何事も修行とおもひする人 さん プロフィール

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何事も修行とおもひする人さん: 坐禅遊行家の備忘録
ハンドル名何事も修行とおもひする人 さん
ブログタイトル坐禅遊行家の備忘録
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/nanigotomosyugyou
サイト紹介文各地の坐禅会にお邪魔して坐るうちに仏教などについて妄想(もうぞう)したことのつぶやき
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供19回 / 14日(平均9.5回/週) - 参加 2018/08/04 15:56

何事も修行とおもひする人 さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • 坐禅=蓮の花になるエクササイズ
  •  蓮の花は、すごい。 あらゆる苦難を避けることなく受け入れながら 何かをなそうという意思なしに ただありのままであることによって 花を咲かせ、香りを放ち、蜜を与える。 藤田一照様の「現代坐禅講義」が面白い。 特に、植物をたとえた部分が印象に残った。「かれら植物は動かないですからね。ただ太陽の光を受け取り、空気を受け取り、水も受け取り、土壌からも受け取り、と全てがそうですよね。【略】エネルギーを環流 [続きを読む]
  • 手放すと手に入れられることとか
  • 坐禅するようになってから、あるいは、仏陀として行動/生活したい(「観音菩薩」から若干成長)と思うようになってから  手放すと手に入れられる という感覚が強くなってきて、心地よくなってきた。 苦痛と思われるものを受け入れ、それから逃げたいという気持ちを手放すと、手に入れられる。  仏教/禅=受け入れること これを目標にしたい。  苦しみから逃げたいという気持ちを手放して、受け入れると、なんとなく力強くな [続きを読む]
  • 私が「悟り」に至りえない理由
  • 「悟り」に関しては、「試論・悟っても日常は変わらない」(https://blogs.yahoo.co.jp/nanigotomosyugyou/66906351.html)に少し書いてみました。 とはいえ、前稿は、「悟り」=「宇宙と自己との一体性」認識/体得説を前提とするものであり、そんなものが「悟り」という言葉のイメージに沿うほどすごいものなのか、という私にとっては不満な点もありました。 その公開の直後、魚川祐司「仏教思想のゼロポイント」を入手し、そ [続きを読む]
  • 爪痕を残すためのいろいろな吐き出し
  • ○永平寺別院長谷寺(曹洞宗)の坐禅会に参加昨日(H30.8/6)、永平寺別院長谷寺の坐禅会に2回目に参加通算41回目の坐禅会参加情けない話で、体が左に傾いていると指摘され、直される。とはいえ、姿勢を直してもらえるのはありがたいこと。一人の坐禅ではやってもらえない。これを100円の志納金でやってもらえるのだからありがたい。 坐禅をしていて、具体的な姿勢について指導していただくのは実は2回目。1回目は [続きを読む]
  • 試論・悟っても日常は変わらない
  •  (坐)禅をすることによって得られる悟りとは、宇宙と自己とが一体化していることがわかるということだと述べる人が少なからずいます。 別に、坐禅などをしなくても、宇宙と自己とが一体化していることがわかることは、先に「宇宙と自己との一体性」(https://blogs.yahoo.co.jp/nanigotomosyugyou/66902536.html)で述べたとおりです。 とはいえ、宇宙と自己とが一体化していることがわかってどうなのだ、ということはありま [続きを読む]
  • 禅者と世俗的な仕事
  •  私の最近の優先順位は 1 仕事 2 家族 3 坐禅 4 そのほかの楽しいことです。 最近のワークライフバランスの考え方からすると、1と2は逆なのではないかという人もいるのではないかと思いますが……。 私の仕事は、公共性はあるのですが、ブラックな職場であり、残業や土日出勤も基本あるような感じ。 以前は、こんな仕事の仕方で良いのだろうか……と悩まないでもなかったのですが、坐禅を始めてからなにやら肚が [続きを読む]
  • 私が仏教を信じない理由
  •  私は、仏教思想から影響を受けて人生観、すなわち、生き様を作り上げてはいますが、仏教を信じてはいません。 私は、仏教思想のいくつかについて、自分なりに考え、その合理性があると判断し、自分の生き様に反映させてはいますが、それは、盲目的に信じ込んでいるのではありません。  私が仏教を信じていない理由は、次のとおりです。 1 釈尊などと呼ばれる人物が存在していたのは約2500年前約2500年前(文献によっ [続きを読む]
  • 坐禅会に行ってみたい人への体験的アドバイス(その2)
  • 1 坐禅会巡りを始めた直接のきっかけ 私が坐禅会巡りを始めた直接のきっかけは「観光」です。 単身赴任で福岡に勤務していたのですが、福岡からの異動間際に土日出勤が重なった結果、異動直前の1週間がほぼすべて振替休日になりました。 福岡に単身赴任をしていた間は多忙でなかなか観光することはできなかった(それでも、太宰府、柳川などにはいきました。佐賀県の唐津もJRに乗り入れている地下鉄を使えば一本で行けるの [続きを読む]
  • 備忘(禅宗と浄土教の類似性)
  • 「凡聖逆謗斉(ぼんしょうぎゃくぼうひと)しく廻入(えにゅう)すれば、衆水(しゅすい)の海に入って一味なるが如し」(親鸞「教行信証」「行巻」)「この信心すなわち仏性(ぶっしょう)なり、この仏性すなわち法性(ほっしょう)なり、法性すなわち法身(ほっしん)なり。(中略)この心すなわち大菩提心なり、大慈悲心なり。この信心すなわち仏性なり、すなわち如来なり」(親鸞「唯心鈔文意」)「此の身心を以て直ちに仏を証 [続きを読む]
  • 備忘(のぼるならゆっくりのぼれ不二の山)
  • ○禅は、他者に優しくなるための方法○人生を振り返ってみて、自分がえらく無駄なことをしたと思う私はやはり人と競うのは向かない私は俗にすぎる○それでも捨てることは怖い更にときがたてばまた拾いたくなるかも知れないから捨てられない弱さを許すのが正しいような気もする我が五体は我が物にあらず我が五体と我が心は一体我が心も我が物にあらずそれなら許してやってもよいのではないかゆっくり捨てていけばよいいずれ海に戻る [続きを読む]
  • 坐禅会に行ってみたい人への体験的アドバイス(その1)
  • 1 はじめに このブログをご覧になる方は何らかの形で坐禅に興味がある人ではないかと思います。 しかし、坐禅に関する本は読んでいても、坐禅会に関する情報がなかったり、どんな人がいたりするのだろうなどという不安から、坐禅会に参加したという人は少ないのではないかと思います。そこで、坐禅会について、私自身が体験的にどのようにして参加するようになったのかについて書いていこうと思います。2 藤井本との出会い  [続きを読む]
  • 分別(認識能力(の限界))が生存にとり不可欠であること
  • 分別、すなわち、認識能力(の限界)は、ダルマによる命令を肉体に直結させることを妨げるものです。 しかし、分別は、私たちの生存にとり必要不可欠なものです。 たとえば、強烈な宗教体験をし、「宇宙と自己との一体感を感じた。」とのお悟りをされた某お寺のご住職様を存じ上げていますが(瞑想をした場合に、このような変性意識を生じることがあるものとされており、単なる生理現象であると思いますが)、そのような方で [続きを読む]
  • 「不生断無の邪法」の徒
  •  ネットを見ていたら、盤珪永琢禅師の記事を目にしました。(「つらつら日暮らし」『盤珪禅師の公案禅批判』https://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/5c830ff28f87bdd2cc6ebcdf7f26b120) 私は、坐禅を始めてから約4か月と短く盤珪禅師のことは初めて知りました。盤珪禅師は、「圜悟(克勤)や大慧(宗杲)よりも前の宗師も、そのような古則公案を取り組まれたのだろうか」などと述べて、公案禅を否定されたそうです。加藤耕山老師の [続きを読む]
  • 格律と「修証一如」
  • ○自分の生存がおびやかされない限りにおいて、他者の幸福に寄与する行動をすることを自己の格律とする。我が五体は我が物にあらず、我を鍛練するは、我が行動による他者の幸福を更に増大させるためである。これがダルマ(の一つ)の顕れではないかと当たりをつけてみる。○道元様は、坐禅の修行をしている姿こそが、仏陀そのものであると言った。 禅では、日常生活の行動一つ一つが禅であることを求められる。 日常生活を禅として [続きを読む]
  • 宇宙と自己との一体性
  • 坐禅を始めて一月くらいのうちの初期段階で訪れた本気度の高い坐禅会で指導をしていただいた在家の方から、「坐禅の目的は、本当の自分を知ること。自己と宇宙とが一体であるとわかること。本当の自分を知りたくはありませんか。」などと言われたことがありました。 その方は、熱っぽく語り、参加者の中にはそれに聞き惚れている人もいました。 しかし、私は、さして魅力に感じませんでした。 私自身、今でも「本当の自分を [続きを読む]
  • 備忘
  • 仏教は具体的な生き方という観点では、他人の幸福の実現に寄与するという究極目的に反しない限りにおいて、自己のありのままの生き方を肯定する考え方と当たりをつけてみる。※お昼休み中の投稿です [続きを読む]
  • 備忘(存在論)
  • すべての存在するものは、「一個」のものである。認識能力(の限界)により区分されたように見えるだけ。現在も過去も未来も「一個」真理=法=ダルマも「一個」過去、他者、法等性質の異なるように思える存在も「一個」認識能力という画するものが、存在しない、機能しないなどということになれば、真理と肉体は「一個」であるから、肉体は素直に真理に従い機能する。(*さらに、重要なことは、このような認識能力(の限界)こそが私 [続きを読む]
  • 備忘(済度の究極目的の位置付け)
  • 仏教とは、強い自己肯定の宗教であり、肯定される強固な自己の傍若無人な振舞いを抑制する倫理的な原理として、済度という他者の利益を極大化する究極目標があるとはいえないだろうか。自己の煩悩を制御し、素直にダルマを肉体に直結させる以上は、当然、利他行為をするはずではあるが、そのような結果は保証されないので、究極的な目標として強調する必要があったのではないだろうか。 [続きを読む]
  • 素直に生きれば法(ダルマ)に従った生き方ができるということ(その2)
  • 私は、徹底した合理主義者であり、仏教を合理的に理解しようと考えています。とはいえ、「私達の肉体は、法(ダルマ)を直覚し、これに従って動くように作られている」とは、いかにも不合理なようにも感じがします。どのようないきさつで、このような考え方に至ったのか。 話が少し飛びますが、倫理的に何が正しいのかを決定する学説の一つとして、「直覚主義」(直観主義という訳語がつけられる場合もあります)という学説があり [続きを読む]
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