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カトリック情報 Catholics in Japan https://blog.goo.ne.jp/catholic_info

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2016/07/09

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  • 豊作の間に蓄えよ 聖書

    今から七年の間、エジプト全土に大豊作が訪れます。しかしその後、飢饉が七年続き、エジプトの地に豊作があったことなど、すっかり忘れられてしまうでしょう。飢饉がこの国を滅ぼしてしまうのです。この地に豊作があったことなど、その後に来る飢饉のために、忘れられてしまいます。飢饉はそれほどひどいのです。ファラオにこうした夢が二度も繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかに実行しようとされているからです。ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物を探し出し、エジプトの地を治めさせるとよいでしょう。そしてファラオが指示して、国中に監督を任命し、豊作の七年の間、エジプトの地で産物の五分の一を徴収なさいますように。これから訪れる豊年の間に食料をすべて集めさせ、町の食料としてファラオの管理の下に穀物を蓄え、保管させ...豊作の間に蓄えよ聖書

  • 9-2-7 ラ・ロシュフコー著作、肖像(ポルトレ)と箴言(マクシム)

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年2ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー7ラ・ロシュフコー著作、肖像(ポルトレ)と箴言(マクシム)ラ・ロシュフコー公爵フフンソワ六世は、一六五八年、自分の肖像(ポルトレ)を書いている。これは当時のサロンで流行した一種の知的遊技であり、人物の容貌、性格などを機知にとんだ筆致で、簡潔に書いたもので、いわば文章による肖像画、自画像である。彼はまず自分の容貌をしるしたのち、気質といえば憂うつな性分(しょうぶん)だ、「三、四年このかた、私が笑ったところを、世間の人は三、四回見たことがあるか、ないかというところである」と書いている。それから、遠盧なくいって自分には才知がある、しかしその才知は憂うつの情によってくもっている、私をもっとも喜ばせる楽しみの一つは...9-2-7ラ・ロシュフコー著作、肖像(ポルトレ)と箴言(マクシム)

  • 聖アンセルモ大司教教会博士 St. Anselmus Archiep. et D.

    聖アンセルモ大司教教会博士St.AnselmusArchiep.etD.記念日4月21日中世期の大学者大人物と讃えられる聖アンセルモは、1034年イタリアのピエモント州アオスタ市の富貴の家に生まれた。子供の頃から信心の業を好み、修道院に入って一生を天主に献げようと志した。しかし血気盛んな青年時代を迎えると、いつかそうした殊勝な考えを忘れ果て、浅はかにも放蕩に身を持ち崩すようになった。父も折々は意見したが一向にききめがない。それで思い切って厳罰を加えようとすると、アンセルモは家を飛び出してフランスへ行き、三年というものを行方定めぬ流浪の中に過ごした。けれどもそういう彼の良心もついには目覚めずにはいなかった。彼は前非を後悔し、その償いにそれからは、専心学問の研究を始め、その目的の為、当時碩学として名高かったラ...聖アンセルモ大司教教会博士St.AnselmusArchiep.etD.

  • パルザムの聖コンラド証聖者 St. Conradus a Parzham C.

    パルザムの聖コンラド証聖者St.ConradusaParzhamC.記念日4月20日聖コンラドは1818年、ドイツのバワリア州バッサウ司教区の一小村パルザムに、素朴な農民の子と生まれた。敬虔な母親の薫育よろしきを得て、幼時より聖徳の芽生えが見られ、当時は異例の7歳で初聖体拝領を許されたほどであった。小学生の頃から、もう人々の尊敬を受け、誰もその面前で無礼な言葉を用いる者はなかった。彼は小さい時分に父母を失ったから、早くから苦労をせねばならなかったが、世間の穢れに染まるような事は少しもなく、その少年時代を清い白百合のように過ごした。それは勿論彼が信心に熱心であったからで、世を離れて独り父祖伝来の田畑を守り、絶えず祈りの中に天主と霊的交通をしていたおかげである。実際彼の祈りを好む事は一通りでなく、働きに疲れた...パルザムの聖コンラド証聖者St.ConradusaParzhamC.

  • 聖レオ9世教皇

    聖レオ9世教皇記念日4月19日レオ9世教皇は、聖人としての生活と軍の司令官としての生活を統合して生きた人であった。1002年に、フランスのアルサスで生まれ、コンラド2世皇帝がイタリアに侵入した時は、助祭であった。聖職者ではあったが、軍隊に入って勇ましく戦った。20年間、レオはトゥールの司教を務め、規律のゆるんだ司祭たちを厳しく取り締まり、修道院に正しい秩序をもたらした。彼が教皇に選ばれたのは1048年であった。それまでトゥール司教区の小さな範囲で行ったことを、今や全教会にわたって実行しようと思い立ち、改革するために西ヨーロッパ中を旅し続けたので、巡礼の教皇として知られるようになった。行く先々で、教皇は司教と司祭達を集めて会議を開き自分の指導に従わせた。レオ9世は、教皇庁の財政を堅固にするために、南イタリア...聖レオ9世教皇

  • 選挙はカトリック信者の義務 全米カトリック司教協議会、1998年11月

    私たちは、すべての市民、とりわけカトリック信者に、選挙権を単なる義務や特権としてではなく、いのちの文化の建設に有意義に参加する機会として、受け入れるよう勧める。責任ある市民としてのすべての行為は、個人の重要な力の行使である。私たちは、その力を、人間の生命、とりわけ、胎児や障害者、その他の弱者である神の子どもたちの生命を守るために行使しなければならない。私たちの政治家の美徳、あるいはその欠如は、彼らだけでなく、私たちに対するふさわしい裁きなのだ。だからこそ、私たちは同胞である市民に対し、次のことを強く求める。政党政治の枠を超え、選挙運動の宣伝を批判的に分析し、党派や単なる私利私欲ではなく、信仰の原則に従って政治指導者を選ぶように。「人生の福音を生きる」『アメリカのカトリック信者への挑戦』全米カトリック司教協...選挙はカトリック信者の義務全米カトリック司教協議会、1998年11月

  • 聖アポロニオ殉教者 St. Apollonius Mart.

    聖アポロニオ殉教者St.ApolloniusMart.記念日4月18日ローマ皇帝マルコ・アウレリオは聖会に峻烈な迫害を加えた。しかしその死後帝位を継いだ彼の子コモドはキリスト教徒に寛大であったので、聖会も暫く平和を楽しむ事が出来、信者の数も著しく増加し、上流の家庭からも信仰に入る者が少なくなかった。ここに述べる篤学にして容姿端麗な聖アポロニオもその中の一人であった。彼が最初聖書その他のキリスト教書を手にしたのは、ただ好奇心に駆られた為に過ぎなかった。けれどもその中に燦然と輝いている美しい真理の光は、やがて彼の心を捕らえずにはいなかった。彼はキリスト教の信仰を一層深く極める為に、聖堂に参り、司祭の教えを聞き、それにも増して度々教皇エロイテリオと語り合った。かように徹底的に研究した結果、遂に彼は聖い洗礼を受け...聖アポロニオ殉教者St.ApolloniusMart.

  • 聖ベネディクト・ヨゼフ・ラブル証聖者 St. Benedictus Joseph Labre C.

    聖ベネディクト・ヨゼフ・ラブル証聖者St.BenedictusJosephLabreC.記念日4月17日18世紀の中頃、全欧州の上流社会には一般に奢侈享楽の風がみなぎり、わけてもフランス国王ルイ14世や同15世、その貴族達は贅の限りを尽くしたものであったが、聖ベネディクト・ヨゼフ・ラブルはかかる時代に生まれて珍しくも清貧の聖さを知っていた一人である。彼は1748年3月26日、フランスのアメット村にラブル家十五子中の長男として生まれた。幼い時から智慧もすぐれ信心も深かったので、両親は将来聖職者にしようと思い、その教育を彼の伯父にあたるある司祭に頼んだ。彼はこの人に仕込まれたが、どちらかと言えば学問よりも信心の業を好み、暇さえあれば聖堂にもうでて祈りを献げ、また貧しい人々がすきで喜んでこれと交わるという風であ...聖ベネディクト・ヨゼフ・ラブル証聖者St.BenedictusJosephLabreC.

  • 9-2-6 サロンの客

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年2ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー6サロンの客このフロンドの乱に関係した貴族のひとりに、ラ・ロシュフコー(一六一三~八〇)という人物があった。彼の家柄は父がフランソワ五世と袮するような、大貴族中の大貴族である。彼はこの父の死(一六五〇)まで、マルシャック公とよばれた。少年期のことはよくわからないが、公爵家の領地ベルツイユの城館でのびのびした、しかし孤独な日々をおくったらしい。まだ十四歳半くらいで、やはり名門の貴族の娘と結婚、八人の子供ができたが、この夫人についてはほとんど不明である。一方、彼は一六二八年から三六年ごろ、軍務に服するとともにルイ十三世の宮廷につかえている。この宮廷では、シュブリュース公妃らの反リシュリュー陰謀に加担して失敗し...9-2-6サロンの客

  • イランがホルムズ海峡を閉鎖したら

    イランがホルムズ海峡を閉鎖した場合、日本への石油の70%、天然ガスの20%が途絶えるようです。日本のイランへの依存率は僅かですが、サウジアラビア、カタール、イラク、クウェート、UAEへのタンカーがホルムズ海峡を経由するからです。イラン、ホルムズ海峡の封鎖可能=革命防衛隊幹部2024年4月10日午前5:23GMT+96日前更新[ドバイ9日ロイター]-イラン革命防衛隊の海軍司令官は9日、アラブ首長国連邦(UAE)におけるイスラエルの存在をイランは脅威と見なしていると述べた。必要と判断すれば、原油輸送の要衝であるホルムズ海峡を封鎖することもあり得るとした。シリアの首都ダマスカスにあるイラン大使館周辺が今月1日に受けた攻撃で革命防衛隊幹部を含む7人が死亡。イランのライシ大統領はイスラエルに報復すると表明している。...イランがホルムズ海峡を閉鎖したら

  • 聖ベルナデッタおとめ St. Bernadetta Virg.

    聖ベルナデッタおとめSt.BernadettaVirg.記念日4月16日フランスのルルドは、1851年2月21日天主の御母が14歳の一少女に現れ給うた所として、全世界に有名であるが、その御出現に就いては既にその祝日なう2月11日のくだりに記した。本日は右の少女ベルナデッタの記念日であるから、簡単ながらその生涯を物語る事にしよう。我等はそこに又、心素直にして謙遜篤信な者を選び、大事を行い給う天主の御摂理の程を伺う事が出来る。彼女は1844年前記のルルドに生まれた。幼い時は健康な子であったが、7歳頃から病身になり、その二、三年後には一度大病を患い、死ぬまで喘息の病から逃れる事が出来なかった。その上彼女の一家は大いなる試練も来た。それは予期せざる不幸から赤貧の中に沈み、住み慣れた家も去ってみすぼらしい小屋同然の...聖ベルナデッタおとめSt.BernadettaVirg.

  • イスラエルの戦時内閣は報復を希望

    イスラエルの戦時閣議が終了した。リークによれば、以下のことが話し合われた:-閣僚の過半数がイラン攻撃に賛成した。-イランを"大規模に"攻撃するか、あるいは限定的/手段的な対応で攻撃するか。ハアレツ(イスラエルの最大手紙)「同盟の好機」か「暴走」か:イランの攻撃に対するイスラエルの指導者たちの反応イランによるイスラエルへの攻撃が一段落すると、イスラエルの政治家たちは、イスラエルがどのように対応すべきかについて声を上げた。ガンツとギャランは、これは対イラン同盟の好機であるとの意見で一致したが、イスラエルの極右指導者たちは、テヘラン中心部への大規模な報復を求めた。ハアレツ(イスラエルの最大手紙)ヤニブ・クボビッチジョナサン・リス4月14,202422:45IDT土曜日の夜、イランがイスラエルに対して前代未聞の空...イスラエルの戦時内閣は報復を希望

  • 聖書があなたの人生の指針となるように 聖ラサール

    聖書があなたの人生の指針となるように、あなたの主な学問を聖書にしなさい。聖ジャン・バティスト・ド・ラ・サール聖書があなたの人生の指針となるように聖ラサール

  • 欠点の克服 「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年

    マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年51.欠点の克服我々は欠点、短所の中より特にはなはだしいもの、例えば傲慢、婬欲、嫉妬などを抑制せねばならぬ。この欠点が我々の霊魂の要塞の微弱な所であるが、この弱味につけこんで強敵たる悪魔は、襲い来るのである。それゆえ、告解聖体の秘蹟をしばしば授りて、欠点、短所を補いて悪魔の襲い入る隙がないようにするのが肝要である。我々は悪しき朋友、淫らな書物(猥褻なる雑誌小説類)を避けて、霊魂を傷つけぬようにせねばならない。前述のことを各自救霊のために、一つも残さず守らねばならぬ。私は強いてはいないが勇気と励ましで善の道に進んだならば、何よりも緊急な救霊を得るために、身に余る成聖の聖寵をこうむりて、地獄の永遠の苦患を逃...欠点の克服「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年

  • 聖リドヴィナおとめ St. Lidwina Virg.

    聖リドヴィナおとめSt.LidwinaVirg.記念日4月15日我等はなぜ、また何の為に苦しまねばならぬか?これは古来人類にとって一つの大いなる謎である。この謎を解く鍵として、天主は旧約時代ヨブという聖人を世に遣わし給うたが、新訳時代に於いて同じ使命を託されたと見るべき人の中に、聖女リドヴィナがある。彼女は1380年3月18日(その年の枝の祝日)、オランダのシーダム市に九人兄弟中ただ一人の女の子として生まれた。生まれつき器量よしで、柄も年齢の割に大きかったから、12歳の時早くも結婚の申し込みがあり、長ずるにつれて益々求婚者が増えた。しかし彼女は幼時より聖母マリアを深く信心し、同様終生童貞を守るつもりであったので、降るような縁談をむしろ心憂い事に思い、なにとぞ人の心を惹かぬ身体となりますようにと常々祈ってい...聖リドヴィナおとめSt.LidwinaVirg.

  • イラン軍がイスラエルに大規模攻撃

    イランがイスラエルに大規模な攻撃を始めたようです。歯車は最終的には、秋田の聖母の「灰をかぶれ」という方向に回っていくのでしょう。よって、それに向けての物心共々の備えを怠りなくしましょう。特に霊的な備えは、物的な備えよりも大切です。大罪の習慣がもしあるなら、今すぐにやめましょう。最期は「盗人のように」来るからです。いつ死んでも、必ず救われるような生活をしましょう。物的な準備は、幾度となく書いたので、今さら改めて書くまでもないですよね。資産運用をなさっている方は、ポートフォリオもそれに合わせましょう。イラン、イスラエルにドローン攻撃大使館空爆に報復2024.04.14Sunpostedat10:50JST(CNN)(CNN)イランは13日、在シリア大使館に対する空爆への報復として、イスラエルに多数のドローン(...イラン軍がイスラエルに大規模攻撃

  • これからは、もう罪を犯してはならない 聖書

    これからは、もう罪を犯してはならない。ヨハネによる福音書8章11節これからは、もう罪を犯してはならない聖書

  • 9-2-5 マザランの勝利

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年2ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー5マザランの勝利つづいて「貴族のフロンド」がおこった。この反乱の中心になったのは、まえのフロンド鎮定に功があったコンデ親王である。手柄に思いあがったこの大貴族は、自分と配下の者どものために地位、金銭などを過大に要求した。一六五〇年一月、政府はコンデを逮捕したが、その姉ロングビル公妃たちは、彼と関係が深い諸地方の蜂起をうながし、ふたたび内乱となった。名将テュレンヌもロングビル公妃の色香に迷い、反乱に与(くみ)した。パリではまた、高等法院の司法官や市民が貴族と連合戦線をはった。一六五一年二月、マザランはドイツに亡命し、コンデは自由の身となった。もしフロンド派が団結していたならば、王権は危機におちいったかもしれ...9-2-5マザランの勝利

  • 聖ユスチノ殉教者 St. Justinus Mart.

    聖ユスチノ殉教者St.JustinusMart.記念日4月14日第二世紀の聖ユスチノは初代キリスト教会に於ける最も有名な聖人の一人で、その事跡も聖人自身がものにした記録によって比較的明瞭に知ることが出来る。彼はパレスチナのシケムに生まれた。この町は紀元七十年ローマ皇帝ティトの軍勢が聖地に侵入のおり、エルサレム市と同じく廃墟と化したが、その後ローマ及びギリシャの移民が続々その地に入り込み、ユダヤ人を圧迫した。ユスチノの父もかかるギリシャ移民の一人であったのである。両親共にキリスト教の信者でなかったのでユスチノも偶像教の迷信を抱いて人となったが、青年時代から極めて真面目な性質で、思索を好み真理を求める心を持っていた。為に緒々の哲学者にも師事し、緒学派の書物も読んで研究したが、ストア派、ペリパテト派、ピタゴラス...聖ユスチノ殉教者St.JustinusMart.

  • 【訃報】水浦征男 神父様 逝去

    ベナンチオ水浦征男神父様が、昨日、午後1時44分、長崎市の安中外科・脳神経外科医院にて肺炎のため、逝去されたようです。82歳でした。永遠の安息を祈念いたします。毎年、叙階される神父様より、亡くなる神父様の方が圧倒的に多く、今後の教会が思いやられます。【訃報】水浦征男神父様逝去

  • 9-2-4 フロンドの乱おこる

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年2ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー4フロンドの乱おこる話をフランスヘかえそう。三十年戦争の末期、大宰相リシュリューの死からおよそ半年、一六四三年五月ルイ十三世の死がつづいた。わずか四歳八ヵ月のルイ十四世(在位一六四三~一七一五)が即位し、スペイン王家の出で、王母のアンヌ・ド・トリッシュ(一六〇一~六六)が摂政となったが、リシュリューの後継者としては、枢機卿マザラン(一六〇二~六一)が登場していた。イタリア人で、フランスに帰化したマザランは、リシュリューに後継者と指名されながら、聖職者という点をべつとしては、まったく前任者とタイプがちがっていた。「鉄の爪」をもったというリシュリューに比して、マザランは顔つきも人ざわりもおだやかで、知恵才覚を...9-2-4フロンドの乱おこる

  • 貪欲は大罪である 聖パトリック

    貪欲は大罪である。聖パトリック貪欲は大罪である聖パトリック

  • 聖マルティノ一世教皇殉教者

    聖マルティノ一世教皇殉教者記念日4月13日マルティノ1世教皇は殉教の苦しみを受けた最後の教皇であった。彼はイタリアのウンブリアで生まれ、聖職者として早くから重要な職務について、教皇テオドロ1世の大使としてコンスタンチノープルに赴任した。その頃、多数のキリスト信者たちが、キリストは神であるから、人間としての意志は持たないという異説を主張していた。649年に教皇に選任されたマルティノは、ラテラノ公会議を召集してこの説を排斥した。これは勇気のある行動であった。なぜならこの異説は東ローマ皇帝コンスタンティヌス2世が支持していたからである。皇帝は激怒して、病気の教皇をコンスタンチノープルへ強制的に送って、3ヶ月間、牢獄に入れた。その後、法廷で死刑の宣告を下した。コンスタンチノープルの総大司教は瀕死の状態であったが、...聖マルティノ一世教皇殉教者

  • 訃報 澤田和夫 神父様の逝去

    カトリック東京大司教区の訃報を転記します。お名前や写真は、しばしばいろんな記事で見ていましたが、お会いした記憶はなく、著書を読んだ記憶もありません。もしかしたら、カテドラルの司祭叙階式で会衆の一人として参加した折に、実はお会いしていたのかもしれませんが、司祭も大勢いらっしゃいますので、どなたがどなたなのかわかりません。ですので、私自身のコメントは書きにくいのですが、無事に救われていらっしゃることを願います・・・。(写真は「司教の日記」より)訃報:使徒ヨハネ澤田和夫神父2024年04月11日訃報使徒ヨハネ澤田和夫神父が2024年4月11日(木)午前0時40分、老衰のため入居先の施設にて帰天されました。享年104歳でした。どうぞお祈りください。葬儀ミサ・告別式の日程は以下のとおりです。使徒ヨハネ澤田和夫神父葬...訃報澤田和夫神父様の逝去

  • 富の正しい扱い方 聖ヨハネ・クリゾストモ

    自分の富を貧しい人々に分け与えないのは、貧しい人々から富を盗み、彼らの生活手段を奪うことです。私たちは自分の富ではなく、彼らの富を持っているのです。聖ヨハネ・クリゾストモ富の正しい扱い方聖ヨハネ・クリゾストモ

  • 9-2-3 「ドイツ帝国の死亡証書」

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年2ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー3「ドイツ帝国の死亡証書」グスタフ王は当代随一の名将といわれる。古代ギリシア・ローマの戦術につうじた彼は、まったく独創的な戦術をあみだした。すばやい移動ができるように騎兵隊を縮少し、歩兵隊の間隔を大きくし、騎兵のあいだに歩兵を配置した。また、ふつう一線に配置される軍隊を二線にし、交互に攻撃ないし撤退できるようにした。銃や大砲も新式であった。軍規はきびしく、掠奪は処罰され、戒律がゆきわたっていた。そしてグスタフ二世は一六三〇年六月、ドイツプロテスタント救援を口実に、領土拡大の野心をもって軍を動かした。リシュリューはいまやデンマーク王にかえて、このスウェーデン王支持にまわり軍資金の提供を約する。三一年夏、不敗...9-2-3「ドイツ帝国の死亡証書」

  • 聖ゼーノ司教殉教者 St. Zeno Ep. et Mart.

    聖ゼーノ司教殉教者St.ZenoEp.etMart.記念日4月12日聖ゼーノはイタリアのヴェロナ市の司教で、4世紀に起こったアリオ派の異端と戦い、その害毒に滅びんとする者を救おうと努めた聖教教父達の一人である。司教になる前の事はあまり詳しく知られていないが、兎に角聖アウグスチノと同時代の人で、およそ紀元310年頃アフリカの北部に生まれ、当時大雄弁家として名声のあったカルタゴのアプレイオに師事し、修辞学その他を学んだ事がある。されば彼も弁舌文章に秀で、その説教に於いても、内容の豊富深遠なる、表現の適切巧妙なる、優に大アウグスチノに比すべきものがあると言われている。しかしゼーノの信仰や愛徳はその博学にも優っていた。彼がヴェロナ市の司教に挙げられたのは362年12月8日の事であったが、その頃アリオ派の異端は北イ...聖ゼーノ司教殉教者St.ZenoEp.etMart.

  • (書評)日本神話

    日本神話を聞きました。全てが本当にひどい話です。イザナギ、イザナミ、スサノオ、大国主、ニニギ・・・。彼らの人格は、我々俗人と同レベルか、それ以下です。少しも聖なるところがありません。イザナミは自分の腐敗した死体を夫に見られて怒り、夫を呪い、あの世の亡者たちと共に夫を追いかけ、夫が逃げ延びてしまうと、仕返しに毎日1000人、人を呪い殺してやると宣言します。スサノオも大国主もニニギも、乱暴で自分本位で、イザナミと方向性において大差がありません。要するに、彼らは、私達俗人と同レベルかそれ以下の人格であり、徳において少しも優れていないのです。先日紹介した聖人の言葉を、まさに思い出します。人々は自分達が崇拝する神々を模倣する。そのような惨めな人達においては、自分達の犯罪が宗教となるのである。聖キプリアヌスこのような...(書評)日本神話

  • 信仰のない者の話は軽蔑しなさい 聖カテリ・テカクウィサ

    信仰のない者の話は軽蔑しなさい。聖カテリ・テカクウィサ信仰のない者の話は軽蔑しなさい聖カテリ・テカクウィサ

  • 9-2-2 三十年戦争はじまる

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年2ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー2三十年戦争はじまるここでリシュリューのフランスが介入した三十年戦争についてふれておこう。神聖ローマ(ドイツ)皇帝をいただいてはいるが、およそ統一からは縁遠く、諸侯や自由都市など三百数十の国々からなる十七世紀ドイツでは、宗教改革以後キリスト教がカトリック、プロテスタントのルター派、カルバン派にわかれて、たがいに対立していた。一五五五年のアウクスブルク宗教和議は、諸侯や諸都市に、カトリックおよびルター主義信仰の自由をゆるした(カルバン主義はのぞかれた)。しかしこれは個人にみとめたのではなく、「支配者の宗教、その支配地に行なわれる」の原則で、諸侯が領民の宗教を決定する権利をもったにすぎず、したがってドイツの宗...9-2-2三十年戦争はじまる

  • 聖スタニスラオ司教殉教者

    聖スタニスラオ司教殉教者記念日4月11日「正義のために迫害される人は幸せである。天の国は彼等のものだからである。」(マタイ5-10)世に信仰道徳を乱す者があれば、責任者は一身を顧みず、にがいいましめの言葉も言わねばならない。聖スタニスラオ司教殉教者も、義のために命を捧げたひとりである。彼の両親は家名、財産とも何不足ない身であったが、ただ一つさびしいのは結婚後三十年も子宝に恵まれないことだった。祈りに祈りを重ねて、ようやく1030年7月玉のような男の子を授けられた。これが後の聖スタニスラオ司教である。喜ぶ両親は我が子を将来聖職者として神に捧げることにきめ、心身両面からいたわり育てた。スタニスラオも親の期待にそい、よく祈りよく学び、国の一流校グネーゼン大学を卒業後、パリ大学に留学した。そこでもいっしんに学問に...聖スタニスラオ司教殉教者

  • 聖ジェンマ・ガルガニおとめ St. Gemma Galgani V.

    聖ジェンマ・ガルガニおとめSt.GemmaGalganiV.記念日4月10日ジェンマと呼ばれる聖なる婦人が二人ある。共にイタリアの人であるが、一人は始め羊飼いで後に隠遁生活を営み、1429年5月12日帰天したスルモナの聖女、もう一人は本日記念されるジェンマ・ガルガニで1933年5月14日ピオ11世教皇に列福され、1940年5月2日ピオ12世教皇に列聖された20世紀の新聖者である。このジェンマ・ガルガニは1878年3月18日、イタリアはカミリアノに生まれ、ほとんど一生を隣町であるルッカ市で送った。父は多忙な薬剤師で、子の教育を顧みる暇もなかったから、幼いジェンマは、虚弱で常に病床にあった母の枕べにおいてさまざまの事を学ぶより仕方がなかった。その頃彼女にとって最も楽しかったのは、病める母に教えられて、共に天主...聖ジェンマ・ガルガニおとめSt.GemmaGalganiV.

  • 9-2-1 ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年2ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー1仮借なきリシュリューフランスにおいて、ブルボン王家の絶対主義の基礎をすえたのは、アンリ四世(在位一五八九~一六一〇)である。十六世紀後半の宗教内乱を収拾して平和をもたらしたこの王は、国土再建という大事業と取りくみ、財政の整備、税制の改革、産業の保護育成、貿易や植民の奨励などに力をいれた。植民ではシャンプラン(一五六七頃~一六三五)がカナダを探検し、一六〇八年ケベックをひらいている。マクシミリアン・ド・ベテューヌ、すなわちシュリー公(一五六〇~一六四一)のようなすぐれた側近の臣がいたことも、王にとって幸いであった。「勤勉と禁欲の権化」のようなシュリーは、王となったアンリを助けて財政上、産業上フランスの復興...9-2-1ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー

  • 聖女ワルトルーディス St. Waltrudis Vid.

    聖女ワルトルーディスSt.WaltrudisVid.記念日4月9日聖女ワルトゥーディスは680年今のベルギーのヘンネガウ州に生まれた。両親はフランスのメロヴィング王室の親戚にあたり、その血縁からは聖女アデルグンディス、その夫聖ヴィンセンシオ、その三子ランドリコ、聖女マデルベルタ、聖アデルトルーディス等多数の聖人を出している。ワルトルーディスは年頃を迎えると父母の希望に従って、マデルガルという貴族の一青年と結婚したが彼等は全くキリスト教的夫婦の典型ともいうべく、己の家庭の祈りの道場とし、財産は慈善事業に投じ、四人の子供は天主の愛子として清く育てた。その中一人は早く死んだが、残る三人は男を聖職者に、女を修道女にしてことごとく天主に献げた。かように敬虔な二人であったから、間もなく子供等の後を追って自らも修道生活...聖女ワルトルーディスSt.WaltrudisVid.

  • 聖ペルペトゥオ司教

    聖ペルペトゥオ司教記念日4月8日ペルペトゥオは、5世紀の中頃、フランスのトゥール市の司教になった。彼は貧しい人々を後継者として自分の財産であった牧場や森、ぶどう園、家屋、庭園、水車、金や銀、そして衣服まで、彼等に施すことを生前から遺言していた。彼が尊敬していた聖人は聖マルティノであった。マルティノは軍人で、マントを切り裂いて半分を乞食に与えた聖人である。その墓はトゥールの大聖堂の中にあったが、ペルペトゥアはこの建物を再建して、多数の巡礼者たちが宿泊できるようにした。ペルペトゥオは教区民に、教会の祝日を除く毎水曜日と毎金曜日に大斉を守るように布告に出し、なお、年間の月曜日にも数度、大斉日を定めた。彼の影響は非常に大きかったので、その死後13世紀たってから聖人の遺言書だと言って、次のような偽りの文書を作った者...聖ペルペトゥオ司教

  • 永遠の罰と報酬 聖ユスティノス

    すべての人は、自分の行為にふさわしい永遠の罰と報酬を受ける。まことに、もしすべての人がこのことを認識したならば、永遠の火の宣告を受けると知って、一時たりとも悪を選ぶ者はいなくなるだろう。それどころか、自分を制御し、美徳で自分を飾るためにあらゆる手段を講じるだろう。"そうすれば、神の善い賜物を得て、罰から逃れることができるだろう。聖ユスティノス永遠の罰と報酬聖ユスティノス

  • 9ー1ー8 地方行政・軍隊・議会

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年1エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――8地方行政・軍隊・議会イギリス絶対主義において、中央政府が官僚組織をとっていることは、大陸の絶対主義諸国とまったく共通である。しかし地方行政とか、軍隊とかいうことになると、イギリスは大陸とひじょうにちがってくる。そのうえ大陸では絶対主義時代には議会(身分制議会)が停止されたが、イギリスでは、絶対主義の最高潮期にも議会が存在した。以下、イギリス絶対主義の特色をしめす地方行政・軍隊・議会の三つについて検討する。まず中央政府で決定した政策を、地方に浸透させる役割を果たしたのはだれか。隣国のフランスでは、中央から地方に派遣された有給の地方監察官がこれに当たったが、エリザベス朝のイギリスでは、治安判事であった。治安判...9ー1ー8地方行政・軍隊・議会

  • 聖ヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サール司祭

    聖ヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サール司祭記念日4月7日近代教育の先駆者と呼ばれるヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サールは1651年フランスのランスで生まれ、10歳で司祭を志して勉強を始め27歳の時叙階された。彼は貧しい少年達の教育に身を献げることを決心して、司教座聖堂参事会員の地位と自分の家族の遺産を放棄し、献身的な教師12人を選んで従順の誓願を立て、1684年、青少年の教育を目的とするキリスト教学校修道会(ラ・サール会)を創立した。会員はごく質素な衣食住に甘んじ、ほとんど無料で青少年の教育にあたったが、新しい教授法をとった結果、学校は非常に良い評判をかち得て、各地から設立を要請された。当時行われていたラテン語の読み書きを教える代わりに、まず母国語を教えることを実行した。しかし多くの人々はヨハネを誤解し、貧し...聖ヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サール司祭

  • エスキルの聖ウイリアム修道士

    エスキルの聖ウイリアム修道士記念日4月6日ウイリアムは1125年頃パリで生まれた。パリのサン・ジェネヴィエーヴ・ド・モン教会の参事会員として功績をあげ、後にデンマークのロスキルドの司教の依頼で、エスキロにある修道院の院長となった。デンマークでは、彼がフランスで経験したことが大いに役立った。ウイリアムは、パリのサンジェルメン・デ・ブレの修道士たちによって教育されてから教会の参事会員となったのであるが、その当時の参事会員たちは不規則な生活を送っていて、ウイリアムの規則正しさを度々あざけり、非常に憎んだので、ウイリアムは辞職してパリから出ることになった。しかし幸いなことにエウジェニオ2世教皇がパリを訪問してサン・ジェネヴィエーヴ・ド・モンの参事会員の不規律さを認め、もっと熱心な人々と交代させた時、ウイリアムは彼...エスキルの聖ウイリアム修道士

  • 9-1-7 官僚の世界

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年1エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――7官僚の世界エリザベス朝絶対主義の政治の中心は、議会ではなく、政府であった。政治家は議員政治家ではなく、官僚政治家であった。当時の政府は枢密院といわれるが、日本の明治憲法下の枢密院や現在のイギリスの枢密院と異なり、政治の実際を担当するもので、今日の内閣に当った。この枢密院に列席する枢密院議官のうち、主要なものは大臣である。エリザベス朝の大臣には、大法官、大蔵卿以下たくさんあるが、宰相の役割を果たしたのは秘書長官で、エリザベスは即位後まもなく、一五五八年、ウィリアム・セシル(一五二〇~九八)――のちのパーリ卿――をこれに起用した。セシルは一五七二年まで在職し、そののち健康上の理由から大蔵卿に転じたが、九八年死...9-1-7官僚の世界

  • 救いの道へと導く光 聖ジャン・バティスト・ド・ラ・サール

    若者には、救いの道へと導く歩哨の光が必要だ。聖ジャン・バティスト・ド・ラ・サール救いの道へと導く光聖ジャン・バティスト・ド・ラ・サール

  • 聖ヴィンセンシオ・フェレリ証聖者 St. Vincentius Ferrerius C.

    聖ヴィンセンシオ・フェレリ証聖者St.VincentiusFerreriusC.記念日4月5日聖ヴィンセンシオ・フェレリは中世期に於いて、最も名高い説教家の一人である。彼は殆ど全欧州を歴遊して説教を試み、多大の成功を勝ち得た。しかしこの成功は決して彼の弁舌のみに依ってもたらされたものではない、むしろ彼の聖徳の然らしめた所と言えるのである。聖ヴィンセンシオは1357年の1月23日スペインに生まれた。父はワレンチア市の一公証人で、母は名をコンスタンチアと言った。このコンスタンチアとは「忍耐」という意味の言葉であるが、その名の通り彼女はいかにも辛抱強く夫と共に愛子の教育に当たり、ヴィンセンシオもよく両親や先生方の言う事を聞き、精を出して勉強しまた祈ったから、天賦の英才は存分に発揮され、学業の進歩は驚くばかり、そ...聖ヴィンセンシオ・フェレリ証聖者St.VincentiusFerreriusC.

  • 歩みを止めるな 聖ヒエロニムス

    良い、とても良い、最高!歩みを止めるな。あなたの善がより良くなり、あなたの善が最善になるまで。聖ヒエロニムス歩みを止めるな聖ヒエロニムス

  • 9-1-6 身分、社会

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年1エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――6身分、社会いまから三百数十年もまえのエリザベス朝の社会は、君主を頂点とするピラミッド型の貴族制社会であった。身分によって上下の区別がはっきりとしており、すべての人は一定の身分をもち、一定の地位をあたえられていた。エリザベス朝はイギリス・ルネサンスにあたるが、これを代表するシェークスピア(一五六四~一六一六)は、一六〇三年に書いたといわれる『トロイラスとクレシダ』のなかで、「身分はすべての遠大な計画に達するための梯子(はしご)であるが、これがぐらついていては訃画は失敗におわる。社会も、学校の学級も、都市の団体も、異なった国と国とのあいだの平和な貿易も、長子相続も、出生の権利も、長幼の序も、王冠も、王笏(しゃ...9-1-6身分、社会

  • 聖イシドロ司教教会博士 St. Isidorus Ep. et D.

    聖イシドロ司教教会博士St.IsidorusEp.etD.記念日4月4日聖イシドロの家はスペインの王室と縁続きであり、殊にもの聖人を出した事で名高い。イシドロの父はカルタゲナ州の総督で、母はテオドリッヒ王の後裔であった。さればこれら父祖の勇ましい血を受けた4人の子、レアンドロ、フルゲンチオ、イシドロ、及びフロレンチナが、こぞって聖人に列せられる光栄を得、前三者は司教となり、最後の妹フロレンチナは修道女となって数多の修道院を治める身となった事も、けだし不思議ではないかもしれない。長兄のレアンドロはまず修士となり、後セビリアの司教に任ぜられた。彼は自分の創立した学校で自ら末弟イシドロを教育したが、ほとんど酷と思われるまで厳格な態度で臨んだ。彼はしばしばイシドロを激しく叱責する事があった。しかしそれもイシドロに...聖イシドロ司教教会博士St.IsidorusEp.etD.

  • 多神教の本質 聖キプリアヌス

    人々は自分達が崇拝する神々を模倣する。そのような惨めな人達においては、自分達の犯罪が宗教となるのである。聖キプリアヌス多神教の本質聖キプリアヌス

  • 9-1-5 内外の戦い

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年1エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――5内外の戦いイギリス内外のカトリック教徒の望みの綱(つな)となったのは、前スコットランド女王メアリー・スチュアートである。カトリックの彼女は、一五六八年故国で王位を追われ、エリザベスを頼ってイギリスにきたが、そのまま監禁されていた。そして事あるごとに、彼女はカトリック側に利用された。その一つが北部の乱である。北部というのはイングランドの北部の辺境地帯で、封建制の根がふかく、カトリシズムが信仰され、デューター朝の中央集権にはつよい反感をもっていた。一五六九年、この北部のカトリック貴族が反乱をおこし、「一五八八年の無敵艦隊の来襲のときよりも、危険な状態を現出した」。反乱軍は、カトリシズムを復活し、メアリーをスコ...9-1-5内外の戦い

  • 黒人聖ベネディクト証聖者 St. Benedictus a S. Philadelpho C.

    黒人聖ベネディクト証聖者St.BenedictusaS.PhiladelphoC.記念日4月3日聖書に「神には人就きて偏り給うが如き事なし」(ローマ人への手紙2-1)とあるが、その通り天主は誤り易い人智の判断とは異なり、その底の底まで見抜き給う全知のよしとする所に従って、聖寵を分かち与え給う。これから述べようとする黒人の聖ベネディクトなどもそのよき例の一つと言えよう。この聖人は1526年イタリアのメッシナ付近に生まれた。父も母も共に奴隷階級に属する黒人であったが母は早く自由の身となり、かつその長男ベネディクトをも同様解放してもらう約束をした。身分こそ賤しかったものの両親はいずれも信心深く、我が子をも極めて敬虔な人に育て上げる事に成功した。さてベネディクトはやや長ずると、早くも牧童として牛や羊を守る仕事をさ...黒人聖ベネディクト証聖者St.BenedictusaS.PhiladelphoC.

  • パオラの聖フランシスコ証聖者 St. Franciscus de Paola C.

    パオラの聖フランシスコ証聖者St.FranciscusdePaolaC.記念日4月2日イタリアのパオラ市に住む敬虔なヤコボ・マルトリラ夫妻は子宝がないのを悲しみ、アッシジの聖フランシスコの取り次ぎによってこれを与えられん事を天主にお願いした。その甲斐あって1416年、遂に男の子を儲けたが、代願の聖人に感謝の心を表すため、その名もフランシスコと名付けた。ところがこの子が眼病に罹ったので、両親は再び聖フランシスコの取り次ぎを願い、もし治してくださったら、将来必ず貴方の修道院に入れて、天主に献げましょうと誓った。するとその眼病はたちまち全快してしまった。父は自分でも厳格な生活をしている人で、愛子にも同様厳しいしつけをした。そしてその施す所はただ宗教教育ばかりであった。フランシスコが13歳になると、父母は誓いの如...パオラの聖フランシスコ証聖者St.FranciscusdePaolaC.

  • 聖フーゴ司教証聖者 St.Hugo E.

    聖フーゴ司教証聖者St.HugoE.記念日4月1日聖人達の伝記を調べて見ると、敬虔な父母の子と生まれた人が非常に多い、例外もあるが大方は「善き木は善き実を結ぶ」という聖福音の聖言葉通りである。即ち善き親は大抵善き子を恵まれるのである。聖フーゴの両親もやはり信心深い人々であった。父は勇ましい軍人ながら、又熱心なキリスト信者で、82歳の老齢に達してから聖ブルノの修道会に入り、厳しい戒律を守って善終の準備をした。母も敬神の念に富み、フーゴを生む前天主から不思議な御示現を受けた。というのは聖ペトロが可愛い彼女の子を抱いて他の緒聖人を引き連れて天に昇り、天主の玉座にそれを献げる所をありありと見たのである。これは彼等夫婦に我が子を立派に教育せねばならぬとの訓戒にもなった。何となればその御示現によって、我が子を聖なる召...聖フーゴ司教証聖者St.HugoE.

  • 9-1-4 ピューリタンとカトリック

    (写真は現代のイギリス国教会)『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年1エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――4ピューリタンとカトリックこの「上からの改革」に対して、「下からの改革」の動きもあった。当時、これを代表したのはピューリタンである。すでに「メアリー時代の亡命者」たちが、大陸でカルバンその他の教えをうけ、エリザベスの即位後帰国してから、イギリス国教会を批判していた。彼らはイギリスの宗教改革が十分でないとして、残存しているカトリック教会流の祭式を除去することによって、国教会のピューリフィケーション(浄化)を求めたから、ピューリタン(清教徒)とよばれた。彼らピューリタンは、はじめはイギリス国教会の主教制度を否定することなく、その枠の中でカトリシズムの残滓(ざんし)を一掃しようとした...9-1-4ピューリタンとカトリック

  • 主の復活

    さて、安息日を終えて、週の始めの日の夜明けごろ、マグダラのマリアと他のマリアは墓を訪れた。すると大地震が起こり、主の天使が天から下って石をわきに転ばし、その上に座った。その姿は稲妻のように輝き、その服は雪のように白かった。番兵たちは恐れおののいて死人のようになった。そのとき天使は婦人たちに向かって言われた、「恐れるな。私はあなたたちが、十字架につけられたイエズスをさがしているのを知っている。だが、もうここにはましまさぬ。おことばどおり復活された。イエズスが納められたその場所を見に来るがよい。それからすぐ弟子たちに知らせに行き、<イエズスは死者の中からよみがえられた。みなに先立ってガリラヤに行かれるからそこで会える>と言え。これが私の告げることのすべてだ」。婦人たちは恐れと同時に非常な喜びを感じ、すぐ墓を去...主の復活

  • 御復活の大祝日 Dominica Resurrectionis Domini

    御復活の大祝日DominicaResurrectionisDomini春の始めの満月に続く最初の日曜日にはイエズス・キリストが死者の中より蘇り給うた事を記念する。これはキリスト教に於ける最も古くまた最も重要な祝日で、聖会の一年を連山に喩えればその最高峰とも見るべきである。昔一般信者は三日にわたり、新受洗者は洗礼の白衣を着けたまま一週間の間、主の御復活を祝った。今日においてもこれは第一級の特別週間とされ、その間毎日特有なミサ聖祭が執行される事になっている。かような事はいかなる他の大祝祭にも見られぬ所である。そして御復活節の間は毎日ミサ聖祭中にも、聖務日課中にも、聖会は「この日こそ主の造り給える日なれ。我等楽しまん。この日において喜び躍らん」と祈るのである。実際この日は全能の天主に依って設けられたものであった...御復活の大祝日DominicaResurrectionisDomini

  • 聖バルビナおとめ St. Balbina Virgo

    聖バルビナおとめSt.BalbinaVirgo記念日3月31日聖女バルビナは2世紀初めの人である。父はクイリノのいいローマ帝国の軍人で、大佐まで昇進した。父も娘も最初は偶像教の信者であったが、後には共にカトリック教に入り、二人ながら聖人の列に加えられたのは、いかにも恵まれた親子ではないか。バルビナはその少女時代器量も美しく、才能も豊かであったから、父も殊の外寵愛すれば多くの青年達も想いを寄せ、殊にその家は富んでもいたので、縁談は降るようにあった。しかし諸行無常のたとえに漏れず、思いがけなくも彼女は首に悪声の腫物を生じ、それ以来うってかわった醜い容貌となり、恥ずかしさのあまり人目を避けねばならぬほどになった。父はこれを大いに悲しみ、方々の医者にかけるやら様々の薬を試みるやら、神々に祈願をこめるやら、まじない...聖バルビナおとめSt.BalbinaVirgo

  • 聖ヨハネ・クリマコ山修士 St. Joannes Climacus Monachus

    聖ヨハネ・クリマコ山修士St.JoannesClimacusMonachus記念日3月30日第4世紀には、修道的な目的として或いはエジプト、或いはアラビアの砂漠に隠遁する信者が甚だ多かった。で、ローマ皇帝ユスチニアノは、モーゼが十戒を授かったシナイ山の付近に住むこれらの山修士等の為、その山上に一つの修道院を建てれれた。するとある日の事である、まだ16歳にしかならぬというヨハネと名乗る一少年がその修道院の門をたたいて、切に入院を請い願った。かくてその願いは一応ゆるされて、少年は修道者の群れに加えられたが、何分まだ若年でもあり、体格も極めて華奢なので、その指導を命ぜられたマルチリオ老修士も、果たして彼が長くその厳しい生活に耐えうるかと危ぶまずにはいられなかったのである。ところがヨハネ少年は入院の日から他の人々...聖ヨハネ・クリマコ山修士St.JoannesClimacusMonachus

  • 聖ヨナ、聖バラキシオ兄弟殉教者

    聖ヨナ、聖バラキシオ兄弟殉教者記念日3月29日327年、ペルシャの王シャプール2世が国中のキリスト信者たちに対してははげしい迫害を始めた。多くの信者が牢獄に入れられたので、ベト・アサ市に住んでいた2人の兄弟のヨナとバラキシオが信者を慰めるために牢獄へ出かけ、捕縛されて裁判に渡された。裁判官は彼等に、ペルシャ王を崇めると共に太陽と月、火と水も礼拝するように命じた。二人はただ愚かな者だけが、天の不滅の神の代わりに、死をまぬがれない人間を拝むのだと答えた。二人は野蛮な方法で殺された。恐ろしい責め苦の後で、ヨナのめった切りされた体はぶどうしぼり器の中に入れられて押しつぶされた。バラキシオも同じように残酷に扱われた。何百本もの芦のを切って鋭い破片にし、彼の体に突き刺した。そして地上をころがされて、長い破片が体を深く...聖ヨナ、聖バラキシオ兄弟殉教者

  • カピストラノの聖ヨハネ St. Joannes a Capistrano C.

    カピストラノの聖ヨハネSt.JoannesaCapistranoC.記念日3月28日14世紀末から15世紀初めにかけて、イタリアには巡回説経家と呼ばれる熱心な人々が現れ、南欧諸国を巡って、古の洗者聖ヨハネの如く世人に悔い改めをすすめ、信仰の復興を計った。それはいずれもフランシスコ会修士であるマルコの聖ヨハネやシェナの聖ベルナルディノやカピストラノの聖ヨハネ達であるが、この3人の中でも社会に対し特に広くかつ深い感化を及ぼしたのはカピストラノの聖ヨハネであろう。彼は1386年イタリアのカピストラノという小さい町に住むドイツ人騎士夫妻の間に生まれた、幼時より優れた才能を恵まれていたヨハネは、僅か14歳にして早くも大学に入り、法律を修め、26歳の若干の身でナポリ王ラジスラオの信任を蒙り、ペルージャ市長に任命される...カピストラノの聖ヨハネSt.JoannesaCapistranoC.

  • 富の本質 パドゥアの聖アントニオ

    この世の富は葦のようなもの。その根は沼地に沈んでおり、その外観は見るからに美しいが、その内部は空洞である。もし人がそのような葦に寄りかかったら、折れてその人の霊魂を突き刺すだろう。パドゥアの聖アントニオ富の本質パドゥアの聖アントニオ

  • ザルツブルクの聖ルペルト司教

    ザルツブルクの聖ルペルト司教記念日3月27日ザルツブルクのルペルトは、ドイツ人ではなくフランクの人で、フランスの王チルディック3世が、彼に宣教師としてババリアに行くことを勧めた時、ウォルムスの司教であった。チルディック王がルペルトに依頼したことは、ババリア公爵テオド2世を改宗させることであった。ルペルトは改宗した公爵と共に多くの人をキリスト教徒にした。当時の宣教師は異教の寺院を破壊したりしたが、ルペルトは彼らに倣わず、それらをキリスト教会として奉献して、レーゲンスブルクとアルテッティングに礼拝の場所を作った。教会として使用できるような建物のない場所には適当なキリスト教の教会を建てた。やがて信者の数が増加し、より多くの宣教師がフランコニアから到着した。ルペルトの妹のエラントルドは、現在ノンベルグと呼ばれてい...ザルツブルクの聖ルペルト司教

  • ハイチの枝の主日

    ハイチの首都、ポルトープランスのカトリック教会です。ギャングの攻撃で国家が崩壊し、無政府状態の中、多くのカトリック信者が枝の祝日を祝ったようです。教皇様も、ハイチでギャングに拉致された人たちの解放を呼びかけておられます。ハイチ首都、路上の殺戮期待された国際社会の介入進まず1人の女性が、幼い我が子を待機中の車へと急がせる。子どもの目を手でふさぎながら。他の家族が重い荷物を持って後に続く。彼らもやはり目を背けている。家族は街を出よう...CNN.co.jpハイチ首都で再び銃撃戦発生米国は自国民を避難させる(AP通信)-Yahoo!ニュースポルトープランス、ハイチ、3月22日(AP)―武装集団の暴力から解放された市民は3月21日、食料品や生活必需品を買い求めてポルトープランス市内に出たが、その数時間後、ダ......ハイチの枝の主日

  • 聖母マリアの御告げの大祝日 Frestum Annuntiationis B. Mariae V.

    聖母マリアの御告げの大祝日FrestumAnnuntiationisB.MariaeV.大祝日3月25日聖マリアの親戚聖エリザベトが懐妊して六月目の事であった。ある日大天使ガブリエルがマリアの許に現れ、「めでたし、恩寵に満てる者よ、主は御身と共に在す。御身は女の中にて祝せられた者であります」と、突然思いがけない祝辞を述べた。そのわけを知らぬマリアは大いに驚き、何事の祝辞かと思い惑っていられると、天使はまた言葉を継ぎ「ご心配には及びません。御身は天主の特別な御恩寵を得られたのであります。御身は懐胎して一子を儲けられるでありましょう。また主なる神はその御子に祖先ダビデの玉座を賜うて、ヤコブの家を限りなく治め、その治世は世々に終わる時がありますまい」と言った。それでマリアも事の次第を始めて悟られたが、彼女は同じ...聖母マリアの御告げの大祝日FrestumAnnuntiationisB.MariaeV.

  • 大天使聖ガブリエル St. Gabriel Archangelus

    大天使聖ガブリエルSt.GabrielArchangelus記念日3月24日救い主イエズス・キリストは弟子達を選び給う時之に向かって「誠にまことに汝等に告ぐ、汝等は天開けて神の使いたちが人の子の上に上り下りするのを見るであろう」(ヨハネ1-51)と仰せになった。主はこの聖言を以て御自分が天使達と親しく交わり給う事を示されたのである。実際聖福音書をひもとけば、天使達が現れて主にお仕えした例が少なからず発見されるが、中でも本日祝う大天使ガブリエルの如きは、最も聖主と深い関係を有し、特別な使命を委ねられた方と言うことが出来よう。ガブリエルはまず聖書にその名を記された三大天使の一位であって、又ラファエルの如く主の御前に立つ七天使の一位でもある。従って彼は天使の九階級中最上の階級に属し、「天主の力」という意味のガブ...大天使聖ガブリエルSt.GabrielArchangelus

  • 聖ルドゲーロ司教 St. Ludgerus E.

    聖ルドゲーロ司教St.LudgerusE.記念日3月26日さしもに栄華を誇ったローマ大帝国も4世紀民族移動の結果敢えなくも滅び去り、退廃を極めたこの老民族に取って代わって欧州の覇権を握ったのは、新興気鋭のフランク民族であった。かくて三百年間ローマ歴代の皇帝に、至らざるなき迫害を蒙ったカトリック教もフランク族には受け容れられて信教の自由を楽しむ事が出来るようになり、まず同民族によってドイツ、イギリス、フランス、オーストリアなどに伝えられた。しかしドイツの西北地方に棲むフリソン人等やサクソン人等はカトリック宣教師を排撃し、なかなか真理の教えに帰依しようとしなかったが、天主の御摂理は不思議なもので、この頑迷極まるフリソン人の中から一人の篤信な司教が現れ、同胞の使徒として目覚ましい活躍をし、ついにその大部分の改宗...聖ルドゲーロ司教St.LudgerusE.

  • 聖グイニア殉教者

    聖グイニア殉教者記念日3月23日聖パトリックが5世紀にアイルランドを改宗させようと努力していた時、クリト王の宮廷で侮辱され、追い出されたことがあった。しかし王子のグイニアは父王よりも礼儀正しく、まだキリスト教徒ではなかったが、パトリックの信心深さを認めて、自ら立ち上がって自分の椅子を彼に差し出した。後に狩りをしながらキリスト教について考え、ついに信者となった。そして自分の馬を手放して隠修士として暮らし始めた。クリト王の死後、彼は宮廷に帰ったが、王位にはつかずに、770人の男女の信徒(改宗した妹のビアラも含めて)を集めて、ウェールズとブリタニーにキリスト教を広めた。ブリタニーのプビグナーで聖人が行ったと言われる奇跡の一つは動物に対する愛を示すものであった。水が不足したので聖人が地面を打ちたたいたところ、3つ...聖グイニア殉教者

  • 主は赦すに速く罰するに遅い

    主は人を愛し、赦すのに速く、罰するのに遅い。だから誰も自分の救いに絶望してはならない。エルサレムの聖キリロス主は赦すに速く罰するに遅い

  • 8-1-3 イギリス国教会の最高統治者

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年1エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――3イギリス国教会の最高統治者エリザベスがイギリス女王になると、大陸に亡命していた「メアリー時代の亡命者」たちがぞくぞく帰国し、ロンドンには、たちまち十ばかりのプロテスタントの教派が出現した。何ヵ所かの教会で、エドワード六世時代の形式による儀式が行なわれ、英語の祈祷が行なわれた。こうして新教が復活し、カトリック教徒と新教徒が対立するようになったが、だいたいカトリック教徒は西部、北部で、新教徒は東南部、南部で優勢であった。数のうえではカトリック教徒が多かったようで、当時のスペイン大使は、カトリック教徒でないものの数を三分の一とふんでいる。こうしてエリザベスは「分裂国家を継承した」わけで、女王としては国家統一の立...8-1-3イギリス国教会の最高統治者

  • スウェーデンの聖女カタリナ乙女 St. Catharina a Suecia V.

    スウェーデンの聖女カタリナ乙女St.CatharinaaSueciaV.記念日3月22日一口に善と言っても、天主の御命令を果たした善もあれば、その御勧告に従った善もある。御命令の場合には之を怠れば罪になるが、御勧告の場合には従わずとも別に罪にはならぬ。しかし従えば特別の功績となるのである。本日語らんとするカタリナはかような功績を立てた聖女であった。彼女は聖女ビルジッタの四女で1331年北欧スウェーデンに生まれた。母は彼女の為を思い、7歳の幼時に之を手放し、リセベルグの修道院に入れて教育する事にした。後カタリナは同院に於いて、自ら望んで終世童貞を守る誓願を立てたが、それと知らぬ父は独断で彼女をエドガーと呼ぶ貴族の一青年の妻とする取り決めをしてしまったのである。これを聞いて驚いたのはカタリナである。彼女は父に...スウェーデンの聖女カタリナ乙女St.CatharinaaSueciaV.

  • フリューエの聖ニコラス

    フリューエの聖ニコラス記念日3月21日1481年、スイス連邦は崩壊しかけていた。戦争でほとんどの敵を敗北させたが、戦利品の分配の仕方や、フリブールとソルールとを連邦の中に入れるべきか否かの問題についても争っていた。その時、相談を持ちかけられたのは、ランフト村の聖堂の近くの小屋に住んでいた64歳の老隠修士のニコラス・フォン・フリューエであった。彼は読み書きも出来なかったが、スイスでは最も賢明な人物とみなされていたのである。聖人の勧告により、代表者達は有名なスタンスの布告を作り上げた。それは、国の平和と一致を救うものであった。彼はウンターワルデン近くの豊かな土地に生まれ、初め農業をしていたが、後に軍隊に入ってチューリッヒと戦い、14年後には司令官として再び戦った。敬虔な女性ドロテア・ウィスリングと結婚して10...フリューエの聖ニコラス

  • ギャングの攻撃で国家が崩壊:ハイチ

    中米の島国ハイチでは、ギャング団が首都の80%を占領し、大統領は殺害され、首相は辞任を要求されて辞任し、無政府状態が続いています。果たして、ハイチの独立は正しかったのでしょうか。独立を維持する代わりに、国中がギャングによる内乱状態になるのが、正義なのでしょうか。ハイチは自力では立て直す能力はないでしょう。でも、他国に領土編入でもしない限り、他の国も軍隊を派遣してまで、この国を立て直すほどのインセンティブが働きません。そうなれば、永久にこの国は、荒れたままです。ちなみにハイチは、カトリック信者が極めて多数の国でもあります。ギャングの集団は今月に入り、空港や警察署、政府庁舎、刑務所など、ハイチの国家として最後に残ったものに対して、かつてない連携で攻撃を行っている。長年にわたるギャングの支配と民衆の不安が頂点に...ギャングの攻撃で国家が崩壊:ハイチ

  • 私達の可能性 聖フランシスコ・サレジオ

    私たちは皆、キリスト教の美徳と聖性に到達することができる。聖フランシスコ・サレジオ私達の可能性聖フランシスコ・サレジオ

  • 9-1-2 流血のメアリー

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年1エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――2流血のメアリーメアリーが即位したとき、イギリスは宗教改革からすでに二十年ちかく経過しており、教皇至上権を知らない世代が成年に達していた。そのうえイギリス人には、外国の支配――教皇至上権もそれであるが――に対してきわめて敏感な国民感情があった。母親のキャサリンから、スペイン・カトリシズムの精神をうけついだメアリーは、このイギリスにふたたび教皇至上権をうちたて、カトリシズムを復活させようとした。そして、さきに祈祷書をつくったクランマーなど、有力な聖職者たちをロンドン塔におくった。このとき、イギリスから信仰の自由をもとめて、大陸にのがれたものも少なくなかった。彼らは各地で組織をつくり、「メアリー時代の亡命者」と...9-1-2流血のメアリー

  • 聖クトベルト司教 St. Cuthbertus Ep.

    聖クトベルト司教St.CuthbertusEp.記念日3月20日聖クトベルトは7世紀英国に生まれた人である。当時英国は純然たるカトリック教国で、国王御自身率先して聖会のため尽くされるという有様であったから、教勢の盛んな事言うばかりなく、聖人数多排出し、他国へ布教に赴く宣教師も夥しい数に上ったのである。クトベルトの生まれ故郷はイングランドの田舎町であったが、彼は早くより修道に志し651年メイルロス修院に入り。イータ修院長の指導の下に鋭意徳に励み、司祭となり副院長に選挙され、一院の修士達は勿論、付近の信徒達をも指導し、多大の尊敬を受けた。661年メイルロスにペストが発生し、勢い猖獗を極めるや、彼は身を挺して患者の救済につくし、為に自分も罹病したが、天主の御加護か奇跡的に全快し、その後は国内諸々を巡回して教えを...聖クトベルト司教St.CuthbertusEp.

  • キリストの御養父 聖ヨゼフ St. Joseph, sponsus B. Mariae V

    キリストの御養父聖ヨゼフSt.Joseph,sponsusB.MariaeV.祭日3月19日世には、他の草葉の間や木陰などに隠れて人目にはつかぬものの、奥ゆかしい芳香をあたりに漂わせ、日足の高くなるままに益々その匂いを強めて、ついには付近の大気全体を馥郁と薫らしめるような花があるが、聖ヨゼフもそういう花の一つに喩えるべき方であった。彼は人も知る如く、救い主の御養父であり天主の御母の保護者であるが、彼について福音書中に記された所は甚だ少ない。そして世人も謙遜な聖人の生前には別に注意を払わなかったが、ただその黙々と積まれた聖徳の光は、いつまでも埋もれてはいず、殊にイエズス・キリストによって福音が伝播せられるにつれ、その御養父の徳も次第に世に知れ渡り、衆人の讃仰を集めるにいたったのである。聖ヨゼフはダビデ王家の...キリストの御養父聖ヨゼフSt.Joseph,sponsusB.MariaeV

  • 9-1-1 エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年1エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――1日陰の身一五五八年十一月二十三日、エリザベス一世(⑤)はハットフィールドの館(やかた)を発してロンドンに向かう。メアリー一世(④)崩御のあとをうけて、イギリス女王の位につくためである。お伴の貴族やジェントルマンおよび彼らの夫人たちは、一千名以上におよんだという。エリザベスはホワイトホールの王宮でクリスマスを迎え、翌年一月十五日戴冠(たいかん)式を挙行する。エリザベス一世の四十四年にわたる治世がはじまった。それまでの道は平らかではない。彼女がこの世に生をうけたのは、二十五年前、一五三三年九月七日、母はヘンリー八世の第二王妃アン・ブーリン(一五〇七~三六)。アンは、ヘンリー八世の最初の王妃キャサリン(一四八五...9-1-1エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――

  • 善を行う順序 聖アウグスティヌス

    すべての人に善を行うことはできないので、時間や場所、状況などの偶然によって、あなたとより密接な関係を持つことになった人に特別な注意を払うべきである。聖アウグスティヌス善を行う順序聖アウグスティヌス

  • エルサレムの聖チリロ総主教教会博士 St. Cyrillus Hierosolymit. Patriarcha et D. E..

    エルサレムの聖チリロ総主教教会博士St.CyrillusHierosolymit.PatriarchaetD.E..記念日3月18日同じくチリロ総主教教会博士と呼ばれる聖人に二人ある。共に3世紀に生まれ、アリオ派の異端者に苦しめられつつもその謬説と闘った人であるが、一人は2月9日に記念されるアレクサンドリアの聖チリロで、他は本日祝われる聖チリロである。このチリロは西暦315年頃生まれた。20歳までは退いて宗教研究に精魂を打ち込み、聖書はおろか教父の著書なども余す所なく調べ究め、傍ら異端説なども一渡り研究していよいよ聖教の真理なるを悟った。19歳の時エルサレムの司教マカリオに選ばれて助祭となり、信者等に説教したり求道者を導いたりしたが、彼の教え方が如何に諄々として痒いところへ手が届くようであったかは、その求...エルサレムの聖チリロ総主教教会博士St.CyrillusHierosolymit.PatriarchaetD.E..

  • 長崎の信徒発見記念日 BeataMaria Virgo de inventione christianorum

    長崎の信徒発見記念日BeataMariaVirgodeinventionechristianorum記念日3月17日聖母マリアは世界各国の中でも、殊更我が国を愛し、その国民のため天国に於いても、特別の配慮を以て御子イエズスに執り成し給うのではなかろうか。我等はそう信じたい。そしてそう信ずる理由もあながちない訳ではないのである。400年前聖教がはじめて日本に伝来して以来、我が国民は始終聖母に対し絶大な尊敬を献げて来た。禁教時代の歴史を見ると、信者達が殉教の場へ臨むにはいつもロザリオを爪繰ったり、聖マリアのれんとうを唱えたり、或いは聖母が御自ら口にし給うた「マグニフィカト」を歌ったりしながら歩みを運んだと記してある。之によっても当時のカトリック信者が聖母マリアに対していかに深い信心を有していたかが察せられるで...長崎の信徒発見記念日BeataMariaVirgodeinventionechristianorum

  • マリアは避難所の町

    マリアは避難所の町です。だからマリアに避難しなさい。モーセは、うっかり隣人を殺してしまった人のために、3つの避難所を設けたとを私たちは知っています。今、主は故意に悪を犯す者のためにも、マリアという憐れみの避難所を設けられたのです。マリアは罪人のために避難所と力を与えてくださるのです。パドアの聖アントニオマリアは避難所の町

  • 8-16-7 栄華のあと

    『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年16オスマン・トルコ7栄華のあとトプカプ宮殿はメフメト二世以後、スルタンの宮廷や住居としてつかわれたが、十九世紀の中頃、ボスフォラス海峡沿岸に、ベルサイユ宮殿を模したドルマ・パフチェ宮殿がたてられ、スルタンはそこへ移った。かってのトプカプ宮殿のありさまを眼前に彷彿(ぼうふつ)させるには、ハレムとともに、その財宝や織物や陶磁器や武器などの陳列室をおとずれねばならない。そこには、領内の各地からの献上品、外国君主からの贈りものとして、あるいは掠奪品として、さらには商品として、スルタンの手もとに集められた目もあやなる品のかずかずがある。スルタンや寵姫や王子たちの衣服、日用品などがある。これらを眼前にしたとき、オスマン帝国の強大さとスルタンの栄華とについて、思いを...8-16-7栄華のあと

  • 《実名告発》神父から受け続けた性暴力、被害者女性「従えば苦しみから救われると信じていた」(週刊女性Prime)

    長崎で、チリ人の神言会司祭が告解に乗じて女性信者を常習的にレイプしていたようです。そして、女性が教会に救済を求めると、神言会は司祭をチリに帰してしまい、組織的隠ぺいを図ったようです。《実名告発》神父から受け続けた性暴力、被害者女性「従えば苦しみから救われると信じていた」20233/15(金)6:02配信週刊女性PRIME田中時枝さん撮影/山田智絵(田中さん)「五ノ井(里奈)さんが『性暴力を受けたことで夢や生きがいを奪われた』と話されていて、『私と同じだ』と思いました。自分の人生を取り戻すためにも、またこれ以上、同じような被害を増やさないためにも声をあげようと決意したのです」【写真】最高機関のバチカンのサン・ピエトロ大聖堂、つらい過去の経験を告白した田中時枝さんこう話すのは、2023年、カトリック教会の神言...《実名告発》神父から受け続けた性暴力、被害者女性「従えば苦しみから救われると信じていた」(週刊女性Prime)

  • 8-16-6 ハレムの美女

    『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年16オスマン・トルコ6ハレムの美女繁栄をほこったスレイマン一世治下のオスマン帝国にも、暗い影がさしていた。ハレム政治が、それである。ハレムとは、住居のなかで、婦人や子どもたちが住み、男性がはいるのを禁ぜられた区画のことである。ハレムは、どのイスラム教徒の家にもあったが、その規模の大きさや装飾のみごとさにおいて、とくに有名なのは、イスタンブールのトプカプ宮殿のハレムである。ハレムというと「後宮(こうきゅう)」(后妃や女官の住む宮殿)、しかもスルタンのものが考えられるのも、決して理由のないことではない。トプカプ宮殿にハレムを設けたのは、スレイマン一世である。かれのハレムにおける寵姫(ちょうき)は女奴隷から玉の與(こし)にのった、ロシア人ロクソランであった。ス...8-16-6ハレムの美女

  • 慈愛は私たちを神に繋ぐ 教皇聖クレメンス

    慈愛は私たちを神に繋ぐ。慈愛には卑しいもの、傲慢なものはない。慈愛は分裂を知らず、反抗せず、すべてのことを一致させる。慈愛のうちに、神の選民はすべて完全な者とされた。教皇聖クレメンス註施しという意味の慈愛慈愛は私たちを神に繋ぐ教皇聖クレメンス

  • 聖ヘリベルト大司教 St.Heribertus Archep.

    聖ヘリベルト大司教St.HeribertusArchep.記念日3月16日古来政治家にして聖人となった人は割合に少ない。しかしかかる人は何れも君主に忠実で、人民を憐れみ、国家を安寧幸福に導く。聖ヘリベルトもそういう偉大な人物の一人であった。彼は970年頃ドイツ中央ウォルムス市の侯爵家に生まれ、同地司教座聖堂付属学校で教育を受け、後ロートリンゲン州ゴルゼにあるベネディクト修道院で研究を続け、帰郷後間もなくヒルデバルト司教に叙階されて大聖堂の主任司祭となり、傍ら同地にあるイタリア政策局に勤めることになった。その内にドイツ皇帝オットー三世がウォルムスに行幸の際、彼ヘリベルトは見いだされて侍従に任ぜられ、その後は常に皇帝に随従して奉仕する身となった。他の侍従達はその官職地位を利用して、殆ど私利を計らざるはなっかた...聖ヘリベルト大司教St.HeribertusArchep.

  • 確定申告

    終わった。e-taxがよくわかりません。マイナンバーカードのパスワードもわかりません。これは、市役所で再設定が必要ですね。というわけで、今年も例年通り、手作業で申告書に書き、昨日、税務署に提出してきました。今日は振り込んできました。来年こそは、e-taxを覚えようと思います。不足の書類があるようですので、明日以降に郵送で提出します。昨年と比べて行列がかなり短くなったのは、e-taxの普及のせいなのでしょうね。確定申告

  • 8-16-5 トルコ軍の花形

    『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年16オスマン・トルコ5トルコ軍の花形オスマン勢力の強大な軍事力の秘密は、どこにあったのだろうか。こうして疑問をいだいたものが、すでに、いまから五百余年のむかしにあった。イタリア人フランチェスコ・フィレルフォである。かれは、オスマン・トルコの脅威におびえるコンスタンチノープルの城壁の一角にたたずんで、その思いにふけっていた。オスマンの軍隊をこれほど強力にしたものは、いったい何なのか。――これが、かれの解こうとしていた謎であった。そのあげく、かれは、解答をイェニチェリ軍団のなかに見い出した。オスマン軍は、ごくはじめには騎兵だけから成っていた。それがバルカン半島に進出すると、都市の攻撃や占領地域での駐屯、国境の警備などにあたる常備の歩兵軍団が必要になってきた。...8-16-5トルコ軍の花形

  • どんなことも地獄と比べれば 聖イグナチオ・ロヨラ

    地獄を見たと想像してみよう。見るに堪えない恐ろしい洞窟。黒い炎が充満している。硫黄、悪魔、ドラゴン、火、剣、矢、そして絶望に呻く無数の呪われた者たち・・・。最悪の事態を想像して「地獄に比べれば、こんなものは何でもない」と言いなさい。聖イグナチオ・ロヨラどんなことも地獄と比べれば聖イグナチオ・ロヨラ

  • 聖ルイズ・ド・マリアック修道女 St. Ludovica de Marillac, Vidua

    聖ルイズ・ド・マリアック修道女St.LudovicadeMarillac,Vidua記念日3月15日カトリック教会はいつの時代にも、貧民病者その他救済を要する人々の間で、慈善のために働くことを人類の福利に資する己が事業中の珠玉と目して来た。かかる不幸な人たちに対するこの愛は、天主の浄配たる教会が、その聖なる創立者から、結納として贈られたものである。この博愛の活動は始め幾世紀の長い間、どちらかと言えば個人の手で多く行われたのであったが、後次第にこの方面の活動を旗印とするいろいろな信心会が出来、ついにはそういう修道会まで起こるに至ったのであった。17世紀には聖ヴィンセンシオ・ア・パウロが博愛の姉妹会と称する、病者看護の大規模な一つの会を創設した。その協力者として大なる功労のあったのが、1934年3月11日ピオ...聖ルイズ・ド・マリアック修道女St.LudovicadeMarillac,Vidua

  • 【書評】三体

    【書評】三体今回読んだのは、中国人のIT技術者の書いた近未来~超未来の宇宙SF小説です。もうすぐ読み終えますが、少なくとも2編『三体II』まではいい小説です。最終編『三体III』になると、少し世界観が崩壊しています。(内容)地球の隣の星系、プロキシマ・ケンタウリにも知的生命体が住んでおり、あることがきっかけで、地球への侵攻を開始し、いろんな問題が起きる、という物語です。少し詳しく書くと・・・(物語の前提)・三体星系太陽系の隣の星系、ケンタウルス座α星系には、3つの恒星があるが、互いに不規則に動く。その周りを回る12の惑星も不規則な動きを余儀なくされ、1つ、また1つと恒星に飲み込まれて滅びていき、いつしか一つの惑星が残るのみになっていた。その惑星の公転周期は、惑星が3つの恒星のうちのどれか一つに捕まって、そ...【書評】三体

  • 8-16-4 イスラム帝国の完成

    『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年16オスマン・トルコ4イスラム帝国の完成メフメト二世のあと一代おいて、セリム一世(一五一二~二〇)が即位したとき、イランには、シーア派(ジーイー派)イスラムを国教とするサハビー朝が成立していた(一五〇二)。シーア派とは、オスマンの国教たる正統派のスンナ派に対立する、異端の少数派である。セリムは、サハビー朝がハンガリーと通謀するのをおそれ、またオスマン領内のシーア派教徒が反乱をおこしたため、この正統派イスラムの敵サハビー朝に立ちむかった。かくて小アジア東部のジャー(皇帝)、イスマーイール一世の軍を撃破し、首都タブリーズを占領したのである(一五一四)。つぎに、セリムは、エジプトのマムルーク朝に鋒先(ほこさき)をむけた。マムルーク朝は正統派イスラムを奉じ、アッ...8-16-4イスラム帝国の完成

  • 現代の最大の毒 聖マクシミリアン・コルベ

    現代における最も致命的な毒は無関心である。神を賛美することに限界はないはずなのに、このようなことが起こるのだ。それゆえ、私たちは自分の力の及ぶ最大限の範囲で神を賛美するよう努めよう。聖マクシミリアン・コルベ現代の最大の毒聖マクシミリアン・コルベ

  • 聖マチルダ皇后 St. Mathildis Vidua

    聖マチルダ皇后St.MathildisVidua記念日3月14日聖マチルダ皇后は9世紀の末にドイツ、ウエストファーレン州のテオドリコ侯爵家に、もとデンマークの王女ラインヒルヂスを母として生まれた、当時は子供を修道院に託して教育を授けるのが上流社会の習慣であったから、彼女もそれに従って叔母が院長を勤めているヘルフォルド女子修道院に預けられ、一般必要な知識と共に宗教もよく教え込まれ、敬虔に生い立ったのである。その内に彼女は若くしてサクソニア候ハインリッヒと結婚し、夫婦仲も睦まじく三男二女を挙げた。その結婚後ちょうど三年目の912年の事である。ドイツ皇帝コンラド一世が崩御になり、ハインリッヒがその後継者に推戴され、したがってマチルダも国母と仰がれる身となったが、謙遜な彼女は少しも高ぶる色なく、かえって貧者に恵み...聖マチルダ皇后St.MathildisVidua

  • 8-16-3 ビザンチン(東ローマ)征服

    『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年16オスマン・トルコ3ビザンチン(東ローマ)征服しかし、バルカン半島をおさえていたオスマン国は、メフメト一世(一四一三~二一)のもとに不死鳥のごとくよみがえり、一代おいてメフメト二世(一四五一~八一)が即位した際には、その勢力はバルカン半島と小アジアの大部分とに確立されていた。そしてビザンチン(東ローマ)帝国は、その脅威の前におののいていた。いまやメフメトは、その首都たるコンスクンチノープル攻略にふみきる。それは曾祖父バヤジットが、果たそうとしてなしえなかったものである。かつてバヤジットは、ボスフォラス海峡のもっともせばまっているアジア側に、「アナトリア(小アジア)城塞」を構築していた。これに向かいあって、メフメト二世は、ヨーロッパ側に「ルーメリア城塞」...8-16-3ビザンチン(東ローマ)征服

  • 入れ墨はやめなさい 聖書

    死者を悼んで身を傷つけたり、入れ墨をしてはならない。わたしは主である。レビ記19章28節入れ墨はやめなさい聖書

  • 聖オイフラシア修道女 St. Euphrasia Virgo

    聖オイフラシア修道女St.EuphrasiaVirgo記念日3月13日7歳にして修道女となるとは甚だ珍しい例であるが、オイフラシアは之を実行した聖女であった。彼女は380年、東ローマ帝国の首府コンスタンチノープルに生まれた。父は宮廷に仕える高官でアンチゴノといったが彼女の誕生後一年にして世を去った。母は東ローマ教会で聖女と崇められているほどの人で、夫の死んだ頃はまだ年も若かったからしきりに再婚を勧められたけれど、故人を偲び遺児の為を思っては、到底そうした気持ちになれず、かえって世間をうるさいものに思い、縁談を断って娘と共に亡夫の財産のあるエジプトに退いた。それから未亡人は諸々を巡り、或いは聖人隠者に道を聞き、或いは慈善の業を行いなどしていたが、たまたま一修道院の童貞方の厳しい生活振りに感心し、その後は同院...聖オイフラシア修道女St.EuphrasiaVirgo

  • 8-16-2 アンカラの決戦

    『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年16オスマン・トルコ2アンカラの決戦両雄は、一四〇二年七月の末、アンカラの北部であい戦うことになった。戦闘はオスマン軍の優勢のうちにはじまったが、数時開ののち、戦況は逆転した。というのは、イル汗国の軍隊とともに小アジアにきていたモンゴル兵が、オスマン軍の左翼の一部を構成していたが、かれらがチムールの煽動によって寝返ったからである。モンゴル兵たちは、チムール軍の右翼を包囲していたオスマン軍に、背後からおそいかかった。腹背に敵をうけたオスマン軍の左翼は逃げあしだった。左翼だけではない。右翼でも同じことがおこった。オスマン軍にのこされたのは、いまや両翼をもがれて孤立したバヤジット自身のひきいる中央軍だけとなった。その本営は悲しみにとざされた。将軍たちはバヤジッ...8-16-2アンカラの決戦

  • 知ってそれだけで終わる人 聖ボナヴェントゥラ

    多くを知り、何も味わわないこと、それが何の役に立つのか。聖ボナヴェントゥラ知ってそれだけで終わる人聖ボナヴェントゥラ

  • 聖マクシミリアノ殉教者

    聖マクシミリアノ殉教者記念日3月12日275年23歳のマクシミリアノは、ローマの軍隊に入るのを許否したので、法廷に引き出された。兵士の多数は志願制であったが、退役軍人の息子は徴兵として戦わねばならなかった。父ファビウス・ヴィクトールは、息子と同じくキリスト信者になったので、息子の徴兵拒否を支援した。法廷はアルジェリアのテベサで開かれた。軍役を拒否する者は死刑に処せられることになっていたので、緊張がみなぎった。賢明な裁判官ディオンが尋問した「他のキリスト信者たちは、兵士として服役している」。マクシミリアノは答えた「それは彼等の自由で、私のことではありません。私もキリスト信者です。しかし、兵士になることはできません」。ディオンはマクシミリアノの父に向かって「あなたの息子を正常にしなさい」と言ったが、父は答えた...聖マクシミリアノ殉教者

  • 教皇「ウクライナは白旗をあげるべき」(日本経済新聞)

    教皇フランシスコは、「ウクライナは敗北を認め、白旗をあげて、講和する勇気を持つように」と仰いました。いつものように、その後、バチカンの報道官が弁解に追われていますが・・・。今までの例からしても、報道された教皇様の発言の目立つ部分こそが教皇様の真意であり、報道官の弁解は、それを取り繕う、取ってつけたものだと理解しなければいけません。教皇様の発言中には、ウクライナの敗北や白旗という字句が並んでおり、少なくともこれは両国対等の和平提案でないことがわかります。【ウィーン=田中孝幸】ローマ教皇フランシスコが2月に収録されたスイスのテレビ局のインタビューで、ロシアの侵攻を受けるウクライナに戦闘での敗北を認め、和平交渉を始めるよう促したことが明らかになった。侵略行為に融和的と受け取られかねない発言で、波紋を広げそうだ。...教皇「ウクライナは白旗をあげるべき」(日本経済新聞)

  • ボローニャの聖カタリナ修道女 St. Catharina de Bologna Virgo

    ボローニャの聖カタリナ修道女St.CatharinadeBolognaVirgo記念日3月11日聖女コレタ(記念日3月6日)がフランスにその高徳を謳われていた頃、イタリアにも同じく聖徳に秀でていた一女性があった。それは聖クララの跡を踏む修道女、聖カタリナである。彼女は1413年9月8日聖マリア御誕生の祝日に呱々の声を挙げた。父母は共に貴族の家柄で、学徳並び備わった人々であった。さればその血を承けたカタリナが早くから才知の鋭い閃きと善徳への強い傾向を示したのも敢えて不思議ではない。9歳の時彼女はフェララ候の懇望に従いその城中におくられ、候の息女エリザベトと共に教育されることになった。この二少女は仲も良く互いにふさわしい相手であったが、わけてもカタリナの信心の深さと知識の進歩の速やかさはあらゆる人々を驚かせず...ボローニャの聖カタリナ修道女St.CatharinadeBolognaVirgo

  • 神と隣人に対する人の関係の要約 リーボルの聖アエルレッド

    慈善(施しという意味の慈善)はとても短い言葉かもしれないが、純粋な愛という途方もない意味を持つこの言葉は、神と隣人に対する人間のすべての関係を要約するものである。リーボルの聖アエルレッド神と隣人に対する人の関係の要約リーボルの聖アエルレッド

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