日を改めるともっと困惑する記事が出てくる。 建久九(一一九八)年二月一四日、後鳥羽上皇が石清水八幡宮へ御幸することとなった。これだけならば問題ない。上皇が石…
源頼朝の手にした征夷大将軍の称号は武家のトップの称号ではない。天叢雲剣の新たな形代こそ征夷大将軍という称号であった。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
日を改めるともっと困惑する記事が出てくる。 建久九(一一九八)年二月一四日、後鳥羽上皇が石清水八幡宮へ御幸することとなった。これだけならば問題ない。上皇が石…
藤原定家が呈している苦言の全てを受け入れるわけにはいかないが、受け入れなければならない苦言もある。 院政開始前から周囲に人を集めていたこともあって、一九歳に…
もっとも、実際の後鳥羽上皇はそれなりに政務も執っていたはずであり、藤原定家がこうした後鳥羽天皇の日常の過ごし方について苦言を呈しつつ書き記しているのも、上皇…
さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。 実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉ら…
土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。 しかし、後鳥羽…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
同日、後鳥羽天皇が退位して為仁親王に帝位を譲ったのである。土御門天皇の治世のスタートであり、後鳥羽院の院政のスタートの瞬間でもあった。 土御門天皇はまだ三歳…
建久九(一一九八)年一月五日、権大納言土御門通親が後院別当に就任することが発表された。後院別当とは、字義だけを捉えれば天皇の退位後の住まいの管理人であるが、…
後鳥羽天皇の即位の状況はこの時代の人であれば誰もが知っている。ゆえに、帝位に就く資格を有しながら弟に追い抜かれた守貞親王と惟明親王のことは、この時代の人であ…
建久八(一一九七)年の年末時点での鎌倉幕府の継承は理論上の話であったが、それよりはるかに大きな継承、すなわち、皇位継承は現実味を帯びてきていた。かなりの可能…
吾妻鏡の欠落のために、昔から議論の起こる話がある。 源頼家はいつから源頼家と名乗るようになったのかという話である。 源頼家の幼名が万寿であることは誰も異論が…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
大姫を失った源頼朝は三幡を入内させようとしたものの入内させられずにおり、様々な手段を練って朝廷に食い込もうとしているものの上手くいかずにいる。 これは源頼朝…
しかし、建久八(一一九七)年九月一〇日、藤原範季の娘の藤原重子が後鳥羽天皇の皇子を産んだことで、藤原範季は土御門通親に続いて後鳥羽天皇の皇子の祖父となった。…
この時代の貴族達は、源頼朝が大姫を亡くしても自分の娘の入内を諦めないでいること、また、源頼朝がこの時代の最大の武力を有していることも熟知しているが、源頼朝の…
慈円は愚管抄にて、大姫を失った源頼朝が、大姫の妹である三幡を入内させようと画策したと記述した。しかし、吾妻鏡の欠落もあって、三幡という女性についての記録は乏…
大姫は治承二(一一七八)年に源頼朝の娘として生まれ、六歳のときに木曾義仲の後継者であるはずの源義高と婚約しており、このまま年月を重ねれば源義高との結婚生活が…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
後鳥羽天皇のもとには人生一発逆転を狙う者が集まり、後鳥羽天皇は周囲に集う野心家達を自分の手駒として利用するようになっていた。 後鳥羽天皇は自らの周囲に野心家…
源義経と行動を共にしようとした飛鳥井雅経であるが、父親が源義経の協力者であったために配流となり、自身も連座として鎌倉に護送されると、ここで飛鳥井雅経はその才…
京都で九条兼実が失脚したことを鎌倉の源頼朝が掴んでいなかったわけはなく、何らかの形で京都のコンタクトを取る必要も感じていた。土御門通親や丹後局高階栄子とのコ…
失脚したはずの九条兼実の家司であるはずの三条長兼が、自由自在に内裏に出入りするようになっているのは、後鳥羽天皇が三条長兼を直接呼び出すようになったからである…
クーデターとしてもよい建久七年の政変を主導したのは土御門通親である。 その後の政権運営を見ても土御門通親の意向が強く反映されていることが読み取れるというのが…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
現時点で土御門通親のもとに集っているのは九条兼実に対する反発である。ここで九条兼実がいなくなり、藤原兼房がいなくなり、さらに慈円も天台座主の地位から降りたた…
それにしても、九条兼実はなぜ関白の地位を手放したのか? 従来の説では、関白の地位を手放したのではなく失脚させられたということになっている。 これも遠城悦子氏…
ここで着目したいのが、そもそも九条兼実が実弟でもある太政大臣藤原兼房のことをどのように捉えていたのか、という視点である。藤原兼房は、兄の引き立てがなければ太…
建久七年の政変の幕開けから二日後の建久七(一一九六)年一一月二五日、誰もが信じられないニュースを耳にした。 関白九条兼実、更迭。上表すら許されず、後任の関白…
後鳥羽天皇と関白の娘との間に女児が生まれ、土御門通親の養女との間に男児が生まれた。性に目覚める年齢の少年の周囲に性の相手をする女性がいる、それも、女性のほう…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
先に記したように、吾妻鏡は建久七(一一九六)年から建久九(一一九八)年までの記事が現存していない。ゆえに、この三年間の鎌倉幕府の動静は吾妻鏡以外の情報から記…
九条兼実が摂政となってから一〇年が経過している。とは言え、九条兼実はまだ四九歳であり、政界引退を考える年齢ではない。しかし、周囲は九条兼実の政界引退を予期す…
その流れの中において、天台座主が慈円であるということ自体が園城寺の僧侶にとって許容しづらいものであったのだが、建久七(一一九六)年四月一八日に四天王寺別当の…
愚管抄は歴史書であるが、源平合戦以降の歴史について言えば同時代史料でもある。どういうことかというと、著者である慈円の生まれたのが久寿二(一一五五)年であり、…
後鳥羽天皇は幼帝ではなく、天皇親政を、そして院政を目指して行動する若き帝王へとなっていたことに気づいた。 後鳥羽天皇が政治家として勢力を築き上げていることを…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
建久六(一一九五)年一一月一〇日、除目。 九条良経こと権大納言藤原良経、内大臣に昇格。 土御門通親こと中納言源通親、権大納言に昇格。 吉田経房こと権中納言藤…
中宮任子が女児を産んだ。 九条兼実は自分の娘の産んだ子が女児であったことに落胆したし、九条兼実ほどでないしても後鳥羽天皇も落胆があった。とは言え、天皇の実の…
後鳥羽天皇が九条兼実を見限っていた頃、鎌倉の源頼朝は政治家としての判断を下していた。 先に、統治者に求められる国家規模の経営能力として、戦争をしないことを書…
この意味で、源頼朝は大きなアドバンテージを獲得していた。何と言っても戦争を終わらせた当事者である上に、源頼朝の元には京都の貴族社会に入ることの許されない低い…
それでも白河院政が絶大な権力を握ることに成功していたのは、それまで絶対的な権力として君臨していた藤原摂関政治における不遇への反発を最大限活かすことができたこ…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
院政復活を意図する後鳥羽天皇は、権力掌握を考えれば最善の行動をしていたと言える。しかし、権力を握って何をするかという視点で捉えると疑念を感じるところがある。…
後鳥羽天皇はもう幼帝ではなかった。 関白はいるものの摂政を必要としない元服済の天皇であり、政治的意志を持った一個人として天皇親政を、そして、院政復活を狙うま…
自分の娘が産んだのが女児であったことを悔やんだという九条兼実であるが、表面上はこれまで通りであろうとしていた。 しかし、周囲はもう九条兼実から離れだしていた…
熊谷直実が八月一〇日に鎌倉を訪れたのは吾妻鏡に記載されているとおりであろう。仮に吾妻鏡の記載が捏造であったとしても、東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺をこの頃に建立…
さて、この時期の吾妻鏡の記事の中には古典の授業でも出てくる有名な話が出てくる。記事が記されているのが建久六(一一九五)年八月一〇日のことなので、ここで記して…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
鎌倉幕府の面々が去り、京都は平穏を取り戻していた。 本来ならばその平穏の様子を当時の記録から推し量りたいところであるが、非常に残念なことに、九条兼実の日記は…
建久六(一一九五)年六月二五日、鎌倉幕府の面々が鎌倉へと出発した。 表向きの目的である東大寺再建供養への参列は果たしたが、真の目的である大姫入内は果たせなか…
鎌倉幕府の面々が上洛したのは、主目的は源頼朝の娘を入内させることであったものの、表向きは東大寺再建供養への参列である。東大寺再建供養が終わっても京都に留まり…
京都を発って四天王寺に向かい一泊二日で戻ってきた、それも、どんなに少なく見積もっても一万人を超える人数が一泊二日で戻ってきたとあって、京都内外に鎌倉幕府の実…
建久六(一一九五)年五月一八日、鎌倉幕府の一行は四天王寺へ向けて出発することを決めた。それも、鎌倉武士達にとっては珍しく、水路での移動であった。淀川に船を浮…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
先に、東大寺再建供養の場に大仏鋳造責任者となった宋人の陳和卿も、そして、東大寺復旧工事の総責任者である重源上人もいなかったことは記した。 陳和卿についてはそ…
娘を入内させることを目論む源頼朝にとって障壁となっていた九条兼実が障壁で無くなり、宣陽門院に協力したことで丹後局高階栄子のバックアップも得ることに成功したこ…
九条兼実にとっては、長講堂領荘園の権利確認そのものが政治的に痛い話であった。私有財産への侵害だけでも問題であるのに、後白河法皇の保有する資産の相続に口出しし…
源頼朝が狙っていたのは娘の入内である。 とは言え、仮に九条兼実が政治的ミスをやらかしていなかったならば、源頼朝は九条兼実との離反を考えはしなかったであろう。…
そのあたりの答えは建久六(一一九五)年四月一日の九条兼実の日記にある。九条兼実はこの日も源頼朝と面会したことは書いているが、そこにあるのはかつてのような友好…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
ただし、源頼朝にしてみれば高階栄子に対する接近は必ずしも最良とは言い切れない。高階栄子は九条兼実に対抗する勢力の中心である土御門通親こと源通親と親しく、この…
さて、その大前提となるのが大姫を後鳥羽天皇のもとに嫁がせることであるが、結論から言うと難航した。 入内といっても大姫が皇后や中宮に立后されることは難しい。そ…
源頼朝とて、京都の貴族達から向けられている視線を理解していないわけはない。とは言え、そのまま放置することを良しとするほど無神経ではない。 人間、脳内に作り上…
このことは源頼朝も当然ながら知っている。 式典の翌日である建久六(一一九五)年三月一三日、源頼朝は復旧工事に尽力した陳和卿への面会を求めたが、陳和卿はそれを…
僧兵と鎌倉武士との間で諍いが起こる寸前に至ってから時間が少し経過してから、後鳥羽天皇や九条兼実をはじめとする貴族達も大仏殿に到着し、未刻というから現在の時制…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
なお、先頭を務める和田義盛と、最後尾を務める梶原景時の両名は、儀仗兵を務める直前まで警備に専念しており、儀仗兵の列を作る直前になって警備から離れている。つま…
そして、源頼朝もこのときばかりはあくまでも一人の貴族として、すなわち、前権大納言として東大寺に参詣しており、周囲をかためる武士達が鎌倉幕府の御家人であるとい…
鎌倉幕府の一行が石清水八幡宮を出発したのと同じ建久六(一一九五)年三月一〇日、後鳥羽天皇が京都を出発して奈良に向かった。 陰陽道に従えば行幸の吉日ではないが…
建久六(一一九五)年三月一〇日、鎌倉幕府の一行が石清水八幡宮を出発し、奈良の東南院に到着。ここを鎌倉幕府の一行における奈良での滞在地とし、東大寺の落慶供養に…
なお、実際には辞表受理となっていないために現役の征夷大将軍であり続けているが、源頼朝自身は前年に征夷大将軍を辞したと考えていることもあってか、武士としての移…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
建久六(一一九五)年の正月に予定していた東大寺再建供養は三月へと延期になっており、正式な再建供養は三月一二日に開催することが決まった。 現在だと京都から奈良…
これらの史料に基づくと、二度目の上洛行は以下の通りとなる。 鎌倉幕府の一行が鎌倉を出発したのは、吾妻鏡によると建久六(一一九五)年二月一四日の、巳刻というか…
源頼朝が建久六(一一九五)年に上洛することは周知の事実である。 しかし、何月何日に上洛し、何日間ほど京都に滞在するのかは未定である。 源頼朝の前回の上洛は建…
源頼朝は当初、建久六(一一九五)年の正月を奈良の東大寺で迎えることを想定していたが、それを断念せざるを得なくなっていた。ゆえに、建久六(一一九五)年の新年を…
何度か述べているが、源頼朝自身は武士の集団のトップとして鎌倉幕府を成立させたのではなく、上級貴族の一員として、上級貴族であれば保持することが許されている権利…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
建久五(一一九四)年一〇月一七日、誰もが予想しなかった行動を源頼朝が見せた。 征夷大将軍の辞職を申し出たのである。 征夷大将軍の辞職については一一月一七日に…
建久五(一一九四)年九月時点で、翌年正月に東大寺復旧工事の完成祝賀式典を開催することは決まっていたが、奈良の地で平家によって焼かれた寺院は東大寺だけではない…
一条高能の婚姻話の白紙撤回は本来ならばそれなりに大きな話題になるはずであったが、実際にはさほどの大きさにならなかった。建久五(一一九四)年八月一九日にとてつ…
その幸福は翌年に終わった。源義高が討ち取られたのだ。七歳であった大姫はこのときに人生が終わってしまったと言える。想像していただきたい。大切な人が殺された、そ…
それにしても、源頼朝はどうして上洛にこだわったのか? 東大寺は源平合戦における平家方の破壊の象徴であり、その破壊の象徴である東大寺が復活したというのは、源頼…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
兆候は建久五(一一九四)年七月に既に見られた。 東大寺復旧工事の完成祝賀式典は翌年の正月に開催することが決まっており、源頼朝も式典に参加する見込みであった。…
九条兼実の権力の源泉の一つに鎌倉幕府の後ろ盾があったことは事実である。しかし、それは相互が相互に相手を利用するためであり、九条兼実が源頼朝を特別に引き立てた…
「ブログリーダー」を活用して、德薙 零己さんをフォローしませんか?
日を改めるともっと困惑する記事が出てくる。 建久九(一一九八)年二月一四日、後鳥羽上皇が石清水八幡宮へ御幸することとなった。これだけならば問題ない。上皇が石…
藤原定家が呈している苦言の全てを受け入れるわけにはいかないが、受け入れなければならない苦言もある。 院政開始前から周囲に人を集めていたこともあって、一九歳に…
もっとも、実際の後鳥羽上皇はそれなりに政務も執っていたはずであり、藤原定家がこうした後鳥羽天皇の日常の過ごし方について苦言を呈しつつ書き記しているのも、上皇…
さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。 実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉ら…
土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。 しかし、後鳥羽…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
同日、後鳥羽天皇が退位して為仁親王に帝位を譲ったのである。土御門天皇の治世のスタートであり、後鳥羽院の院政のスタートの瞬間でもあった。 土御門天皇はまだ三歳…
建久九(一一九八)年一月五日、権大納言土御門通親が後院別当に就任することが発表された。後院別当とは、字義だけを捉えれば天皇の退位後の住まいの管理人であるが、…
後鳥羽天皇の即位の状況はこの時代の人であれば誰もが知っている。ゆえに、帝位に就く資格を有しながら弟に追い抜かれた守貞親王と惟明親王のことは、この時代の人であ…
建久八(一一九七)年の年末時点での鎌倉幕府の継承は理論上の話であったが、それよりはるかに大きな継承、すなわち、皇位継承は現実味を帯びてきていた。かなりの可能…
吾妻鏡の欠落のために、昔から議論の起こる話がある。 源頼家はいつから源頼家と名乗るようになったのかという話である。 源頼家の幼名が万寿であることは誰も異論が…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
大姫を失った源頼朝は三幡を入内させようとしたものの入内させられずにおり、様々な手段を練って朝廷に食い込もうとしているものの上手くいかずにいる。 これは源頼朝…
しかし、建久八(一一九七)年九月一〇日、藤原範季の娘の藤原重子が後鳥羽天皇の皇子を産んだことで、藤原範季は土御門通親に続いて後鳥羽天皇の皇子の祖父となった。…
この時代の貴族達は、源頼朝が大姫を亡くしても自分の娘の入内を諦めないでいること、また、源頼朝がこの時代の最大の武力を有していることも熟知しているが、源頼朝の…
慈円は愚管抄にて、大姫を失った源頼朝が、大姫の妹である三幡を入内させようと画策したと記述した。しかし、吾妻鏡の欠落もあって、三幡という女性についての記録は乏…
大姫は治承二(一一七八)年に源頼朝の娘として生まれ、六歳のときに木曾義仲の後継者であるはずの源義高と婚約しており、このまま年月を重ねれば源義高との結婚生活が…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
奥州藤原氏にとっての源義経は貴重な切り札であった。承安四(一一七四)年に鞍馬寺を出て新天地を求めた源義経を奥州藤原氏が受け入れたのも、源義経が源義朝の実子で…
先に、源平合戦は奥州藤原氏にとって勢力拡張のチャンスであったと記した。そして、関東地方はともかく日本海沿岸に沿って軍勢を進めるチャンスがあったと記した。ただ…
日本国内に目を向けると、奥州藤原氏が無視できない存在として目に入る。 奥州藤原氏の本拠地である平泉は日本海より太平洋のほうが近い土地であるが、奥州藤原氏自身…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
源平合戦期の日本は奇跡が二つ起こっている。 一つは国外からの侵略を受けなかったこと。 そしてもう一つが、奥州藤原氏が特筆すべき動きを見せなかったことである。…
後鳥羽天皇の教育をきっかけとして自身の栄達を成し遂げようとする貴族達がいる一方、既に権勢の側に加わっている貴族達は政務を遂行しつつあった。 その中心となって…
源義経の在処が奥州平泉であることが判明しつつある頃、京都では一つの騒動が起こっていた。騒動の中心は例によって例の如く後白河法皇である。 後白河法皇の寵愛する…
文治三(一一八七)年二月一〇日、鎌倉に衝撃的な情報が届いた。 源義経の消息が判明したというのだ。なお、この時点では未確認情報であり、断言とはなっていない。 …
年が明けた文治三(一一八七)年一月、未だ源義経の消息は把握できずにいる。しかし、源義経の逃げ道は、一つ、また一つと封鎖されていた。源義経を捉えよとの院宣が発…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
結果はどうあれ、少なくとも京都の貴族達の間では、源義経に対して公然と協力するという光景が消失した。ただし、既に一年以上にも亘って動静が不明となっている源義経…
京都で起こっていたのは、位階は持っていても役職は持っていない、すなわち公的には権力を持たないはずの源頼朝に対する忖度であった。源頼朝に率先して従うことが自分…
北条時政に代わるために一条能保が京都に送り込まれたのち、一条能保が京都で調査をし、一条能保がまとめた調査結果を鎌倉に送り、鎌倉の源頼朝から京都の一条能保へと…
京都とその周辺とで文字通りの一触即発の事態へと発展していた一方、鎌倉でも一触即発の事態になりつつあった。もっとも、鎌倉における一触即発とは比喩的な意味である…
政治家としての源頼朝は、有能ではあっても冷酷である。そして、支持率となると、特に農村部で高いものがあったとするしかない。源義経を捕縛しようとしているために都…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
文治二(一一八六)年閏七月、吾妻鏡の記述に従えば静御前に生ませたばかりの我が子が殺された頃、源義経は南都、すなわち奈良にいたという。また、南都においても多く…