山水翁 さん プロフィール

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山水翁さん: 十世可知也
ハンドル名山水翁 さん
ブログタイトル十世可知也
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/sansui-ou
サイト紹介文独学の歴史観等を気儘に書き綴って行こうと思います。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供13回 / 18日(平均5.1回/週) - 参加 2018/11/26 17:22

山水翁 さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • 始皇と呂不韋
  •  何かと武帝に比較されることの多い始皇帝もまた、武帝とよく似た生涯を送った帝王である。後の始皇帝こと嬴政がこの世に生を受けた時、祖国秦の君主は彼の曾祖父に当たる昭襄王だった。太子の安国君(政の祖父)には二十人以上の子があったが、政の父の嬴子楚は人質として隣国の趙へ送られており、長子の政も秦ではなく趙の首都邯鄲で産まれ、そのまま同国で父母と共に少年期を過ごしている。数ある安国君の子の中から、特に子楚 [続きを読む]
  • 武帝の功罪(改革の終焉)
  •  君主の直感について言えば、国家の長い歴史の中でも、特に重大な決定を下す際には、常に主要な因子の一つとなっている。例えば公表こそされていないが、今も日本の国務大臣は、元首である天皇に対して、内奏という国務報告を行っている。かつて昭和天皇への内奏に臨んだ諸大臣は、問答に表れる先帝の聡明さに驚愕し、国会答弁などとは比較にならないほど緊張したという。もともと君主というのは世俗に塗れていないので、世の中に [続きを読む]
  • 武帝の功罪(人事)
  •  親政を始めた武帝は漢帝国の改革に着手して行ったが、その成果が表れるのに然して時間は掛からなかった。と言うのも表面には出て来なかっただけで、実際には朝廷の内部でさえ旧体制に対する潜在的な否定派は多数存在しており、しかもそうした改革の支持者達には若く活動的な人材が多かった。反対に文景体制の維持を主張し、あくまで従来通りの方針に則った運営を支持していた保守派というのは、お世辞にもこれからの国家に必要と [続きを読む]
  • 武帝の功罪(儒教)
  •  武帝が儒教重視の姿勢を示し始めたのは既に十代の頃からで、景帝の代から博士の地位にあった董仲舒が、儒学以外の諸子百家を排して儒教を唯一の国学とすべきだと上奏した際には、これを嘉納している。しかし朝廷の実権を握っていた董太皇太后が儒者を厭っていたため、董氏の存命中は政策として実際に施行されることはなく、むしろ太后に嫌われた儒者が朝廷から追放されてしまうような時期もあった。やがて武帝が親政を始めると、 [続きを読む]
  • 武帝の功罪(朝廷の改革)
  •  内政面での武帝の評価を落としている要因の一つが、急激な変革によって齎された社会の混乱に対して、政治による有効な解決策を明示できなかったことならば、もう一つは統治者として天下に及ぼした負の側面、即ち天子である武帝個人に向けられた批判となる。ちょうど武帝の治世の頃に表面化し始めた、貧富の格差の拡大や末端の民衆生活の崩壊、治安の悪化や汚職の蔓延といった諸問題が、あくまで帝独りではなく朝廷全体の責任であ [続きを読む]
  • 武帝の功罪(汚職の蔓延)
  •  治安の悪化と並んで、内政面での武帝の評価を落としている現象に、汚職の蔓延がある。無論汚職そのものはいつの時代にもあることで、何も武帝の時代に限ったことではないし、これから先も絶対になくならない。また当時の漢は世界有数の超大国であり、且つ先進国でもあったから、どれほど汚職が目立つようになったと言っても、それが大漢帝国を傾けたとか、統治機構を崩壊させたなどということもなかった。とは言え武帝以降の漢で [続きを読む]
  • 武帝の功罪(治安の悪化)
  •  同じく武帝の治世の社会不安を示す事象の一つに、治安の悪化がある。国家規模の急激な変革の後(或いはその最中)に、その副作用として国内が著しく不安定となり、目に見えて治安が悪化するのは、古今東西を問わずに起こる現象であり、武帝統治下の漢もまた例外ではなかった。そしてこの治安の悪化、即ち犯罪率の上昇は、武帝一代のみならず、その後も深刻な社会問題となっており、一見平穏無事に見える漢帝国の裏側として、歴代 [続きを読む]
  • 武帝の功罪(格差社会)
  •  君主としての武帝の功罪については評価の分かれるところで、その未曾有の功績については敢て論ずるまでもない反面、その罪過もまた甚大に過ぎたというのが、ほぼ共通の認識となる。もともと武帝の業績の大半は外征に起因しており、国内の繁栄も基本的には対外的な拡張路線に沿ったものだったから、主要な事績の多くは外征と切り離して語ることができない。但しそれは裏を反せば、その前段階となる外交の方は余り成功しなかったと [続きを読む]
  • 新世界秩序
  •  匈奴を駆逐したことで漢は、従来の外交戦略を根本から見直すことになった。漢と匈奴が二大勢力として並存していた頃は、周辺諸国や諸民族に対して宥和を第一に臨んでいた漢だったが、唯一の超大国として東亜の国際社会に於ける責任を一身に負う立場になると、否応なしに新たな世界秩序を構築する必要に迫られたからである。と言うより匈奴が北の覇者として君臨している間は、たとい他者との間でどんな問題が起きようと、漢の一存 [続きを読む]
  • 四夷と中国
  •  地上のあらゆる場所へ棲息圏を広げた人類は、その辿り着いた土地が灼熱の砂漠であれ酷寒の氷原であれ、そこで生き抜くために最善の方法を見出すことで、いかなる環境にも適応して来た。現代に生きる我々は、衣食住を初めとして、(文明国に限れば)世界中のどこに居ても同じ生活を送ることができるが、それはあくまで産業革命以降に実現したものであって、近代以前には有り得ない話だった。そしてこの地上のいかなる場所に於いて [続きを読む]
  • 衛青
  •  将軍衛青による第一回目の匈奴遠征が行われたのは、武帝の即位から十二年目の元光六年(紀元前一二九年)のことで、以後衛青は元狩四年(前一一九年)までの約十年の間、甥の霍去病と共に幾度となく匈奴へ出陣し、北狄に対して前例のない戦果を挙げることとなる。尤も匈奴征伐そのものは、衛青が遠征を開始する四年前の元光二年(前一三三年)にも一度計画されており、この時は匈奴が信用しそうな者に内応を演じさせ、容易く一県 [続きを読む]
  • 漢の隆興
  •  話を戻すと、高祖は白登山の戦いから五年後の高祖十二年(前一九五年)に世を去り、弱冠十六歳(諸説あり)の皇太子が二代皇帝として即位した。これが恵帝である。しかし生来柔弱だった恵帝は、実母である呂太后の暴虐や呂一族の専横に気を病んで政務を放棄し、日々酒色に耽って在位八年で崩じた。その後はしばらく呂氏が朝権を握っていたが、呂后の死と共に呂一族は粛清され、高祖の子で代王に封ぜられていた劉桓が、宗族や重臣 [続きを読む]
  • 北狄
  •  話を遊牧民に戻すと、周代の頃の支那では、北方の異民族を総じて狄と呼んでいた。方角である北を加えて北狄とも言い、恐らく元来は北方のとある民族の名称だったものと思われるが、やがて多分に通称として遊牧民そのものを指すようになった。他の三方の異民族はそれぞれ南蛮・東夷・西戎と言い、四方を総称して蛮夷戎狄などと呼ぶこともある。例えば今でも日常的に使われる「野蛮人」という言葉は、もともと南方の未開人を表した [続きを読む]
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