住所
吹田市
出身
京都府
ハンドル名
しばやんさん
ブログタイトル
しばやんの日々(FC2)
ブログURL
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/
ブログ紹介文
京都のお寺に生まれ育ち、普通の会社に勤務するしばやんの日本史ブログです。通説の矛盾に斬りこみます。
自由文
50代になった頃から日本の歴史に興味を覚えて、いろいろ調べることに楽しさを覚えるようになりました。8年前から「しばやんの日々」を書き始め、いつの間にか容量が少なくなり、バックアップにも問題があるので、同名の別のブログを立ち上げて手作業で主要な記事を移し、新しい記事も同時に掲載してきましたが、2014年からはこのブログに一本化しています。
更新頻度(1年)

60回 / 2042日(平均0.2回/週)

ブログ村参加:2013/06/22

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しばやんさんのブログ記事

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  • 『文明開化』で旧来の制度や習慣を西洋化しようとした政府と、それに抵抗した人々

    【丁髷(ちょんまげ)を嘲笑した外国人】かつて日本男児にとって丁髷はかけがえのないものであったと思うのだが、外国人にとっては非常に滑稽なものとして目に映ったようである。前回記事で紹介した石井研堂著『明治事物起源』に、旧幕臣であった澤太郎左衛門のオランダ留学体験談が紹介されている。「文久二年九月、開陽丸の注文と留学のために、榎本釜次郎、澤太郎左衛門、内田恒次郎等、オランダ国に渡る。当時、頭様も野郎あたま...

  • 『文明開化』における新旧風俗の大混乱

    前回の記事で、戊辰戦争が一段落したあと大倉喜八郎が、これからはわが国で洋服の需要が急速に高まることを予見してイギリスの羅紗工場を私費で視察したことを書いたが、喜八郎が予見した通りにわが国に西洋の衣料品が急速に広まっていった。【急激な洋装の普及】それまでの日本人は、髪を結い和服を着て下駄や草履を履くのが当たり前であったのだが、それが急激に洋装に変化したのが明治の初期である。それまでの和装のままでも生...

  • 大倉喜八郎が事業を発展させたきっかけと、儲けた金の使い方

    前回の記事で大倉喜八郎は幕府の動きや黒船を観て、これから内乱が起きることを直感し、乾物商を止めて武器商に鞍替えして大稼ぎしたことを書いた。ところが戊辰戦争が終わると、喜八郎はこれからしばらくわが国で戦争が起こることはなく、このまま鉄砲店を続けても駄目だと考えたという。そしてこれからは、外国との貿易が盛んになるとともに、わが国で洋服が必要になると考えて、日本橋本町に洋服裁縫店を開き、横浜に内外貿易店...

  • 大倉財閥の祖・大倉喜八郎が鰹節屋の小僧から独立し巨富を得た経緯

    明治期に大倉財閥を築き上げた大倉喜八郎は、天保八年(1837年)越後国新発田の質屋の五人兄弟の四番目の子として生まれ、幼名を鶴吉といった。生家は商家とはいえ、帯刀が許され殿様に拝謁することが出来たというから格式のあるなかなかの家柄であったのだが、十七歳の時に父を失い、翌年には母を失ってしまう。やがては家を出て身を立てねばならぬことは周囲から言い聞かされて、本人もその自覚があったのであろうが、鶴吉は、十八...

  • 2019年新年のご挨拶

    あけましておめでとうございます。【椿自然園 阿南市】旧年中は、拙い私のブログにお付き合いいただき、まことに有難うございました。多くの方から励ましのお言葉やご感想、貴重なご意見などを頂戴し、このブログの中で様々な対話が出来たことがとても楽しく、また励みにもなりました。【旧青木家那須別邸 那須塩原市】何度も訪問して頂いた方や、私の記事にリンクして頂いた方、ランキングの応援をして頂いた方、ご自身のブログ...

  • 明治政府の薩長対立の中を生き抜いた藤田伝三郎の人脈と藤田コレクション

    前回の記事で藤田伝三郎が西南戦争を機に大儲けしたことを書いたが、大多数の国民はこの戦争のために大なり小なりの犠牲を払っているのに対して、暴利を得た藤田組に非難の声が高まっていった。【藤田組の悪い噂を流したのは誰か】前回紹介した白柳秀湖 著『日本富豪発生学. 下士階級革命の巻』にはこう解説されている。「この非難の声につれて先ず起ったのは、藤田組が請け負って戦地に送った人夫の一部であった。彼らは戦争がす...

  • 奇兵隊に参加し失明した藤田伝三郎が大富豪となるきっかけとなった人物との出会い

    前回の記事で、長州の豪商白石正一郎が奇兵隊のために巨額の私財を投じて、維新成就後に事業を倒産させたことを書いた。その一方で、奇兵隊から明治の大富豪になりあがった人物がいる。藤田財閥の創立者である藤田伝三郎である。【藤田伝三郎】【奇兵隊脱退と失明】藤田伝三郎は天保12年(1841)に長州藩・萩の酒屋の四男として生まれ、文久3年(1863)に白石正一郎邸で奇兵隊が結成されると伝三郎も参加したのだが、元治元年(1864)の...

  • 攘夷や倒幕に突き進んだ長州藩の志士たちの資金源はどこにあったのか

    はじめて明治維新を学んだ際に若い青年が時代を動かしたことに驚いた記憶があるが、なぜ彼らは働きもせずに国事に没頭することができたのであろうか。何らかの方法で資金を捻出することが可能であったのか、誰かが彼らの活動資金を支援していたかいずれかなのだが、この点について解明している書物は少ない。【薩摩天保】以前このブログで、『全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか』という記...

  • 日露戦争・旅順港閉塞作戦に協力した右近家から敦賀に向かう……越前の歴史散策4

    河野浦の北前船主の館・右近家の旧本宅の庭園に、なぜか砲弾が置かれている。ガイドさんの説明によると、右近権左衛門が所有していた「福井丸」が日露戦争の旅順港閉塞作戦の二回目の作戦で使用され、その船を指揮していた広瀬武夫少佐がその船で戦死したことと関係があるという。旅順港閉塞作戦のことは司馬遼太郎の『坂の上の雲』でその話を読んだ記憶があるが、北前船主の館・右近家でその話が出て来るとは思わなかった。右近家...

  • 瀧谷寺から越前海岸の景勝地と北前船で栄えた河野浦を訪ねて~~越前の歴史散策3

    翌朝、お世話になった三国の民宿をチェックアウトし、近くの東尋坊に向かう。東尋坊を構成する岩は、輝石安山岩の柱状節理で、最も高いところで約25mの垂直の崖があるという。これほどの規模のものは世界的にも珍しく、国の天然記念物に指定されている。朝早くここを訪れたのは初めてだが、商店などの営業が始まる前は観光客もわずかで、静かに景観を楽しむには良い時間帯である。東尋坊の景観を楽しんだ後に、瀧谷寺(たきだんじ:...

  • 継体天皇ゆかりの足羽山から紅葉名所の大安禅寺へ ~~越前の歴史散策2

    昼食のあと福井市の足羽山(あすわやま)に向かう。前回の記事で越前和紙の歴史は、第26代の継体天皇が男大迹王(おおとのおう)として越前を治めていたころから始まることを書いたが、足羽山には継体天皇にまつわる神社などがある。『日本書紀 巻十七』には継体天皇の出自に関して次のように記されている。文中の男大迹天皇(おおどのすめらみこと)は継体天皇のことである。「男大迹天皇――またの名は彦太尊(ひこふとのみこと)――は、応...

  • 越前和紙で栄えた地域の歴史と文化と伝統の味を楽しむ~~越前の歴史散策1

    越前市は品質、種類、量ともに全国一位の和紙生産地として知られているが、この地における和紙作りには1500年という長い歴史があるのだという。そして、和紙生産の中心地である5つの集落(新在家町、定友町、岩本町、大滝町、不老町)を昔から五箇(ごか)と呼び、その大滝町にこの地に紙の製造法を伝えたとされる川上御前(かわかみごぜん)が祀られている神社がある。この神社には立派な社殿があるだけでなく神仏習合の行事が今も行...

  • 明治政府にとって「徴兵制」のハードルは高かった

    教科書などでは、明治4年(1871)の「廃藩置県」について、明治政府は薩長土三藩から御親兵を募り中央集権を固めたうえで、藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣したことが記されている。この廃藩置県を断行するということは、国の防衛のありかたを根本的に見直さざるを得なくなるのだが、その点については明治政府内で様々な議論があったよう...

  • 明治時代の自虐史観と、「開発」行為による文化・景観破壊

    慶応四年(1868)三月十四日に、明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、明治維新の基本方針である、五箇条の御誓文を神前に奉読されている。一.広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。一.上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ。一.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス。一.旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ。一.智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。いつの時代にせよこのよ...

  • 甲賀の総社・油日神社、平安仏の宝庫・櫟野寺などを訪ねて~~甲賀歴史散策その2

    甲賀流忍術屋敷を楽しんだのち、油日(あぶらひ)神社(甲賀市甲賀町油日1042 ☏ 0748-88-2106)に向かう。この神社は、平安時代に編纂された『日本三代実録』に、陽成天皇の元慶元年(877)に従五位下の神階を授けられたとの記録が残されている古社で、神社の東に聳える油日岳をご神体とし、油の神様として崇敬を集めてきたばかりではなく、「甲賀の総社」として甲賀武士の結束の中心であったという。両脇に石垣が積まれた参道を進むと...

  • 現存する唯一の忍術屋敷を訪ねて~~甲賀歴史散策その1

    滋賀県の甲賀と言えば「忍びの里」を思い浮かべる程度だったのだが、調べてみるとこの地域には貴重な文化財や伝統文化が残されているのに興味を覚えて、週末に日帰りで甲賀市の名所旧跡を巡って来た。最初に訪れたのは『甲賀流忍術屋敷』(甲賀市甲南町竜法師2331 ☏0748-86-2179)で、この住居は甲賀忍者であった望月出雲守の旧宅であり、現存する唯一の忍術屋敷だという。外見は一般的な平屋の日本建築で元禄時代に建てられた住居...

  • わが国史上最大の火山災害である「島原大変」の被害者の大半は津波で死亡した

    前回の記事で大規模な山の崩壊や地盤の崩壊で津波が発生し得ることを書いたが、今回はその事例について記すことと致したい。島原半島の中央部に活火山の雲仙岳があるが、この山は三岳と呼ばれる普賢岳・国見岳・妙見岳ほか、総計20以上の山々から構成されている。平成3年(1991年)の5月に、雲仙岳の三岳の一つである雲仙普賢岳に溶岩ドームが出現し、それが日々成長したのち小規模な火砕流が頻発するようになり、6月3日には溶岩ドー...

  • 平家滅亡のあと畿内を襲った元暦2年7月の大地震

    元暦2年(1185)3月に壇ノ浦の戦いで栄華を誇った平家は滅亡したのだが、それから約4か月後の7月に大地震が発生している。この地震は元暦年間に発生したので「元暦地震」と呼ぶ研究者もいるが、この地震の被害があまりに大きかったので翌月に「文治」と改元されたことから「文治地震」と呼ばれることが一般的だという。中世の日本においては、地震や疫病流行で改元されることが良くあったようだ。この地震に関しては様々な記録が残さ...

  • 戦国時代の歴史を動かした天正地震

    4年前に白川郷方面に旅行した際に、帰雲城(かえりくもじょう)趾に立ち寄った。この城は寛正年間(1461~1466年)に内ケ島為氏(うちがしま ためうじ)により築城されたのだが、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、城主内ヶ島氏理(うじまさ)以下一族家臣と、城下300余軒、推定500人余り、牛馬にいたるまでことごとくが一瞬にして埋没し、内ケ島氏は滅亡してしまったと伝えられている。上の画...

  • 敗戦後の混乱期に日本列島を襲った「昭和南海地震」

    以前このブログで「軍部が情報を握りつぶした『昭和東南海地震』」という記事を書いた。この地震は昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に起きた、和歌山県新宮市付近を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震のあと津波が発生し、全国で死亡・行方不明者は1223名、壊れた家屋が57千戸以上とされる大災害であったのだが、この情報が漏れることを恐れた軍部が情報を統制したため、詳しい記録が残されていないという。http://shibayan19...

  • 地震がなかったにもかかわらず三陸海岸を中心に日本列島を襲った大津波~~チリ津波

    今年の台風や地震の規模も被害も半端なものではないが、自然災害の怖さを振り返る良い機会なので、わが国の記録に残されている自然災害をしばらくいくつか紹介していきたい。以前このブログで「震度3で2万人以上の犠牲者が出た明治三陸大津波」という記事を書いたことがある。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-21.html明治29年(1896)6月15日に三陸沖200kmの日本海溝付近で起きた地震は、宮古測候所の発表では震度2...

  • 由良要塞の一部である深山砲台の跡地と淡島神社などを訪ねて~~加太の歴史散策

    和歌山市に所用ができたので、早めに自宅を出て和歌山市の西端にある加太近辺を半日で巡って来た。最初に訪問したのは、深山第一砲台跡である。国民休暇村紀州加太(和歌山市深山483☏073-459-0321)に向かう登り道の途中に、砲台跡につながる遊歩道の入り口があり、車10台程度が利用できる駐車場がある。駐車場からは森の中を歩くことになるのだが、砲台跡までは赤いレンガで敷き詰められた遊歩道が整備されていて道に迷うことは...

  • 紀伊国屋文左衛門がみかん船で大儲けしたという話は真実か

    紀伊国屋文左衛門は元禄時代の豪商で、荒天の海にみかん船を乗り出して大儲けをしたという話が有名で、私も子供の頃に何度も聞いた記憶がある。【紀伊国名所図会 後編下巻 蜜柑をとる図】この話の概要をまとめると、このようなものである。文左衛門はみかんの産地として名高い紀州(和歌山県)の出身で、まだ20代であったある年、和歌山ではみかんが豊作でありながら嵐のためにみかんを江戸に送ることが出来なくなっていた。江戸で...

  • 江戸時代に大阪が商業の中心地として栄えた理由と、豪商・淀屋の闕所処分を考える

    徳川家康が江戸に幕府を開いた以上は、徳川幕府の歴代将軍は江戸が政治・経済・文化の中心になるよう努力したに違いないのだが、元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡したにもかかわらず、大阪がわが国の経済の中心地であり続けたのである。その理由はどこにあったのだろうか。この問題について徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第19 元禄時代 下巻 世相篇』でこう解説している。この本は国立国会図書館デジタルコレクションで誰...

  • 綱吉の治世後半を襲った相次ぐ大災害の復興資金を、幕府はいかに捻出しようとしたか

    前回は徳川五大将軍綱吉が出した『生類憐みの令』のことを書いたが、もう少し綱吉の話題を続けよう。徳川綱吉が将軍宣下を受けたのは延宝8年(1680)で、宝永6年(1709)に死去するまで将軍位に就いていたのだが、綱吉の時代を調べていくと後半期に不幸な出来事が相次いで起きていることに気が付く。例えば、元禄8年(1695)以降奥州飢饉がおこり、元禄11年(1698)には江戸で大火(勅額大火)が発生し、元禄16年(1703)には関東を巨大地震(元...

  • 徳川綱吉の『生類憐みの令』を悪法とする通説が見直されているのはなぜか

    徳川五大将軍綱吉が出した『生類憐みの令』を調べていると、教科書の記述が学生時代に学んだ内容と随分ニュアンスが違ってきているのに驚いた。たとえば『もういちど読む 山川日本史』では、次のように解説されている。「江戸時代の悪法の代表とされてきた生類憐みの令は、近年見直しがすすんでいる。犬の愛護はそれまで食犬の風習や野犬公害の多かった江戸とその周辺で推進されてきたが、全国的には捨牛馬(すてぎゅうば)の禁止が...

  • 鳳来寺の神仏分離と日本の百名洞・乳岩峡などを訪ねて

    旅行の二日目は少し早起きして、食事の時間までのあいだ宇連川沿いから不動の滝を散策することにした。コースははづ別館から浮石橋を渡り、ゆーゆーありーなから渡瀬橋を渡ったのち乙女沢遊歩道を歩いて不動の滝を巡るコースである。宇連川は黄褐色の岩の上を流れていて、川底が板を敷いたように見えるため、板敷川とも呼ばれている。夜間の放射冷却で気温が低くなった空気が、暖かい水面付近の空気に触れて、川霧が発生しているの...

  • 長篠の戦の武田勝頼公本陣跡から満光寺庭園、阿寺の七滝などを訪ねて

    設楽原歴史資料館の駐車場から医王寺(新城市長篠字弥陀の前256)に向かう。長篠の戦いで、武田勝頼がこの寺に本陣を置いたとされ、境内には『武田勝頼公本陣跡』と記された石碑が建っている。新城市のHPによると、『三川日記』という文書に、武田軍の長篠包囲において本軍の武田勝頼らは医王寺山に三千の兵を配置したことが記されているそうだが、山麓の医王寺境内地内には陣城と思われる遺構は確認されていないという。http://www....

  • 長篠城址と長篠の戦いの決戦の地を訪ねて

    毎年梅雨が明けた頃に車で旅行することにしているのだが、先日愛知県の新城(しんしろ)市を巡って来た。最初に向かったのは長篠城址(新城市長篠市場22-1 ☏0536-32-0162)である。長篠城は豊川と宇連川の合流点の崖の上の天然の要害の地に、菅沼元成(もとなり)が今川氏の命を受けて永正5年(1508)に築いた城で、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いののち今川氏から松平氏の支配に移り、元亀2年(1571)に武田氏の支配に移り、天正元年(1573)に...

  • 満州国にわが国が莫大な投資をして築き上げたインフラを掠奪した中国

    前回の記事で関東軍が満州の匪賊を討伐したことを書いたが、それまでの満州は、法治はおろか人治すらなく、軍閥・匪賊が支配、跋扈する無法地帯であった。黄文雄氏は『日本の植民地の真実』でこう解説しておられる。「そのような状況を一変させ、近代的法治社会の基礎を築き上げ、産業の発展を軌道に乗せたのが関東軍であり、新設の警察制度であった。この軍閥、匪賊社会をわずかな期間で一挙に近代社会に作り変えた功績は、近代ア...