snowymoth さん プロフィール

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snowymothさん: 日本書紀と百済
ハンドル名snowymoth さん
ブログタイトル日本書紀と百済
ブログURLhttps://snowymoth.blogspot.com/
サイト紹介文日曜日の古代史。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供42回 / 38日(平均7.7回/週) - 参加 2018/08/14 14:01

snowymoth さんのブログ記事

  • 広瀬龍田神祭
  • 書紀の広瀬龍田神祭も、短い時代ごとに表記の変わる要素です。神祭の初出は天武紀の〈15〉で、翌〈16〉の4月と7月には「祭龍田風神・広瀬大忌神」との表記が見られます。天武四年(675〈15〉)(4月)遣小紫美濃王・小錦下佐伯連広足、祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大蓋・大山中曽禰連韓犬、祭大忌神於広瀬河曲。天武五年(676〈16〉)(4月)祭龍田風神・広瀬大忌神。天武五年(676〈16〉)(7月)祭龍田風神・広瀬大忌神。〈 [続きを読む]
  • 堅塩媛の改葬
  • 推古紀の〈12〉には、蘇我堅塩媛(用明・推古の母親)の改葬記事が見られます。欽明の眠る桧隈陵に、妾妃の堅塩媛が合葬されるのです。(欽明埋葬)欽明三十二年(571〈31〉)葬于桧隈坂合陵。(堅塩媛改葬)推古二十年(612〈12〉)改葬皇太夫人堅塩媛於桧隈大陵。天皇が皇后よりも妾妃と合葬されるとは、推古と蘇我氏の横車かとなりますが、実のところは欽明の皇后石姫(宣化の娘で欽明には姪)のほうが、先に欽明を捨てて(?) [続きを読む]
  • 2つの年を持つ男
  • 「聖徳太子」「誕生日」で検索すると、「西暦574年2月7日」と出てきます。これは上宮聖徳法王帝説などのいう「太子は甲午〈34〉年生まれ」を採ったものでしょう。聖徳太子伝暦によれば、太子は壬辰〈33〉年生まれです。(上宮聖徳法王帝説)上宮聖徳法王、又云法主王、甲午年産。壬午年二月二十二日薨逝也(生四十九年。小治田宮為東宮也。墓川内志奈我岡也)。(聖徳太子伝暦)元年(壬辰)春正月一日、妃巡第中、到于厩下、不覚 [続きを読む]
  • 鷦鷯と渟中の時代
  • 書紀の前半で庚午〈10〉年に5人の天皇の死没が揃っていることは、よく知られたことかと思います。(孝安死没)孝安百二年(前291〈10〉)天皇崩。(垂仁死没)垂仁九十九年(70〈10〉)天皇崩於纒向宮。(景行死没)景行六十年(130〈10〉)天皇崩於高穴穂宮。(成務死没)成務六十年(190〈10〉)天皇崩。(応神死没)応神四十一年(310〈10〉)天皇崩于明宮。天智の〈11〉の死没も〈10〉に揃えたものでしょう。というより5天皇の [続きを読む]
  • 法隆寺の全焼記事
  • 斑鳩寺とも呼ばれる法隆寺は、天智紀の〈09〉で一度火事に遭い、翌〈10〉には「一屋(ヒトツノイエ)も余ること無し」すなわち全焼するとの話です。天智八年(669〈09〉)災斑鳩寺。天智九年(670〈10〉)夜半之後、災法隆寺。一屋無余。大雨雷震。果たして法隆寺は燃えたのか。法隆寺が天智天皇九年庚午の歳四月三十日の夜半において、一屋無余の火災に罹ったとの日本紀の記事は、何としても絶対疑うべからざるものである。……こ [続きを読む]
  • 磐余稚桜宮
  • 現在の履中紀は400〈40〉−405〈45〉年を占めますが、第2の書き手が最初に作った履中紀は、40年後の440〈20〉−445〈25〉年にありました。(履中即位440〈20〉)履中元年(400〈40〉)皇太子即位於磐余稚桜宮。(履中死没445〈25〉)履中六年(405〈45〉)崩于稚桜宮(時年七十)。履中の住まいは磐余稚桜宮で、その命名は〈42〉(当初は〈22〉)のことと記されます。履中と皇后が磐余の池で舟遊びをしていたときに、季節外れの桜 [続きを読む]
  • 雄略大泊瀬の生涯
  • 現在の書紀での雄略大泊瀬幼武は、允恭紀の〈58〉に生まれて安康紀の〈34〉に結婚し、雄略紀の〈36〉に(兄皇子や従兄皇子を殺しまくって)即位したのち、23年を治めて〈59〉に病没する人です。(雄略誕生)允恭七年(418〈58〉)適産大泊瀬天皇之夕、天皇始幸藤原宮。(雄略結婚)安康元年(454〈34〉)復遂喚幡梭皇女、配大泊瀬皇子。(雄略即位)雄略即位前紀(456〈36〉)設壇於泊瀬朝倉、即天皇位。(雄略死没)雄略二十三年 [続きを読む]
  • 州柔城と角刺宮
  • 州柔は百済の復興軍が、しばし拠点とした土地です。軍は〈02〉には避城に移りながらも、〈03〉には再び州柔に戻ります。その後豊璋が福信を殺したことから、新羅軍はここぞとばかりに州柔を落としにかかります。州柔を追われた百済人らは、白村江で負けた倭軍とともに、日本への船に乗るのです。天智元年(662〈02〉)此州柔者、遠隔田畝、土地磽埆。……而都避城。天智二年(663〈03〉)乃還居於州柔。天智二年(663〈03〉)百済 [続きを読む]
  • 百済三書の謎
  • 書紀が引用したとされる百済三書(百済記・百済新撰・百済本記)の登場は、思うほど多くはありません。百済記:神功四十七年(247〈07〉)千熊長彦は職麻那那加比跪。百済記:神功六十二年(262〈22〉)沙至比跪による加羅の受難。百済記:応神八年(277〈37〉)百済王子直支来朝。百済記:応神二十五年(294〈54〉)木満致は木羅斤資の息子。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−百済新撰:雄略二年(458〈38〉)蓋鹵王 [続きを読む]
  • 辛亥年の獲加多支鹵
  • 埼玉稲荷山古墳出土鉄剣に金象嵌で記された115文字の乎獲居臣の自己主張。(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比(裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也ここに出てくる獲加多支鹵大王は、あたりまえのように雄略大泊瀬幼武(ワカタケ)のこととされ [続きを読む]
  • 日本書紀の地震
  • 昨日は北海道で大きな地震がありました。地すべりでむき出しとなった山肌に、改めて自然の恐ろしい力を感じます。書紀にも地震の記事はありますが、さほど多くはありません。日本は古代以来の地震国かと思いきや、書紀に「地震」という語が現れるのは、5世紀の允恭紀が最初です。以下、地動・震動との表現も含めて地震の記事は、以下の14の年に見られます(天武紀の〈26〉と持統即位前紀の〈26〉は同年中と考える)。(第2)允恭五 [続きを読む]
  • 麻那君斯我君
  • 武烈紀の〈24〉〈25〉には、麻那君・斯我君という謎の百済人が出てきます。武烈六年(504〈24〉)百済国遣麻那君進調。天皇以為、百済歴年不脩貢職。留而不放。武烈七年(505〈25〉)百済王遣斯我君進調。別表曰、前進調使麻那者、非百済国主之骨族也。故謹遣斯我、奉事於朝。遂有子、曰法師君。是倭君之先也。百済は〈24〉に麻那君を送るも、〈25〉には「前に贈った麻那君は、百済国の主(ニリム)の骨族(ヤカラ)ではない」との [続きを読む]
  • 銅鐸の鹿の角
  • 先に銅鐸の絵を読むうち、鹿はモン語でmuas lwjの一方、ホエジカ(barking deer)はkauvでカ・チュと合うため、銅鐸の鹿はホエジカだろうと考えました。By KongkhamWichit - Own work, CC BY-SA 4.0ホエジカはニホンジカとは違って角が短く、枝分かれもわずかです。銅鐸に描かれる鹿の角(こちらの絵を参照)も、その多くは短線やV字として描かれますから、実物と絵もよく合うのです。ニホンジカの角も季節によっては短いとして [続きを読む]
  • 馬子は嶋大臣
  • 蘇我馬子は敏達元年に大臣となって以降、用明・崇峻・推古紀と出ずっぱりに見えますが、馬子が馬子と呼ばれるのは推古即位前紀の〈52〉までで、その後は推古紀の〈26〉に没するまで、馬子は大臣あるいは嶋大臣と呼ばれます。嶋大臣の初出は推古紀の〈20〉のことで、次は死没の〈26〉に出て、〈28〉には造墓の話も見られます。舒明紀の〈30〉には嶋大臣の娘と孫が、皇極紀の〈45〉には嶋大臣の家が話のなかに現れます。推古二十八年 [続きを読む]
  • 倭直吾子籠
  • 応神の没後に起きる倭の屯田の所有権を巡る紛争は、登場人物の多いドラマです。額田大中彦皇子(応神の庶子)が、屯田司である淤宇宿禰に、倭の屯田と屯倉の権利を要求する。淤宇宿禰が太子の菟道稚郎子に、額田大中彦皇子の主張は不当だと訴える。菟道稚郎子は仁徳大鷦鷯尊に裁定を委ねる。淤宇宿禰の訴えを聞いた大鷦鷯は、倭直の祖である麻呂に事情を尋ねる。麻呂は「その件は弟の吾子籠が知っている」という。大鷦鷯は淤宇宿禰 [続きを読む]
  • 丈六の仏像
  • 書紀で見かける「丈六の仏像」とは、立つと1丈6尺(約4.85m)となるような仏像をいうそうです。ですが5メートルもある立像はそうそう造るものでもなさそうですし、実際には坐像として8尺に造ることが多いと思われます。(百科事典マイペディア)【丈六】仏像の高さの基準。立像では像高1丈6尺の像、座像では像高8尺の像をいう。なお像高が8尺の立像、4尺の座像を半丈六などという。丈六という語は欽明紀の〈05〉をはじめとして、書 [続きを読む]
  • 小野妹子と通事
  • 推古紀の〈07〉−〈09〉には、小野臣妹子なる遣唐使(実際は遣隋使)が連続的に現れます。推古十五年(607〈07〉)大礼小野臣妹子遣於大唐。以鞍作福利為通事。推古十六年(608〈08〉)小野臣妹子、至自大唐。……唐客裴世清罷帰。則復以小野妹子臣為大使。吉士雄成為小使。福利為通事。推古十七年(609〈09〉)小野臣妹子等、至自大唐。唯通事福利不来。〈07〉には大唐に出かけて〈08〉には戻ってまた出かけ、〈09〉には再び戻っ [続きを読む]
  • 銅鐸の絵を読む
  • 今回は書紀ではなく、銅鐸の絵の話です。昆虫や大小の動物、人の行動などを描いた銅鐸の絵は、当時の人の環境や生活を伝えるものに見えますが、複数の銅鐸に異なる筆跡(描跡?)で、同じ絵が繰り返し描かれることを考えると、それらの絵には文字的な性格も備わるように思われます。少し前の大羽弘道著「銅鐸の謎」なども、「弥生時代の銅鐸になぜか蘇我入鹿の名が刻まれている」とする結論はトンデモでも、銅鐸の絵を文字と見ると [続きを読む]
  • 手白香と白髪
  • 手白香皇女は仁賢の娘として生まれ、継体の皇后となり欽明天国排開広庭を生むとの設定です。武烈小泊瀬稚鷦鷯には同母姉に当たります。(手白香紹介)仁賢元年(488〈08〉)立前妃春日大娘皇女為皇后。……其三曰手白香皇女。……其六曰小泊瀬稚鷦鷯天皇。(手白香立后)継体元年(507〈27〉)立皇后手白香皇女、脩教于内。遂生一男。是為天国排開広庭尊。(手白香紹介)欽明即位前紀(539〈59〉)天国排開広庭天皇、男大迹天皇嫡 [続きを読む]
  • 磯城と磯長
  • 欽明は兄の宣化の死没を受けて〈59〉に立つ天皇ですが、遷都は翌〈00〉で、磯城郡磯城嶋の磯城嶋金刺宮に住むとの話です。(欽明即位)欽明即位前紀(539〈59〉)即天皇位。(欽明遷都)欽明元年(540〈00〉)遷都倭国磯城郡磯城嶋。仍号為磯城嶋金刺宮。欽明の元年には異説があって、書紀では欽明紀の552〈12〉年とされる仏教伝来が、元興寺伽藍縁起併流記資財帳では「欽明天国案春岐広庭七年である戊午〈58〉年」とされますので [続きを読む]
  • 足の天皇ズ
  • 神功の諡号の気長足姫(オキナガタラシヒメ)は、舒明の息長足日広額(オキナガタラシヒヒロヌカ)と、オキナガタラシまでが共通です。この2人の時代は、神功が〈29〉に死に舒明は〈29〉に立つというように、干支的には〈29〉〈29〉で繋がる気配が見られます。神功六十九年(269〈29〉)皇太后崩於稚桜宮。舒明元年(629〈29〉)即天皇位。神功も舒明も足の天皇といえますが、そういえば孝安日本足彦国押人という足の天皇が〈10〉 [続きを読む]
  • 神功と草壁
  • BS-TBSの「にっぽん!歴史鑑定」8月27日放送分は「高松塚古墳とキトラ古墳の謎」がテーマでした。古墳のある飛鳥の地が皇族の墓地であることや、副葬品の鏡の種類、遺骨はどちらも40〜60代の男性といった情報から、2つの兄弟古墳の被葬者は「天武天皇の皇子」ではないかとのことでした。高松塚古墳とキトラ古墳の近くには、無壁画ながらも構造のよく似た古墳もあったような気がしますが、それはさて措き、番組中には草壁皇子の名前 [続きを読む]
  • ミシコチの話
  • 神功紀の〈20〉には、新羅王の波沙寐錦が微叱己知波珍干岐を人質として日本に送ります。(微叱己知来日)神功摂政前紀(200〈20〉)爰新羅王波沙寐錦、即以微叱己知波珍干岐為質。欽明紀の〈20〉には、弥至己知奈末というミシコチも来日するでしょう。(弥至己知来日)欽明二十一年(560〈20〉)新羅遣弥至己知奈末献調賦。書紀は2人の「新羅人ミシコチ」を、同じ〈20〉に揃えてあるのです。微叱己知・弥至己知以外の己知といえば [続きを読む]
  • 乱・乱・乱
  • 〈59〉に雄略が没すると、妾妃の吉備稚媛とその子の星川皇子が謀反を起こします。太子の清寧白髪の代わりに、星川を帝位につけんとするのです。清寧即位前紀(479〈59〉)大泊瀬天皇崩。吉備稚媛、陰謂幼子星川皇子曰、欲登天下之位、先取大蔵之官。この星川皇子の反乱から約20年後の498〈18〉年には、平群真鳥臣も太子の武烈を差し置いて、皇位につこうとするでしょう。武烈即位前紀(498〈18〉)億計天皇崩。大臣平群真鳥臣、専 [続きを読む]
  • オルクとオルケ
  • 韓国語での女性の親族の呼称のうち、書紀と繋がりそうなものを挙げてみます。母親:어머니(オモニ)男性から見た姉:누나(ヌナ)女性から見た姉:언니(オンニ)父方の叔母:고모(姑母・コモ)母方の叔母:이모(姨母・イモ)妻:아내(アネ)嫁:며느리(ミョヌリ) 女性から見た兄弟の妻:올케(オルケ)母親のオモニは日本語でもオモですね(母屋とか)。書紀ではオモ・オミの臣は親を指す語としてみました。ヌナは書紀では [続きを読む]