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幸せを約束する聖書の言葉 https://bible.hatenablog.com/

あなたが聖書のみ言葉に接するとき、心に満足と喜び平安が与えられます。

日々、神様が私共に与えてくださる聖書のみ言葉を通して、生きる力と助けを得たいと思います。

DUGON(ジュゴン)
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千葉県
出身
那覇市
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2010/06/15

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  • 罪を除くには

    心に罪や悪を持っていると、なんとなく寝苦しく、心に平安がありません。他人との交わりの中でも、いつも明るい気持になれないものです。そのまま放っておくと、心は硬くなり鈍感になっていきます。 教会の牧師館の隣に芝生を植えたことがあります。雑草が生えてくるかも知れないから取るようにと言われました。私は気をつけて、できるだけ雑草が小さいうちに取るようにしていたのです。ところがある時から怠けてしまって放っておいたところ、雑草が増え続け、取るのに大変になってしまったことがありました。罪というのも同じもので、早いうちに芽を摘んでおかないと、とんでもない罪の雑草が心の中に増えることになります。 罪の始まりはちょ…

  • 救い主のしるし

    クリスマスにちなんだ聖句を読んでみましょう。 天使は言った、「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシヤである。あなた方は布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたのしるしである」。ルカによる福音書2章10節 イエス・キリストがお生まれになったとき、天使が羊飼いたちに告げた言葉です。その中で、特に救い主誕生のしるしとして、布に包まっている事と、飼い葉桶の中に寝かされている事、それに乳飲み子という事でした。救い主の誕生の目印としては、ごくありふれた粗末なものに見えま…

  • 7月をもって、ブログを閉鎖いたします。

    ブログ「幸せを約束する聖書の言葉」を7月末をもって、閉鎖いたします。 長い間、ブログをご愛読いただき有難うございました。 儀部明男、まり子

  • 「すばらしい答え」(4)・・・「祝福の山」(エレン・ホワイト著)より

    「『神はわたしを顧みてくださらない』という必要はない。 道は悪く、坂は急であるかもしれない。 右や左に落とし穴があるかもしれない。 またわたしたちは、旅の労苦を耐えなければならないかもしれない。 疲れた時も、休息を切望する時も、労苦を続けなければならないかもしれない。 弱っている時にも、戦わねばならないこともあろう。 失望に陥っても、なお希望を持たなければならない。 しかし、キリストに導かれて、わたしたちは、必ず最後には、望む港に達することができるのである。 キリストご自身が、わたしたちの先に悪路を進み行かれ、わたしたちの足のために道をなめらかにされた。」 祝福の山174〜175頁

  • 「すばらしい答え」(3)

    「『あなたはまだ死んでいません。命のある限り、みんなで助け合わなければなりません。あなたの残している力がどんなに僅かであっても、それは仲間全体のものです。 最後の一滴の力を振り絞ってでも、あの女の子を運ぼうとしている我々を手助けして下さい。あなたが本当に息の絶えてしまう時まで、手助けしてください。』 この危険極まりない旅行中に、三人の老人が三度、とても見込みがないという断念の言葉を漏らした。その度ごとにリーダー(指導者)は疲れた老人たちに、最後に残った一滴をふり絞ってでも、子供を運ぶ手助けをして欲しいと切に頼んだのでした。 朝の光が射し染めたとき、一行は山を越え、国境線を抜けて、隣の国へ入って…

  • 「すばらしい答え」(2)

    「月の出ない夜、私は難民の方々を案内して、山を越え、スペイン領内に送り込む予定です。これは困難なことです。けれども神様は必ず私たちを助けてくださいます。」 遂にその日の夜が来ました。 山すそにある集合場所へ急ぎました。彼女がそこに着いた時には、仲間が待っていました。母親は出発前にすっかり疲れていました。 男も女も老人も中年も、そして若者も案内人に導かれて、自由の地を目指して歩み続けました。 母と子は仲間の全てに労わられ、若者と中年の男の二人が交代で子供を連れて行くと申し出ました。 一行が山を登り始めて、高くなって激しさが増すにつれ、疲労を訴える者が出てきました。 最年長で身体の弱い老人がうずく…

  • 「すばらしい答え」(1)・・マーガレット・リー・ランベック

    マーガレット・リー・ランベックがホートン・ミアリン社から出版した著書、「すばらしい答え」の中にあるお話だそうです。 事は、スペイン国境から遠くない、フランスの小さな町で起こったお話しです。 その町には、大勢の難民が集まっていました。彼らはドイツのヒットラー率いるナチの手を逃れて、なんとかアメリカに行きたかったのです。 それには国境を越え、お隣りのスペイン領内に入り、そこから船でアメリカへ脱出するのです。 この難民の中に、若い母親と、四歳にも満たない女の子が混じっていました。 もしドイツの秘密警察に見つかれば、母と子は収容所に投げ込まれ、殺されるでしょう。 あと十数キロメートル歩けば国境に着き、…

  • 終末の生き方(5)・・・イエス・キリストの再臨を待ち望む

    ※前回より続きます・・・ そのイエス・キリストの必要を示すために、この世で成功した一人の人の話をされました。 ルカによる福音書12章16節ー21節 「そこで一つの譬を語られた。ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られる…

  • 終末の生き方(4)・・・神を信じること

    前回より続く・・・ 「イエスは、この人に何が正しいかを告げることもおできになったろう。イエスは、その場合に何が正当かを知っておられた。」(キリストの実物教訓230頁) 「救い主の地上における使命は終りに近づいていた。恵みの王国の建設にあたって、主がなすべきことを成し遂げる時は、わずか数ヶ月しか残っていなかった。それなのに、人間の貪欲は、一片の土地に関する争いのために、主をその働きからそらそうとした。しかしイエスは、その使命からそらされるべきではなかった。・・・ キリストはこういう論争を解決することは、わたくしの仕事ではないと言われた。キリストは福音宣教という別の目的のため、すなわち永遠の実在に…

  • 終末の生き方(3)・・イエスは救い主

    前回より続く・・・ 私たちは、生活の中で、何らかの悩みを持っています。 この人の場合は、父親が死んで、遺産相続にあたり、兄弟から分けてもらおうと思い、主イエスから兄弟に話してほしいと頼んだのです。 この男の人の訴えは、ただこの人の訴えに終わらず、私たちの日常の生活における神様にお願いする祈りが要約されているように思います。 私たちは、悩みがあるとお祈りします。 なかなか祈りは聞かれそうにありません。 この男の人の悩みに、主は直接答えられませんでした。 しかしとても大切な、決定的な答えをされたのです。 それは、福音の答えでした。 主ご自身が、その男の人に対する答えでした。 否定的にみえる言葉の中…

  • 詩篇23篇 ・・・主は羊飼い・・・

    「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。 あなたがわたしと共にいてくださる。 あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。 わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。 主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」 新共同訳聖書より引用 にほんブログ村

  • 終末の生き方(2)・・・永遠なる神を信じる

    前回より続く・・・ 主のもとに連れ去られた人とは、どういう人か。 それは、福音に生きる人のことです。そして、再臨の時まで、日常の働きをしていました。 「12:13群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。 12:14彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。 12:15それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。 12:16そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。 1…

  • イエス・キリスト

    エペソ人への手紙からのお話しです。 「1:1神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。 1:2わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。1:3ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し…」(エペソ書1章1節〜3節) エペソ人への手紙1章1節には、「キリスト・イエス」と2度出ています。 2節と3節には、「主イエス・キリスト」となっていて、呼び方が逆になっています。 キリストが苗字(名字)で、イエスが名前と…

  • 苦難のメシヤ

    聖書を読みましょう。 「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、しかも、あからさまに、このことを話された。」マルコによる福音書8章31節、32節 弟子たちはイエス・キリストを神であり、救い主であると告白しました。 マルコによる福音書8章31節、32節は、その弟子たちの告白に続いてキリストが述べられた言葉です。それは弟子たちにとって、予想もできないショッキングな言葉でした。 神の子であり、救い主が苦しみに遭い、当時の政治的、宗教的指導者たちによって、捨てられ、殺されるというのです。 弟子た…

  • どこにいるのか

    聖書を読みましょう。 創世記3章9節(口語訳)です。 「主なる神は人に呼びかけて言われた。あなたはどこにいるのか。」 愛する者が自分のもとから去って行った経験をお持ちでしょうか。 恋人や友人、愛する人に見捨てられ、去られた経験がおありでしょうか。 その時の胸の内はいかばかりでしょう。逆に、心ならずも親しい人を裏切り、後悔の念で永く苦しんで来られた方もいるかもしれません。 最初に神によって創造された男性アダムと女性エバは、神の溢れるばかりの愛に取り囲まれていたのです。 何一つ不自由なことはなかったのです。ただ、悪魔の誘惑に負け、神のいいつけを破り、神に逆らう結果になったのです。そして、神のもとか…

  • 恐れるな

    自分の将来がどうなっていくのだろうかと、不安に思ったことがないでしょうか。 大学受験をひかえて、日夜勉学に励んでいる受験生は、果たして希望する大学に入れるだろうかと不安に思うことがあるでしょう。 就職したばかりの人、新しい企画に取り組み始めた人は、対人関係のことや仕事がうまくいくかどうか多少の不安を持っていると思います。不安は未来に関わり、将来が暗く、先行きが見えてこない時襲ってくるものです。 年を取り老人になると、様々な不安があります。夢の中で、私は電車から降りて、たしかに自分の目的の駅に着いたはずだと確認しようと思って駅の名前を思い出そうとしたのですが、どうしても思い出せません。頭は痛くな…

  • 神との出会い

    「神は言われた。光あれ、こうして、光があった。」創世記1章1節 宜野湾市に住んでいたTさんという方を訪ねて色々教えられたことがありました。 体が不自由でしたがいつも顔が明るく輝いていました。 その訳は、お会いしている内にわかってきました。Tさんは毎日聖書を読み、お祈りをしているのです。その心は神様によって支えられていたのです。 Tさんが信仰を持つきっかけになったのは、第二次大戦が終わって、敗戦後の収容所でした。 Tさんは戦争前に既に多くの苦労をしていました。二人の子供さんを幼くして亡くしていました。 戦争が終わりに近づいた頃、ある日、昼食の後で、ボーっとしていると、突然出征しておられたご主人の…

  • 私を背負うキリスト

    私が小学4年生の頃、病気になって父親におぶってもらって病院へ連れて行ってもらったことがあります。 その時の父親は40才位だったと思います。その背中のぬくもりと安らぎは、病気や病院へ行く怖さなど取り除いてくれました。 聖書の中に次のような聖句があります。 「わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたを造った。わたしは担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46章4節) ここに「足跡」と題する一つの詩があります。 その内容は主と共に海辺を歩いている夢です。人生の様々なシーンが浮かんでくるのですが、砂の上にはいつも二人の足跡があるのです。 人生の最後のシーンが映し出さ…

  • 感謝の心

    聖書をお読みいたします。 「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」詩篇107篇の1節 聖書を読みますと感謝するようにという勧めのことばがよく出てきます。直接に、神を賛美し、ほめ讃える歌が目につきます。その背景になっているのは神の奇しきみ業があらわされて、神を信じる人々がそのみ業によって救われ、その偉大な神のみ業の故に賛美し感謝していることが分かります。 困っている時に助けられたり、病が不思議に癒されたりすると、日常生活では当たり前と思っていることでも、感謝の気持というのは、自然に心から出てくるものです。 例えば、水はいつも不自由なく飲めるので当たり前として使っていますが、一旦断水となると水…

  • 復活の希望

    「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」(ルカによる福音書24章21節) 私たちは、希望が砕け、失意の内にある時、又、今まで自分が一生懸命築いてきたものが一瞬の内に崩れ去った時、何を望みに生きていったらいいでしょう。 再び、希望を取り戻すことができるでしょうか。愛が再びよみがえる時があるのでしょうか。 主イエスを信じる弟子たちの多くが、主イエスを愛し、希望を託していました。 今日読みました聖句は端的にそのことを表しています。 ところが弟子たちの愛と希望は、主イエスの十字架の死によって失われてしまいました。 取り残された彼らはこれから先どうしていいか分かり…

  • 第一の掟 「ただ一人の神」

    十戒の第1条は「あなたはわたしのほかに、何ものをも神としてはならない。」となっています。 人間は神ではありません。又、人間は神になることはできません。私共は死んでしまった人を神としてあがめることがありますが、果たしてその人が神になったかどうか確かめるすべがありません。 聖書の一頁に「はじめに神は天と地とを創造された」と書かれています。 あらゆるもののはじまりは神にはじまり、神によって保たれ、その終わりは神の力によって終止符が打たれるのです。人間も例外ではなく、神によって創造され、生かされているのです。人間が自らの生命を生み出したり、永らえさせたりすることはできません。 ある本の中に、「神は永遠…

  • 仰ぎみよ

    私たちはどうすれば救われるのでしょうか。あるいは、どうすれば信じることができるでしょうか。という質問を受けます。その答えとして、神を見上げなさい。神を仰ぎ見なさいとよく言われます。 見上げる、仰ぎ見るということは、神を思い、神を心に受け入れるという実際的な行為が含まれています。 イスラエル民族がエジプトの国を出て、現在のパレスチナの地に向かって旅を続けているうちに、段々旅の生活が嫌になって、神に対して不平不満を持つようになりました。遂にその頂点に達した時、神はヘビを民のうちに送って、その心を罰しました。ヘビに噛まれて、多くの民が死にました。 驚いた人々は、指導者モーセに神様に祈って欲しいと頼み…

  • 人生の重荷を担ぐ︙

    38年の間病気であった人の癒しについて話してみましょう。 ベテスダという池のほとりに、38年間、病で苦しんでいる人がいました。 その人をイエスは、『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい』と命じて癒してあげました。 その時に、イエスはただ、起き上がりなさいとだけおっしゃたのではなく、自分の身を横たえる床を担ぐようにと言われたのです。今まで病に捉えられ、床なしには生活できなかった彼が、イエスに癒された時には、それを担ぐように言われたのです。 ところで、その日は安息日で神を敬う日でした。当時の宗教家達は、聖書に書いていない規則を沢山作り上げて、聖なる安息日をこうしてはいけない。ああしてはいけないと…

  • 救いの計画

    人間がどうしたら救われるかという問いかけに、すでに聖書は最初から答えています。 アダムとエバが神のいいつけに背いて、罪を犯した当初に、愛と憐れみの神は、人間を救う計画をお示しになりました。 聖書の創世記3章15節に「彼はおまえの頭をくだき、お前は彼のかかとを砕く」とあります。 彼、すなわちイエス・キリストが十字架の死によってお前と呼ばれる悪魔を滅ぼすというのです。お前は彼のかかとを砕くとは、イエス・キリストを十字架の死に追いやった悪魔の働きを示しています。 ところで、イエス・キリストによる救いの計画はすぐ実行されたわけでなく、長い、長いイスラエルの歴史を通して伝えられ、遂に二千年前に成就したの…

  • 年老いてもなおなすべきことが

    ヨシュア記13章1節に興味を持ちました。 「さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。」(ヨシュア記13:1)口語訳 現役を引退して、後期高齢者になるからです。自分も老人だからです。 ヨシュアに神ご自身が、「あなたは年を重ねて老人となった」(共同訳)と言われた中に、一つは、神は、ヨシュアが年をとったこと、そのことからくる様々な事情も知っている」と思えたのです。 そしてそれは、私の年をとっていくことも、それに伴う事情も知っているということです。 そこに、神様の憐れみと優しい思いやりを感じました。 第二に、「占領すべき土地は…

  • 急がばまわれ

    今日も聖書から共に学びましょう。 アブラハムは旅先で年を経るうちに、神の祝福を得て、財産である家畜や使用人が増えていきました。 アブラハムは自分の故郷ハランの町を出る時、甥のロトを連れていたのですが、ロトのも財産が増えていきました。遂に一緒に生活するには不便になってきました。そこでお互いに良い地を選んで別々に別れて暮らすことになりました。 それぞれ土地を選ぶに当たってアブラハムがしたことは、まず年下のロトに優先権を与えて、自分の良いと思う地を選ばせたのでした。ロトが右の方へ行けばアブラハムは左の方へ行って生活するということになりました。 ロトが選んだ土地は平野で、園のように潤い繁栄している町ソ…

  • 絶えず祈る必要(3)… ひっきりなしにやって来るから …

    イエス様は、ルカによる福音書18章2節以下で、一つの譬え話をしました。 18:1また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。 18:2「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。 18:3ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。 18:4彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、 18:5このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわ…

  • 絶えず祈る必要(2)… 気を落とさずに …

    ルカによる福音書18章1節を見ると、 「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちに譬(たとえ)を話された」とあります。 ここで、先ず心に留める言葉は、「気を落とさず」と言う言葉です。 口語訳では、「失望せずに」となっています。 他の訳を見ましたら、「倦んではならない」となっています。 「倦む」と言うのは、「飽きて疲れる」、「祈りに飽きて疲れ果てる」ということでしょうか。 イエスは、弟子たちに、そして、世の終りに生きる私たちに、「気を落とさずに」絶えず祈ることを教えられました。 私は考えさせられました。どのような時に「気を落とし」「失望し」祈りに「倦み疲れて…

  • マリヤとマルタ

    イエス・キリストがマリヤとマルタの姉妹の所へおいでになった記録が聖書に載っています。 妹のマリヤはイエス様の話しを熱心に聞き入っていました。 一方お姉さんのマルタはイエス様を心から接待しようと忙しく働いていたのです。 ところが、接待の準備が思うようにはかどらないため、マルタは遂にイライラしてイエス様のところにやってきて、マリヤに手伝ってくれるよう言って欲しいと頼んだのです。 それに対して、主のお答えは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリヤは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とおっしゃったのです。 普通でしたら、…

  • その息をもって天を晴れわたらせ

    ヨブ記26章そこでヨブは答えて言った、 「あなたは力のない者をどれほど助けたかしれない。 気力のない腕をどれほど救ったかしれない。知恵のない者をどれほど教えたかしれない。 悟りをどれほど多く示したかしれない。あなたはだれの助けによって言葉をだしたのか。 あなたから出たのはだれの霊なのか。亡霊は水およびその中に住むものの下に震う。神の前では陰府も裸である。 滅びの穴もおおい隠すものはない。彼は北の天を空間に張り、 地を何もない所に掛けられる。彼は水を濃い雲の中に包まれるが、 その下の雲は裂けない。彼は月のおもてをおおい隠して、 雲をその上にのべ、水のおもてに円を描いて、 光とやみとの境とされた。…

  • 絶えず祈る必要(1)

    私たちは、祈り無しにクリスチャン生活を送ることは出来ません。 いや人生を送ることができないと言っても過言ではないかと思います。 私は、日々、神様に祈ってお願いしなければやっていけない弱い存在です。 イエスは、世の終りに生活している私たち一人一人に、毎日、毎時間、常にお祈りすることを教えています。 ルカによる福音書18章1節〜8節 18:1また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。 18:2「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。 18:3ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守って…

  • ジョン・カルヴァン、別れの言葉

    宗教改革者、ジョン・カルヴァンは55才で召されました。 彼の最後の言葉は慰めに満ちています。 50才の頃に、既に右足を痛めて、ステッキを突いていたそうです。 あまりに痛みがひどい時には、友人に支えられてようやく教会堂を訪ね、説教壇に上がることが出来たと記されています。 病気の連続であったようです。毎日のように説教し、1つの日曜日に3回違う説教をしたと言われています。 その間に書物を書き、人に会い、激しい宗教改革の戦い続け、沢山の手紙を書きました。 実に激しい生活をし、その中で肉体を使い果し、ぼろぼろになり、50才を過ぎてからは、人が変わったかと思われるほどに痩せ衰えて死んだと書いてありました。…

  • 母の感化

    母の思い出に、雨の降る日に一つの話を聞かせてくれたことを思い出します。それは芥川龍之介という作家の「蜘蛛の糸」というお話でした。 その頃、私は小学5年生で無我夢中で遊ぶことに熱中していました。落ち着きのない私は学校でいつも先生に叱られてばかりいました。 その雨の日、普段落ち着きのない私でしたが、静かに語る母の言葉が心に沁みるようでした。表面は落ち着きがなく、明るく、あちこち駈けずり回るようにして遊んでいる子供の心に、どこか深い所で何かを感じる場所があったのでしょう。 母が私に語ってくれたその話を今でもはっきり覚えています。話の中で、特に悪いことばかりしていた人が、生前蜘蛛を助けたことで、仏さま…

  • 救い主の働きの始まり ・・・ イエスによる再創造

    イエスに“霊”が注がれたのは、メシア(救い主)の就任であり、再創造の始まりでした。 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた。水の中からあがるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように降って来るのを御覧になった。」 (マルコ1章9節、10節) “霊”が降るとは、イエスに油が注がれたのです。それは、メシア(救い主)の就任を意味していました。メシアの働きをするに必要なすべてのものが、霊に伴って与えられたのです。 旧約聖書のイザヤ書11章1節、2節に救い主・イエスの預言があり、そこに次のように出ています。 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その…

  • パウロに何が起きたか

    パウロは、何が、どう変わったのでしょうか。 確かに彼は迫害者から使徒、そして殉教者になりました。 何故迫害したのでしょう。感情的にクリスチャンに対して面白くなかったからでしょうか。 ピリピ人への手紙3章5節をみると、何故パウロが教会を迫害したか、そのヒントが得られると思います。 「律法に関しては、厳格なファリサイ派の一員、律法を守ることに対する熱心さでは、教会を迫害する程であり、律法を守ることにおいては非のうちどころがなかった」というのです。 教会はパウロにとって、律法を破るもの、律法を無視する、とんでもない異端にみえたのです。 ステパノを殺すことに賛成したのも同じ理由でした。 「サウロ(パウ…

  • 福音の喜び

    福音は喜びをもたらします。 それは、福音そのものにあずかる喜び、伝える喜び、福音によって救われる人々を見る喜びがあるからです。 神の子イエス・キリストが来られるのを伝える声として、バプテスマのヨハネが荒野で働いていました。その荒野に、各地からヨハネの話を聞くために大勢の人が集まってきました。 彼の姿は、ラクダの毛衣を着ていて、旧約聖書に出てくる、有名な預言者エリヤと同じ服装をしていました。 彼は、罪の赦しを得るために、悔い改めのプテスマを宣べ伝えていたのです。悔い改めのバプテスマというのは、生活を神に向かって方向転換するのを意味し、その証として、バプテスマ(水に体を沈める儀式)を受けるのでした…

  • 神はあなたのところへ来られる

    ユダヤの人たちは長い間、自分たちの救い主を待ち望んでいました。 その期待は、キリストの来られることで成就したのです。主イエスが来られるとき、それを告げる声がありました。旧約に預言されたバプテスマのヨハネでした。 マルコによる福音書1章3節の、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」との言葉は、旧約聖書イザヤ書の40章に記されています。 その背景となすところは、イスラエルの国が、バビロンの捕囚で、苦難の中にある最中に語られる希望のメッセージでした。 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒地に広い道を通せ。(イザヤ書40章3節…

  • み国(神の国)の到来

    ダニエル書2章44節、45節には、永遠の神の国が樹立されることが描かれています。 天の故郷と呼んでいる神の国です。 「この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。山から人手によらず切り出された石が、鉄、青銅、陶土、銀、金を打つのを御覧になりましたが、それによって、偉大な神は引き続き起ることを王様にお知らせになったのです。この夢は確かであり、解釈もまちがいございません。」 ところで、この神の国は、いつ起るか、どのようにして起るかというと、それは、地上の王国の終わりに起るということ、それ…

  • 神の国のしるし、権威ある新しい教えと奇跡

    主イエスは、ペテロと他の3人の弟子たちと、安息日(土曜日)の礼拝日に会堂へ行きました。そこで、イエスは、神の国について語られました。 会衆にとって、今まで経験したことのない圧倒的な力と新しい教えに接したのでした。会衆は、驚き、驚嘆しました。 そのイエスの、教えを遮るように、悪霊に取り付かれた男が叫びました。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(マルコによる福音書1章24節) すると、イエスは、「黙れ。この人から出て行け」(25節)と命じられたのです。悪霊は、大声をあげながら出て行きました。 人々はそれを見てさらに驚き、「これはいったい…

  • 生かされている

    四季折々の移り変わりの中で、ハッキリと自分が生かされているのだと、自然界を通して、実感する時があります。 教会の牧師には、何年かすると、転勤がやってきます。三月の終りから、四月の初めにかけて、新しい教会に赴任するのです。 春の訪れを伴う新しい生活は、春の季節を、特に花の咲き始める季節を意識せずにはおれません。 若い頃、妻と二人で小さなトラックに、あるだけの荷物を載せて、新しい教会に着任した時、まだ花冷えの中で、庭の沈丁花(ちんちょうげ)の香りが漂っていたのを、昨日のように思い出されます。 辻邦生という作家の方の文章を読んで、深い感銘を受けたことがありました。 大学を卒業した年の春に、急性肝炎で…

  • 再臨のイエス・キリストを迎える(4)・・・救いを得るように定めた

    イエス・キリストの再臨を迎える根拠となるのは何でしょう。 パウロは、テサロニケ第一の手紙5章9節から11節に述べています。 「神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。」 まず神は、私たちを再臨の日の怒りにあわせるように定めたのではなく、主イエス・キリストによって救いを得るように定めたというのです。 イエス・キリストを通しての…

  • 再臨のイエス・キリストを迎える(3)・・「目をさまして慎んでいよう」

    イエス・キリストの再臨の日時を知らず、突如としてイエス・キリストがおいでになる。そしてそれは逃れることのできない確実なものであるならどうすればよいのでしょう。 パウロは4節から8節の中で、「目をさまして、謹んでいよう」と訴えています。 「あなたがたが、放縦や、泥酔や世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけない時、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい」(ルカによる福音書21章34節) 「慎んでいよう」という言葉を、別の訳では、「わたしたちは正気でいよう」となっています。 「慎んで」というのを「正気で」と訳しています。 一つには、「慎んでいる」、「正気…

  • 再臨のイエス・キリストを迎える(2)・・・再臨の日は誰も知らない

    イエス・キリストの再臨、それは突如やってくるのです。 盗人が夜来るように、特に、人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、突如として滅びが襲うというのです。 イエス・キリスト自身も、マタイによる福音書24章42節、43節で次のように言われています。 「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。」 イエス・キリストの再臨の日時は、誰も知らないのです。 ただ、父なる神だけが知っておられるのです…

  • 再臨のイエス・キリストを迎える

    「セブンスデー・アドベンチャーさんですか」と言われることがあります。 私は、「はい」と答えたのですが、正式には、セブンスデー・アドベンチストです。 アドベンチストというのは、辞書で見ると、キリスト再臨論者となっていました。また、他の辞書を見ると、再臨の信徒となっています。 もともとアドベンチストは、アドベントという言葉からきています。アドベントというのは”到来””出現””キリストの降誕”という意味があります。 The Second Advent(セカンド アドベント)というと、再臨という意味になります。 つまり、2番目の到来、2番目の出現、2番目の降臨ということになります。 日本キリスト教団と…

  • 私はあなたと共にいる ︙

    「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」イザヤ書41章10節

  • 人間の愛と意志の限界

    小さい頃、友達と議論していて、自分の言っている事が間違いないと主張するために、「絶対に」という言葉をよく使ったものです。 約束を絶対守るとか、絶対ウソをつかないとか言ったものです。それは、単なる強がりで、真実味がありません。大人になってくると現実的になってきて、そのような言い方をしなくなりますが、時として、自己過信から、ついつい強く言いたくなるものです。 イエス・キリストの十二弟子の一人、ペテロもその一人でした。 信じやすく、好き嫌いがはっきりしていて、多少自信が強すぎました。 彼は、イエス・キリストに対する忠誠心は、誰にも負けないと思っていましたので、どんな危険な事や不利な立場に立っても、イ…

  • 恵まれているように

    人生の旅は、自分探しの旅であると、ある人は言います。 人生の旅で様々な出会いを通して、あるべき自分にたどり着くということです。 聖書の中に、「あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるように祈っている」(ヨハネの手紙Ⅱ2節)という言葉があります。 この言葉は挨拶の言葉ですが、相手に対する祝福の願いと祈りを込めています。 この「恵まれているように」という言葉は、ギリシャ語の意味では、語源を調べると、「良き旅をするように」という意味があります。 「人生の旅が良きものであるように」、即ち「恵まれるように」ということです。 十数年前に元宮城県知事、浅野さんの新聞記事を読みま…

  • 終わりについて

    聖書は「終わり」ということについて、特に強調しています。 人生の終わり、この世の終わりについて語っています。始めがあれば、終わりがあるのです。 ところで、終わりは終わりでしょうか。映画の画面に、The end という文字が出ます。終わりという意味ですが、それは別の意味もあるのです。「目的」という意味です。 終わりは終わりではなく、そこには、目的があります。終わりがあって、新しくはじまる目的があるのです。 世の終わり、地球の歴史の終わりに、新しい神の国である新天新地が開けるのです。人生の終わりには、神のみ国に住む希望があるのです。 もう一つ大事な終わりの考えがあります。それは、人生において、古い…

  • 心を騒がせないがよい

    心の支えが失われた時、頼りにしていたものが、当てにならなくなったり、又、先が見えなくなると、私たちは、不安になるのではないでしょうか。 イエスは、弟子たちが心を騒がせ、不安に思っているからこそ、「神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネによる福音書4章1節)と言われたのでした。 弟子たちの心を騒がせ、不安にさせたのは、「あなたがたは、わたしの行く所に来ることはできない」(ヨハネによる福音書13章33節)とイエスが言われたことでした。 そして、ヨハネによる福音書13章36節で、「シモン・ペテロが、イエスに言った。『主よ、どこへおいでになるのですか。』イエスは答えられた。『あなたは、わたしの行く…

  • 忍耐して祈る、信仰をもって祈る

    イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかしその後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさ…

  • 福音を恥としない(3)・・・救いをもたらす神の力

    マルコによる福音書8章38節に、イエス・キリストの言葉があります。 「邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう。」 イエス・キリスト自身の中に、またその教えに対して、恥じることがあるというのです。 しかし、パウロは「わたしは福音を恥じとしない」と16節で宣言します。 恥と思わせるものが、例え人間的な弱さを含むとしても、その人間的な弱さを通して、神の力があらわされ、人々を救うというのです。 ローマ人への手紙1章16節 「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ…

  • 福音を恥としない(2)・・・愚かにみえる

    ローマ人への手紙1章15節には、 「そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。」(口語訳) 新共同訳では、「是非…福音を告げ知らせたいのです」とパウロは言っています。 また、ある人は、この同じ個所を「心が熱する」と訳しています。心が熱してきて、どうにかして、福音を伝えたいと、パウロは言うのです。 パウロは、福音によって救われる、即ち、イエス・キリストに救われるということが、どういうことなのか深く分かっていたのでしょう。 私はパウロのローマ人への手紙を読み始めたのは、自らの信仰と働きを省みる為でした。パウロのローマにいる人たちに対する熱い思い…

  • 福音を恥としない

    パウロはローマ人への手紙1章14節で、 「わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。」と述べています。 「果たすべき責任がある」という言葉の中に、神様の大きな憐れみとお恵みをみます。 具体的には、パウロの劇的な回心と、異邦人への使徒にされたという、神様のお恵みと憐れみです。 新改訳聖書を見ると、 「私はギリシャ人にも、未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」となっています。 新共同訳と、新改訳で訳でそう違いはありません。ただ一ヶ所「果たすべき責任」という箇所が、新改訳では、「返さなければならない負債」となっ…

  • 人の罪と、苦しみ、悲しみを荷なうバプテスマ

    イエス・キリストが、この世に来られたのは、人間に救いをもたらし、希望を与えるためでした。 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けられた」 (マルコによる福音書1:9) イエスが、バプテスマを受けに現れた時、人々は、イエスを特別な人と認め、こぞってメシア(救い主)として歓迎したとは記されていません。その姿は、多くの人が考えるメシア像とはかけ離れ、一般人と変わりなく、一平凡な三十代の青年として登場したのです。そして、ヨハネからバプテスマを受けたのです。 神の御子であるイエスは、人間として生まれ、人間として成長し、生活をしました。 その人間性には…

  • イエスは、キリストである

    テサロニケは、現在ギリシャの第二の都市といわれる大きな町です。 パウロが伝道した当時も、マケドニヤ地方の第一の都市でした。 そのテサロニケにおいて、パウロは、旧約聖書を用いて、ユダヤ人にもギリシャ人にも、イエスはメシヤであり神の子であることを伝えたのです。 反対があり、迫害もある中で福音を伝えました。 使徒行伝17章1節から3節までを見ると、ユダヤ人の会堂で、聖書に基づいて論じ伝道したことが分かります。 「一行は、アムピポリスとアポロニヤをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じ、…

  • 十字架のキリストを伝える・・・(3)死を克服する力

    当時、ギリシャ人から見ると、十字架の教えは愚かなものでした。 ギリシャ人の考える神は、人間世界から遠く離れ、不動で、何も感ずることができないものと考えていました。 神が嘆き、悲しみ、怒るということは、どんでもない考えでした。神は不動で、変わることがないから、神が人間となる…つまり、受肉といった考えは、ギリシャ人にしてみれば、考えただけで吐き気をもよおす思想でした。 以上のようにみていくと、ユダヤ人、ギリシャ人がつまづいた理由、愚かであるということが分かるような気がします。 ところがパウロは、この愚かでつまづきとなるイエス・キリストの十字架の死が、信じる者にとって、救いにあずかる神の力であると言…

  • 十字架のキリストを伝える・・・(2)十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かである

    コリント第1の手紙1章18節を見ると、「十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かである」とあります。 また、21節には、「宣教の愚かさ」とあります。 25節には、「神の愚かさ」、「神の弱さ」とでています。 これらの言葉が何を意味するのでしょうか。 そこにパウロと当時の人たち(学者)と違う新しい視点から解かれています。 十字架のことばとは、23節にあるように、十字架につけられたキリストのことです。 十字架につけられたキリストは、信じない人にとっては愚かであるというのです。 愚かに思っている人たちは、具体的に誰かというと、信じないユダヤ人、異邦人全てとなります。 23節の後半にでているユダヤ人には、つま…

  • 十字架のキリストを伝える・・・(1)

    私が牧師になって50年以上になりますが、その間、両親に対して充分なことができませんでした。 しかし、神のお恵みで、母は90歳、あるいは父は100歳以上になるまで永らえました。 私に神御自身が恵んでくださったように思います。一方で、私は今まで何を宣べ伝えてきたのか考えさせられました。 パウロは「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と言いましたが、私は、果たしてキリストを伝えてきただろうか省みたわけです。 だいぶ前のことですが、新聞を見ていたら、「成功話なんか面白くない、実物見てとことん考える」という見出しが目につきました。 元東大教授の安藤忠雄さんという人の記事です。 略歴を見ると、高校卒業…

  • 一人一人の人生を導く主

    神様は、私たちの人生を導くお方です。 私が、高校に入学して間もない頃、国語の教師が、芥川賞をとって間もない、「太陽の季節」という本の素晴らしさを、熱っぽく語ってくれました。 当時、私は充分その本を読んだのでもなく、ただ教師の語るところから教えられたのです。 後になって、その本や、その本に関する紹介の記事で、先生の話を、少し理解出来るようになったのですが、しかし、私は、何かしら言い知れぬ反発を、強く感じました。直感的に、この小説の世界が、これから歩む私の世界に、影を落とすと思った私は、国語の教師とは異なる世界を見て、動揺したのでした。それからの高校生活は、霧の中を歩いているような毎日でした。 旧…

  • 豊かに実を結ぶ

    「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人 その人は流れのほとりに植えられた木。 ときが来れば実を結び 葉もしおれることがない。 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」 (詩編1篇2節、3節)。 詩編1篇2節、3節は、わたしの心に響く聖句です。 神のみ言葉を求めていく時、主にある幸いを思います。様々なことがあるなかで、主にあるときそこには主のお恵み深い御心を感じます。そして、そこに信仰で理解できる主のお与えになる豊かな実りを見せられます。 白水社から出ているゴルヴイッツアーの俘虜記を読みました。詩編1篇3節についてのゴルヴイッツアーの信仰の言葉が記されています。励まされました。 以下に…

  • 平和

    テレビや新聞の報道を見ていると、世も終りだという言葉が沸き起こってくることがあります。 暗いニュースが相次いで伝えられてくると、私どもの前途が暗く見え、毎日の努力も何か空しいものに思えてきます。 一方では、確かに世の中は、科学が発達して人間の力の素晴らしさを称えずにはおられない業績を上げています。そこから受ける恩恵は大きなものがあります。しかし、先ほどのように、世界各地から伝えられてくる、災害や民族紛争などの解決には、人間の無力さをいやと言うほど思い知らされます。科学が発達したとは言っても、自然の脅威の前には、時としてなす術を知りません。又、人間は知恵を誇っても、人間同士憎しみ合い、その結果、…

  • フィリポの主イエスとの出会い

    原点とも呼ばれる出会いが、人それぞれあるのではないでしょうか。 その出会いが、人間同士の出会いを越えて、神との出会いにつながるとき、そこには、言葉で現せない、人に対する神の測り知れないお恵みと愛を見ます。 聖書の中には、様々な形で神様に出会い、そのみ声を聞いた人達がいます。 ヨハネによる福音書1章43節から49節には、イエス・キリストに出会った人達が出てきます。 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人でヨ…

  • 十字架を負う

    田中信生先生のご本の中に、先生の教会員で幼稚園の先生の事が書かれています。教会に出席した始めの頃は、随分厚化粧をしていたそうです。後でわかったそうですが、どうもドーランを塗っていたらしいのです。顔にアザがあり、それを隠すためだったようです。 彼女が教会に通い続けるうちに、自分の有るがままを感謝をもって受け入れ、以前のような厚化粧をしなくなったそうです。 ある日のこと、彼女が電車に乗っていると一人のおばさんが前の席に座りました。このおばさんは彼女の顔を見て驚き、思わず「あらあ、かわいそうに」と言いました。そして聞いたそうです。「ちょっと悪いんだけど、おめえそのアザ、気になんねのか。」すると、彼女…

  • イエス・キリストをご存知ですか

    英国のレスリー・ウエザーヘッドが、ある時アメリカのマンハッタン地区の牧師会で話をすることになりました。 ところが彼の乗った船は霧で大幅に遅れ、牧師たちは長時間待たされることになってしまいました。 ようやく到着したとき、ウエザーヘッド博士はこう言ったと言われています。 「皆さんはずいぶん長い時間お待ちになりましたが、私はたった一つの単純な質問をするために、長い船旅をやってきました。その質問というのは、『皆さんは、イエス・キリストをご存知ですか』というものです。」 ジョン・ドレッシャーはこの言葉に対して、「一見すれば、これは牧師たちへの質問としては、奇妙なものと思われるかもしれない。しかし、もしも…

  • 天の霊的祝福

    新約聖書のエフェソ書を少しずつ学んでいます。 エフェソ書1章3節には、神に対する賛美と感謝がでています。 特に、エフェソ書の1章に記されている賛美の理由を教えられました。 神は、キリストにあって「天の霊的祝福」でわたしたちを満たしてくださったと述べられています。 そして、4節から14節までに、霊的祝福の具体的な出来事が次々と述べられています。 賛美の土台となる祝福について、最初に出てくるのが、4節の「選び」です。 新共同訳では、わかりにくいのですが、口語訳の方がはっきりしています。 口語訳では「キリストにあってわたしたちを選び」となっているのです。 「キリストにあってわたしたちを選び」とは、キ…

  • 終末の生き方(2)

    ルカによる福音書12章13節に、群衆の中のひとりが突飛な質問をイエスにしたのです。 「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と言ったとあります。 この訴えをした人は、家督を持った人、父親が死んで、その残された財産のことで悩んでいたと思われます。自分がもらうべき分が、少ないと感じていて、なんとかイエスに理解してもらって、兄弟を説得して欲しいと願ったのです。 イエスのお答えは、その質問者に対する答えとしては、また、突飛な答えでした。 皆さんでしたら、どのような答えを、この訴えた人に答えるでしょうか。 14節に「イエスはその人に言われた。『だれがわたしをあなたがたの裁判官や調…

  • 終末の生き方(1)

    雷(かみなり)が鳴り、近くに落ちました。 雷の音を聞いてマタイによる福音書の聖句を思い出しました。 「稲妻が東から西へひらめきわたるように、人の子も来るからである。」(マタイによる福音書24章27節) 出エジプト記19章10節から19節には次のようにあります。 「三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。 モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。 シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげ…

  • ペテロの改心・・・(3) 敵意という隔ての壁を取り壊し

    エフェソ人の信徒への手紙2:14〜18(新共同訳) 「実に、キリストは、わたしたちの平和であります。 二つのものを一つにし、ご自分の肉において、敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。 こうしてキリストは双方をご自分において一人の新しい人を造り上げて平和を実現し、十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、十字架によて敵意を滅ぼされました。 キリストはおいでになり、遠く離れている人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて御父に近づくことができるのです。」 にほんブログ村

  • ペテロの改心・・・(2)

    ペテロが偏見や差別をとり除くのに神様がお見せになった幻は、「清くないもの、汚れたものを屠って食べなさい」ということでした。 この幻が異邦人、即ちユダヤ人以外の人を清くない、汚れたものと思ってはいけないということをペテロに示していたのでした。 外国人は、汚れたもの、清くないもの、だから交際しないと宗教的に決められていました。 28節、29節にそのように書かれています。 28ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになり…

  • ペテロの改心・・・(1)

    使徒行伝10章、11章は長い物語になっています。というのは、とても大切な出来事がとり扱われているのです。 イエス様は弟子たちに「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となる」と言われました。即ち、全世界に証人となって伝道しなさいといわれました。 この10章11章は、地の果てに伝えるのに、その壁を乗り越える大きな経験でした。それはペテロの経験であるばかりでなく、エルサレムの教会が乗り越えなければならない壁でした。 今までエルサレムの教会は、ユダヤ人を対象に伝道してきたのです。ところが、働きが進展していくと、ユダヤ人以外の人々、異邦人にも伝えなければなりません。 しか…

  • 約束を信じて祈る(2)・・・祈りをもって待つ

    使徒行伝1章4節にあるお約束は、「聖霊のバプテスマ」です。 イエス様が十字架に架かる前に、聖霊が弟子たちに与えられることを何度も述べられています。 ヨハネによる福音書7章37節〜39節には、 「7:37祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 7:38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。 7:39これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。」とありま…

  • 約束を信じて祈る(1)

    「これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教えのために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。」(ローマ人への手紙15章4節) 私たちは、果たして希望を持って生きているのか、自分自身を振り返って問いたくなる時があります。 希望は信じるところから生まれます。 私は本当に神様のお約束を信じているのか考えます。信じているなら、私は希望に生きていて、そして力と喜びが伴っているはずです。 イエス様は、私たちに対して、信じることによって希望を持つことを願っておられるのです。 使徒行伝1章12節から14節から神様のお約束と、又私たちの信仰と希望を見出して…

  • 終りの時には(5)・・・渡辺牧師の証

    現代牧師烈伝という本を読んでいましたら、渡辺暢雄という牧師さんの証しが載っていました。 その中に、<タコマの瓶>という渡辺牧師が話されたエピソードが載っていました。 渡辺牧師によって教会に導かれた女性の方がいましたが、彼女の両親は娘のキリスト教の信仰に理解を示すことはなかったそうです。 それでも時満ちて洗礼が決まり、さすがの両親も娘の身を案じて、洗礼式当日、教会に出席したそうです。その時の説教で、渡辺牧師が選んだ題が<タコマの瓶>でした。 それは、戦後、間もない頃のこと。 一人のアメリカ人宣教師が、鹿児島県のある町に赴任してきました。 田舎町とあって、英語ができる人は少なかったのです。通訳の必…

  • 人間の力が尽きた時に、初めて神の力が働いてくださる

    「祈りは聞かれる」(渡辺暢雄著)という本の中に書かれている、345日目に聞かれた祈りのお話しを三浦綾子さんは、「天の梯子」という本の中で紹介しています。 札幌の教会に起ったことでした。 ある一人の信徒と牧師が心を合わせて、市内の北部に伝道所が与えられることをひたすら祈り続けました。 毎朝6時に祈ったというのです。 夏はともかく、冬はストーブも焚かずに、寒さに震えながら祈る。賛美歌を歌い、聖書を読み、そして祈る。1時間近くもかかるのです。 遂に信徒の方は神経痛になってしまいました。 祈り始めて実に345日目のことでした。神経痛にかかった信者さんは両腕、両足の痛みのあまり、もうこれ以上は祈ることが…

  • 終りの時には(4)・・・福音を伝える困難

    「全世界に出ていき、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」 マルコによる福音書16章15節 福音を伝える困難は、何時の時代もありました。 しかし、神様は「全世界に出ていって福音を伝えよ」と、大きなビジョンを与えています。 それと同時に、聖霊を与え、不思議な奇跡的な方法で、そのビジョンを遂行できるようにしています。 夢、幻を、英語ではドリーム、ビジョンとも言います。はかない夢というより、未来に対する希望、あるいは実現させたい理想に使われる言葉です。 聖霊の力が与えられていることを信じて前進いたしましょう。

  • 終りの時には(3)・・・主の名を呼び求める者は、救われる

    使徒言行録2章33節には、 「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」(新共同訳) 今見聞きしているこの聖霊による外国語で語る現象は、イエス・キリストがお与えになったと、ペテロは語っています。 イエス・キリストが与えた聖霊、イエスを証しする聖霊であることを忘れてはなりません。 聖霊はイエス・キリストを証しする霊です。 イエス・キリストがこの地上に来られた目的と一致します。 それは、人々の救いです。 「主の名を呼び求める者は皆救われる」使徒言行録2:21(新共同訳)とあります。 聖霊は信じる者に力を与…

  • 終りの時には(2)・・・全ての人に聖霊が与えられる

    聖霊は、ペテロの時代に始まって、今日も又、世の終りに至るまで、信じる者に豊かに与えられています。 使徒行伝2章17節、18節を見ると、 「…わたしの霊を全ての人に注ぐ、するとあなたたちの息子、娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにもその時には、わたしの霊を注ぐ、すると彼らは預言する。」 聖霊は、老若男女、全ての人に、又どのような職業、階級に関係なく与えられるのです。 聖霊が与えられると、預言をするとあります。 神の言葉を語るのです。 2章11節の後半には、「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っている」とあります。 又、ペテロ自身が14節で、「声を張り上げ、話しはじめ…

  • 終りの時には・・・(1)

    使徒行伝2章16節から21節の聖句を読むと、預言者ヨエルの預言の約束は、ペテロの時代に成就して、今日まで、その成就は続いていると述べられています。 それは、信じている全ての人に聖霊が与えられ、聖霊の力によって、福音が伝えられ、求める人々が救われていくと述べられているのです。 使徒行伝2章16節〜21節「そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、 『神がこう仰せになる。 終りの時には、 わたしの霊をすべての人に注ごう。 そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、 若者たちは幻を見、 老人たちは夢を見るであろう。 その時には、わたしの男女の僕たちにも わたしの…

  • 人類の悩みに応え、天から降りてこられたイエス

    ユダヤの民は、自分達の悩みに応えて、メシヤが神から遣わされるのを待っていました。 イエスこそ、天より使わされた、人類の悩みに応える、メシア、神の子でした。 マルコ1章9節から10節には次のように記されています。 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 天が、開け、引き裂かれるとき、神は、ご自身を表し、人に語りかけ、人を通して神の働きがなされることを示しています。 そして、イエ…

  • 全身を制御できる人

    わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。(ヤコブ三ノ二) 言葉を使うのは人間だけだと言われています。また私たちは、言葉を使って物を考え他人にその意思を知らせます。その際、その人が語るのはその人の人格を表し、心の状態を示しているものと考えます。 ですから自分に対する他人の言葉一つに傷ついたり、時には喜んだりするのは、その人の自分に対する心の状態をその人の言葉で判断しているからです。 ヤコブは、教師は言葉をもって人々を教えるので、言葉の持つ責任の重さを強調したように思われます。 しかし、二節…

  • 自由な心

    むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。 (ヤコブの手紙4章15節) 私たちの人生の支配者はだれでしょうか。 神様でしょうか。それとも私自身でしょうか。 もし神様が私たちのすべてを支配していると信じるなら、すべての計画や考えを主に委ねなければならないでしょう。 「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」とありますが、ここに主に委ねた人の自由さがあります。自分の考えや計画にこだわらない、大らかさがあります。 ときに、私たちは自分の良い考えや、正しい意見が神のみこころと思いたくなることがあります。そ…

  • 門の外で彼のはずかしめを負い

    だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。(へブル13の12、13) 神のみ旨をあらわし、信じるものを救い清めて神のみ前に立たせるために、門の外でイエスは苦難を受けられたのでした。このことは、はずかしめを身に負うことであったと述べられています。 門の外で苦難を受けたというのは、城壁の外のゴルゴタで十字架の刑を受けたということです。はずかしめを負うとは、イスラエルの指導者に拒絶され見捨てられたことをあらわしています。さらに極悪人のための十字架刑たイエスに執行…

  • 受難の死と復活

    ペテロ第一の手紙2章21節に、 「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。」 とあるように、イエス・キリストの足跡は苦難の生涯でした。 パウロは、神の使命を果たすことの中に、その苦難は、その使命と切り離すことができなかったのです。 「わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。 わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたし…

  • あなたがたを捨てて、孤児とはしない

    ヨハネによる福音書14章16節に、 「父は、別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう」(口語訳) 「わたしは、父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる」(新共同訳) イエス・キリストと本質的に同じで、しかも別の助け主、弁護者、慰め主を送ると書いてあります。 そして、ヨハネによる福音書14章18節、19節を読んでみると、 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰ってくる。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたは、わたしを見る。わたしは生きるので、あなたがたも生…

  • 新しく招かれている世界

    私たちは人生の歩みの中で、祈りながら色々考え、計画を立てますが、思うようにならないことがあります。 しかし、そこで信仰の目で捉えるなら、思うようにならない事柄の中に、又自分の志とは違う場所において、新しい経験をしたり、新しい経験を見ることができるのではないでしょうか。 リビングストンは、中国伝道を志していましたが、戦争によって中国に行けず、アフリカに宣教師として行くことになりました。 彼の働きによってアフリカの伝道が進展したのです。 使徒行伝16章6節から10節まで見ると、パウロの新しい局面が開かれたことがわかります。 それは10節にあるトロアスという港町で一つの幻を見ます。それは「マケドニヤ…

  • 信じる者を救う神の力

    ローマ信徒への手紙1章16節には、 「わたしは、福音を恥としない。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いを得させる神の力だからです。」 と書いてあります。 「福音は、信じる者すべてに救いを得させる神の力だからです」という言葉に一種の驚きを禁じることができません。 それは、福音を信じると、そこには救いの力を見ることが出来るということです。 世界の誰でも、人種を問わず、又老若男女を問わず、階級を問わず、貧富や貴賤を問わず、教育有る無しを問わず、信じる者全てに救いをもたらす神の力なのです。 ローマ信徒への手紙1章16節と同じ意味の言葉が、コリントの信徒への手紙第一、1章18節に…

  • いくらかの実を得るために・・・解き放たれること(6)

    当時、ヒットラーに率いられるナチ党が、権力を奮っていました。ナチ党に抵抗する牧師たちを軍人にして、第二次世界大戦の戦線に送り出すことをしていました。 シェーンヘル牧師も戦線に赴かざるを得なかった。そして、東部戦線で捕虜になった。そして、収容所に入れられた。 そこで、何をやったかと言うと、収容所で神学校を作った。やがて、国破れたところに戻って行かなければならない。そこで何をしなければいけないかといえば、主のみ言葉を伝える者が多く与えられることだ。 収容所の中で、献身者たちを募って、若者たちを集めて、神学校を作った。シェーンヘル牧師は、その文章の中で、自分で自分に感心した。満足した。得意になったと…

  • いくらかの実を得るために…(5)主の中にとどまる

    加藤常昭という先生の説教集の中の、ヨハネによる福音書15章1節~10節までの講解説教の中で、昔の東ドイツの指導者の話をしています。 シェーンヘルという、東ドイツの全プロテスタント教会の指導者であった方の、ヨハネ15章5節にまつわる思い出を、加藤先生は語っています。 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ヨハネによる福音書15章5節 シェーンヘルという方は、父親は、登記所の役人で、母親は随分早くから、ナチに熱狂するような女性であった。ですから、牧…

  • いくらかの実を得るために…(4)…ローマ訪問の願い …

    パウロは、自分の力で、人々をキリスト教に改宗させようとか、多くのクリスチャンを獲得するとか、ただ、キリスト教の勢力を伸ばそうとして、ローマへ行こうとしたのではありません。 ローマ人への手紙1章13節 「兄弟たち、是非知ってもらいたい、ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで」いるのは、自分の主張でもなく、自分の願望でもない。 主イエス・キリストの福音の故であります。 「実」を得るというのは、実は、自分で作り出せないのです。 「実」は神様の恵みで、生み出させるもので、人間は、神と共に働いて、その、実にあずかるのです。 私共の人生の中で、「実」というものを、どの…

  • いくらかの実を得るために…(2) (ただの人間、ただの求道者に過ぎない)

    神谷美恵子さんという方をご存知だと思います。上皇后陛下のお話し相手に選ばれた人です。 この方は有名な人で、ご家族は、キリスト教のフレンド派の出身だそうです。お父様は東大教授で戦後間もなく、文部大臣をした方です。 クリスチャンという背景もあって長い年月をかけて 、念願であったハンセン病患者の医師として瀬戸内海の長島愛生園で働いたのです。愛生園での研究が実って、「ライに関する精神医学的研究」という論文で、東京大学より医学博士号が授与されています。 妻として、母として、研究者として、ハンセン病患者の医師として、また神を想う一人の求道者としての歩みを続けた人でした 。 ある時ご自分のことを詠んだ詩でし…

  • いくらかの実を得るために…(3)…御霊の結び実は愛である…

    「パウロは「あたがたのところでも、何かを得たいと望んで、そちらへ行こうと企てた」と述べています 。 今まで、ユダヤ、エルサレム以外3回も地中海沿岸の国々や町々で伝道してきたのですが、その理由もあってローマに行くチャンスがなかったかもしれません。しかし彼は、ローマ帝国の首都であるローマへ行き、その教会員に会い、福音を語り、互いに交わり、励まし慰め合い伝道の成果を得たかったのです。 13節の中程から後半に、「実りを得たい」という言葉が出ています。 パウロは福音宣伝の働きを、農夫の働きとして描いています。 しかしパウロだけではありません。ヨハネによる福音書4章31節から38節までを見るとイエス様の働…

  • いくらかの実を得るために…(1) 苦難の道が待ち受けている

    沖縄本島最南端に、沖縄最後の日本軍陸軍司令官牛島中将と長参謀長の石碑が立っています。 戦争が悪化して、米軍が沖縄本島に向けてやってくることが分かっている中で、牛島中将に沖縄の司令官になるよう辞令が下りたそうです。 すでに沖縄の司令官を打診された人がいたそうですが、任官を拒否したため、牛島中将の所へ話しがきたのです。彼が赴任を決意した時、周りは反対したのでした。それは明らかに死に行くようなものでした 。 しかし牛島中将は沖縄の司令官になり、遂に責任をとって島の最南端で米軍が攻撃している最中に自決したのです。その結果が分かっていても、それを選択する人の苦悩とその生き方を思います。 パウロが、ギリシ…

  • 神との間に平安を得ており

    ローマ信徒への手紙5章1節、2節には、 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって平和を得ており、このキリストのお陰で今の恵みに信仰によって導き入れられ」・・・となっています。 「信仰によって義」とされるということは、人間の力でなく、神の力が、イエス・キリストの救いの力が、その人の心に働いたということです。 人間は、自分の力で、なんとか解決したいと思っていますが、人間の力では解決できません。 素直な心で、神の力、救いを受け入れたとき、そこに人間を救う力を体験します。 ローマ信徒への手紙5章1節の「わたしたちの主イエス・キリストによって平和…

  • 信仰の訓練

    「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思わず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」 (ヘブル人への手紙12章11節) 信仰の歩みは決して平坦な道ばかりではありません。苦しい歩みもあります。その苦しい時にそれをどう受け止めるかで信仰に違いが出てきます。 信仰による様々な苦しいことは、試練、或いは訓練として受け止めるようにと勧められています。 訓練は、肉親の父親が愛をもって子供のためにするように、愛の神が、信じる者の信仰のために訓練を施すのです。 ところで、「鍛えられる」という言葉が出ていますが、新共同訳聖書では「鍛錬」…

  • 御顔を求めて

    詩編の言葉の一つ一つが自分の霊的状態や信仰の姿をそのまま写しているようで、とても励まされることがあります。 詩編42編は、自分の置かれた状態に励ましになった箇所です。 特に、2節、3節、5節がそうです。 詩編42編は、ダビデがサウル王に追われて逃亡生活の中で作った詩編ではないかと言われています。 サウル王に命を狙われ、3年から4年の間、転々として逃亡しているわけですが、その苛酷な生活は、とても私には想像がつきません。その苦しい経験を通して、ダビデは、神様を求め、神様に全く信頼することを学んだのではないかと思います。そして、将来、王様になってもおごることなく、神様を第一にして生活する王でした。 …

  • 忍 耐

    「だから、兄弟たちよ。 主の来臨の時まで耐え忍びなさい。 見よ、農夫は、地の尊い実りを、 前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。 心を強くしていなさい。」 (ヤコブの手紙5章7,8節) 同じヤコブの手紙5章7,8節を新共同訳で見てみましょう。 「兄弟たち、 主が来られるときまで忍耐しなさい。 農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。 あなたがたも忍耐しなさい。 心を固く保ちなさい。 主が来られる時が迫っているからです。」 「耐え忍ぶ」が新共同訳では「忍耐」と訳されています。 「忍耐」はやせ…

  • 信 仰

    「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」(へブル人への手紙11章6節) 信仰というと、神は存在するのかどうかと神の存在証明の議論になってしまいがちですが、信仰というものはそういうものではありません。信仰は、神は生きて働いておられ、信じる者にご自身をあらわし報いて下さるお方なのだと信じることです。 へブル人への手紙十一章を読みますと、そこに名を連ねている人たちがいかに神を信じてその生涯を送ったかがわかります。 彼らは、ただ信じるのでなく、神が生きて働き、彼らと共にいて下さるお方と…

  • ヘルマン・ホイヴェルスのことば・・・「人生の秋に」より・・・その2

    ホイヴェルスさんですが、33才の時に、ドイツから日本に宣教師として来ました。 勿論本人が志願してやってきたのです。ドイツで日本文学と哲学、そして、神学を勉強してきました。 来日して、その年に関東大震災を経験します。 上智大学での活動が一時ストップしたため、中国地方、岡山の教会に派遣されます。その王島において次のような経験をするのです。 「人生の秋に」という著書に、王島教会の裏山に登った時のことが書いてありました。 「王島教会の裏は山です。その頃私もまだ若かったものですから、すぐに登りました。 山頂に達した時、いきなりこれまでとは全く違った世界に入ったような気がしました。それは松の木の間に、一つ…

  • ヘルマン・ホイヴェルスのことば ・・・ 「人生の秋に」より

    近くの古本屋で偶然見つけた、高名なヘルメン・ホイヴェルス著の随想集−「人生の秋に」−という本に、心を慰められ、癒す力を感じました。 ヘルマン・ホイヴェルスは、ドイツ人の神父で、上智大学長を務め、87才で日本で亡くなりました。 その随想集−人生の秋に−という本の中に「年をとるすべ」という題で書かれた随想がありました。 旧約聖書、コヘレトの言葉12章3節から5節(新共同訳聖書) 「その日には 家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。 粉ひく女の数へ減って行き、失われ 窓から眺める女の目はかすむ。 通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。 鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。 人は高いところを恐…

  • ペテロの説教

    今日、子供たちが自殺したり、又親が子を殺し、子が親を殺すという悲惨な事件は、人間の本来の姿を失っていることを現しています。 本来の人間の姿とは、神を愛し、人を愛し、神の戒めを守ることです。 私たちも祈ること、み言葉を学ぶこと、賛美し、神を礼拝することで、いつも本来の姿に戻ることができるのです。 使徒言行録2章36節のペテロの説教の締めくくりに、 「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という言葉があります。 イエスは主であり、メシアである。 即ち、神の子であるという宣言でした。 その宣言を聞き終えた時、神のご計画とは言え、自分たちの手で十字架につけて…

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