戸隠山(1,904m)は長野市戸隠(旧戸隠村)に位置し、岩の戸を立てかけたような峻険な山容で知られる。中腹に戸隠神社(奥社)があり、摂社に地主神の九頭龍社が祀られている。伝承によれば嘉祥2(849)年に学門行者によって開山されたとされ、平安
「円空仏」で知られる山岳修行僧円空は、冒険家・登山家としてもヒーローだった! 山馬鹿岐阜県民ぼっちがその足跡を5年計画で追跡する記録
北海道の洞爺湖観音島観音堂にあった円空作の観音菩薩坐像(現在は有珠善光寺安置)の背中に「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空(花押)」の銘がある。当時円空35歳。この銘文によって
5月11日 山上ヶ岳(1,719m)の山上にある大峯山寺に向け、早朝4:40清浄大橋の登山口から入山。橋を渡ったところが女人結界で、ここまで連れ合いが見送ってくれた。それでは行ってきます。修験者の装束の先達さんに追い越された。ところどころの
円空大峯修行の全容踏査第1日目の5月10日のメインは、13時にお約束した栃尾観音堂の訪問。連れ合いと愛車OUTBACKの奥地君で天川へ向かい、少し時間があったので、まず、大峰山寺を支える5ヶ寺の護持院のうち、唯一洞川にある龍泉寺を訪問(他の
ご開帳の時期から埼玉追跡を先行させ、時期は延宝後期(1680年頃)に飛んでおりましたが、このへんで時系列に円空大峯修行まで戻します。 1 大峯修行前後の円空の足取り寛文11(1671)年3月28日 廿屋(岐阜県美濃加茂市)観音洞の
埼玉遠征調査(2−1)で計画した調査概要に対し、その結果をまとめてご報告。 〇調査概要<調査のポイント>「日本で3番目に円空像が多い埼玉県。その中でも、なぜ県の南東部の低湿地帯で、円空は集中的に造像したのか?」という疑問。これを、
あちこち回り過ぎて、肝心の薬王寺に伺うのがだいぶん遅くなってしまった。薬王寺の縁起については、恐縮ながら門前の案内板の画像をご覧いただくとして、お堂に急ぐとしましょう。薬王寺の公式ブログにお伺いする旨コメントしていたので、待っていてくださっ
5月8日 埼玉遠征3日目の最終日。今日は早くから活動する代わりに、昨日も車中連泊した、道の駅あぐりパークゆめすぎとの公園テーブルにパソコンを置いて、埼玉県立歴史と民族の博物館に寄託されている円空像の「熟覧」申請に必要な、所有者の許可書の原紙
今回の埼玉県の円空追跡は、6日の春日部市小渕の観音院と、8日のさいたま市見沼区の薬王院の開帳に合わせて計画。その間の7日は、円空像こそ拝観できなかったけれど、以下のとおり、非常に充実した調査の一日でありました。 杉戸町の道の駅で車
春日部市小渕の小淵山観音院は、本山修験宗の寺院で、聖観音菩薩立像(194.0�)、不動明王立像(132.0�)、毘沙門天立像(134.0�)の大作をはじめ、7体の円空像を伝える、円空巡礼の聖地。かつて日光道中(日光街道)の宿場町だった粕壁は
埼玉県の円空像の集中する南東部の像は、おおよそ岩槻城を中心に円周状に分布している。そんなことで、遠征踏査第1日目の6日昼間は、➀円空は、誰かに呼ばれて当地に来たのか(例えば不動院や岩槻藩など)について、旧岩槻藩領:今の行政区で
江戸時代の武蔵国北部にあたる埼玉県は、意外にも円空像が約170体と大変多く確認されている地域で、これは愛知県、岐阜県に次ぐ、第3位となる。ただし、同県の円空像については数が多いわりに、同じ関東地方でも、栃木県日光周辺の諸像や茨城県笠間市月宗
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戸隠山(1,904m)は長野市戸隠(旧戸隠村)に位置し、岩の戸を立てかけたような峻険な山容で知られる。中腹に戸隠神社(奥社)があり、摂社に地主神の九頭龍社が祀られている。伝承によれば嘉祥2(849)年に学門行者によって開山されたとされ、平安
5月30日、早朝宿を抜け出し、ご来光を仰ぎに伊勢市の二見浦(ふたみがうら)へ。伊勢湾に注ぐ五十鈴川の河口に形成された三角州状の地帯で、神宮参拝の禊場でもあった。夫婦岩でも知られる。高賀神社に伝わる円空が詠んだ和歌は、大般若経の見返しの裏紙の
円空は大峯山での厳しい修行を経て、延宝2(1674)年に志摩国を訪れていたことが分かっている。同年3月、志摩国片田村(三重県志摩市志摩町片田)の三蔵寺の『大般若経』六百巻を巻子装から折帖装に改め修復、その扉に添絵58枚を描き、観音菩薩像を残
北海道の洞爺湖観音島観音堂にあった円空作の観音菩薩坐像(現在は有珠善光寺安置)の背中に「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空(花押)」の銘がある。当時円空35歳。この銘文によって
5月11日 山上ヶ岳(1,719m)の山上にある大峯山寺に向け、早朝4:40清浄大橋の登山口から入山。橋を渡ったところが女人結界で、ここまで連れ合いが見送ってくれた。それでは行ってきます。修験者の装束の先達さんに追い越された。ところどころの
円空大峯修行の全容踏査第1日目の5月10日のメインは、13時にお約束した栃尾観音堂の訪問。連れ合いと愛車OUTBACKの奥地君で天川へ向かい、少し時間があったので、まず、大峰山寺を支える5ヶ寺の護持院のうち、唯一洞川にある龍泉寺を訪問(他の
ご開帳の時期から埼玉追跡を先行させ、時期は延宝後期(1680年頃)に飛んでおりましたが、このへんで時系列に円空大峯修行まで戻します。 1 大峯修行前後の円空の足取り寛文11(1671)年3月28日 廿屋(岐阜県美濃加茂市)観音洞の
埼玉遠征調査(2−1)で計画した調査概要に対し、その結果をまとめてご報告。 〇調査概要<調査のポイント>「日本で3番目に円空像が多い埼玉県。その中でも、なぜ県の南東部の低湿地帯で、円空は集中的に造像したのか?」という疑問。これを、
あちこち回り過ぎて、肝心の薬王寺に伺うのがだいぶん遅くなってしまった。薬王寺の縁起については、恐縮ながら門前の案内板の画像をご覧いただくとして、お堂に急ぐとしましょう。薬王寺の公式ブログにお伺いする旨コメントしていたので、待っていてくださっ
5月8日 埼玉遠征3日目の最終日。今日は早くから活動する代わりに、昨日も車中連泊した、道の駅あぐりパークゆめすぎとの公園テーブルにパソコンを置いて、埼玉県立歴史と民族の博物館に寄託されている円空像の「熟覧」申請に必要な、所有者の許可書の原紙
今回の埼玉県の円空追跡は、6日の春日部市小渕の観音院と、8日のさいたま市見沼区の薬王院の開帳に合わせて計画。その間の7日は、円空像こそ拝観できなかったけれど、以下のとおり、非常に充実した調査の一日でありました。 杉戸町の道の駅で車
春日部市小渕の小淵山観音院は、本山修験宗の寺院で、聖観音菩薩立像(194.0�)、不動明王立像(132.0�)、毘沙門天立像(134.0�)の大作をはじめ、7体の円空像を伝える、円空巡礼の聖地。かつて日光道中(日光街道)の宿場町だった粕壁は
埼玉県の円空像の集中する南東部の像は、おおよそ岩槻城を中心に円周状に分布している。そんなことで、遠征踏査第1日目の6日昼間は、➀円空は、誰かに呼ばれて当地に来たのか(例えば不動院や岩槻藩など)について、旧岩槻藩領:今の行政区で
江戸時代の武蔵国北部にあたる埼玉県は、意外にも円空像が約170体と大変多く確認されている地域で、これは愛知県、岐阜県に次ぐ、第3位となる。ただし、同県の円空像については数が多いわりに、同じ関東地方でも、栃木県日光周辺の諸像や茨城県笠間市月宗
前に載せた記事「円空裳懸坐の像に関する考察」「中観音堂創建にまつわる試論」にまとめたように、長良川の周辺に裳懸坐の像が特異に集中する。そのうち、10�前後の定型的な小像が、尾張藩領だった岐阜市・関市や、西神頭家ゆかりの郡上市南部の、寺や個人
本ブログ「『円空の冒険』追跡ノート」は、2022年から2026年までの5カ年をかけ、円空の足取りを<原則時系列順で>追跡するのが、基本方針。しかし、展覧会で、この機会を逃すと、2026年までに拝観不可能という場合も結構あるので、そこは筋を曲
4月9日、美濃加茂市民ミュージアムで、撮影させていただいたもう一組の円空像は、蜂屋町北薬師堂の薬師三尊像。一体ずつ箱から出していただき、拝観しながら撮影をさせていただいた。まずは、主尊の薬師如来立像。像高84.5�、薬壺を持ち手は裳に隠して
美濃加茂市は、中山道太田宿のあった太田町をはじめ、古井町・山之上村・蜂屋村・加茂野村・伊深村・下米田村、および三和村・和知村の一部が合併してできた市で、その名の由来は美濃国加茂郡にちなむ。木曽川と飛騨川の合流地点に近く、太田宿と今戸宿の間は
4月8日花祭りの午後は、雨が降り出した。多治見普賢寺を後に、犬山市の妙感寺へ伺う時間調整のため、国宝犬山城天主閣を遠望する城下町を歩いてみる。犬山城主だった成瀬家は、徳川家康の命で尾張藩に付属された、家老より格上の「付家老」で、犬山城主とし
像内納入品のある円空像訪問その(3)は、多治見市大原町の普賢寺。象王山普賢寺は、普賢菩薩を本尊とする曹洞宗の寺院。寛文12(1672)年に全久院13世了然玄超により、瑞光院という古寺の跡に建立されている。前身の瑞光院について、宗派など詳しい
円空は、様々なカミホトケを造顕している。その中には、愛宕信仰の中心愛宕山、稲荷信仰の中心稲荷山、八幡信仰の中心石清水八幡宮の鎮座する男山(鳩ヶ峰)など、京都周辺にゆかりの地があるカミホトケ(いずれも神仏習合)も含まれる。京都府内に円空像は伝
日本山岳会の会報『山』4月号に、拙稿「日本山岳誌の空白を埋める円空の存在 穂高岳現存最古の文献は円空仏の背銘」を掲載いただきました。↑上記太字部分をクリックしていただくと、内容をご覧いただけます。 ついでに、以下に鮮明な
いよいよ、「円空の冒険」追跡前半のハイライト、北海道の踏査を今夏に控え、調査計画を策定する段階に。現在残る円空像と過去に円空像があったとする文献を基礎に、像の様式なども含めて考察し、蝦夷巡錫ルートを想定。 1 北海道の円空像所在一
先日伺った美濃市慧照院でお知り合いになった円空学会のMさんに、同会員のYさんをご紹介いただいた。Yさんは、20歳で仏師に弟子入りされて以来、永年彫技を磨かれ、円空彫刻の研究会も主宰されておられる。彫師の立場から円空仏の鑑定を依頼されることも
2022年9月、2023年3月の青森・北海道・滋賀の踏査の結果、円空の陸奥〜蝦夷への旅の目的は、松前藩の要請によるもので、その旅を近江商人が支えたこと、そして往復のルートもおおよそ浮かび上がってきたので、以下に拠りどころとなる文献名をあげ私
東北・北海道の円空の足取りを文献調査していて、「青森県立郷土館研究紀要」第46号(2021年3月)に『恐山史料の再発見』(佐藤良宜・小山隆秀)という論文を見つけた。同論文は、円空が訪れた当時の恐山がどのようだったか知る上で参考になり、また、
円空は、東北・北海道の旅で、現在分かっている限り10体の十一面観音立像を残している(弘前藩3体、盛岡藩2体、松前藩1体、久保田藩4体)。それらの像の様式には、共通点と相違点があり、そのうち試行錯誤の跡がみられる相違点は、最後に一定の姿に落ち
円空が、弘前を経由して蝦夷に渡った寛文5〜6(1665〜1666)年は、全国的に宗門改めが行われ、行動の制約が大きかった時期。そのような時、円空のように身元の定かでない僧(注)が、弘前城下を追われるというアクシデントも経ながら、旅を続けるこ
調査行4日目最終日の7日(火)は、青森空港発14:50まで、津軽半島側の調査を計画。朝の散歩に、青森港まで。下北半島側から日が昇る。津軽半島の入口にあるのが青森市油川。羽州街道の終点であり、松前街道の起点となる古い港町。円空が弘前城下から青
調査行3日目の6日(月)は、�盛岡藩領下北半島の佐井または大間から松前に向かうルート(佐井村長福寺の円空作十一面観音の様式から推定されるルート)に関する調査。昨年9月に伺った佐井村長福寺を再訪し、前回お会いできなかったご住職に、いろいろお話
今回の調査行の目的その2は、円空の蝦夷渡航ルート推定のため、地理的イメージを掴み、当時の交通事情に関する文献を集めること。円空の蝦夷渡航について、考えられるルートは次の3つ。➀弘前藩領青森港から松前に向かうルート(『弘前藩庁日
津軽藩の公式日記である『津軽藩庁日記』の寛文6(1666)年1月29日の記述、次のとおり、円空が登場する。「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」弘前城下の長町にいた円
2月4日(土)、ご厚意で拝ませていただいた美濃市前野慧照院の地蔵菩薩はじめ三体の円空仏。その画像を、円空学会のK先生にお送りしたところ、➀左側の観音座像は新発見、➁地蔵菩薩像は、背面赤外線を見ると、今まで存在が確
2021年10月15日、日本山岳会京都・滋賀支部で「野生の山へー北海道の山・奥美濃の山」と題する講演会でご一緒させていただいたイグルスキー米山さんとは、ありがたいことに、その後もお付き合いさせていただいている。そのイグルスキー氏から、「美濃
寛文6(1666)年1月26日、円空は弘前城下を追われた後蝦夷に渡り、同年6月、松前藩の家老蠣崎蔵人のために観音菩薩像を造っている(背銘「願主 蠣崎蔵人 武田氏源広林 敬白 寛文六丙午天六月吉日」)。いよいよ『円空の冒険』追跡の舞台は、津軽
「『円空の冒険』追跡」2年目は、いよいよ陸奥から蝦夷へと円空の足取りを追いかけていく予定。そのためには、円空の行脚したルートを、残された手掛かりから想定してみる必要がある。そのうち、岐阜大学野村幸弘教授の論文『円空の彫刻芸術(3):東北・北
山馬鹿に加え、最近は円空馬鹿にもなりつつある、岐阜県民ぼっちです。2023年、本年も「『円空の冒険』追跡ノート」お付き合いいただきますよう、よろしくお願いします。 それではさっそく追跡開始! といきたいところ、あいにく年末から新型
円空(寛永9(1632)年〜 元禄8(1695)年)は、荒々しい彫りあとをみせる「円空仏」で知られる、江戸前期の山岳修行僧。実はこの円空、江戸時代には、ベストセラー伴蒿蹊著『近世畸人伝』(下図)や、百科事典寺島良安編『和漢三才図絵
5 円空は陸奥国(弘前藩または盛岡藩)からどのように蝦夷に向かったのか 円空の蝦夷への渡航ルートについて、現存する円空仏の様式を分析することにより、➀下北半島先端部の佐井あるいは大間から蝦夷に渡り、津軽半島の三厩あたりに戻った
4 円空は、なぜ津軽城下を追われたのか 『弘前藩庁日記』の寛文6(1666)年1月29日の「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」という短い記述だけを読むと気にならない