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  • China史ノート 2 高祖本紀 劉邦

    「小名木 始皇帝」と動画サイトで検索すると、「始皇帝の一族は日本に来ていた」「始皇帝が目指した理想の国家」という動画が出てくる。 冗談ではない。暴虐の始皇帝が日本と関係があってたまるものか。 始皇帝は儒者を生き埋めにして殺し、書物を焚書。 酷法に文句を言うと、一族皆殺しした。 劉邦の言葉は、史記「高祖本紀」に書いてあるので、一般論として伝えられるイメージがわかる。 「この地の(地域の顔役)・長老たちは、秦の過酷な法に苦しめられてきた。法を非難する者は一族皆殺しになった。盛り場で立ち話しているだけでも、処刑された。私は殺人は死刑、傷害犯強盗犯は処罰する。 劉邦の言葉は、史記「高祖本紀」に書いてあ…

  • China史ノート 1 列伝 3 趙 奢(ちょう しゃ)

    参政党顧問の小名木氏は秦の始皇帝が 法治主義、項羽が自由主義、劉邦が人治主義で、以後Chinaは人治主義だという。 中国共産党一党独裁、そして中国人の国民性に低劣な点がある事実はともかく、 以上のような見方は間違いである。 史記列伝に言う、趙 奢(ちょう しゃ)は、 紀元前280年の趙に法意識があったことを示す。 趙 奢(ちょう しゃ)の逸話は、徴税官であった趙 奢(ちょう しゃ)が、税金を払わなかった(恵文王の弟)平原君の配下の者を裁判所に訴え、訴えられた者は死罪になった。 平原君が王族であることを笠に着て、趙 奢(ちょう しゃ)に向かって激怒し、殺そうとすると、 「私は法に則っただけです。…

  • China史ノート 1 列伝 2 伍 子胥(ご ししょ)

    起源前522年頃、楚の太子、建は、父に追われて鄭国に亡命した。鄭国は歓待したが、建は、晋に行った。 晋王は「建よ、鄭国はおまえを信用している。おまえはもう一度鄭国に行き、鄭国の政策に関与して、わが晋と呼応して動け。晋が鄭国に攻め入れば、鄭国は滅びる。」と言い、建は、鄭国に戻る 建と晋の策謀は、太子建の従者の密告によって、鄭国の知るところとなり、殺害されてしまう。 この時、建についていた伍 子胥ご ししょが、逃亡して呉に行き、将軍となり、呉王を補佐して、楚を敗北させ、父の仇敵である平王の墓を暴いて死体を鞭で打つことによって、復讐を遂げる。 伍 子胥ご ししょが太子の建と楚を逃亡した理由は、父が楚…

  • China史ノート 1 列伝 管仲(かん ちゅう)と晏 嬰(あん えい)

    司馬遷は管仲(かん ちゅう)と晏 嬰(あん えい)を人間像を比べる形で記述した。 管仲(かん ちゅう)は知恵者で浪費家、晏 嬰(あん えい)は人格者で倹約家と評価した。 しかし、この列伝の魅力は、管仲(かん ちゅう)の友人関係にある。 管仲(かん ちゅう)と晏 嬰(あん えい)が友人だったというのではなく、 管仲(かん ちゅう)には鮑叔という友人がいた。 この鮑叔との友情が生き生きとしている。 「昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の名を成さしめようとして、かえって彼を窮地に陥れる結果となっ…

  • China史ノート 1 春秋の晋 6 趙朔 ちょうさく

    暴虐の王、晋の霊公から亡命した義人趙 盾(ちょうとん)は、亡命後に、従兄弟が、霊公を殺害したので、戻ってきて、晋を再び支える。 この趙 盾(ちょうとん)の子が趙朔 ちょうさく。 王は代替わりして景公。景公の次が成公。 趙朔 (ちょうさく)は、晋の景公の姉と婚姻する。 ※その前に夏姫のこと。 起源前580年頃、斉国にとんでもない妖艶の美女、王妃「夏姫」がいた。王とも家老とも関係して、王が「太子は家老の顔に似ているな」と争いが起き、王は暗殺される。夏姫は楚の荘王が暗殺した家老を成敗、荘王が側室にしようとすると、側近が「道義に反するからダメです」 次に子反という側近が「私が側室にしたいので、私にくだ…

  • China史ノート 1 春秋の晋 5

    紀元前600年、晋の霊公。 重耳が艱難の末、秦の援助を受けて晋の王「文公」になったのだが、高齢のため、在位は9年だった。 文公の跡継ぎ、襄公も即位7年で夭折。 ここで跡継ぎをどうしようかという話になった。 太子の夷皋が幼いので、正卿趙盾は晋国の覇権を維持するために、当時、秦にいて盛名が高かった晋王族の雍を呼び戻して晋公とすることにした。 狐射姑は、陳にいた公子楽を晋公にしようとするが、趙盾は刺客を放って公子楽を殺してしまう。 狐射姑は亡命する。趙盾は反対派の動向を恐れるようになり、考えを変える。 夷皋の母もまた泣き叫んで晋の大夫たちを説得して回ったこともあって、夷皋を晋公に立てることに決定した…

  • 中国4千年の歴史のウソ

    現在の中国共産党の漢民族のある程度の幸福を実現したのは、日米あってのこと。その決定的な理由。 北京の地、即ちChinaの皇帝の名前は、北条時宗の時代から、代々、 クビライ→チンキム→テムル→カイシャン→アユㇽバルワダ→シデバラ→イェストゴン・テムルであり、トゴン・テムル死亡時は1370年。 足利尊氏の三男が死んだころ。北条時宗から足利尊氏の頃までChinaはモンゴル人が統治していた。 時代はとんで、徳川家光のころからは、Chinaの覇者は、 姓はアイシンギョロ・フリン→ヒョワンイェイ→インジェン→フンリ→ヨンヤン→ミンニン →イジュ→ヅァイシュン→ヅァイティアン→プーイー 日本は大正時代。 長…

  • 韓国の「日本加害者」論はいつまで続くか

    むしろ中国共産党政権・北朝鮮がなくならない限り、続く。 中国、北朝鮮があるからこそ、日米韓国に共産主義思想が絶えない。日米韓には金日成主義研究会があり、中国による南京大虐殺プロパガンダを受け入れるグループがあり、米国ポリコレ派・日本共産党・新左翼・立民は「日本は加害者」と信じ込んでいる。

  • ロシア系米国人ユダヤ大富豪アーマンド・ハマー

    レーニンはロシアの製造業生産力が未発達だったため、フォード車、トラクター組み立て工場の建設プラント、アメリカ製医薬品を輸入する必要があった。 ロシア革命当時19歳で、1924年にコロンビア大学医学部を卒業した青年の父親はアメリカの共産主義者だったので、レーニンの知人だった。青年はレーニンに会いに行き、私が、アメリカ製品をあなた方ソ連に売りますから、と話をつけ、ソ連ばかりか東側共産圏諸国とカナダ・アメリカ製品貿易を独占的に引き受け、莫大な利益を受けた。 化学製品の処理を行っていたオキシデンタル・ペトロリアムを、「1945年以後に」「経営権」を握り、イラン・リビアの石油開発に乗り出し、大富豪になる…

  • China史ノート 1 春秋の晋 4

    重耳の父、献公の26年、斉の桓公は、覇者の地位にあり、諸侯を大招集する。 周の官名で太宰たいさいは大臣のことだった。 太宰治はこの太宰をペンネームにしたのかもしれない。 周の太宰、孔氏は、晋の献公に「斉の桓公は傲慢な人物だから、あなたは行く必要がないのではないか」「それにあなたは十分、軍事力を持っている」 献公は病気でもあったので、これさいわい、納得して帰国した。 斉の桓公は、この件で献公に反感を持ち、晋から逃亡した重耳を厚遇することになる。 献公の病気は悪化し、驪姫の子の奚斉を新たに太子に立てられ、荀息(じゅんそく)将軍が太子奚斉の太傅(たいふ)に任命された。太傅(たいふ)とは太子の教育係 …

  • China史ノート 1 春秋の晋 3

    【唇歯輔車】しんしほしゃ 春秋左氏伝 僖公きこう五年 「唇と歯」「頬骨と下顎」のように、お互いが助け合うことによって成り立つ関係 唇亡歯寒 こちらは春秋左氏伝 哀公8年 「唇くちびる亡ほろびて歯は寒さむし」 史記 唇亡則歯寒 献公の代 史記によると、献公の代、北方遊牧民族狄出身の娘を母として重耳が生まれた。 異母兄の申生は、寵姫である驪姫 りきの謀略により、自決した。 驪姫 りきは自分の息子を後継にするため、他の子どもを追放しようとした。 ・異母弟の夷吾(後の恵公)などもいた。 重耳43歳は、趙衰とともに、母の出自の北方民族の地にいったん逃亡する。 赤狄族の姉妹と重耳、趙衰は婚姻する。 五年後…

  • China史ノート 1 春秋の晋 2

    驪姫(りき)は、晋の献公の寵姫であった。 最初、側室となったことに怯えていたが、だんだん増長。 ついに、太子を罠にかけて自死に追い込んだ。 「太子さま、殿様はあなたの母上の夢を見ましたよ。 母上の御霊をお祭りしてあげなさい」 と言い、太子が母をお祭りして供物の肉をあげ、その肉を献公に差し上げるためにとっておいたところ、驪姫(りき)が肉に毒を混ぜさせ、献公に、「肉が少し古いかもしれません」と言い、目の前で、犬と茶坊主に食べさせた。 犬も茶坊主も激しく苦しみ、死んだので、 驪姫(りき)は「これは太子が毒を盛ったのでしょう。 こんなことでは、わたしたち母子も不安で仕方がない、他国に避難したら良いので…

  • China史ノート 1 春秋の晋 1

    司馬遷は、人間を怨念によって動く者としてとらえた。 周王十代の王が、暴虐であった。 臣下たちはクーデターを起こし、王は逃亡し、大臣たちだけで政治を行って、年号を「共和」とした。 周の十二代の王は愛人の褒姒(ほうじ)を溺愛した。 褒姒(ほうじ)を笑わせるために諸侯を非常呼集して、慌てて駆けつける諸侯を見て、褒姒(ほうじ)が笑うのを喜んだ。 王は異民族に殺された。 覇とは、武力による制圧を言い、王とは良き統治による統治によるという発想が生まれた。 「書経」に(天子は)兆民これに頼る とあり、 「詩経」に(諸侯には)万民これに従う とある。

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