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戦国武将にまつわる史跡と近代建築をテーマに全国各地色々巡っているブログです。

旅行ブログ / 国内一人旅

歴史ブログ / 戦国時代

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けん
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兵庫県
出身
明石市
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2010/08/22

  • 東漸寺 城和泉守昌茂の墓(埼玉県熊谷市)

    この地の領主であった6千石の大身旗本城和泉守昌茂開基 同じく城氏出身と伝わる和尚が開山した臨済宗のお寺です。 城和泉守昌茂の墓城氏は元々越後の名門で上杉家に仕えていましたが昌茂の父景茂が上杉謙信と折り合いが悪く出奔、親子で会津で浪人していたところ武田信玄に迎えられ家臣となったとされます。 武田家滅亡後は他の多くの武田家遺臣と同じく家康に召し抱えられ昌茂は...

  • 聖パウロ熊谷教会(埼玉県熊谷市)

    熊谷に宿泊したのでここは見ておきたいと思っていた聖パウロ熊谷教会。煉瓦造りの建物は国の登録有形文化財となっています。 焼過煉瓦を効果的に用いた煉瓦造教会。桁行約16m,梁行約7m規模の単廊式会堂で,東面北端に鐘塔を建ち上げ下部を玄関ポーチとし,外壁要所に尖頭アーチ窓とバットレスを配す。内部は煉瓦壁を顕わにし,木造シザーストラスを架ける。...

  • 三輪医院(埼玉県熊谷市)

    こちらも熊谷市の近代建築を調べると必ず出てくる建物。現在を道を挟んだ反対側に新しい病院が建てられ診察はそちらでやられているようですがこの建物も電気など点いていたので活用されているようです。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり...

  • 瀧澤綿店(埼玉県熊谷市)

    八木橋百貨店の西側、旧中山道沿いにある中々渋い看板建築?の建物。近代建築のサイトなどで必ずアップされているこの建物、いつなくなっても不思議じゃない感じだったので現地へ行って一安心。ただ昨年訪れたのですが、はす向かいにあった朝日湯の建物は残念ながら取り壊されて更地になっていました。★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブロ...

  • 幣塚(兵庫県明石市)

    明石市の西部に位置する幣塚古墳は4世紀後半から5世紀初頭ごろに築かれたと考えられる直径34m、高さ4mと明石市内にある円墳としては最大規模の古墳になり、板石によって築かれた竪穴式石室が確認されています。この古墳には金の鶏が埋められている金鶏伝説(全国各地の古墳に伝わる)があり、明治時代3年間続いた水害や風害からの干魃に困窮した地元民たちが金鶏伝説に賭けて明治19年無計画に乱堀、もちろ...

  • どろま地蔵(兵庫県高砂市)

    大福寺からさらに東へ歩くとどろま地蔵に行き着きます。その地蔵堂ですが固寧倉という姫路藩が飢饉等の際に備え領内各所に設置した備蓄倉庫に併設する形になっていました。 お堂を覗いてみると赤いおベベを着たお地蔵さまたちに見えますが、よく見ると全て五輪塔。小松原城主小松原氏一族の墓だと伝わり小松原氏が記録から姿を消して以降江戸時代の形式の墓石もあるよう...

  • 大福寺 小松原盛忠の墓(兵庫県高砂市)

    大福寺は三社大神社の東隣にある浄土宗西山禅林寺派のお寺で天正年間に松空西空上人により創建されていますが、元々この場所には大蔵寺という別の寺があり小松原城主小松原氏の菩提寺だったと考えられています。小松原城と小松原氏は天正年間より数十年前に記録から消えますので大蔵寺も戦禍に巻き込まれ衰退していったのでしょうか。 小松原盛忠の墓山門潜るとすぐ左手にある十三層塔は小松原氏初代盛忠の墓(供養...

  • 小松原城(兵庫県高砂市)

    小松原城の詳細な築城年次は不明ですが、鎌倉幕府連署北条重時に従い三浦義村の子良賢の謀叛鎮圧に功を挙げた赤松盛忠が弘長元年6月にこの地を与えられ下向しており、この頃から居館が築かれたと思われます。小松原は加古川三角州の頂点に位置する天然の要害と言える場所で、赤松より小松原に姓を改めた盛忠より城主小松原氏は6代続いた記録がありますがその後記録からは姿を消すことになります。 現在は三社大神社が鎮座...

  • 善立寺 天竺徳兵衛の墓(兵庫県高砂市)

    永正8(1511)年に蓮如上人の弟子正西が創建した浄土真宗本願寺派のお寺です。 天竺徳兵衛の墓歌舞伎や浄瑠璃に登場するガマの妖術使い天竺徳兵衛のモデルとされ、父親は赤穂出身の塩問屋で後に高砂に移ってきたと伝わります。彼は鎖国前に朱印船(角倉家が派遣した角倉船)に乗り2度当時日本で天竺とされていたシャムへ渡り、寺には徳兵衛がシャムより持ち帰ったとされる貝多羅葉という経文が伝わっており市の文化財指定を受け...

  • 三連蔵(兵庫県高砂市)

    工楽家旧宅のすぐ北側にあるお宅にある三連の蔵。明治時代初期に食器などを保管するために建てられたという建物の厚みは30cmほどある堅固な造りとなっており兵庫県都市景観形成重要建造物となっています。★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり歴史旅一期一会(fb版) ...

  • 高砂堀川湊及び工楽松右衛門旧宅(兵庫県高砂市)

    工楽松右衛門旧宅は高砂出身で兵庫津で廻船問屋御影屋を営み択捉島など蝦夷地開発の功績から工楽の姓を幕府より賜り、また丈夫な松右衛門帆を開発し海運業の更なる発展に大きく寄与した工楽松右衛門の旧宅として兵庫県指定文化財及び日本遺産(荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間-北前船寄港地・船主集落)構成物の指定を受けており一般にも公開されています。...

  • 鶴林寺(兵庫県加古川市)

    西の法隆寺とも称される鶴林寺は所在する加古川はもちろん明石など近隣市町で育ったなら小学校の行事などで一度は訪れたことのある人は多いのではないかと思う聖徳太子ゆかりのお寺ですが、創建年など詳細はよく分かっていません。寺の縁起によれば蘇我氏と物部氏の争いを避け、播磨の地に身を隠していた高麗僧恵弁の教えを受けるため播磨を訪れた聖徳太子が、後に3間4面の精舎を建立させ刀田山四天王聖霊院と...

  • 法雲寺 根来盛重の墓(大阪市中央区)

    上本町の寺町界隈にある臨済宗妙心寺派のお寺です。寺は会館を併設しており土塀など風情ある趣ですが創建年次などは分からず。ただ後述しますが墓所には戦国時代の武将の墓などもあるため江戸初期までには開山しているのではと思います。 本堂 根来盛重の墓苗字の通り根来衆で小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康と手を組み背後から雑賀衆らと秀吉を脅かし岸和田城攻めでは主導的役割を果たします...

  • 謹賀新年

    明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。まだ過去2年ぐらい訪れた先々の記事があるのですが、ここ1~2年ほど自分の気力の問題で一向に日の目を見ないままになっています。悲しいことに日が経つと現地を訪れたかった所ばかりなのにその感動は薄れ筆、いや指が全く進まない。鉄は熱いうちに打てではないですが、ほんと旅や散策から帰宅し一気に書かないとダメですね…。今年も更新頻度は月3~4本ぐら...

  • 近松門左衛門の墓(大阪市中央区)

    寺町として現在も多くの寺が残る谷町筋界隈の一画に近松門左衛門の墓が残されています。 元々はこの地にあった法妙寺に近松の墓はありましたが地下鉄工事などに伴い昭和42(1967)年に寺は大東市へ移ることになります。が、すでに墓は国の史跡指定を受けており遠く引っ越すことで史跡指定取り消しの可能性が出たため市や保存会など各所が動いた結果、現在ある場所に墓を移し大東市に移る法妙寺には複製墓を...

  • 成正寺 大塩平八郎の墓(大阪市北区)

    慶長9(1604)年日秀上人が創建した日蓮宗のお寺です。寺を開いた日秀上人は歌道を通して秀吉と親交があり、また秀吉の実姉瑞龍尼が深く帰依していたことでも知られています。 本堂本堂は大阪大空襲で焼失し戦後再建されたもの。本堂前にはこちらを菩提寺としていた大塩平八郎と養子格之助の墓、大塩平八郎の乱で亡くなった人々の慰霊碑が建立されています。 大塩平八郎...

  • 木曽川資料館(愛知県一宮市)

    市町村合併で一宮市になった旧木曽川町の町議会議事堂として大正13(1924)年に建てられ、その後町の資料館として山内一豊・浅野長政・兼松正吉らゆかりのある戦国武将を始め郷土に関する資料を展示しています。 南北に細長い寄棟造、桟瓦葺、2階建で、正面の南に円柱を立てた玄関ポーチを構え、内部はホール、議場、控室等で構成され、ホール側上部に傍聴席を設ける。議場は吹き抜けで格天井とし、壁面は折上部...

  • 法蓮寺 山内豊盛・十郎の墓(愛知県一宮市)

    明応2(1493)年創建の日蓮宗のお寺で、黒田城代だった山内但馬守豊盛の庇護を受けました。 本堂 山内豊盛(右側)・十郎の墓山内但馬守豊盛は岩倉織田家家老で黒田城代、十郎はその嫡男で山内一豊の実父・実兄となります。岩倉織田家と敵対していた織田信長によって画策されたという説もありますが野盗に夜襲を掛けられ十郎はこの戦いで戦死。豊盛も討死したと言われてきましたがこの時は岩倉城へ逃れ、この2年...

  • 黒田城(愛知県一宮市)

    尾張織田家嫡流である織田伊勢守家(岩倉織田家)の家老だった山内家が城代を務めた城で、後に土佐の国持大名にまでなる山内一豊はこの城で生まれたとされます。その後織田弾正家である信長によって落城させられ、以後弾正家(信長)の持ち城となり本能寺の変後も織田信雄の重臣沢井雄重が小牧・長久手の戦いでは秀吉の諜略にも応じることなく城を守り抜きましたが、秀吉の機嫌を損ねた信雄が改易されると一柳監物直盛が城主と...

  • 常念寺 関成政の墓(愛知県一宮市)

    明徳元(1390)年に空遄召運上人(足利尊氏の甥)によって創建された西山浄土宗のお寺で市の文化財指定を受けている観音堂の如意輪観世音菩薩像は尊氏の守り本尊と伝わります。 関成政の墓尾張一宮城主 織田家家臣として数多くの合戦に参加し信長の嫡男信忠の近侍を務めます。本能寺の変後も引き続き信長の次男信雄に仕えますが秀吉と信雄が対立したことから勃発した小牧・長久手の戦...

  • 一宮城(愛知県一宮市)

    JR尾張一宮駅のすぐ北側、現在は某大手銀行の支店のある辺りに尾張一宮城があったとされます。築城年はよく分かっていませんが近くにある真澄田神社の神職でもあった関成重によって築城されたとされ、その後信長の次男織田信雄の家臣不破広綱が城主となりますが信雄が秀吉の怒りを買い改易された天正18(1590)年以降に廃城になったようです。 遺構などはもちろんなく、銀行に立つ小さな石碑が辛...

  • 岩脇蒸気機関車避難壕(滋賀県米原市)

    総寧寺から戻る途中、スマホで地図を確認しているとルートから少し外れる場所に史跡マークに岩脇蒸気機関車避難壕という文字をたまたま発見。少し寄ってみることにしましたが、いざ場所に行くとびっくりするぐらいしっかりとした形で残っていました。 米原は東海道本線と北陸本線とが交わる一大ジャンクション駅。大戦後半になると本土への空襲が激化したため慌てて機関車を守るため線路沿いにあるここ岩...

  • 総寧寺 旗本新庄家墓所(滋賀県米原市)

    永徳年間(1381~1384)に近江守護佐々木六角氏によって創建された曹洞宗の寺院で享禄3(1530)年に戦火に遭い衰退しますが後に新庄城主新庄直忠によって再興され今日へと至ります。...

  • 大谷吉継の首塚(滋賀県米原市)

    家康に勝てないと分かっていながら石田三成との友宜を重んじ関ヶ原の戦い本戦で奮戦の末自刃した大谷吉継。家臣湯浅五助に介錯させ関ヶ原に首を埋めさせたと伝わりますが、異説として従軍していた甥の僧侶祐玄が首を関ヶ原から居城敦賀に持ち帰ろうとするも叶わず途中の米原で埋めたと伝わります。 新幹線米原駅からも徒歩圏内。畑の中にポツンとあります。 ★当ブログのまとめサイト...

  • 下坂氏館跡(滋賀県長浜市)

    室町初頭より坂田郡下坂庄四カ村の地頭だった下坂氏の居館跡で、敷地内には土塁や堀を築き有事の際の備えとした城の機能を有し、また菩提寺も敷地内に置くなど当時の国人領主層の居館遺構がしっかり残っている全国的にも珍しい事例ということで同じ長浜市にある三田村氏館と共に北近江城館跡群という名称で国の指定史跡となっています。近年まで末裔の方が管理していましたが数年前に市に建物含め寄贈され現在...

  • 浄光寺 池大雅の墓(京都市上京区)

    文禄から慶長へと元号が変わる1596年に創建されたと伝わる浄土宗の寺院で通称“大雅寺”と呼ばれるように絵師池大雅のお墓がこちらにあります。 本堂 池大雅の墓文人画(南画)の大成者として知られる絵師。川端康成が購入したことで知られる与謝蕪村との共作である『十便十宜図』(国宝)では十便図を担当。釣りをしている人々を描いた釣便は教科書に掲載され古くは切手にもなってもいるので一度は見たこ...

  • 回向院 長沢芦雪の墓(京都市上京区)

    創建年次は不明ですが寺伝によれば黒谷にて浄土宗開祖である法然上人の説法道場として創建されたのが始まりとされ、江戸時代初期の慶長8(1612)年に現在地へ移ってきています。 本堂 長沢芦雪の墓丸山応挙の弟子ですが応挙の作風とは事なり独創的で近年では伊藤若冲らと共に“奇想の絵師”のひとりに数えられています。狗の彼が描いた可愛らしい絵を観たことある人は多いのではな...

  • 静香(京都市上京区)

    昭和12年創業の老舗喫茶店。京都本に紹介されることが多かった名物ママがいることで有名でしたが、現在は代わりしメニューも増え外観も赤を取り入れ雰囲気が変わりました。2016年に訪れた時はちょうど店内改装中で臨時休業中でしたので、そのタイミングで代代わりしたようです。 確かここは昔はたばこ販売コーナーだったんじゃないかなぁ。 ...

  • 金臺寺(京都市北区)

    訪れてから年を越えたどころかもう半年以上経ってしまいましたが(汗)、昨年11月1~7日まで金臺寺で年一度の特別公開をしていたので行ってきました。お寺は妙心寺の塔頭ですが境外塔頭ということで妙心寺の敷地内ではなく立命館大学のすぐ近くにあり、嵐電等持院駅から北に5分ほどの場所になります。...

  • 衣笠会館(京都市北区)

    嵐電の終着駅北野白梅町駅近くにある煉瓦造りの洋館で明治38年に京都綿ネルの創業者藤村岩次郎氏の住居として和風建築の本館や洋館の別館と共に建てられ、戦後は京都工芸繊維大学の所有となり外国人教員の宿舎などに活用されましたが平成に入ってこの建物を除いて取り壊されています。現在は衣笠繊維研究所となっておおり曜日限定で内部公開も行われています。北区南部,西大路通から西側に...

  • 聖ヨゼフ修道院門の家(京都市北区)

    元々は住友家別邸の門衛所なので小ぶりな建物ですが素晴らしいです。住友家京都衣笠別邸の跡地に建つ。煉瓦の腰壁とハツリ目をつけた木部が典型的なハーフティンバーの様式をつくりあげている。もと門衛所であるが,小住宅としての価値を充分有している。住友営繕の多久仁輔(工手学校出身)が担当したとされる ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一...

  • 小林家住宅(岐阜県垂井町)

    中山道垂井宿に北面して建つ町家で、木造平屋一部二階建、切妻造桟瓦葺とし、正面に下屋を設ける。正面東側を戸口として土間を通し、西側に格子をたてる。二階正面は黒漆喰塗で虫籠窓を二所穿ち、袖うだつをあげる。中山道の宿場の面影を伝える近世の町家(文化庁文化遺産オンラインより)★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 ...

  • 中山道垂井宿(岐阜県垂井町)

    現在はJR東海道線沿いにある垂井町ですが街道は中山道が通っていました。この地には南宮大社があり自ずと門前町として発展し、また東海道の宿場宮宿へとつながる脇往還美濃路の追分と人の往来も多く宿場としての整備も行われていったのでしょう。 垂井宿本陣跡垂井宿の本陣は酒造業を営んでいた栗田家が務めていました。垂井宿は東・中・西町と3つの地区から形成されましたが本陣は中町に位置していました。 ...

  • 垂井城(岐阜県垂井町)

    現在は専精寺の建っている場所にかつて垂井城があったとされます。長屋氏によって築かれますが斎藤道三との戦いで長屋景興が天文16(1547)年に討ち死にし長屋氏は没落、関ヶ原の戦いが行われた慶長5(1600)年と戦いの直前に平塚因幡守為広が垂井1万2千石の領主として入城しますがその間のことはよく分かっていません。 専精寺本堂 その為広も関ヶ原の戦いでは西軍に属し小早...

  • 不破矢足の墓(岐阜県垂井町)

    前回の記事の続きになります。竹中半兵衛の重臣であった不破矢足は当初母方の姓喜多村十助直吉を名乗っていましたが、姉川の戦いで半兵衛の弟久作の後見役として参戦し味方に扮し信長の首を狙った浅井家重臣遠藤直経の正体を見抜き首を搔き切ったとされます。その際に矢を足に受け突き刺さったまま奮戦したことで半兵衛より矢足の名前を賜りそれを以後通り名としたそうです。 黒田官兵衛...

  • 五明稲荷神社(岐阜県垂井町)

    荒木村重を説得に有岡城へ向かうも捕らわれた黒田官兵衛の寝返りを疑った織田信長は官兵衛の嫡男で人質に出されていた嫡男松寿丸(後の黒田長政)の処刑を命じるも、官兵衛を信じる竹中半兵衛は最も信頼する重臣不破矢足に松寿丸の身柄を託し矢足の屋敷にて匿われます。その屋敷のあった場所が五明稲荷神社一帯だそうです。 匿われていた松寿丸がお手植えした銀杏の木...

  • 禅幢寺 竹中半兵衛の墓(岐阜県垂井町)

    明応3(1494)年にこの地の領主であった岩手典長により開基の曹洞宗の寺院で、竹中半兵衛の父重元が岩手氏を滅ぼし新たにこの地の領主となっても引き続き庇護を受け江戸時代に入っても旗本交代寄合竹中家の菩提寺として続きます。...

  • 竹中氏陣屋(岐阜県垂井町)

    旗本交代寄合竹中氏の政庁。竹中半兵衛の時代までは菩提山城を居城としていましたが大規模な山城で平時不自由ということもあり半兵衛の息子重門の時代に麓に新たに築いた城で、江戸時代は竹中氏が旗本のため城は持てず表向き陣屋を称していますが築城時は岩手城と呼ばれていた紛れもない城であり周囲を堀で囲まれ石垣で防御を高めるなどしています。 現在敷地内は岩手小学校など...

  • 旧名鉄八神駅跡(岐阜県羽島市)

    名鉄竹鼻線は笠松駅から分岐し大須駅まで走っていた路線ですが江吉良駅から先大須駅までの区間が平成13(2001)年に廃線となりました。新幹線岐阜羽島駅に近接しており現在竹鼻線の終着駅状態となっている新羽島駅は実は江吉良駅から分岐する羽島線という別路線だそうで、この記事を書くにあたりひとつ勉強になりました。 不法投棄されたゴミ?が目につきましたが廃線となったのが2000年に入...

  • 金宝寺 八神毛利家墓所(岐阜県羽島市)

    慶長元(1596)年にこの地の領主毛利広次開基、松堂大和尚開山の臨済宗妙心寺派の寺院で八神毛利氏の菩提寺です。 本堂明治24年に発生した濃尾地震で全壊し後に建て替えられたものだそうです。 八神毛利家墓所八神毛利氏は河内源氏の流れを汲み鎌倉時代から八神村や石田村などこの付近一帯の地頭など務めていた国人領主です。関ケ原の戦いでは当初毛利広盛が竹ケ鼻城に...

  • 八神城(岐阜県羽島市)

    八神村などを治めた尾張藩重臣八神毛利家の居城で、築城年次は鎌倉時代から江戸時代初期までの諸説ありますが鎌倉時代からこの地一帯の領主だった毛利氏により築城されました。江戸時代に入り一国一城令により表向き廃城となりましたが江戸時代を通して毛利氏がこの地に屋敷を構え城としての最低限の機能は備えていたとされます。 現在も敷地内の一画には毛利家御当主の御宅があり、毛利氏が...

  • 本覚寺(岐阜県羽島市)

    創建当時は天台宗の寺院でしたが永禄年間に曹洞宗に改宗。戦国時代の戦乱の中衰微の時代が続きましたが天正8(1580)年に信長の家臣不破源六広綱が竹鼻城主となると父綱村のために寺を再興し、以後杉浦重勝ら歴代竹鼻城主の菩提寺となります。 本堂天井の雲龍画は江戸後期の絵師浮田一蕙によるもので岐阜県の文化財指定を受けています。 ★当ブロ...

  • 竹ケ鼻城(岐阜県羽島市)

    応仁年間(1467~1469)に竹腰尚隆により築城されたとされ、以後国主の変遷とともに城主も何度か変わり関ケ原の戦いの時点では岐阜城主織田秀信の重臣杉浦重勝が城主を務めていました。 その関ケ原の戦いでは前哨戦のひとつとして激しい戦いが繰り広げられます。福島正則など家康に付いた武将たちの大軍を前に二の丸・三の丸に籠っていた援将の毛利広盛らは降伏するも本丸に籠る重勝は降伏...

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