禅で楽しく坐禅
  • 凡夫禅であるが、いちおうは善因善果、悪因悪果という因果の道理は信ずるけれども、その反面依然として「我」中止で好き嫌いをするほかには、何らの透徹した真理ももたないで修行する部類である。いまでいえば病気を治すためとか、健康のために禅をやるなどは、差し当たりこの部類とみてよいであろう。――大森曹玄『参禅入門』凡夫禅は、大森曹玄『参禅入門』に出ていた素敵な概念だ。もちろん、大森様は、凡夫禅について在纏の禅 [続きを読む]
  • 「仏教って何?」と聞かれたら
  • 坐禅をしたことがない友達から坐禅って何?仏教って何?と聞かれることってありますか?私は、通っている英会話教室の先生からWhat is buddhism?(ちなみに、私は、仏教の知識が怪しげなのですが、英会話は更に怪しげなので、確かこんな感じだった……という再現です)と聞かれ、当時、藤田一照様の現代坐禅講義《注1》を読んでいる途中でしたからBuddhism is not getting but abandon.などと答えました。もちろん、そんな説明では [続きを読む]
  • 求めるのではなく、決めること
  •  欲望と意志との関係について、整理がついていなかったけれども、今は  自己の能力の範囲「内」のものを求める=意志 自己の能力の範囲「外」のものを求める=欲望 と整理している。 欲望も意志も何かを実現しようとするものとしては変わらず、以前は全く同じものとして考えていた。 そして、欲望が苦の原因なのであるから、欲望/意志を抑制することが重要だと考えていた。  しかし、意志も、大脳の機能による産物であり、 [続きを読む]
  • 悟りなしの「習禅」でよし!
  • 同じように坐っていても、たとえば未来というか理想に向かって駆け出すようにして坐っているのか、現在にくつろいで坐っているのかで坐の中身、実質が全く違います――道元禅師はこういうタイプの行法を一口に「習禅」と呼んで、「坐禅は習禅にあらず」と言って坐禅をはっきり区別しています(藤田一照「現代坐禅講義」) 1 はじめに  私は、師家について、独参をしています。 ですから、外形的には、臨済禅なのでしょう。   [続きを読む]
  • いま、ここに、わたしがあることが救い
  • 身今あり、心今ありといへども、明珠なり玄沙の道は、尽十方世界、是一顆明珠、用会作麼なりわれもなんぢも、いかなるかこれ明珠いかなるかこれ明珠にあらざるとしらざる百思百不思は明明の草料むすびきたけれども明珠なり明珠にあらざる取舎にわづらわんたとひたどりわづらふとも明珠にあらぬにあらず――「正法眼蔵・一顆明珠」私たちはいろいろな苦難や面倒、問題を背負って生きている。それに悩んで、迷い、そして、将来に不安 [続きを読む]
  • 念仏と坐禅
  • 白隠慧鶴「遠羅天釜続集」 称名の行者は、打成一片に称名し純一無雑に専称して穢土を観ぜず、浄土を求めず一気に進んで退かずんば五日三日乃至十日を待たずして 三昧発得し、仏智煥発して立地に往生の大事を決定せん往生とは何をか云ふや畢竟見性の一着なり分別を云々する人が仏教を区分し優劣を云々するのは矛盾坐禅も念仏も他力不二、不一の仏教この肉体を坐らせるものは一体何か? *昼休みの投稿でした。共感できる点などが [続きを読む]
  • 「正しい仏教」なんてない
  • 最近とても重要だと思っていること。 何らかの認識を得るという意味での仏教の実践として重要なこと。 それは、子供の頃に河原で拾った小石のような確信を得ること。 小さい子供の頃に河原で拾った滑らかな少しきれいな小石。家に持って帰ったらお父さんやお母さんから、「そんなもの邪魔だから捨てなさい」って言われた、そんな小石。 ほかの人にはただのゴミかも知れないけれど、自分にとっては、とても大切で、机の引 [続きを読む]
  • 公案との付合い方
  • 坐禅を始めてから、一番付き合い方に悩んでいたのが公案だったけれど、最近、なんかいい奴に思えてきました。 誰かは忘れましたが、とある経営者の方のお話、確か、松下幸之助さんか稲盛和夫さんの言った言葉だと思うのですが、 嫌いな奴のところには繰り返し行け。嫌い奴には売らないのか! という言葉があるそうです。 で、実際に、独参を通して嫌いな奴に繰り返し会ってみたら、「あ、なんかいい奴。」と思うようになったとい [続きを読む]
  • 私の理解する仏教の救済論
  • 仏教は一生懸命勉強する必要はないし、信じる必要なんてないと思うのです。 そもそもお釈迦様自身が、お悟りになった後、この自分の考えをほかの人に話したってしようがないやと思った程度のものですから。 私は、イエス様とお釈迦様では、絶対にイエス様の方がすごいと思うんです。 イエス様というのは神様の子供なんです。ですから、病気を治したりとか、けがを治したりとかいろいろな奇跡を起こすことができます。  でも、お [続きを読む]
  • 臨済宗と曹洞宗の区別
  •  インドの人は、すごく感性がいいんです。 結跏趺坐のことをインドでは、「蓮華坐」といいます。 蓮華というのは、蓮の花ということですね。 蓮の花はすごいんです。 なにがすごいのかというと、どんな苦難も避けずに受け容れます。 雨が降ろうが雪が降ろうが夏の熱波が来ようが避けるということをしません。 蓮の花には足がありません。 だからどこかに逃げることができません。 蓮の花には手がありません。 ですから、 [続きを読む]
  • 独参=プロ野球選手とのキャッチボール
  • とても素敵なことがありました。 私淑していた師家から独参を許していただいたのです。  元々私は、公案参究、すなわち、独参(以下「独参」で統一します。)が好きではありませんでした。 これまで「悟り」ネタの記事の中で触れたように、私は、坐禅を通して「悟り」を得ようという発想が全くありません。 また、臨済宗における公案過程を通じての「悟り」の獲得という発想も好きではありません。 私は、煩悩の塊なので、 [続きを読む]
  • 「悟り」を求めない理由
  • 1 はじめに 私が坐禅を通して、日本的かつ認識論的な意味での「悟り」を求めない理由は(1)悟ったとされる状態になったとしても、大したことはないのではないか、と思う(2)((1)の理由よりも遙かに本質的な理由から遠いものであるが)釈尊が得たのと同様の「悟り」の状態に達したかはわからないからです。 私は、坐禅は信じていても、仏教は信じていません。 私は、「坐禅は、エクササイズ/健康法としてあれば十分。 [続きを読む]
  • 知識整理「坐禅の効果」
  • 第1 文献等から認められる坐禅の効果1 ゆったりした呼吸による副交感神経の活発化(1)男女とも40歳以上になると、副交感神経(血管を弛緩させる)の活動が弱まり、交感神経(血管を収縮させる)の活動のみが高まることから、血管の収縮、弛緩により血流を起こすことができなくなる結果、動脈硬化が進行するとともに血圧が上昇し、血管内皮細胞が破壊され、脳梗塞、心筋梗塞、失明、手足の抹消部分の壊死のリスクが生じやす [続きを読む]
  • 悟り=自然変化のダイナミズムとか
  • ○ 悟り=自然変化のダイナミズム 仏陀の悟りについて、もっと前向きな捉え方をする余地があるのではないか。 諸行無常は、万物は変化すること意味し、現実世界に存在するものが無価値であるという意味では、絶望をもたらす考え方。 でも、「万物を変化させるエネルギー(法則)」が存在するということがいえるのではないか。 個々の生命を生成し、その生命を終わらせ、また、違う生命を生成しなどといった変化させる自然のエ [続きを読む]
  • 悟り=絶望を突き抜けた希望とか
  • ○ 悟り=絶望を突き抜けた希望 高校生の頃、三法印、すなわち 1 諸行無常=万物は変化すること 2 諸法無我=万物に永続する実体性がないこと 3 涅槃寂静=1及び2を悟れば、人の心が安定し静寂となって、安らぎの境地に至ることという考え方を知った。 当時、1諸行無常及び2諸法無我は、自分自身の当時の世界観に沿うもので、容易に理解ができたが、そこから、3涅槃寂静に至ることは飛躍があるような感じがして、 [続きを読む]