誰かが凄い、立派だと言うとだんだんみんなそのような見方をしだす。特に少しでも影響力があるような人が言えばその人の発言を意識している。でも、本当に何の色眼鏡もなく自分自身が凄い、立派だと感じたものなのだろうか?意外と自分が「感じた」と思っていることって「自分以外」のものの場合がある。それが無意識に影響されていることでもある。もっと自分の感情、思考の出どころを意識することは大事。他人の意見
☆ 私のきまぐれスピリチュアル記録とゆるゆる成長日記 ☆ 自分の道をマイペースでも探りなが
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誰かが凄い、立派だと言うとだんだんみんなそのような見方をしだす。特に少しでも影響力があるような人が言えばその人の発言を意識している。でも、本当に何の色眼鏡もなく自分自身が凄い、立派だと感じたものなのだろうか?意外と自分が「感じた」と思っていることって「自分以外」のものの場合がある。それが無意識に影響されていることでもある。もっと自分の感情、思考の出どころを意識することは大事。他人の意見
辛いことがあったとき。。。自暴自棄になるひたすら引きこもる自分の正当性を周りの人に言いまくるそんな行動をとることもある。でも厄介にさせるのは辛い現実を隠そうとし自分を納得させようとすること。何やかんや綺麗ごとをあげつらげて納得させるためのことを言っている本を読み、人の話を聞きそれをそのまま自分から出た言葉かのように自分に言い聞かせる。辛い痛い苦しい納得いかない悔しいそんな自分の本当の感情を感じることをやめネガティブな出来事をまるで素晴らしかったことのように周りに言い始める。本当に自分自身で消化したことなのか?知識だけで消化もしないまま、単にネガティブな感情に蓋をしているだけの人も多くいる。これは、この課題を後々に引き伸ばしているだけになっていく。人の感情は綺麗ごとだけでは片付けられず湧き出てしまう。ネガテ...辛いことがあったとき
最近は改めて人生を考えている。今までの自分はどうだったのだろう?いつも自分の人生を生きているのだろうか?嫌々やり続けていたり妥協してばかりいることはないか?いつも自分が選択しているのだろうか?本当にそれは自分がしなくてはならないことか?責任を自分に課すことばかりしていないか?そんな風に見返したり、どうしたいのか見返したり。。。自分勝手なように感じて罪悪感が出たら本当にそれは自分が単に放棄しているのか、単に自分勝手な言動なのかよくよく観察していく。もしかしたら、子供のことや親のことなど自分の責任として、義務として自分自身を追い詰めすぎている人もいるかもしれない。自分の人生として、魂として生きているか?考え方や想いは「自分の中からくる」ものだけではなく周りや育った環境などが多大に影響していることもある。人は自...魂との繋がり
本当に文章の中に英単語を混ぜて話す人がやたらにいる。大学受験をしていればそれぐらいわかるだろうと思われるかもしれないけれど本当にみんなわかっているのだろうか?一回話すたびに4、5個も単語が入る人もいる。特に、ビジネスマン、実業家、クリエーターなど中には政治家などにもいる。ルー大柴さんくらいのレベルならまだ分かるにしてもそのミックスは変なところで突然入りレベルも私にとっては高い。日本語で伝えるときは横文字は入れないようにしようと私は思ってしまうけれどきっとあまり英語ができないからだろう。。。昔、誰かが会話の中に「そのソースはどこにあるのか」と言ったようなことを話した時私はソースという単語の意味が分からなかったので頭の中では「・・・?ウスターソース?何ソース?」「ソースだから何か味付け的な意味なのか?」と、一...できる人の会話
権力、お金や立場などで力を持っていると言うのは本音で接する人がいなくなっている場合がほとんどだ。そんなことはないと思っても実際はそうだし本音を言って欲しいと言っても、長い間無難に接する人や感じよく接する人に囲まれていて失礼な人やカチンとくるような言葉を言う人がいないので本音を言われると「失礼だ」と絶縁されてしまう。いつでも自分が言うことを熱心に聞くまたはフリをする人ばかり。本当に力を隠すような人はいないので当然ながら「お近づきになっておけばご利益が。。。」と考える人が多くなる。なかなか付き合いのある人たちの本音を知ることはない。その上、自分自身も知らない間にエゴが顔をもたげているけれどそれは影に隠れて気付かなくなっている。世の中の人たちと言う目で周りを見た時感じが悪い人、失礼な人たちに出会わない率は高くな...権力を持つと隠れるもの
人は幸せなこと、満たされていることがあるのに一つの不幸や不満に意識を向ける。向けるどころか集中するぐらいだ。そうやって1日を、人生を無駄に使ってしまう。そこから逃れられないわけでもないのに自分で逃れようとせず、自ら入っていこうとする。関わりを断ちたいと言いながら断ちたくない思いが勝っていく矛盾もある。自分がどこに意識を集中するかでも見えかた感じ方は変わる。些細なこと遠い昔の古傷そんなことまで意識を向けようとする。日々の幸せに感謝し意識を向けよう。幸せも、不幸も自分で決められる。しあわせ
10代、20代またはとても年上の人を見るとき親や他人でも自分よりずっと年上の人に対して「しっかりした大人」「全ての悩みはすでに卓越して素晴らしい答えを持っている」「しっかりした常識と包容力を持っている」「物事の多くを知っているのだろう」と見たり、勝手に期待を込めた見方をしてしまう。ひどい時には私の方がずっと若いから甘やかしてくれるとまで意識、無意識に関わらず思っていたりもする。これは完全な誤解。単に年を取っただけのことで、知恵がついたわけでも、人間的に深くなったわけでもない人は多いのだ。相変わらず考えていることやっていることや自分勝手さも変わっていないもの。だから、自分より年上の人に対して勝手な妄想をしてはダメだし妄想される方も迷惑だろう。失礼な態度を取らなければお互い問題はおこらないだけ。60代以上でも...大人も子供も年齢の違いなだけ
日本語も短縮していったり英語も短縮していったり何を意味しているのか分からない。伝えるために発言、発信するなら相手に理解してもらえる言葉を使うのだろうけれど発信する人も、それを理解する人だけを対象に考えているのだろう。今のところは困るわけでもないし私は時代についていく必要もないので取り残されておこう。短縮される言葉
日本は長寿国だけれど寝たきりの期間も平均10年と言われるほど長い。私は動ける身体を目指しているので運動はしている。それで気づいたのは一般的に中年以降の人向けの運動というのは本当に本当に老人がするようなものばかりが多い。全く人生で運動をしていなかった人、やらないよりはやった方がいいと考える人向けなのか?老人と呼ばれる年齢の人だって現代はもっと活力もあり動ける。それを40、50代の人の運動でそれはないだろうと思うような簡単なものばかり。全く運動していない人が重い腰を上げて始めるにはいいかもしれないけれどそんなものを続けたとしてもやらないよりマシという程度で身体的には変化を感じないだろう。今は寿命も長いし身体も若い。もっともっと動けるのだから動けるうちから少しづつ始める方がいい。急に初めて身体を痛めたり、痛めた...見合った運動をしよう
久しぶりにディカプリオ主演の映画「インセプション」を見た。公開当時に見たとき興味深いと思って見た記憶があったけれど改めて見てみると更に興味深いものだった。多分、1回目にはちゃんと理解しきれていなかった複雑さが今回分かったからだと思う。夢の中の夢をコントロール現実を書き換えるのだけれどそれをより深くしていくので話が途中からよく分からなくなったりする場合もあるのかもしれない。人が現実だと思っているこの現実は本当に現実なのだろうか?自分が夢の中にいる時はそこは現実になる。たまに、夢の中で夢を見たり夢の中でその夢をコントロールできることもあるのでその時は、夢から覚めた自分がそこにいて現実を作っているけれどそれもまた夢だ。起きた時に一瞬、今起きたここは現実なのか分からなくなることもある。夢を作り、夢を書き換え、現実...映画の話
同じ話を聞いたとしても、その理解度は違う。自分のレベルで解釈ができるのだから当然なのだけれどこれが日常全てにおいて言えることなので物事をややこしくさせていく。。。社会生活をしていれば様々なレベルの人が混ざり合って生活しているので難しい。同じ説明をされて理解できるかできないか。さらには、その意図をより深くまで理解する人までいる。学校でも会社でも、さらには自分の興味のある事柄や趣味や勉強している内容に関しても何でも、どこでも、いつでもそんなことが起きている。それなのに、この社会では同じ場所で同じやり方をしなくてはいけない。大きな視点で見れば、その差も大したことないのだけれど私たちからしたら大きな差になる。さらに理解できていないことも理解できない。理解できずにいると些細な理解さえも全て理解したかのようになり大騒...根気よく時を待つ
外見と内面にギャップがある人は多い。私もそうだと思う。若い頃、「育ちが良さそう」「大事に育てられてるって感じ」とかアルバイト先の先輩や大人からよく言われそう見られていることが何故かとても嫌だった。意識的に変えていった自分がありそれとはまた別に内面の表れも混合して今の外見がある。今はガサツで育ちが良さそうとは一切言われない。。。そう思うと、人は一体何を見ているのだろう?完全に内面を見ている人もいれば完全に外見しか見ていない人もいる。人それぞれ、勘があるけれど自分で勘がいいと言う人ほど当てにならないものはない。とにかく、そう言ったものもひっくるめて感じとる。外見は自分がなりたい自分、人がイメージする自分に近づけることはできる。けれども、内面はそう簡単に変えることはできず変えたと思い込もうとしてもなかなか上手く...作られない美
ここ最近やたらと疲れている。私が寝落ちすることはほとんどないのですが昨夜は夕食の片付けをした後座った途端寝てしまいベッドに行くにもなかなか大変だった。昨日、今朝の朝は頭がぼんやりしてお酒も飲んでいないのに飲んだ後のようなすっきりしない目覚めは嫌な感じだ。昨日はやっと家の修繕の1つのトイレの便器が付き1月から取り掛かっていた全ての修繕が終了。大した場所はやっていないけれど工事の間隔が毎回あくので期間がかかっていただけ。全て工事が終わったので家の中が汚れることも無くなるので本格的に片付けも全て終わらせて気分的にリラックスしたいもの。「やらなくちゃ」と言う課題が常に頭にあるのは嫌なものだ。とっととその課題を片付け憂鬱にさせるものを片付けよう。何だか疲れる
誰かにとって大したことではなくても別の人にとっては大きなことだったりする。いいことでも、悪いことでも。。。心に刺さる物事は人によって違う。いいことなら、どんどん有意義に利用して行動に移せばいい。心が傷ついてしまったら。。。しばらく癒す時間が必要かもしれないしなぜ、それによってそんなに傷ついたのか分析してみる必要があるのかもしれない。きっとずっと我慢していた自分の中の何かの糸がぷっつり切れたのだ。「誰」の言動かも関わることもある。自分にとっては「大したことではない」と思っていてもその誰かと同じ体験や感情は経験していないので実際に自分に同じことが起こったら。。。?なんて想像をしても単にその瞬間だけのことしか想像せず積もり積もっていった経験や感情の経緯は想像に含まれていない。何かが「心に刺さる」と言うのは単に引...心が疲れたとき
人は「oooだったらな〜」と思うことがある。「恋人がいたらな〜」「子供がいたらな〜」「親がいたらな〜」「お金があったらな〜」何かがあったら良かっただろうに。。。と。でも、よく考えたらそれも自分にとって良いように考えている。恋人をとても素敵な人で自分の理想するような関係を想像し、子供は何の問題もなく素直で手もかからず理想的な関係を築く。親はいつでも頼りになり、何の問題も起こらず無条件の愛情を与えてくれるだけの存在で手がかからないまま老後を過ごす。お金で欲しいものが何でも買え、何でもでき人より優位に立てる。本当にそうなのだろうか?希望だから全てが理想的になっているだけでそこにはネガティブなもののイメージがほとんどなくあったとしても軽いものだ。本当にネガティブなイメージは当然と言っていいほど含まれない。単に空想...空想と理想の違い
悪口や噂話をしている人たちの近くにはいきたくないものだ。どんな人であろうと人が集まってとやかく言っているのが耳に入るのも嫌なもの。私も人のことをとやかく言うことについては気をつけよう。その前に、人と集まることがないか。。。「時間を潰す、持て余す」行為にろくなことは無い。不快
波動は目に見えていないけれど私たちはそれをとても無意識的に使っている。最近、旦那さんのお友達の男性が奥さんと揉めている。言葉による暴力に続き今回は肉体的暴力になっていてどんどんエスカレートしている訳なのだ。最初からその問題は起こっていたのに結婚しているし寂しさを埋めたい気持ちや相手が今度は変わるのではないかという期待、自分が悪いのではないかなど自分が持つ弱さでいつまでも関係を続け問題がとても大きくなっている。暴力が心に侵食していきマインドコントロール下に置かれてしまった状態になっていた。これも波動が合っているから起こること。この場合は彼が変わらないと抜けられないししっかり変わらなければ離れたとしてもダラダラ続いてしまう。相手の感情や思考を読めているからコントロールできる。私たちが持つ波動。たいさない私たち...波動
言葉と言うのは自分の思いや意志を他に向かって伝えるようにできている。それは単に言葉や字面だけでなく、そこに含まれる多くのものも汲み取れるから。言いにくいことがあっても、それをどう相手に使えるか考えたりして言葉を扱うことも学んでいったりさまざまな合った表現を見つけていく。言葉を扱うことが上手い人もいればあまり上手いとは言えない人もいる。けれど、上手い下手というよりもそこに乗っている思いを私たちは汲み取ることもできる能力も持っているのだ。だから、自分が言いたくないことを人に言わせることはそこに問題が起きていくのは当然のことでもある。言いたくことをどう伝えるかや場の雰囲気を考慮しながら言葉を足していくこともできるのに他人にとっては単に伝えるだけか本人を悪者にしながら皮肉まじりに伝えたりするので聞く者にとっては傷...忘れていること
何かしら「しない」言い訳をつくることに慣れてしまう人。「しない」ことを「できない」と言い換えていく。それも人生、しないことを選ぶもよし。私も、「しない」言い訳をしていたことを止め、結果が思うように出ないとしても伴う行動は起こすことにした。または諦めることなく続けるようにした。何をとっても頑固な人は「言い訳」をして変えようとしない。色々な場面で、色々な人が、色々なアドバイスをしてくれていたりするけれど全て見逃していく。思考の習慣はなかなか変えられないし気づかない。変えたいと思うことがあるなら「やらない言い訳」を見つけるのではなく「できること」を見つけていこう。しない言い訳を止める
ダイエット、身体を絞るにためにはやはり個人差も大きい気がする。若い時にしっかり何かしらの運動をしていた人は筋肉がしっかりしていたりもともと人生で体脂肪が多めでしかも皮下脂肪が柔らかい体型だったとか脂質、または糖質の消化吸収や代謝のどちらに合った体質かなど。。。もちろん、年齢は大きく関係する。やはり、その人に向いているものがあるのではないかと思う。年齢が上がった女性は特にその人に合うものでないと効果が出にくいのではないかと私は感じる。誰かの真似しても同じ効果が出ないのは多少の食事の違い、運動量の違いだけではない。体質や今の身体の条件の違いを考えると効果が出るのにかかる期間や体質を変えたり維持するのに必要なことも変わる気がする。同じ様な努力をして誰かが1年で素晴らしい効果が出ても自分には目に見える効果があまり...ダイエット
先週から急激に変化の現象が現れ始めているよう。次から次へと変化がやってくるので慌てて飛びつかない方が良さそうだ。飛びつかなくても大丈夫。以前に起こったことが関係して物事が起こったり、そこにまた関わるのか関わらないようにするのかそれは自分の内側からどうしたいか決めればいい。多少引っかかっても、いい話があるように見えるのかいい話があるように見えても離れるのかは自由でそこには何も間違いもない。その先に起こる現象に違いがあるだけなのだけれどそこが大事だと普通は思うので選択が大事だと言いたくなるわけだ。周りくどい、と言われそうだけれど今の自分が選択する道が全て今の自分に必要なことを用意されているわけだ。自分が過去を見て何かを思うことはできるけれどそれは単に今の自分じゃない自分が決めているから仕方がない。変化した自分...変化のとき
掃除、キッチン道具やお料理などの動画を見ているとオススメの道具や今年買ってよかったものなどの紹介がある。普段はチェックしたり買うことはできないので欲しいものは書き留めておいて日本に帰ったときに買って帰る。でも、さんざん見に行ったり買ったりして思った。。。「そうそう気にいるものはない」ということ。そりゃそうだ。。。毎年のように新しい何かをススメているならたいして良い訳ない。単にネタを作る必要があるからだ。それに便利だとしても物を買うと言うのはまず物が増えるし別のもので十分代用できていたりする。当たり前だけど見せるために使うものと使うために使うものでは求める物が違うのだ。。。ショッピングチャンネルなどを見て買わないのに誰かの動画でススメている物は良さそうに見えたりしていた。自分が本当に使いやすい、いいと思うも...なぜおススメしているのか?
自分にとって今何を大事にしたいのか日常の中で意識した方がいい。面倒になったり、煩わしくなったりつい自分の事ばかりにかまけて大事にしたいものをおざなりにして後回しにしようとする。後回しにできるのなら、それは今大事にしたいものではないのかもしれない。もしくは、大事にしたいものを後回しにできるほどそれは今やるべき事なのか?日常でぼんやり過ごしていると本当にどうでもいいことにかまけて時間を無駄にしてしまうことがある。人生の時間は決まっている。どうでもいいような、後からでもいいもののために大事な時間を後回しにしようとしていないか?今過ごす時間の大切さを考えてみよう。今だから優先するべき大切な時間というものを考えてみよう。大切な時間
「忖度」と聞いてイメージするのは良いものだろうか?悪いものだろうか?私はその言葉には何だかいいイメージを持っていない。単純に相手を思い考慮することだけれど何となく計算した上のと言う雰囲気を私はその言葉から感じてしまうから。意味は分かってしても人が使う言葉と人が感じる意味、本当の意味にも少しのズレがあるのだろう。ところで、なぜ忖度という言葉が突然出てきたかと言うと私が受け取るその言葉の雰囲気は私にとって少しネガティブなもので社会や組織の中で暗黙のものとして持っている人たちも多い。ある一定のハイクラスな人たちにとって必要でそうやって上手くやってきているのだろう。何がその雰囲気を作っていたのか知らなくても感じとれて私にとっては居心地が悪くなる。しっくりいくと言うのはきっと、言葉や状況でもなく目に見えないものから...感じて選択する
立て続けに人がなくなる夢を見た。数年前に引っ越して行った友達の旦那さんが体調が急変してなくなる夢。知人の娘さんがなくなる夢。何だろう?でも、淡々としていて何も感情的になっていない。普段接点がない彼らが出てくるのも変。変な夢
人生の中で望んでいたことでもタイミングやプロセスがしっくりいかないときがある。これには、悩むことになるものだ。どんな形であれ、たいしてよくない状況であれひとつの望みが叶うなら多少の犠牲は払っても来たものに飛びつくこともできるし、再び来るか分からない未来の良いチャンスに賭けて自分にとっていい状態でその機会が来ることをさらに待つこともできる。または自分の思考を変え別の良い機会を選ぶこともできる。選んだ後にしか分からないこと。どちらをとっても後悔するかもしれないし満足するかもしれないしそれは分からない。変にエゴを強くしてプライドから選択していないか?かといって、自分を安売りしていないか?人のことばかり考えて自分を犠牲にしていないか?望んでいたことなだけに選択しない事を選ぶことは勇気がいる。でも、よくよく考えてみ...大事なことの選択
社会における自分の価値。そんなことを言う人もいれば、それを求める人も多い。それが人を不安にさせ、自分に価値がないと思わされる。どうしてそんなことを考えるのだろう?いつの間にか、人が全てに値段をつけたがるように人にも値段、価値をつけている。ある子育て世代は子供に価値があると思わせるように育てると言ったこともあった。私にはこれもおかしな話に映る。何でも、あなたは素晴らしい、叱らないなど。。。生まれた時から全てを知っていて悪いことや間違ったこともしない完璧な状態だと言うことなのか?まあ、親にとっては自分の子供は完璧に思うのかもしれないけれど他人にとっては、世の中においては違うと言うこともあるわけだ。もしかしたら、価値などないものに高価な値をつけているのかもしれない。もちろん、その逆もある。いつの間にか、自分自身...価値なんて最初からない
今は簡単にさまざまな知りたい情報がとれるだけに何かと頭でっかちになり、うんちくばかりが先立つ。大事な物事はもっと単純なのにどんどん自分達で複雑にしていく。そんなことをしているうちにもっと身近に合った大切なものが見えなくなったり、自分で遠ざけてしまう。それも必要なことなのだけれどいつまでもその中にいることは成長がない。じゃあ、何をすればいいのか?何も特別なことはいらない、必要ない。単に自分がやっていることに集中してしっかりやることだけだ。意外とこれはできていないのでは?何かをしながら頭の中で次から次からへと他のことを考えて今やっていることは実際には上の空だ。あれをやらなくちゃ。明日の予定は。何であの人は。本当に頭にくる。そんなことを考えていたりする。特に、頭の中で文句を言いながら行うことはやめよう。つい何か...最高な人生
多くの人が人を見るときに経済力だったり社会的地位だったり出た大学、いるいた会社、または親の仕事かもしれないし肩書きかもしれない。同じことを言っていても、何者でもないような有名な大学を出た、有名な会社や社会的成功をしたと言うようなものがない人が単に発言しても余り受け入れられない。さらには、目に見えない出来事も自分はこんな経験がした、していると発言すればそれもまた信じられてしまうこともある。人は自分自身何かしらに囚われていて人に対しても囚われた中で判断している。それを完全に無くすのは難しい。けれども、そこに囚われているのはくだらないこと。勝手な人は、人を判断するときは使っているけれど自分をそんなことで判断されるのは嫌だと言う人も多い。でも、そんなもので人は判断できない。けれども、人は何かしらのいい判断を受けた...何もない存在
まだ片付けがあるけれど、今日から通常の生活に戻る。昨日帰るまで目まぐるしく動き回っていた。よく言われるけれど、やっぱり体力があるのだろう。動き続けているので見ているだけで疲れる。。。などと言われる。でも、やらなくてはいけないことややってあげたいことがあるとターボがかかるだけで毎日動き続けているわけではない。誰でも歳をとる。何十年かしたら私も親の年齢になるわけだ。身体の健やかさと言うのはバランスが必要だと感じている。さらに多くの人を見ていると特別なことではなく日々の生活が一番影響しているのだと最近分かってきた。身体のために定期的に特別なことをすることも大事だけれど日々自分がどんな姿勢をしているか、どんな風な生活をしているのかなど何も特別でない何気ないいつもの生活が関わっている。健康で昨日も問題がないと見た目...ただいま
多くの人はモノを残そうとしたり取っておこう捨てたくないという思いを持つ。それも、その思いが年齢が上がるにつれ強くなる人も多い。お金もモノも自分の業績、生きた証を。。。などと言ってこだわる。考えてみたら、モノを溜め込むのでそれを手放せないだけだ。本当は、極力モノを持たない方がいいのだろう。外的なモノでは無く、体験や思いなど内面の豊かさを持つべきなのかもしれない。でも、人は外側のモノを多く持ちたがる上に死ぬまで、死んだ後まで手放したがらない。もっと先は、命まで手放そうとしないのが現代なのだろう。どんな形であれ命だけを途絶えさせないようにしようとする。どんなに不自然な形でも。。。自然な形を望まない。本当の豊かさとは何だろう?歳をとるに従って心の豊かさ、魂の豊かさを持って外的なモノは減らし軽やかに変化できるように...生活の形
昨日は中華街へ何年振りか忘れてしまったほど久しぶりに行ってきた。ものすごい混みようで驚いた。グアムの混んでいるのとは訳が違って人の流れに乗って少しずつ進むことができる状態だ。マスクはしていてもココまで混んで密集しているのは自然の中から出てきた私にとっては何だか微妙だ。。。何処も人が出ている。皆んなお出かけが好きなんだな。。。私は家が好きで人混みの中は苦手だけど。中華街
日本の久しぶりのひんやりした空気を体感しながら実家で忙しく動き回っている。目が行き届いていない掃除や扱いづらくなっている収納などの整理をして少しでも快適に安全に過ごしてもらいたいと思っている。何でも取っておきたい年代もあってなんせモノが多い。。。健康で長生きして欲しいので、生活の便利さ安全も大事だ。両親もだんだん動きづらいことが増えているので生活のしやすさは大事なことなのだ。そんな事で今、慌ただしくしている。久しぶりのひんやり空気
近代的な場所で暮らしていると全てが便利で、合理的だ。特に日本の都会のように色々な文化を取り入れていたら尚更だ。根ざすものが曖昧であれもこれもミックスしていくのはなかなか難しいのではないかとも思う。それも、気づかずやっていたりする。新しいもの、流行りなど物だけでなく思考まで今時のやり方のような流れが作られたりするのだから。。。保守的なのに無意識に流されている。新しいビジネスは新しい流行を生み出さなければならないので今時をものすごい速さで作り出さなくてはならない。でも、人間の中身なんてそんな速さで変わっていないものだ。今時の時間も割かず簡単にできるもので昔ながらの丁寧に時間をかけていた物事を求めていたりそれができていると思っていること自体おかしなことだろう。モノ、内面全てのことが便利で合理的で上手くいく。。。...心がないこと
行動することの大事さ。。。いつでも受け身で、行動しないと言うことは何も大きな失敗も成功も起きないだろうけれどそれで自分の人生を生きていると言えるのだろうか。失敗はつきものだと思い、1回目ですぐに成功できるものだと考えておけばいい。流れが来ても乗らず、いつもの安全な場所に隠れてしまう。行動すると言うのは何も外に出て何かをするとか人と何かすると言うことだけではなく何か自分自身で考え決め行うことだ。人は経験をするためにこの世に生まれているのだと思う。自分の人生に関心をもっともとう。行動
どれくらいの人が自分の人生を信頼しているだろう?そんなこと自体意識したことがないかもしれない。いい流れの中では信頼しやすいものだけれどそれと同時にエゴが顔を出し人生が私たちに与えてくれていることを忘れやすい。また、悪い流れの中では全てに見放された気分にもなり人生にも見放されている気分にもなるかもしれない。けれど、そんな時こそ人生を信頼することだ。全ての必要なことを見せ差し出してくれている。それに気づくか気づかないかは自分の意識次第なのに何かのせいに人はすぐにする。それこそ、無責任というもの。無責任なのはどちらだろう?もっと落ち着いて人生を味わって見たらどうだろう。何も大騒ぎすることもなく何事も単に楽しみ味わっていくことに変えるだけ。それは、ワクワクする体験の連続になる。信頼しよう
来週は日本にしばらく帰るのでその前にピザを食べようとなり2人でアメリカサイズの大きなピザを平らげてしまった。次回はやっぱり、2枚程度でやめよう。さすがに半分の4枚は食べ過ぎでお腹いっぱい過ぎた。近くに座っている体の大きな人たちでも1、2枚しか食べないで持ち帰るのが不思議で仕方ない。食べないのにどうしてあんなに大きくなるのだろう。。。昨夜は食べ過ぎたので今日はしっかり動こう。最近カイロプラクティックに行っている。そこは日本と違って本当にあっという間に終わり骨格に対応する以外は何もしないので本当に1人当たり5分くらいなものなんじゃないかと思う。私の目的はもちろん怪我した手首の改善だけれどそれもあっという間だ。でも、いつもとても混んでいるので人気なのだろう。先生自身もこの仕事に自信があり、好きなことが分かる。日...いいエネルギー
先日のネット回線の問題が起きてから引き続きまだ問題があって昨日もお昼前から一日回線が使えなかった。電話のデータを使う状態だ。これから世の中もっともっとこのような問題が起こる可能性はある。平和な国に住んでいると普段あまり社会情勢に無関心な人も多いかもしれないけれど意外と身近に関わってくる問題でもあるのだ。日本は今もまだ平和な国だけれど。。。日常
人と比べて初めて分かるものはある。その一つは自分が生まれた時からいる家族という小さな社会だ。それは血が繋がろうとそれでなかろうと関係なく自分が育つ場所の人たちだ。特に主体となる人は祖父母や両親になることが多いだろう。その主体となる人の性質は大きな影響を与える。子供を育てる人はそれに値する思考や感情が準備できなおかつ子供を守れるだけの強さと愛情を持ったから。。。と言うわけではない。理想的にはそうであったらいいのにと思う。中には自分の中の負の部分や足りない部分を補うために家族を欲する人もいるわけでその場合は、その人個人の中に対応しなければならないものを常に持ち続けている。しかし、人生を通して自分を誤魔化し続けられる人はほとんどいない。遅いだけの問題でそれに向かい合わなければならない時が来る。自分の問題を家族に...家族という小さな社会
同じ物事を表現するにも時代の流れなどによって言い方を変えなければならない。もっと柔らかな印象を与える、悪い印象を与えないように作り替えられるのだろう。考えてみれば言葉があること自体、良くも悪くもそこに意識が集まっているということになるのだけれど。。。できちゃった婚、改め授かり婚だとか。結婚するつもりでいた2人かもしれないし責任で結婚するのかもしれないしとりあえず、妊娠しました、結婚することにはなったというだけで同じ現実であることに変わりはない。そんなものもあれば、もっと重たい言葉もある。最近では性的嗜好を表すようなものもあるし人種的なものもある。この重たいさまざまな課題については言葉を作ること自体人の意識下で区別をしているのだと私は思う。同じものであるのなら区別するための言葉はいらないのではないか?当の本...言葉を作る危うさ